2016年6月29日水曜日

6/26こども説教「医者である神さま」ルカ5:27‐32

 6/26 こども説教 ルカ5:27-32
 『医者である神さま』

5:31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。   (ルカ福音書 5:31-32

  最初には、無学な貧しいごく普通の漁師たちが招かれ、つづいて、人々から毛嫌いされバカにされていた取税人(*)の一人が主イエスの弟子とされました。たまたま偶然にではなく、特にわざわざ選んで、見下げられている人々や除け者扱いされている惨めな人々を弟子としているらしいのです(ルカ1:46-55,同1:68-79,コリント手紙(1)1:26-31を参照)。不思議なことです。取税人の一人だけを招いたのではなく、救い主は、嫌われたり除け者扱いされている者たち全員を招きたかったのです。そのしるしに、弟子にしたレビの仲間たちと愉快なお食事パーティを開いて、皆と仲良しになりました。このルカ福音書の15章のはじめ1-2節)でも、同じ仲間たちと同じような愉快な食事会をしていますね。つまりその一回だけじゃなく、何度も何度も取税人や『他人から罪人だと思われている人々』と楽しく愉快に過ごして、仲良しになったのです。そういう親しい付き合いの中から、「ああ、こういう救い主だったのか。こういう神さまか」と分かって、一人また一人と主イエスの弟子になる者たちが生まれていったでしょう。けれど正反対に、その様子を見てあの15章でもここでも、プンプン腹を立てる人々がいます。「もし本当に救い主だというなら、私のようなご立派で偉い、皆から尊敬されている素敵な人間をこそ弟子としたらいいのに」と自惚れていた人々は、なんだか嫌~な気がしました。それで陰に隠れて、悪口や文句を言いつづけました。そういう人たちって、どこにでもいるのです。30節「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか。仲間だと思われて、彼らと一緒になって嫌われたり除け者にされてもいいのか」。
  ここで一番大切なのは、31-32節です。主イエスがはっきりと言いました。「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。よくよく覚えておきましょう。よい医者である神さまです。病気の人を見つけると、その人を元気に健康にしてあげたくてたまりません。「はい、いらっしゃいいらっしゃい」と毎日毎日、病気の人を招きつづけています。するとキリストの教会は、キリストが経営しておられる病院や診療所のようなものです。ねえ 毎週毎週、あちこちに建てられている神さまの診療所で、診察したり、薬を飲ませたり、軟膏を塗ってあげたりリハビリ体操をさせたりしています。しかも世界中どこもかしこも病人だらけで、中にはとても重い病気にかかって苦しんだり困ったりしている人々もたくさんいます。なんの病気が一番苦しくて辛いか分かりますか? 『神さまについつい逆らってしまう』という病気です。神さまにも人さまにも逆らいつづけて、私が私がと言い張りつづけてどんどん頑固になって、それで周りの人々をとても困らせたり、苦しめたりするばかりではなく、自分自身もかえってますます苦しく惨めな嫌~な気持ちになってしまいます。放っておくと、嫌~な顔をしたまま、ブツブツ文句や誰かの悪口を言いつづけたまま死んでしまいます。ああ、なんてかわいそうでしょう。聖書は、この『神さまについつい逆らってしまう』病気を『罪』と言いました。そういう病人を『罪人』と言いました。もし、自分がとても重い病気だとわかれば、その人は医者を探してその医者のところにやってきます。神さまは格別によい医者なので、そのかわいそうな病人を治してあげることができます。自分が重い病気にかかっている、このまま放っておくと症状がどんどん悪化してついには死んでしまう、とまだ気づいていない人々もたくさんいます。それどころか、「とても健康だ」と思い込んでいるので、「いらっしゃい」といくら呼んでも医者のところに寄り付きもしません。大丈夫かなあ。心配だなあ。手遅れになる前に、間に合ううちに来ればいいのに。


    【割愛した部分の補足】
    (*)「取税人」。いまの税務署職員とは全然違います。この当時、ユダヤの国はローマ帝国の植民地にされていて、集めた税金はもっぱらローマの皇帝やローマ人のために使われました。自分たちの国の道路や橋や学校を建てるためには使われずに。ユダヤ人たちはローマの植民地にされて言いなりに従わせられることも、ローマ人のための税金を払い続けることも嫌だったし、腹がたちました。けれど面と向かっては、ローマの役人にそんなことを言えません。それで、税金を集める取税人をバカにしたり、悪口を言ったり憎んだり、除け者扱いしたりしました。そうすると、少しは気分がス~ッとしました。八つ当たりをしていたのです。
     神さまはまず、バカにされ、除け者扱いされていた人々を招きました。あわれみ深い恵みの神であり、かわいそうに思って助けてくれる神さまだと、皆に知らせたかったからです。ただ恵みによって救う神です(ルカ1:46-55,1:68-79,ヨナ書4:2,ローマ手紙3:21-28,テモテ手紙(1)1:15-16)。
         

 ◎とりなしの祈り
 天におられます私たちの父よ。あなたをこそ崇め、あなたに十分な信頼をよせ、心から感謝し、それゆえあなたにこそ一途に聴き従って生きる私たちであらせてください。
 この国もまた不平等で、格差が広がっていく一方だからです。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫びつづけているからです。大切な同胞であるはずの沖縄がないがしろにされつづけています。被災地の復旧がとどこおり、放射能に汚染された危険な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。心細く貧しく惨めに暮らし、そのあまりに希望を失いかけ心を挫けさせている者たちが大勢います。ほんのひと握りの人々が裕福で快適な生活をむさぼっている傍らで、経済的に追い詰められ、貧しく困窮しつづける多くの人々が取り残されつづけます。経済的に貧しい親に育てられた子供たちは貧しいままで、十分な教育を受ける希望をさえ諦めさせられています。毎日の三度三度の食事にも困る子供たちが数多くいます。
 あなたから憐れみを受け、罪をゆるされた私どもですから、互いに対して、また隣人に対して温かく憐れみ深くあることができますように。ゆるすべきことをゆるし、ゆるすべきではない悪と不正とに抵抗し、精一杯に立ち向かう良い心と勇気を恵み与えてください。若者たちも、親たちも年配の者たちも、この国とここで暮らすすべての人々の幸いな生活に対して果たすべき大きな責任があります。思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも強く願い求めさせてください。心を新たにされ造りかえられて、何が良いことであなたに喜ばれることなのか、何が悪いことなのかを弁え知って、そのようにして、あなたの御心にかなって生きる私たちにならせてください(ローマ手紙12:1-2を参照)。支配と権力と栄光とはかぎりなく、天の御父よ、ただあなたのものでありつづけるからです。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



6/26「墓場に住む者たちを」マタイ8:28‐34

                                          みことば/2016,6,26(主日礼拝)  65
◎礼拝説教 マタイ福音書 8:28-34                       日本キリスト教会 上田教会
『墓場に住む者たちを』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  
 8:28 それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。29 すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。30 さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。31 悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。32 そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。33 飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。34 すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。                (マタイ福音書 8:1-4)


 

