2022年5月16日月曜日

5/15「約束されたものを贈られる」ルカ24:44-49

  みことば/2022,5,15(復活節第5主日の礼拝)  371

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:44-49    日本キリスト教会 上田教会

『約束されたものを

贈られる』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらの事の証人である。49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。             ルカ福音書 24:44-49

まず44-46節、「それから彼らに対して言われた、『わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する』。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる』」。十字架につけられて殺された救い主イエスは墓に葬られ、三日目に死人の中からよみがえり、その復活の姿を多くの弟子たちに見せてくださり、やがて間もなく、弟子たちが見ている前で天に昇っていかれます。その前に、あの弟子たちと私たちに格別な贈り物を贈り与えてくださいます。つまり、「聖書を悟らせるために彼らの心を開いた」。もちろん、彼らはそれまで旧約聖書に書かれていた事柄を何一つ知らなかったわけではありません。また、ごく普通の人々が自分自身で聖書を読んで理解することがまったくできない、というわけでもありません。救い主イエスはここで、それまで弟子たちの目と心から隠されていた多くの箇所の意味を必要なだけ、すっかり十分に知らせました。とりわけ、救い主がこの地上に来て、何を成し遂げるのかを告げ知らせつづけていた預言者たちの、その多くの言葉の本当の意味と中身をです。

聖書はこう証言します、「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また、彼はそれを理解することができない」(1コリント手紙 2:14生まれながらの人。私たちはそれぞれにとても高い自尊心をもち、こうあるべきだというそれぞれの先入観をもち、また、この世界のさまざまな事柄に執着して、自分の心を頑固にしてしまいます。学者や研究者たちや牧師もそうです。1人の例外もなく誰もが、このような生まれながらの人間でありつづけます。ですから、もし、聖書を読んで、そこから有益なものを受け取りたいと願うならば、誰でも、「神さま。どうか私の心を開いて、あなたの御心を受け止め、それを分かることができるようにしてください」と願い求めなければなりません。

「わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」。キリストが苦しみを受け、殺され、葬られたことは、ご自身にとってさえ、不幸せな嫌な出来事などでは決してありませんでした。死人の中からよみがえったことも含めて、それらは私たち罪人とこの世界を救い、祝福のうちに回復するためにどうしても必要なことでした。もし、その死と復活が無かったとしたら、この私たちもまた罪から解放されることもなく、今なお罪と悲惨さの中に閉じ込められたままで、惨めな暮らしをしつづけていたはずでした。救われるに値しない罪人である私たちが、けれどなお神の憐れみを受けました。ただ救い主イエスを信じる信仰によって救われたのであり、だからこそ、そこには何の差別も分け隔てもなく、この私たちは、価なしに、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスのあがないによって、義とされ、救いに招き入れられました(ローマ手紙3:21-27参照)。神さまからの憐れみを受けた、哀れな罪人である私たちです。だからこそ、神のその憐みのもとに安心して留まることをゆるされ、恐れなく神に近づき、憐みの神に呼ばわりながら生きることができます。

47-48節、「そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である」。救い主イエスが天に昇って行かれて後、「イエスの名によって、罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」。誰によってか。救い主イエスを信じる弟子たちによって。つまり、私たちを含めたすべてのクリスチャンによってです。私たちの大切な家族や友人や隣人たちをも含めた、もろもろの国民に向けて、この私たちが語りかけることによってです。救い主イエスご自身が、このように命じつづけておられます。「あなたがたは、これらの事の証人である」と念を押されています。私たちを含めたすべてのクリスチャンは、「悔い改めて、罪のゆるしを神から受け取りなさい」と宣べ伝えます。宣べ伝えるばかりではなく、『日毎に悔い改めて、罪のゆるしと、自分自身の罪からの解放を受け取りつづけて生きることの証人』とされ、ですから『互いにゆるし合う者たちとされ、自分自身の生きざまと日毎の暮らしぶりがその神さまからの憐れみの生きた見本とされる』と約束されています。証人とはそのことです。

