2022年7月26日火曜日

7/24「大祭司イエス」へブル3:1-6

          みことば/2022,7,24(主日礼拝)  381

◎礼拝説教 ヘブル手紙 3:1-6               日本キリスト教会 上田教会

『大祭司イエス』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:1 そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。4 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。5 さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、6 キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。      ヘブル手紙 3:1-6

 

2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 (ピリピ手紙 2:6-13)


まず1-2節、「そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである」。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ」と呼びかけられています。呼びかけられている相手は、ヘブル教会の信徒たちであり、ここに集っているこの私たち自身でもあります。私たちもまた、神のものである教会に招かれ、教えを受けつづけ、それによって養われているのは、神さまが私たちを選び、ご自身の恵みの領域へと招き入れ、神の民としてくださったからです。「聖なる兄弟たち」と語りかけられています。少し前に、私たち自身は何者でもないと申し上げました。聖なる兄弟と呼ばれる理由もまた、私たち自身が清く、正しく、神聖な存在であるとかいうことではまったくなく、ただただ『神のお働きの中に入れられ、神の憐れみの中に据え置かれている』という意味です。神の御心に聞き従って生きることができる者たちとされている私たちです。

だからこそ、「大祭司なるイエスを、思いみるべきである」と戒められ、励まされつづけます。「思いみるべきである。思いなさい」という戒めは、神を信じて生きる者とされた私たちにとって、とても大切です。なぜなら、普段のいつもの暮らしの中で、さまざまな思い煩いの中にいつのまにか紛れてしまい、大祭司であり、教師であり、私たちの信仰の導き手であられるイエス・キリストを思うことができなくなってしまいやすい私たちだからです。心が鈍くされて、救い主イエスがどういうお方であり何をしてくださったのか、イエスを信じて私たちがどのように生きることができるのかがよく分からなくなってしまいやすい私たちだからです。道案内をしてくださる導き手として大祭司イエスに目と心をはっきりと向けるとができなくなれば、神を信じて生きる者たちとされていることが、その途端に、危うく不確かなものになってしまいかねないからです。「大祭司なるイエスを思いみるべきである。思いなさい」。十分に注意深く大祭司イエスとその教えを熟慮しつづけましょう。やがて神の国に辿り着くはずの私たちであり、そのため、神の御心にかなって一日ずつを生きるはずの私たちからです。その約束と希望が虚しいものになってしまわないためにこそ、この私たちは、大祭司なるイエスを思いみるべきであり、注意深く、よくよく思いつづけて生きる必要があります。

2-4節、「彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である」。大祭司イエは、ここでモーセと対比されています。モーセは神に用いられて、偉大な大きな働きをさせていただいた働き人ですが、貧しさと弱さを抱え、思い悩んでたびたび心を鈍くさせました。何者でもなく、主なる神に仕える働き人たちの1人にすぎません。しかも聖書自身が証言するように、良い先生は神お独りしかおらず、私たちは皆、神に用いられて神に仕える働き人にすぎないと覚えておきましょう。「名誉牧師」とか「名誉会長」などという人間のつまらない理想像を信仰の領域に持ち込んではいけません。しかも、私たちが生きるすべての領域、全生涯は神のお働きの只中に置かれています。さて、救い主イエスこそが神の家と神の民全体に対して、また世界全体に対して、教師また道案内として神によって立てられ、また父なる神に対して忠実でありつづけました。

「おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である」。モーセも、その他おびただしい数の指導者たちも、キリスト教会を建て上げるための一部、一員であり、家を建てるために積み上げられてゆく「石」(1ペテロ手紙2:5などにもたとえられてきました。ただ神ご自身だけが卓越しておられ、唯一の建築者であり、建物全体の上に据えられるべき頭(かしら)であり続けます。コリント人への第一の手紙3章で、キリスト教会は建物であり、畑であるとたとえられました。「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である」35-9節)。とくに教会の中では、神の力によって生まれたのでないものは何一つもない。ただ神ご自身だけがその御手によって教会を造り、建て上げ、保ちつづけてきました(詩87:5。神がその教会を建て上げるために私たち人間をどれほど用いようとも、すべてのものを完成するのは神のみです。道具である私たちは、製作者である神から何ものをも奪い取ることができないからです。だからこそ、その歩みを思い起こして、私たちは感謝と喜びにあふれます。

 