  主イエスと弟子たちは小舟に乗って湖を渡り、向こう岸にあるガダラ人の地に着きました。この出来事の発端は、同じ818節です。「向こう岸に渡ろう」と主イエスが弟子たちにお命じになり、彼らを促したのです。向こう岸に渡ろう。救い主を主と仰ぐ信頼と一途さにおいても、信仰の歩みにおいても、この自分の日々のあり方や腹の据え方においても、《向こう岸》があります。一緒に渡り、ぜひ辿り着こうと主は私たちを招きます。そして向こう岸には、主イエスの福音を求める二人の者たちが待ち構えていました。
  まず28-29節。悪霊にとりつかれた二人の者が墓場から出てきて、主イエスに出会いました。「彼らは手に負えない乱暴者で、誰もその辺の道を通ることができないほどだった」と報告されています。彼らにとりついた悪霊が、彼らにとんでもない乱暴を無理矢理に行わせていたのでしょう。彼らの中から、悪霊どもが主イエスに向かって叫びかけます。「神の子よ、あなたはわたしどもと何の係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここに来て、わたしどもを苦しめるのですか」。まだその時ではないのにという『その時』とは、何のことでしょう。この世界の終わりの時には悪魔の支配に終止符が打たれることは、はっきりと予告されていました。終わりの時に、「キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される」(コリント手紙(1)15:24と約束されています。たしかに悪霊どもは、目の前に立っておられるかたが神の独り子、救い主イエス・キリストであることを知っていました。けれど、この世界の終わりについても、自分自身の地上の生命の終わりについても、悪霊どももまた私たち一人一人も それがいつなのかを知らされてはいません。天の御父だけがご存知です(マタイ24:36。知りもしないで、けれど、「まだその時ではないのに」とついつい言いたくなる気持ちは、私共もよく分かります。まだまだ先のことだと思いたいし、思い込んでもいるからです。悪霊どももまた私たち一人一人も、この世界があとどれほど続くのか。また自分自身の地上の歩みがあとどれほど残されているのかを、知らされていません。むしろ、「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈り、魂に刻み込みつつ生きるようにと教えられ、しつけられている私どもです。わたしたちのための『日毎の糧』の中には、一日分ずつの生命も含まれていました。数ヶ月分、数年分ずつではなく、一日また一日と、ただ恵みによって贈り与えられて生きる生命です。土の塵で形造られ、鼻に生命の息を吹き入れられ、私たちは生きる者とされました。やがて神さまがあらかじめ決めておられる時がきて、それぞれの順番とあり方で生命の息を抜き取られ、私共もそれぞれ土に還るのです。そのとき、こう申し上げましょう。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(創世記2:7,ヨブ記1:21と。また、この世界にとっても私たち自身の生涯においても、「終わりの時は思いがけない日、気がつかない時にくるから、だから目を覚ましていなさい。用意をしていなさい」と促されています。惜しみつつ生きるに値する、かけがえのない一日一日の生命です。
  だからこそ、主イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちを促し、この土地にやってきました。悪霊にとりつかれて苦しむあの二人の者の生命を回復させ、人生を取り戻させてあげるために。今日では、ガダラの墓場は世界中に拡大しています。テレビの中や新聞のニュースの中だけではありません。墓場付近をうろつき、足かせや鎖にしばられ、とんでもない乱暴を働いて周囲の人々を困らせたり、自分自身を傷つけたりしつづけるおびただしい数の惨めな人々がいます。もちろんこの上田界隈にも、小諸や佐久や、塩田平や丸子や真田町あたりにも。ごく普通の家庭にも。どこにでもある職場に。学校や介護福祉施設に。兄弟たちの中にも、自分の夫や妻や子供たちが。あるいは私たち自身が、しばしば墓場に鎖と足かせでしばりつけられます。私たち自身も、しばしば石で自分の胸を打ちたたいて嘆きます。墓場で独りでいた者たち。叫んだり、ついつい乱暴して他人を困らせたり自分自身を苦しめたり、自分を打ちたたいて嘆き悲しんでいたガダラの人々よ。あなたの家に、今日、平和が訪れました。平和の主が、あなた自身と大切なご家族と共にいてくださいますように。ぜひ、そうでありつづけてくださいますように。
  30-34節。二人の者にとりついた悪霊は、「もし、わたしどもを追い出されるなら、あの豚の群れの中につかわしてください」と願い出ます。主イエスはその願いを聞き入れ、「行け」と命じると悪霊どもは出て行って豚の中へ入り込みました。すると、その群れ全体が崖から湖へとなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまいました。豚を飼う者たちは逃げて町へ行き、起こった出来事を人々に伝えました。すると、町中の皆がイエスに会いに出てきました。主イエスに会うと、「この地方から出て行ってください」と頼みました。経済や、損得やソロバン勘定がしばしば優先する私たちの社会です。「いつの時代にもどの社会でも、豚の利益と損害のほうを人間たちは選び取ってきた。そのようにして、主イエスとその福音は拒絶されつづけてきた」とある人は言いました。そうかも知れません。マルコ福音書とルカ福音書は、主イエスによって悪霊をとりのぞいていただいた者が、家族やその地方一帯で主イエスの福音の証言をしたことが報告されています。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか。また、どんなに憐れんでくださったか、それを知らせなさい」(マルコ福音書5:19と主イエスご自身から命じられて。
 「知らせなさい」と命じられてもそうでなくても、恵みを受けた者たちは、その大きな驚きと喜びとを知らせないではいられません。主イエスから差し出され、受け取った愛が、その人々を駆り立てて止まないからです。私たちもそうです。自分の大切な家族に、大切な友人たちに。主がどんなに大きなことをしてくださったか。また、どんなに憐れんでくださったかと。その喜びの知らせは、聞き入れられる場合があり、冷たく拒まれる場合もあるでしょう。その大きな出来事よりも、差し出されたその深い憐れみよりも、人々は自分たちの経済や損得やソロバン勘定にばかり目も心も奪われて、私たちをなかなか受け入れてくれない場合もあるでしょう。良い知らせを告げ知らせに出かけてゆくときの心得については、つい先日、おさらいをしておきました。手ぶらで出かけてゆくこと。どこかの家に入ったら、まず「平安がこの家にあるように」と言いなさい。もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈るその平安はその人の上に留まる。もし、そうでなかったら、その祈り願った平安はあなたの上に帰ってくるであろう。迎え入れてもらえるならば同じ家に留まって、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。やがて戻ってきた弟子たちに主イエスはこうおっしゃいます。「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ福音書10:1-20。天と地のすべて一切の権威を御父から授けられている救い主が、その権威を私たちに委ねておられます。だから、わたしたちに害を及ぼしうる者は何一つない。そのとおり。その上で、この私たちは何を喜び、何を悲しみましょうか。聞き入れてもらったり、冷たく邪険に跳ね除けられたり、喜び迎え入れられたり、シッシと追い払われたりするでしょう。いいえ、そんなことよりも、むしろ私たち自身の名が天に記されてある。そのことをこそ喜べ。私たちを町々村々へと、それぞれの家庭や地域や職場へとお遣わしになる方がおっしゃいます。むしろ私たち自身の名が天に記されてある。そのことをこそ喜べ。魂に刻み込みましょう。

  さて、主イエスに向かって悪霊どもは、「神の子よ、あなたはわたしどもと何の係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここに来て、わたしどもを苦しめるのですか」と恐れて叫びました。「その時」とは終わりの時のことです。悪霊どもは、いつ終わりの日が来るのかを知らずに「まだその時ではないのに」と言っていました。けれど、ヘブル人の手紙1:1-2は、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」とはっきりと告げています。つまり、救い主イエスが地上に降りてこられ、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と宣言なさった時から、すでに『終わりの時』は始まっているのです。救い主イエス・キリストの到来によって、神さまのご支配がこの地上にいよいよ現実のものとして勢いを増し、着々と建て上げられはじめたからです。神の国はこの地上にすでに来ており、着々と建て上げられつづけ、やがてすっかり完成されようとしています。確かに終わりの時はすでに私たちの只中に来ている。けれど、悪霊やサタンや闇の力との戦いはなお続いています。だからこそ、主にあって、主ご自身の偉大な力によって強くしていただきなさいと励まされます。エペソ手紙6:10-18です。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」。また、救い主イエスご自身も私たちに命じます。「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:31-33

  主イエスを信じるその希望の中身は、具体的には何でしょう。「あなたがたは、この世では悩みがある」と、はっきり語りかけられています。悩みがいくつもあり、次々とあり、それらが無くなることはありません。誰にとっても、それが生きてゆくことの現実です。いいえ。それが私たちの現実の中の半分の側面です。もう半分の、もっとその千倍も万倍も大切な現実は、救い主イエスからの約束でありつづけます。「わたしはすでに世に勝っている。だから、あなたがたは勇気を出せ」とおっしゃる。「だから」と呼びかけられました。主イエスがすでに世に勝っておられるからといって、けれど、どうして私たちは勇気を出したり、そこから平安を受け取ったりできるのでしょうか。それと、私たちの勇気や平安とは、何の関係があるのでしょう。この救い主イエスというお方が、私たちの主であられるからです。ご自分が勝ち取った勝利の中へと、私たちを招き入れ、私たちを据え置いてくださるからです。主イエスがすでにこの世に勝ったからには、この主に率いられて、私たち一人一人もまた世に勝つからです。権威あるおかたが、この私たちをも屈服させ、私たちをも従わせてくださるからです。このお方の権威のもとに、波と風が従い、悪霊さえもひれ伏し従うとして、それだけでなく弟子とされた私たちも「行け」と言われれば行き、「来い」と命じられれば来るからです。あの弟子たちと共にこの私たちにも、この同じ主が命じられました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20