『悔い改めと罪のゆるし』。これこそが、すべての人間と、もちろんすべてのクリスチャンがよくよく心に留め続けるべき、とても大切な生命線でありつづけます。私たちクリスチャンもまた、信仰に入ったばかりの最初の頃に何回かというだけでなく、一生涯ずっと、悔い改め続ける必要があります。宗教改革者は、それは「日毎の悔い改め」だと説き明かしました。毎日毎日、神へのはなはだしい背きと自分自身の罪に気づいて、毎日毎日わたしたちは悔い改めつづけ、神の憐れみとゆるしのもとへと立ち帰りつづけて生きるのだと。なぜなら、一人の例外もなくすべての人間が、生まれつき、はなはだしくよこしまであるからです。悔い改めて、憐みの神へと心を向け返すのでなければ、誰一人も神の国(=神のお働きの領域)に入ることなどできないからです。「救い主イエスを信じる者たちすべての罪をゆるそうとして、神はすっかり準備万端である」と教えられ、習い覚えてきました。その通りです。すべての人間がはなはだしく罪を犯しつづけてきたのであり、神の怒りをかうに値します。けれどなお救い主イエスを信じる信仰によって、価なしに自由に、すっかり、直ちに、その罪をゆるされます。しかも、『悔い改めと罪のゆるし』は1組とされ、互いに堅く結び合わされています。悔い改めたからといって、神からゆるされる権利があるとか、当然ゆるされるべきだというわけではありません。罪のゆるしは、救い主イエスを信じる者たちのための、神からの自由な、ただ恵みの、価なしの贈り物でありつづけます。しかもなお、悔い改めようとしない、心を頑固にしつづける者たちは、その神からの憐れみもゆるしも受け取ることができません。

 

              ◇

 

決して二度と忘れてはならない1つの譬え話が、救い主イエスの口から語られました。王様が家来たちに貸し与えていた借金の決算をしました。莫大な額の負債がある1人の家来が王の御前に連れて来られました。とうてい返すことができませんでした。「家や土地と持ち物全部ばかりでなく、自分自身と妻と子供たちを奴隷に売り払って返すように」と命じられました。この家来はひれ伏して、どんなに困り果てているかを泣きそうになって必死に訴え、願いました。『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。すると、家来の主人である王様はかわいそうに思って、彼をゆるし、その負債をすべてぜんぶ帳消しにしてやりました。その僕が出て行くと、自分がほんのわずかばかりの金銭を貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言いました。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼みました。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れました。この家来が何をしたかが王の耳に入り、そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』」(マタイ福音書 18:23-33参照)わたしたちは、この憐み深い王様に対しても、またお互い同士に対しても、とても悪いしもべでありつづけます。深呼吸をし、心を鎮めて、毎日、朝も昼も晩も、このたとえ話を読み返しつづける必要があります。もし、うっかり忘れてしまえば、このとても悪いしもべと同じ冷酷で無慈悲な振る舞いを私たちは互いに対して朝から晩まで毎日毎日しつづけることになるでしょう。「わずかな借金を返せ」と首を絞め、苦しめて踏みつけにし、牢獄に閉じ込め、そうやって自分自身とまわりにいる大切な人々をそこない、おとしめつづける。しかも何よりも、そのとき、思いやり深く寛大な王様からどんなに温かい扱いをこの自分自身が受けてきたか、王様への膨大な借金をすっかり丸ごと帳消しにしていただいたことも忘れて、その王様の家来の1人とされていることも投げ捨ててしまっている。なんと惨めで恐ろしいことでしょう。けれど、もし、「これは私のことだ」と気づくなら、その悪いしもべは幸いです。ただそれだけで、神の憐れみ深さに対して、その憐みを受け取って神の民をされたことについて、その悪いしもべはすでに十分に証人の役割を果たし始めています。『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。

さて49節、「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。御父が約束してくださったものを、すでに私たちは救い主イエスから贈り与えられつづけています。上からの力とは、上からの恵みと憐れみと平安です。「日毎の悔い改め」であり、毎日毎日、神へのはなはだしい背きと自分自身の罪に気づいて、毎日毎日わたしたちは悔い改めつづけ、神の憐れみとゆるしのもとへと立ち帰りつづけて生きることです。1人の預言者は語りかけました、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ」。では私たちは何をしたらよいのかと問われて、こう答えました、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい。きまっているもの以上に取り立ててはいけない。人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」(ルカ福音書 3:7-14。別の預言者は呼ばわりました、「あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って(=ひるがえって。正反対の方へと、つまり神の憐れみへとグルリと向きを変えて)生きよ」(エゼキエル書 18:31-32

 

 


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     金田聖治
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