5-6節、「さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである」。神ご自身である救い主、また教師、大祭司として、イエス・キリストは神の家全体に対して、また神の家と全世界を治めることについて忠実であられた。しかも、このお独りの方イエス・キリストこそが天と地のすべて一切の権威と責任と支配とを御父から委ねられた王の中の王であられます。世界の富と幸いの相続者であられ、このイエス・キリストを抜きにしてはどんな幸いも祝福もありえない。だからこそ、救い主イエスが御父に忠実であられたように、主イエスに仕える私たちもまた御父に忠実であり、救い主イエスとその御言葉に対してどこまでも忠実であることが要求され、命じられつづけます。ここにこそ、世界とキリスト教会と私たちとその家族にとっての幸いと祝福があるからです。

この「忠実」は、もっぱら御父と救い主イエスに対する忠実であり続けます。何かを判断し、選び取ろうとするとき、その判断の只一つの土台は、ただただ救い主イエスとその御心と御言葉に対しての忠実であるほかありません。人間の立てた制度や秩序に対する忠実ではなく、多くの人々の考えや意見に対する忠実でもなく、社会的・一般的な常識に対する忠実でもなく、その判断が神の御心にかなうものであるのか、聖書に証言される福音の道理に対する忠実であるのかこそが、いつも問われるべき唯一の判断基準です。主イエスの弟子たちは、このことを肝に銘じつづけてきました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」、また「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19-20,5:29と。これこそが、神を信じて生きることの、いつもの最重要の生命線でありつづけます。

『父なる神に対する御子イエスの忠実』はゲッセマネの園での祈りの格闘の際に明確に示され、また、十字架の死と復活こそが御父に対する御子イエスの忠実のささげものであったと聖書は証言します。この証言にこそ、一生涯をかけて、何度も何度も立ち戻りつづける私たちです。ゲッセマネの園で、大祭司であられる救い主イエスは御父に向かってこう祈りました、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書14:36ピリピ手紙2:6以下ははっきりとこう証言します、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。ほかの誰に対する忠実でもなく、人間に聴き従うことでもなく、自分たちの腹の思いの言いなりになることもなく、ただただ『御父と御子イエスとその福音の教えに対する忠実』こそが指し示されつづけます。そうである限り、私たちは神の家でありつづけ、神の永遠の御国にやがて必ず迎え入れられることになります。この教会の「こども交読文」は、大人にも子供にもよく分かることを願って、『神への忠実』についてこう説き明かします、「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」(上田教会、日曜学校「こども交読文」から)。ここに、神を信じて生きることの幸いと希望がありつづけます。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

7/24こども説教「喜びなさい」ピリピ2:16-18

7/24 こども説教 ピリピ手紙 2:16-18

 喜びなさい

 

2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。17 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。18 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。    (ピリピ手紙 2:16-18

 

 

  【こども説教】

 まず16節、「キリストの日に~誇ることができる」。キリストの日というのは、「終わりの日の裁きの日」であり、同時にそれによって「世界のための救いが完成される日」です。その日には誇ることができる。つまり、それまではパウロも私たちクリスチャンも自分自身を誇らないし、誇ることができなくても少しも困らないのだと教え、そのように私たちを励ましています。

次に17-18節、「そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」。喜ぼう。共に喜ぼう。喜びなさい。共に喜びなさい。またこの手紙の4章でも繰り返して、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(4章4節)。どうして、喜びなさいとしつこく繰り返しているのでしょう。嬉しいことや楽しいことが次々とあって、だから喜べと言っているわけではありません。むしろ逆です。心を痛める辛い出来事が次々と起こり、喜びも感謝もすっかり見失ってしまいそうだから、それで、「喜べ。喜べ」と必死になって励ましています。神を信じて生きる私たちにとって、喜ぶことのできる肝心の中身はいったい何だっただろうか。それを、ちゃんと、よくよく分かっているはずの私たちじゃないか。喜ぶことのできる肝心の中身。その、無くてはならない只一つの土台。神が生きて働いておられ、その神さまが私たちをも大切に思っていて下さり、私たちを支え、養い、守りっつづけていてくださることです。その、喜びと感謝と希望の根本の土台へと、大急ぎで立ち戻ろうじゃないか。手遅れになる前に、間に合ううちに、神の憐れみのもとへとなんとしても立ち帰ろうじゃないかと呼びかけています。

 

 