2016年6月21日火曜日

6/19こども説教「だれが罪をゆるすことができるか?」ルカ5:17‐26

 6/19 こども説教 ルカ5:17-26
 『だれが罪をゆるすことができるか?』

5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。21 すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。  (ルカ福音書 5:20-21)

 中風(ちゅうぶ。ちゅうふう)というのは、手足や口や、あるいはこの人のように体中が自分の思いどおりに動かせない、とても苦しい病気です。救急車で使う担架のような戸板に載せて、この人を主イエスのところに連れてきてくれる人たちがいました。誰かの家の中で、主イエスは神の国について教えておられました。主イエスを大勢の人たちがギュウギュウ詰めに取り囲んでいて、近づいてゆくことができませんでした。「今日は無理だ。また今度にしよう」と、たいていの人は諦めて帰ってしまうところです。けれどどうしてもとその人たちは腹をくくって、その家の外階段を登って屋根にあがり、瓦をはがして大きな穴をあけ、戸板ごとその人を主イエスの目の前に吊りおろしました。20節に、主イエスは「彼らの信仰を見た」と書いてあります。この困った苦しいことから助けていただきたいし、主イエスになら助けてもらえると信じる信仰です。運んできた人たちの信仰は、この人のためにぜひ手助けしてあげようと腹をくくった、そのためなら何でもしてやろう、人様に迷惑をかけたり、ひどく叱られたりしても、それでも手助けしてやりたいと願う信仰です。運ばれてきた一人の人の信仰は、「ありがとう。どうぞよろしく」と彼らのお世話になって、彼らに手助けしてもらう信仰です。他のたいていの人は「乱暴だ。非常識だ。はた迷惑だ」とバカにしたり嫌な顔をするでしょう。けれど、その彼らの信仰を主イエスが見ました。
  体が思いどおりに動かせないこの病気を治してもらいたかったのです。それなのに、主イエスは「子よ、あなたの罪はゆるされた」とおっしゃいました。病気を治すより、罪をゆるすことのほうがはるかに難しい。その病気よりも、あなたのその罪のほうがあなたをもっともっと困らせているから、難しいほうの『罪』を治してあげようと主イエスはなさったのです。『罪』とは、神さまに逆らうことです。神に逆らいはじめたら、どんどんどんどん心が強情になり頑固になって、周囲の人や生き物たちを苦しめ困らせるばかりか、自分もひどく苦しみつづけます。しかも戸板に乗せられてきたこの人だけではなく、この私たちも大人も子供も年寄りも、誰も彼も一人残らず、『神にも人さまにも逆らって私が私がと頑固になる罪の病気』にかかって、困っています(*)21節で、プンプン怒っている人たちがいました。律法学者とパリサイ人たちです。神さまのことをかなりよく分かっていたので、よけいに腹がたちました。「神を汚すことを言うこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか。神さま以外の誰にも、決してできるはずもない」。ね、ずいぶんよく分かっていますね。だからあと一歩のところまで、彼らは正しい答えに近づいていたのです。だって、『神にしかできないことを私ができる。私がする』と誰かが言った。どういうことでしょう? そしたら、その人が大嘘つきなのか、本当に神さまなのか、どちらかです。24節。主イエスはご自分のことを度々『人の子』とおっしゃいます。「人の子が地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたに分かるために」と、その中風の人に「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と命じ、そのとおりになりました。


       【割愛した部分の補足】
        (*)『罪のゆるし』は、神に逆らう自分勝手な頑固さや臆病さを「いいよいいよ。そのまま逆らいつづけなさい」と放置することではない。『罪を大目に見る』ことではなく、『罪の奴隷状態からの解放』であり、『神さまの御心に従って生きる』ことへの招きです。その自分勝手さや頑固さを取り除いて、神さまに素直に従って生きることができるようにしてあげること(マタイ1:21「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」,テモテ手紙(1)1:15「キリスト・イエスは罪人を救うために来られた」,ローマ手紙3:21-28,5:6-11,6:1-18,8:1-11,11:32-12:2,16:25-26「信仰の従順に至らせるために」)。
    やがて、復活の主イエスは弟子たちに「罪をゆるしてやりなさい」と命じて、そのために送り出します。『罪をゆるす』ことは、神にしかできません。けれど、神が罪人の罪をゆるしてくださる御心なので、主イエスの弟子とされたクリスチャン皆は、その『神さまからの罪のゆるし』を伝言し、差し出し、受け取らせる使者の役割を担います(ヨハネ福音書 20:19-23,コリント手紙(2)5:18-21)。








 ◎とりなしの祈り
 天におられます私たちの父よ。あなたをこそ崇め、信頼をよせ、感謝し、それゆえあなたにこそ一途に聴き従って生きる私たちであらせてください。自分と家族と身近な親しい人たちの幸いだけではなく、生命あるすべての生き物にいのちの糧を贈り与え、あなたの恵みによって養ってください。
 この国もまた不平等で、格差が広がっていく一方だからです。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫びつづけているからです。大切な同胞であるはずの沖縄がないがしろにされつづけ、被災地の復旧がとどこおり、放射能に汚染されたとてもとても危険な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢いるからです。心細く貧しく惨めに暮らし、そのあまりに希望を失いかけ心を挫けさせている者たちが大勢いるからです。ほんのひと握りの人々が裕福で快適な生活をむさぼっている傍らで、経済的に追い詰められ、貧しく困窮しつづける多くの人々が取り残されつづけます。経済的に貧しい親に育てられた子供たちは貧しいままで、十分な教育を受ける希望をさえ諦めさせられています。毎日の三度三度の食事にも困る子供たちが数多くいるからです。主なる神さま。わたしたちに災いと苦しみをもたらす者たちを私たちがゆるし、迎え入れ、彼らに対しても善をなすことができるようにさせてください。なぜなら私たち自身がそのような悪い者でありましたのに、ゆるされ、迎え入れられ、神の子供たちとされたからです。私たちをこころみに会わせず、悪から救い出しつづけてください。私たち自身の体と毎日の暮らしとを、生きた供え物としてあなたに献げさせてください。心を新たにされ造りかえられて、あなたの御心にかなって生き、何が良いことであなたに喜ばれることなのか、何が悪いことなのかを弁え知って生きる私たちにならせてください(ローマ手紙12:1-2を参照)。支配と権力と栄光とはかぎりなく、天の御父よ、ただあなたのものでありつづけるからです。
 主イエスのお名前によって祈ります。




6/19「わたしは溺れそうです」マタイ8:23‐27

                                          みことば/2016,6,19(主日礼拝)  64
◎礼拝説教 マタイ福音書 8:23-27                       日本キリスト教会 上田教会
『わたしは溺れそうです』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  8:23 それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。24 すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。25 そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。26 するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。27 彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。                      (マタイ福音書 8:23-27)

  


  高い山や丘に囲まれ、すり鉢状に深く削られた谷底に、(ゲネサレ湖とも呼ばれる)ガリラヤ湖はあります。標高600-700メートルから急激に落ち込み、海面のさらに210メートル下に湖面があります。気温の変化によって、しばしば山地からはげしい突風が吹き下ろすこともありました。夕方になり、日も暮れて視界も悪くなります。主の弟子たちの多くはそのガリラヤ湖で生まれ育ち、そこで働きつづけた漁師たちでした。その湖の怖さも危険も、よくよく知っている彼らでした。だからこそ、激しい突風が吹き荒れ、舟が波をかぶり、水浸しになるほどになった時、彼らは、その危うさと恐怖を身にしみてビリビリと感じ取っていたでしょう。けれども、この肝心な時、危機の只中にあって、主は舟の片隅でスヤスヤ眠っておられました。何ということでしょう。弟子たちは主イエスを起こし;「主よ、お助けください。わたしたちは死にそうです」。
  僕の大切な友だちはこう言います;「辛い体験をすると、神さまの御心が分らなくなる。クリスチャンであるのに、つい神さまを疑ってしまう。私はあやふやで気もそぞろな、とても危なっかしい人間だ」と。まったくその通りだと思います。辛い体験をすると、神さまの御心が分らなくなる。たとえクリスチャンであっても、ついつい神さまを疑ってしまう。あるいは、信じられなくなってしまう。その通り。だって人間だもの。聖書自身も、「そんなものだ。人間って」と言っていますよ(創世記8:21,ローマ手紙3:10-27,11:32,エペソ手紙2:3-,3:23,ガラテヤ手紙3:22-23。たしかにあの時、あの波風吹き荒れる小舟の上で、あの彼らは、信仰と不信仰との分かれ目の挟間に立たされていました。主イエスへの信仰も、主に信頼することも、「どうぞよろしく」と主に委ねることもすっかり吹き飛んでしまって、そこにはもう何も残っていない、かのように見えます。けれども兄弟たち。だからこそ、その瀬戸際の崖っぷちの姿に、信仰の本質があざやかに立ち現れます。ここに、主イエスを信じる信仰があります。なぜなら彼らは、大慌てで、主イエスのもとへと駆け戻っているからです。なぜなら彼らは、今こそ、必死で本気になって主にしがみつき、切実に訴えているからです。「助けてください。わたしたちは死にそうです。今にも溺れてしまいそうです」と。
 ――今日は、あなただけのために語りましょう。聞いてください。忍耐の限界をこえて苦しみを味わうことは、あります。逃げ道も出口もまったく見出せない真っ暗やみの日々も、あります。「地獄だ。とても耐えられない」と溜め息をつくばかりの日々もあります。本当にそうです。だから、「耐えるべきだ」などと軽はずみなことはとても言えません。あなた自身も、「耐えなければならない。耐えるべきだ」などと思ってはなりません。むしろ必死に、一目散に、そこから逃げてきなさい。そこから、なりふり構わず避難してきなさい。叫びなさい、「助けてくれ」と。あなたの苦しみを、あなたの惨めさを、あなたがどんなに辛いのかを。あなたの憎しみも腹立ちも、嘆きも、なりふり構わず大声で叫びなさい。もちろん誰に対してよりも、なにより神さまに向かって。そして、周囲の人間たちに向かっても。あなたは声を限りに叫びなさい。もちろん、そうしてよいのです。気兼ねも遠慮も、大人ぶった体裁を取り繕うことも、もう要りません。では、質問。あの弟子たちは、なぜ、大慌てで駆け戻って、「主よ、お助けください。わたしたちは死にそうです」と恥も外聞もなくすがりついていると思いますか? 大変な危機で、まさに崖っぷちで、生命の瀬戸際に立たされているからです。しかも《この方ならきっと必ず》と知っているからです。あなたも知っているんでしょう、《この方なら、きっと必ず》と。十字架におかかりになる直前、私たちの主イエスは、「わたしの思いのままにではなく、御心のままになさってください」(マタイ福音書26:39-)と御父に向って祈りました。でも、ただちに簡単に、ではありません。罪人として十字架にかけられ、体を引き裂かれ、血を流しつくして殺されていくことは、救い主としても苦しいことでした。できることなら、別の方法を取りたかった。「わが父よ。もしできることでしたら、どうか、この杯(=十字架の苦しみと死のこと)を私から過ぎ去らせてください」と主は、繰り返し繰り返し祈りました。主イエスにとっても、それは祈りの格闘でした。苦しみ、身悶えし、血の汗を滴らせて祈った、と報告されています。地面に身を投げ出して祈りました。祈りつづけました。その格闘の只中で、「しかし、わたしの思いのままにではなく、御心のままになさってください」という信頼へと辿り着きました。例えば主の弟子パウロも、ただちに簡単に、「私のための主の恵みは十分。神の力は、私の弱さの中で、そこでこそ十分に働く」(コリント(2)12:7-を参照)と安らかであり続けたわけではありません。「私に刺さったこの刺を抜き取ってください」と格闘しつづけた果てに、かろうじて、ようやく辿り着いたのです。ただ3回だけ試しに祈ってみた、ということではありません。3回とあるのは、300回、3000回、何回祈ったか分らないほどに祈って祈って祈りつづけたという意味です。《御心のままに》;それは、祈りの手間を省く安易な言い訳でもなく、願っていることをすっかり諦めてしまった者たちの都合のよい方便でもありません。格闘するように、すがりつくようにして祈り続けた者たちこそが、ついにようやく、その格別な安らかさへと辿り着きます。ついに、その格別な、晴れ晴れとした信頼へと辿り着くのです。強がって見せても、誰でも本当は心細いのです。大慌てで主のもとに駆け戻り、必死に訴える。「助けてください。支えてください。倒れてしまうそうです。今にも溺れてしまいそうです。主よどうぞ、この私を」。クリスチャンはそこに立ちます。そこが福音の定位置。恵みを受け取るための、私たちのための、いつもの場所です。「そこへと駆け戻り、そこに我が身を据え置きなさい。あなたも、そこに腰を落ち着けなさい」と主イエスは、この私たちをも招くのです。
  26-27節。主イエスは「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と弟子たちに語りかけ、それから起き上がって波と海を叱りつけます。波と風は叱りつけられて、しーんと静まります。弟子たちの外側、小舟の外側で激しい風が吹き荒れ波が打ち寄せていたように、《弟子たちと私たちの心の中》でも、やはり激しい風が吹き荒れ、高い波が打ち寄せます。恐れと不安、心細さのために、たびたび水浸しになってしまう彼らであり、私たちです。私たちの小さくて貧弱な舟に、手ごわい波が次々と打ち寄せます。今にも暗い湖の底に沈んでしまいそうになります。
 一個のキリスト教会は、小舟です。一人のクリスチャンもまた、小舟です。その生涯も、一日ずつの営みも、やはり小舟です。その家庭も家族もまた、小舟です。主イエスは、この私たちの貧弱な舟の中でも起き上がり、権威をもって断固として叱りつけ、「黙れ。鎮まれ」とお命じになります。波や風に対して。そして私たちに対しても。私たちの周囲を激しく吹き荒れる風は、なかなか手強いのです。波も、かなりしぶとい。私たちの足もとに広がる湖は深く、暗く、底が知れません。しかも私たちの乗った舟はあまりに貧弱で、舟底の板もあまりに脆く薄い。いいえ、むしろ私たち自身の荒ぶる魂こそが難物です。吹き荒び、大波が立ち騒いで、いっこうに鎮まる気配もありません。主が断固として起き上がり、叱りつけ、「黙れ。静まれ」と権威をもって命じてくださるのでなければ、黙ることも鎮まることもできません。「あなたはどこを向き、何を見ている。あなたは、どこに足を踏みしめて立っている。あなたは何に期待し、何を待っている。あなたは一体、誰の声を聞き、何に信頼しているのか。あなたは誰のものか。主なる私のものではなかったか。主である私の声にこそ聴き従うあなたではなかったか。《主である私からのゆるし、恵み、救いの約束》にこそ、その只中にこそ自分の身を据え置くあなたではなかったか。違うのか。そうでなくて、どうやって安らかに喜ばしく生き抜いてゆくことができるのかと」と叱りつけてくださるのでなければ。
  弟子たちはとても驚いて、互いに問いかけ合いました。「この方はどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」(27)。波と風を恐れることを止めたので、ここでようやく、まるで初めてのようにして彼らは主を畏れることを始めました。それまでは、風や波や湖や世の中の風潮や、周囲の人間たちの気分や空気を読むことや、さまざまなモノを手当たり次第に恐れて忙しくしていたので、それで、主を畏れる暇がほんの少しもありませんでしたから。鎮まった彼らは、とうとう、まるで初めてのようにして《主イエスとは何者なのか》と問いました。答えをぜひ掴み取りたい、と願い始めました。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と主イエスはおっしゃいました。たしかに怖がっているし、アタフタオロオロしている。その通りです。信仰が、とてもとても薄い。
いいえ 「薄い」けれども、まったく無いわけじゃない。だからこそ、生きるか死ぬかの崖っぷちで、そこで大慌てで主の御もとへと駆け戻り、「主よ、助けてください。わたしたちは死にそうです」としがみつきました。ここに、信仰があります。「このかたはどなたなのだろうか」と驚いて、主イエスにじっと目を凝らし、つくづくと考え込みました。ここに、信仰があります。この私は信仰が薄いし、度々やたら怖がっているし心細いと気づくなら、もしそうであれば、「主よ、助けてください。私の信仰を増し加えてください。怖がって心細さを噛みしめる度毎に、そこでこそ本気で主の御もとへと駆け戻る信仰を、この私にもぜひ贈り与えてください」と願い求めることもできます。もし願うならば、その願いはきっと必ずかなえていただけます。なんて約束されていたんでしたっけ。 「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」(ヨハネ福音書16:24。しかも、「向こう岸に渡ろう」(18)と主が誘ってくださったのです。「ぜひ知りたい」と私たちも願ったのです。山や坂があり、底知れぬ暗く恐ろしい湖も行く手に立ち塞がります。しかし同時に、この湖には魚の群れが潜み、私たちの思いをはるかに越えた収穫さえ待ち受けます。たしかに小舟にすぎません。その通り。しかし主イエスが、この同じ小舟に乗り合わせておられるではありませんか。