 【大人のための留意点】

 ある人が「自分が死に臨むとき、自分の生涯を振り返ってみて、それが永遠に向かっているなら、その人の人生は幸いである。人は一度しかこの世に生まれてこないのだから」と言いました。本当にそうです。わたしたちの青春の中にも、大喜びではしゃぎ回り、人生の生きがいを感じるような時もありますが、また時々、深く沈みこんで自分のことを考え、何のために生きているんだろう、この人生には意味があるのだろうかと、ゆううつになってふさぎ込んでしまうこともないでしょうか。しかし、イエスさまが買い取ってくださり、あがなってくださった人生は、むだになることはありません。

 ……パウロの人生が「むだではない」と誇ることができたのは、それが「キリスト・イエス」に向かっており、永遠なる神さまの愛に根ざしていたからなのです。たとい冷たい水一杯を与えるという、ほんのちょっとしたことでも、「イエスさまの弟子」という名のゆえにしたことは、永遠の報いから漏れることはありません(マタイ10:42。反対に、どんなに大きな事業でも、いやしい心から始めたなら、砂の上に建てた家がどんなにすばらしくても崩れ落ちるのと同じになるでしょう(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)



2022年7月18日月曜日

7/17「試練の中にある者たちを」へブル2:14-18

            みことば/2022,7,17(主日礼拝)  380

◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:14-18                日本キリスト教会 上田教会

『試練の中にある者たちを』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。18 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。 ヘブル手紙 2:14-18

 

問「主イエスは、どんなかたですか」

答「まことの神であり、どうじに、まことに人間でもあります」

問「主イエスは、いつからおられますか」

答「世界が造られる前から 永遠におられます」

問「いつから人間になられましたか」。

答「聖霊によって処女マリヤのお腹に宿り、人間の体を受けられたときからです。そして、人間になったあとでも神であることをお止めになりません」

問「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」

答「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」

問「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」。

答「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。

                     ヘブル手紙4:14-16 ,マルコ福音書14:32-42

                            (ここまで、上田教会「こども交読文3」から)


まず14-15節、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。神ご自身であられる、神の御子イエス・キリストが、なぜ、生身の身体をもってこの地上に生まれ、生身の人間として生きて、惨めな死刑囚の死を死なねばならなかったのか。それは、ここに簡潔に述べられているとおり、私たち人間と同じ性質と条件をもち、ご自身の死と復活によって、私たちを死とその恐怖から解放し、救い出すためです。ここで、「悪魔を滅ぼす」と語られているのは、悪魔がもはや私たちの上に権力をもたなくなることを指しています。つまり、悪魔がなおまだ力をもっていて、私たちを滅ぼそうと企て、誘惑しつづけるとしても、その悪魔の支配の言いなりにされなくてもよいということです。

「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。この言葉は、やがて死ぬべき自分であることを恐れる者たちの生涯がどんなに惨めなものであるのかをよく言い表しています。この私たちを含めて、ほとんどの人たちがやがて衰えて死ぬことを恐れ、惨めに、とても心細く暮らしていかなければなりませんでした。もし、救い主イエス・キリストなしに、自分が年老いて、しだいに衰えてゆくことや、やがて死ぬはずの自分であることを考えねばならないのなら、そうだとしたら、すべての人々にとって、死と衰えは耐えがたく、とても恐ろしいものだからです。一生涯つづく奴隷状態のように、果てしない不安と心細さと悩みがつきまとい、惨めな魂はその苦しみと悩みにさいなまれつづけます。もし、死と復活の救い主イエスを信じる希望がその人にないのならば、です。