2016年6月14日火曜日

6/12こども説教「神さまの心か、私の心か?」ルカ5:12-16

 6/12 こども説教 ルカ福音書 5:12-16
 『神さまの心か、私の心か?』

5:12 イエスがある町におられた 時、全身らい病になっている 人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。         
(ルカ福音書 5:12-16)

 体中の全部が重い皮膚病にかかって、とても困って苦しんでいる一人の人が、主イエスのところにやって来ました。ぜひ、この病気を治してもらいたいと願いつづけていたし、主イエスならきっと必ず治すことができると分かっていたからです。主イエスを見ると顔を地面に伏せて、願って言いました。12節です、「主よ、みこころでしたら、清めていただけるのですが」。出来るか出来ないか、ではありません。主イエスになら病気を治して自分の苦しみを取り除くことができる、と分かっていました。この病気を治してあげたいと、主イエスが願ってくださるかどうかなのです。願ってくださるなら、そうしていただきます。けれどもし、願ってくださらないなら、それなら治していただかなくてよいです。主イエスのお心に私は従います。「ぜひ治していただきたい」という私の心も、あなたのお心に従わせます。この人は、主イエスの御前に願い出ています。自分の心や願いや気持ちよりも、なにしろ主イエスの心や願いや気持ちのほうが大事だと、こっちに主イエスを従わせるのではなく、そっちに私の心を従わせますからと。
 主イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう。きよくなれ」と言われました。すると、重い皮膚病はすぐに彼の体の中からいなくなりました。主イエスに病気を治していただいたことを誰にも話さないように、と彼は口止めされました。ゴメンなさい、その理由はよく分かりません。実はこの箇所だけでなく、ぼくだけのことでもなく、聖書の中にはよく分かりにくい難しい箇所がいくつもあります(マタイ福音書8:1-4『重い皮膚病の人を』2016,5,29礼拝説教を参照のこと)。実はこの箇所だけではなく、金田にはよく分かりにくいというだけではなく、聖書の中にはよく分かりにくい難しい箇所がいくつもあるのです。14節で、「行って自分のからだを祭司に見せ、あなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」と指図なさった理由は分かります。その当時、重い皮膚病にかかった人は病気をうつして人に迷惑をかけないようにと、その病気が治るまで、家族からも誰からも離れて独りぼっちで暮らさなければならない約束でした。その扱いの責任者が祭司でした(レビ記 13-14章を参照)。それで、病気がすっかり治ってもう他の人たちと一緒に暮らしてもよくなったことを祭司に見せて証明してもらい、他の皆にも分かってもらう必要がありました。教えを聞いたり病気を治してもらおうと、たくさんの人々が主イエスのもとに集まってきました。それなのに、主イエスはさびしい所に引き下がって、独りで天の御父に向かって祈りました15-16節)。祈ってなんかいないで、その分だけ、たくさんの人の病気を治してあげたり、たくさんいろいろと教えてあげたほうがいいんじゃないですか。どうして、そうしないで主イエスは寂しい所に引き下がって天の御父に祈ったのでしょう? 祈りは、こちらから相手に願いや考えを伝えるだけではなくて、お互い同士のやりとりです。つまり、天の御父の御心を教えていただいて、それを聞き分けることでもあります。そうか。あの病気で困っていた人と同じことを、ここでも、主イエスは御父に向かってしています。たくさんの人の病気を治してあげようか。あちこちで、たくさんいろいろと教えて回ろうかどうしようか。いいえ 人々やこの自分の心や願いや気持ちよりも、なにしろ天の御父の心や願いや気持ちのほうを、その千倍も万倍も大事にしています(*)。「私や他の誰彼の願いどおりではなく、父よ、あなたの御心にかなうことをこそ、私に選び取らせてください」と。ゲッセマネの園でもそうでした。主イエスは、同じ一つの心で祈りつづけておられます。


        【割愛した部分の補足】
         (*)救い主イエスは、「わたしをこの世界に遣わされた天の御父の御旨をこそ行う。そのために遣わされたのだから」とご自分の働きをきびしく限定しつづける(ヨハネ福音書4:34,5:30,6:37-40)。だからこそ御父の御心を聞き分けるためにこそ、折々に祈りつづけた(ルカ6:12,9:18,28他)。「わたしの思いではなく、御心が成るように」(ルカ22:42)という御父への信頼と従順を願い求める格闘は、ゲッセマネでの一晩限りの祈りではなくエルサレムの都を目指す公けの地上の生涯を貫いてなされつづけた。連続する、同じ一つの長い長い祈りだった。だからこそ 主イエスの弟子とされたすべてのクリスチャンは、この主に導かれて、「わたしの思いではなく、御心が成るように」と願い求め、その願いを着々とかなえられつつ生きることとなる。うわおっ!!  ここに、私たちのための格別な幸いがあります。



 ◎とりなしの祈り
 主なる神さま。あなたはよくご存知ですけれども、この国は、今と将来への希望をもちにくい、不平等で、格差が広がっていく一方の、とても悪い国になっています。ますます悪くなっていくように思えます。大人である私たちの責任です。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせてください。外国人を憎み、軽蔑して押しのけようとする人々の身勝手で邪な行動は広がりつづけ、少しも収まろうとしていません。彼らの間違ったとても悪い活動を、国家も、私たち国民一人一人も、決して野放しにしないでいられますように。もし見て見ぬふりをするなら、私たちも悪い人々の共犯者です。
神さま。貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。ほんのひと握りの人々が裕福で快適な生活をむさぼっている傍らで、経済的に追い詰められ、貧しく困窮しつづける多くの人々が取り残されつづけます。経済的に貧しい親に育てられた子供たちは貧しいままで、十分な教育を受ける希望をさえ諦めさせられています。毎日の三度三度の食事にも困る子供たちが数多くいます。まったく申し訳ないことです。年老いた人々にも子供にも若い者たちにも、生き抜いてゆくための手がかりと、喜びと、確かな希望とを見出させてください。自分自身と身の回りのことばかりを思うのではなく、その彼らの喜びと悲しみを、私たち自身の喜びと悲しみとさせてください。すべての子供と親たちが、共に暮らしている幸いを喜び噛みしめながら、毎日の暮らしを健やかに建てあげてゆくことができますように。

  主なる神さま。私たちを今こそ地の塩、世の光として用いてください。この世界のはなはだしい不平等と差別と悪に対して、私たちを見張りの塔として働かせてください。この世のあり方と妥協せず、心を新たにされ造りかえられ、何が神さまの御心にかなったことなのか、何が善であり悪であるのかを弁え知りつつ生きることを(ローマ手紙 12:1-2を参照)、私たちに願い求めさせつづけてください。主イエスのお名前によって祈ります。  アーメン

6/12「まず父を葬りに」マタイ8:18‐22

                                          みことば/2016,6,12(主日礼拝)  63
◎礼拝説教 マタイ福音書 8:18-22                       日本キリスト教会 上田教会
『まず父を葬りに』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
8:18 イエスは、群衆が自分のまわりに群がっているのを見て、向こう岸に行くようにと弟子たちにお命じになった。19 するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。20 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。21 また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。22 イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。           (マタイ福音書 8:1-4)



「湖の向こう岸に一緒に渡ろう」と主イエスは弟子たちを促します。主の弟子であることにおいても、主を信じて生きることにおいても、『向こう岸』があります。向こう岸へ、さらに向こう岸へと、主イエスと弟子たちは旅をつづけます。向こう岸には、主イエスとその福音を待ち望む人々が待ち構えているからです。小舟に乗って漕ぎだそうとする間際に、二人の人がそれぞれに主イエスの前に現れました。
 19-20節。まず、ひとりの律法学者です。彼は言います、「先生。あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。主イエスは応えておっしゃいます。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」。とくに福音書の中で、主イエスはご自分のことを『人の子』(ダニエル7:13,マタイ9:6,12:8,32,40,13:37,41,16:13,27,17:9,19:28他)と言い表しつづけます。人間であることの苦しみと悩みを背負い、十字架の死と復活へと向かう苦難の救い主です。あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいりますと、その彼は、主イエスに従う断固たる決意を言い表します。「どこへでも」と。律法学者であるその人は上流社会の一員であり、何不自由ない裕福な暮らしをし、社会的な地位もあり、人々からの尊敬も受ける人物です。けれど、これから飛び込もうとする『主イエスの弟子としての生き様』は、それまでのあり方とはずいぶん違うものになります。きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし救い主イエスには狐や鳥にさえ及ばないほどの過酷で不安定で心細い旅路が待ち構えている。やがてとうとう枕する場所は息絶えようとする無残な十字架の木の上であり、墓穴の冷たい土の上です。そのわたしが行くところなら「どこへでも」付いてくるというのか。あなたは、そう願うのか。
  21-22節。次には、すでに主イエスの弟子として主に従いはじめている者に対して、弟子であることの心得を改めて告げ知らせます。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは死人に任せておきなさい」。これは、理解することも受け入れることも、とても難しいやりとりだと思えます。しかも、葬儀や葬いのことも含めて、家族に対する責任や義務をどうでもいいとする神さまではありません。「あなたの父と母を敬いなさい」と私たちは教えられています。また、連れ合いや家族を愛し、子供たちをよく養い育て、家庭を大切に守る者であるように、と勧められています(テモテ手紙(1)3:4-12,コロサイ手紙3:18-4:6を参照)なぜなら、アブラハムの時代から「あなたとあなたの子孫」とが救いの約束の中で見据えられつづけるからです。「救われるために何をすべきでしょうか」と必死になって問いかけたとき、あの牢獄の看守は自分自身の救いと共に家族の救いをも心から願ったからです。主イエスの弟子たちもまた、だからこそ「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31と約束しました。その同じ約束を、この私たちも信じています。信仰をもって生きることは、家族や親類縁者や親しい友人たちとすっかり縁を切って、孤立無援で淋しく生きることではありません。例えば取税人マタイは、主イエスに従って旅立つとき、取税人仲間や親しい友人たちを招いて、盛大なお別れパーティを開きました。仲間たちとの名残を惜しんだだけではありません。大切な仲間であり友人である彼らと、主イエスとを、ぜひ引き合わせてやりたかったからです。やがて、その親しい交わりの中から、主イエスを知る人々が生まれ、主イエスを信じる人々も一人また一人と現れていきます。
 さて、「まず父を葬りに行かせてください」と言う弟子に、主イエスは「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは死人に任せておきなさい」とおっしゃいました。ここで、「死人の葬りを死人に任せなさい」と命じられるとき、「死んだ父。あるいは、間もなく死につつある父」の葬りを任せるべき死人とは、もちろん医学的・物質的意味での文字通りの死人ではなくて、『神さまとの生命の交わりから隔てられている罪人』という意味でしょう。するとすべてのクリスチャンも含めて、人間皆が『罪の中に死んでいた罪人。あるいは、今なお死んでいる罪人』であり、そのような罪人でさえも、もし神さまの恵みによるならば神の国に入れていただくことができる。そうでなければ誰一人も神の国に入ることができません。神の国とは、神さまのご支配のもとに、その神さまとの生命の交わりのうちに生きることです。ここで私たちは慎み深くあらねばなりません。はっきりと語ることができるのは、ここまでです。では罪の中に死んでいる罪人とは、具体的には誰と誰のことなのか。神さまとの交わりのうちに喜ばしく生きている者らは誰なのかを、私たち人間にははっきりと見分けることができません。ただ神さまご自身だけが、それをご存知だからです。現実に、父の葬りを託さねばならない他の兄弟や親族や友人たちを『死人』と決めつけてしまうなら大変に失礼ですし、迂闊な言いすぎです。洗礼を受けたクリスチャンだけが神さまとの生命の交わりのうちにあって神さまの義に従って『生きている』などとはっきり断言することもできません。聖書自身が、私たちの軽々しい迂闊な判断をきびしく戒めます。(ローマ手紙10:5-7を参照)「あなたは心のうちで誰が天に上るであろうかと言うな。また、誰が底知れぬ所に下るであろうかとも言ってはならない。それは、キリストを引き下ろし、キリストを死人の中から引き上げることである」と。私たちが救われ、その救いのうちに堅く留まっているためには、「イエスは主である」と自分の口で告白し、「神が死人の中からイエスをよみがえらせたし、その同じ神がただ愛によって、罪のうちに死んでいた私たちをもよみがえらせてくださる」と自分の心で信じねばなりません。
 その上でなお、救い主イエスは確かにおっしゃいました、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37-39,16:24-25を参照)。なぜなら神さまからの戒めの第一は、主なる神を愛することです。第二に、隣人を自分自身のように愛し尊ぶことだからです。第一の戒めがあり、その土台の上に第二の戒め。これが鉄則(マタイ22:34-39。つまり、第一に主イエス。第二に、父や母や連れ合いや家族や隣人。それなら大丈夫。そうでないなら、かなり危うい。例えば主に従うようにと招かれて、アブラムとサライとロトと家族らは、「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」、そのようにして主が示す土地を目指して旅立ちました。主イエスの弟子たちも「父と舟と網を置いて」主イエスに従いました(創世記12:1,マタイ4:20,22。頼りになる後ろ盾や、頼みの綱からいったん離れねばならなかったからです。そのようにして、主イエスに信頼を寄せ、主イエスにこそ聴き従う信仰の旅路がはじまっていきました。親不孝が勧められているわけではなりません。連れ合いや子供たちを粗末に扱えと促されているわけでもありません。家族はもっとも身近な、もっとも親しい隣人ですけれど、福音の順序があり、優先順位ははっきりしています。第一に、主なる神を愛すること。第二に、隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと。「家族や隣人を愛する。親戚たちやご近所さんや職場の付き合いを重んじて」などと言いながら、いつの間にか、主なる神さまを愛し尊ぶことが二の次、三の次、四の次になり、やがて神さまを思う暇がほんの少しもなくなることは有り得ます(マタイ16:23を参照)。しかも家族や隣人へと向かうはずのその愛は、いつの間にかひどく自分勝手で独り善がりになり、萎んだり枯れたりし、互いを縛り付けたり苦しめて大きな災いをもたらすかも知れません。それは大いに有り得ます。私たちは恐れましょう。
  あのとき湖の岸辺で、「どこにでも従います」と主イエスに申し出た律法学者と「父を葬りに」と願い出た弟子の一人が、その後どうなったのか。主イエスに従ったのか、それとも悲しみながら立ち去ったのかは、聖書に書いてありません。ですから、よく分かりません。あの彼らのことは彼ら自身が面倒を見ればいいでしょう。彼らがどうなろうとも私たちには関係がありません。問題は、私たち自身です。エルサレムの都にのぼってゆく旅の途上で、シモン・ペテロが主イエスの問いかけに答えて言いました、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」。けれどその直後に、「自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえることになっている」と主イエスがご自分の、最重要の飛びっきりの秘密を弟子たちに打ち明けたとき、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。主イエスは振り向いて、ペテロに言われました、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。それから主イエスは弟子たちに言われました、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ福音書16:21-26
  サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱られたあのペテロは、やがて復活の主イエスの御もとへと立ち戻ります。主は「私に従いなさい。私の羊の世話をしなさい」と命じて、彼に語りかけます。「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩き回っていた。しかし年をとってからは、自分の手を伸ばすことになろう。そして他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」(ヨハネ福音書21:18。ごく表面的には、彼の殉教の死についての予告ですが、それだけではなく すべてのクリスチャンの幸いな生涯の歩みについて主イエスご自身が説き明かしておられます。たとえのような言い方で、正反対な二つの生き様を並べて示しています。「若かった時には~」「年をとってからは~」と。「若かった時に~」とは、神さまを信じていなかったころです。「年をとってから~」とは、神さまを信じて生きはじめてからのことです。神さまを信じていないうちは、私たちも、また誰も彼もが思いのままに歩き回っていました。行きたい所へ行く。行きたくない所へは行かない。したいことをする。したくないことはしないと、思いのままに生きていました。この聖書の神さまを信じてからは、神さまによって帯をしめられ、主イエスのくびき(=牛やロバなどの首につけて、すき、荷車を引かせるために使用する道具。政治的屈服や隷属、苦役、罪の重荷などを表象した。これらに反して、主イエスへの服従は軽いくびきとされた。マタイ11:29-を負い、手綱を主イエスにしっかりと握っていていただき、主イエスに連れ回され、主イエスの荷物を運び、主の畑を耕し、主イエスを背中にお乗せするあの子ロバのようにされます。「行きたくない所へは行かない」「行きたい所へ行く。したいことをする。したくないことはしない」。それこそが自由な伸び伸びした生き方だと思い込んでいましたが、とんでもない。まったくの大間違いでした。ただ腹の虫に従っていただけで、ただただ自分の腹の思いの奴隷にされていただけの、あまりに虚しく惨めな生き様だったのです。
 ああ、そうだったのか。ようやく目が覚めて、気づきました。行きたくても行きたくなくたって、なにしろ行くべき所に行ける。行くべきではない所には決して行かない。たとえ行きたくて行きたくてウズウズしても、皆が大賛成しても。だって何しろ、この自分が主人なのではなく他の誰彼がボスでもなく、主なる神さまにこそ聴き従って生きるしもべ同士だったのです。あなたがたも私自身もよくよく知ってのとおり、天に唯一無二の主人がおられます。好きか嫌いか、気が向くか向かないかではなく、何が善いことで神さまの御心にかなうことなのか。自分の思いのままにではなく、御心のままに成し遂げていただき、それを自分でも心から喜び、願い求めることさえできる(ローマ手紙8:2-17,12:1-2を参照)。そこは、晴れ晴れとした自由な広い場所でした。なんという幸いでしょうか。

2016年6月6日月曜日

6/5こども説教「離れてください。わたしは罪深い者ですから」ルカ5:1-11

 6/5 こども説教 ルカ福音書 5:1-11
 『離れてください。
わたしは罪深い者ですから』

+付録/駅前アピール(6/4
「せんだい原発、今すぐ止めよう。間に合ううちに、本気で止めよう !!  


5:4 話がすむと、シモンに「沖へ こぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。            
(ルカ福音書 5:1-11)

 ペテロたちは漁師で、その湖でずっと働いていました。あるとき、小舟に乗せてくれと言われて乗せてあげました。岸辺には大勢の人たちが詰めかけて、そのかたが語る話を聞いていました。神さまについての話です。ペテロたちはなんとも思わなかったし興味も関心もかなったので、ただ聞き流していました。夜通し漁をしてして魚一匹もとれず、がっかりして疲れ果てていました。「沖へこぎ、出し網を下ろして漁をしてみなさい」(4節)とおかしなことを言われ、言われたとおりにしてみたら山ほどの魚がとれました。そこで、「このかたは神さまからつかわされた、とんでもなく偉いかただ」と突然に気がつきました。8節を見てください。「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です』」。神さまからの光に照らされて、自分自身の罪深さを突然はっきりと思い知らされました。それまでは、「ちゃんとしている自分だ。案外しっかりしていて立派なほうだ」などと自惚れていました。けれど、神さまがどういう神さまなのかはまるで全然わかっていませんでした。「罪深い自分勝手で悪い者たちを毛嫌いして、シッシと追い払い、正しく清らかなものを招き寄せて愛する神さまじゃないかなあ」などと、すっかり誤解していました。誰かから、神さまについての間違った噂話を聞かされて、うっかり鵜呑みにして信じさせられたのかも知れません。だって知ったかぶりをして、そういう嘘を言いふらす人々は今でもたくさんいるからです。ペテロも誰かに騙されて、「わたしはとても罪深いので、離れてください」などと、すっかり的外れでトンチンカンなことを言ってしまったのです。
  「人間をとる漁師にしてあげよう」と招かれて主イエスの弟子にされ、主イエスと付き合ってその話をよくよく聞くうちに、ペテロも他の仲間たちも、神さまがどういう神さまなのかをだんだんと分かっていきました。主イエスによって神さまの本当の心や姿を知り、神さまを信じて生きる者たちとされてゆきました。彼らが罪深いだけでなく誰も彼もがとても罪深いことも分かってゆきました。そういう罪深い、悪くて自分勝手で心が頑固な、いじけたり自惚れたりしやすい者たちを、けれど愛して迎え入れてくださる神さまだということも、やがて、だんだんと分かってゆきました。罪をゆるされて、ただ恵みによって救われるのだということを。ですから主イエスの弟子たち皆はやがてこう呼ばわるようになります。「主よ、私は罪深くて、とても悪くて自分勝手で心が頑固な、いじけたり自惚れたりしやすい愚か者です。だから、私をもう二度と離さないでください。私をあなたのすぐそばに置いてくださって、決して見放したり見捨てたりしないとよくよく信じさせてください」と。主イエスは「恐れることはない」10節)とおっしゃっていました。そのとおり。主イエスを信じることによって、山ほど抱えた恐れや心細さも一つまた一つと取り除かれていきました。不思議なことに、主イエスを信じれば信じるほど、その分だけ 恐れや心細さがどんどん小さくされてゆきました。今までとまったく違う新しい人生が、そこから始まってゆきました。









◎駅前アピール
「せんだい原発、今すぐ止めよう。
間に合ううちに、本気で止めよう !! 


大手町1丁目の、日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。
「好き勝手に戦争できる国にする」ことも、沖縄をないがしろにして植民地扱いしつづけることも、とても危ない原発を次々と再稼働していくことも皆よく似ています。九州全土を巻き込んだ大規模地震で、今までにない、これからどうなってゆくのか予測も想定もできない状況で、それでもなお震源地帯のすぐ傍らにある、活断層の上に立つ原子力発電所を「大丈夫大丈夫、何の不都合もない」と言い張って稼働し続けることも、皆よく似ています。数珠つなぎになって、国家の同じ1つの政策であり、1つの活動だからです。東日本震災から5年たちました。九州ではじまった大規模地震がこれからどうなってゆくのか誰にも分かりません。一旦はすべて止まった原発も、この国の政府は1つまた1つと次々再稼働しつづけています。つい昨日のことのようですが、事故からわずか半年後の201112月に当時の内閣総理大臣、野田佳彦(のだ・よしひこ)は「今回の原発事故は収束した」と公けに宣言し、その1年半後の20133月に安倍晋三総理大臣は「やっぱり収束していない」と収束宣言を撤回しました。その通りです。今後共、福島第一原子力発電所事故は収束する見込みもメドもまったく立っていない現状です。水をジャブジャブかけて冷やしつづけるしかできません。お手上げです。その結果、大量に生み出される高濃度の放射能汚染水を太平洋の海に垂れ流しつづけています。「除染、除染」と言っていました。汚染された膨大な量の土は町外れの大きな空き地のあちこちに、黒っぽいシートを被せて積み上げられたままです。それで除染したことになるのかどうか。いいえ、それは除染ではなくて偽善です。高濃度の放射性汚染水を海にジャブジャブ垂れ流すことも、除染ではなくただの「垂れ流し」です。目をつぶり耳を塞ぎ口も塞いで知らんぷりすることも、除染ではなく収束でもなく安全でもありません。
 聞く耳のある人はどうか聞いてください。あのチェルノブイリ原発事故も福島も、本当は 十分に想定されていました。政府の責任者や専門家たちには、あらかじめすっかりお見通しでした。でも事故を防げなかったし、防ぐつもりもありませんでした。あまりに無責任だったからです。自分たちの目先の損得しか考えようとしなかったからです。あのとき以上の地震がいつ起こるのか、壊滅的な事故がいつどこで発生するのか、誰にも予測がつきません。「再稼働を認めるのは間違いだ。原発は安くて安全どころか、高くてあまりに危険だ」と人々が必死に訴えても、「安全だし何の影響もない」と決めつけて、ろくな避難計画も立てず、本気の防止策もありません。国民の多くも耳を貸しません。しかも去年の8月からは、「再稼働を判断し、責任を負うのは、国家ではなく電力会社と規制委員会だ」と政府は知らんぷりする本音を正式に白状しているからです。重大事故に直面して、もし国家が責任を負わないとするならば、もちろん委員会も電力会社も責任を負うはずがありません。原発を設置しているそれぞれの都道府県も市町村も、再稼働に賛成した住民たち一人一人も、誰一人も責任を負わないでしょう。福島以上の壊滅的な原子力発電所事故が九州でも北海道でも静岡でも北陸でも、すぐに何度でも何度でも起こりえます。この国全体が焼け野原になって、毒にまみれた誰も住めない土地に成り果てるかもしれません。18歳未満の子供や孫や、あとから来る新しい世代の人々に対して、18歳以上の皆さん方もこの私自身も申し訳が立ちません。詫びのしようもありません。恐ろしくて恐ろしくて、言わずにはおられません。
 ♪ せんだい原発止めよう、いかた原発も止めよう、いますぐ止めよう。間に合ううちに手遅れになる前に、本気で止めよう。
 2016,6,4 上田駅前・原発ゼロ集会)



        【資料・関連情報】
         ()2015810日,「第一義的には稼働の責任は事業者」菅義偉(すが・よしひで)内閣官房長官の記者会見。 同日、安倍晋三首相、参議委員予算委員会での発言をも参照。
         ()インターネット[You Tube]『小出裕章ジャーナル・シリーズ』;問題は悪化している。「汚染水」「地下水流入を防ぐ手段」「膨大な被爆作業労働者の確保」「高まる再稼働の気運」「核のゴミをどうするか」「使用済み核燃料の取出し」「事故から4年」「石棺で封じ込めるしかない(2015,4,25)」「避難指示解除は妥当か(2015,7,11)」「廃炉工程表見直しについて(2015,7,25)」「川内原発再稼働(2015,8,8)」、参照。
     『ニュースサイトBUZZAP! 2016,4,18付』;熊本地震に伴う川内(せんだい)原発停止を求める署名、4日で10万筆を突破。九州全土を襲っている震災のさなか、稼働を続ける鹿児島県の川内原発の停止を求める署名が4万人を突破し、署名数が伸び続けています。414日の熊本での震度7の大地震を「前震」として始まり、現在も九州各地で余震を観測し続けている熊本地震。高速道路をはじめとする多くの道路が寸断され、鉄道も新幹線や多くの在来線が運行できず、支援物資が十分に行き渡らない状況が続いています。そんな中で、現在日本で唯一稼働中である鹿児島県薩摩川内市の九州電力、川内原発が停止することなく稼働を続けています。丸川珠代原子力防災相は「原子力規制委員会は運転を停止させる必要はないと判断しており、現在も運転を継続している」と述べて停止の必要性を否定。その根拠として丸川担当相は非常災害対策本部会議で「今回の地震で川内原発において観測された地震動は最大で12.6ガルとなっている」「同発電所は新規制基準への適合性審査で620ガルの地震動を受けたとしても、安全上重要な機能は確保されることを確認している」とコメントしています。ですが、実際には14日夜の「前震」では熊本県益城町で阪神大震災の891ガルを大きく越える最大加速度1580ガルを記録しており、活断層上にある川内原発の近くで同程度の地震が発生すれば同発電所の安全が確保される保証はありません。さらに、17日の気象庁の会見では「今後1週間程度は震度6弱の余震に注意してほしい」「ふだんと違う地震活動なので、いつまで(注意すればいい)と言い切るのは難しい。単純な本震余震活動だとしても1週間程度は続くので、少なくとも同程度の警戒が必要だ」として、これまでの地震観測の経験則で語れない地震であることが示されています。また、震源地の分布についても「16日と少し違うのは、これまで地震活動があまり見られなかった南側で、やや小さい地震活動がみえている。八代市で最大マグニチュード4.5160916分頃)。まだ大きいものではないが、1601時の地震が影響して、同日の午後ぐらいからだんだん増えている」としており、今後の地震活動がより広範囲に及ぶ可能性にも言及しています。この署名が求めているのは川内原発の廃炉といった、いわゆる「脱原発政策」の実施ではなく、単純に余震が続いている中での稼働の継続というリスクを取らず、即時停止して欲しいというもの。現時点で川内原発付近で大きな地震が起こる可能性は否定できず、仮にそうした地震が起こり、福島第一原発事故のような事態が発生すれば、九州全体への影響は計り知れません。九州電力は川内原発に免震棟を作るとして再稼働に必要な規制委の審査を通った後、計画を撤回して批判に晒されることとなっています。さらに、川内原発の事故に伴う住民避難にはバスを用いる計画が立てられていましたが、高速道路、在来線ともに各地で寸断している状態では迅速な避難もままなりません。薩摩川内市長は避難に「九州新幹線活用を」としていましたが、こちらもご存じの通り運転を見合わせています。原発を停止させても危険性は変わらないという反論もありましたが、福島第一原発事故でメルトダウンを起こしたのが運転中の1号機から3号機であったことを考えれば、一刻も早く冷温停止の状態に持って行っておくことがリスクマネジメントとしては極めて重要。なお、川内原発を停止させたら電力需要を満たせなくなるという驚くべき難癖も見られますが、4月は一年の内でも電力需要が最も低い水準になる季節であることは東日本大震災の後に学んだとおりですし、各電力会社は電力使用量を見積もってその時々の発電量を無駄のないように決定するものです。そういった批判者には水力発電所や火力発電所が被災して発電できなくなる可能性を示唆する人もいますが、それならばなぜ川内原発が被災することには思いが至らないのか、想像力の偏りに首をかしげざるを得ません。
               【宮武嶺のエブリワンブログ】20150811 | 原発ゼロ社会を目指して。原発ゼロの日々を踏みにじった安倍政権、九州電力、原子力規制委員会、鹿児島県の総無責任体制 九州電力は2015811日午前1030分、川内(せんだい)原子力発電所1号機(鹿児島県)を再稼働させました。今後、徐々に出力を高めて9月上旬にも営業運転を開始する予定です。臨界に達するのはもうそろそろ、午後11時ごろの見込み。20139月に福井県の大飯原発が停止して以来、日本の原発が約2年ぶりに再び動き出したのです。世論調査では、原発の再稼働に反対する声の方が多く、関西電力の高浜原発については、福井地裁が今年4月、巨大地震が発生した際の安全性に懸念を示し、再稼働を禁じる仮処分を出しています。しかも、川内原発については、原子力規制委員会や九州電力による火山噴火のリスク評価が不十分だとされています。川内原発は、姶良(あいら)カルデラ(火山性のくぼ地)の西、45キロという位置にあります。これは鹿児島湾の奥にある巨大噴火の痕跡で、桜島もその上にのっています。鹿児島湾を中心に、小林、阿多、加久藤(かくとう)といったカルデラが南北一直線に並んでおり、160キロ圏内に5つもカルデラがあります。そして、過去の巨大噴火の際には、原発がある川内川の河口にも火砕流が届いていたことは、九電も規制委も認めています。原子力規制委員会は、九電の主張そのままに、巨大噴火の予知は可能で、万一の際にも核燃料を安全に運び出す余裕はあると言うのですが、ほとんどの火山学者がそれを否定しています。さらに、万一の原発事故の非常事態に、机上の避難計画に果たして効果があるのかどうかを原子力規制委は審査の対象とせず、自治体に任せてしまっています。それなのに、鹿児島県の伊藤祐一郎知事は、原発の必要性を明示した文書を出すよう政府に要求し、経済産業大臣名のそれを受け取ったあと、住民説明会などを経て、再稼働に同意しました。つまり、安倍政権も、原子力規制委も、鹿児島県も薩摩川内市など自治体も、九州電力も、誰も責任を取ろうとしないで、責任の押し付け合いをしているのです。この関係者一同総無責任体制って、デジャビューを見ているようです。福島原発事故の後の、東京電力と、原子力保安院と、原子力安全委員会と、民主党政権もこんな感じじゃなかったですっけ? 万一の時に誰も責任を取れないような原発再稼働なんて、絶対反対です。再稼働前に必要な検査が進められている九州電力の川内原発の原子炉建屋に、外国メディアとして初めてBBCが入り、災害訓練の様子を取材しました。再稼働に向けて九州電力は、安全対策の徹底を強調します。一方で、気象庁・火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長は、周辺で火山が爆発した際の危険性を指摘。ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ­東京特派員は、太陽光発電など代替エネルギーの発電量が増えない理由についても取材しました。安倍首相は「規制委の再稼働に適合すると認められた原発は、再稼働を進めたい」。九州電力は「原子力規制委のお墨付きをもらった」。田中原子力規制委委員長は「自分たちは安全だとは言ってない」。菅官房長官は「再稼働を判断するのは事業者」。鹿児島県は「経産省が再稼働が必要だと言った」。みんなが他人に責任を押し付け合ってるのって、万が一のことがありうるともっているからでしょうが