「やがて死すべき自分であることを覚えよ」と昔の人々は言い、互いを戒め、また自分自身をも自分で戒め、励ましつづけました。私たちもそうです。神を知らず、信じない人々にとって、死は恐れたり、忌み嫌うほかないものであるとしても、けれど神を知り、信じている私たちにとっては、まったく違う新しい希望が与えられています。もちろん神を信じていても、私たちは日毎に衰えてゆき、やがて必ず一人また1人と死んでゆきます。けれども私たちは、もうそれを恐れる必要はなく、それを忌み嫌う理由もないのです。なぜならば精一杯に一日ずつを生きて、やがて死の川波を乗り越えて、神の永遠の御国へと辿り着かせていただける約束を受け取っている私たちだからです。救い主イエスを導き手としてもっている私たちは、生きるにも死ぬにも、幸いな日々にも、また病いの床に伏す日々にも、衰えてゆくときにも、なお安らかでいることができます。およそ500年も前の信仰問答はこう語りかけます;「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか」「それは、生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということです。このお方が、その尊い血によってわたしのすべての罪の代償を完全に支払ってくださり、まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してくださいました。そして、わたしを守り、天にいますわたしの御父の御心なしには一本の髪もわたしの頭から落ちることなく、実にすべてのことが必ずわたしの祝福に役立つようにさえしていてくださいます。それゆえ彼は聖霊をもたまわり、この御方によって、わたしに永遠のいのちの確証を与え、今後わたしは、彼のために生きることを心から喜び、その備えをしている者であるようにしてくださるのです」(「ハイデルベルグ信仰問答 問1 1563年」)。御父の御心なしには一本の髪もわたしの頭から落ちることがない。もちろん誰でも白髪になり、髪も抜け落ち、足腰も衰えますが、それは私たちを愛する神のあわれみの計らいの中でなされてゆく。だからそれらの衰えも死も、神にこそ十分に信頼し委ねる中で、恐れることも嘆くことも要らず、心安らかに受け止めることができる。これが、神からの約束です。

16-17節、「確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。救い主イエスは、なぜ人間の姿と性質をご自身の身に引き受けてくださったのか。天使たちよりも、神によって造られた他のすべての被造物よりも人間が優れていた、ということでは決してありません。私たちの中に何かの長所があった、ということもありません。「誇ってはならない。思い上がってはならない」と聖書は、私たちを戒めつづけます。創世記3章が報告するように、神に背く罪を犯したのは人間でした。そのため、神によって造られたすべての被造物と全世界が滅びの危機に瀕しました。ただ、天の父なる神が神によって造られたすべての被造物に対して大きな慈しみと憐みを用いてくださったのですし、私たちはそれを必要としていました(創世記8:21「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれども~」参照)

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。私たちの教会の『こども交読文』では、このように説き明かしています;「主イエスは、どんなかたですか」「まことの神であり、どうじに、まことに人間でもあります」……「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」。救い主イエスについての理解として、『まことの神にして、まことに人間』(「カルケドン信条」451年)が大切です。初めから、この世界が造られる前から神として存在し、しかも人間になったあとでも神であることを片時も止めない。親しみやすい、身近な、『人間イエス』の側面ばかりが強調されがちですが、神でありつづけるイエスを決して見落としてはなりません。十字架前夜のゲッセマネの祈りにおいても十字架上でも、御父への信頼と従順とはほんのわずかも揺らぎませんでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46,マルコ福音書15:34という十字架上での謎めいた言葉も、主イエスの絶望や諦めや嘆きをそこに読もうとするなら、すべてがすっかり分からなくなってしまいます。そうではありません。世々の教会は、『苦しみと嘆きから始まり、神への希望と信頼へと至る詩篇22篇全体を祈りながら、そこで私たち人間の嘆きと喜びを噛みしめ、味わっている』と受け止めてきました。その通りです。だからこそ、救いの御業を完全に成し遂げてくださった救い主に、この私共も十分な信頼を寄せつづけて生きることができます。もし仮に、救い主イエスに十分な信頼を寄せられないなら、その信仰は中身のない形ばかりのものに成り下がってしまうでしょう。自分自身や、人間的な権威や秩序、伝統、格式、名誉、単なる一般常識や世俗的な風習やしきたり、他さまざまなものにむやみに信頼を寄せ、その人はアタフタオロオロしつづけて、やがて神への信仰を失ってしまうでしょう。「人間に聴き従うのではなく、ただ神にこそ信頼し、従う」(使徒4:19,529と腹をくくれるかどうか。これこそが、信仰の決定的な分かれ道です。

さらに、つづけて、「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。聖書が語る『罪』とは、神に逆らい、「私が私が」と強情をはることです。その頑固さと強情が周囲の人々を苦しめ、傷つけ、また私たち自身をみじめにさせます。しかも一人の例外もなく 誰も彼もが頑固で強情で、誰も彼もがとても罪深い。だから『罪のゆるし』は、その頑固さと強情から解放して、神に素直に聴き従って生きることができるようにしてくださること。まず救い主イエスこそがそのように生きてくださいました。だから私たちも、『主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされて』ゆきます。ゲッセマネでの主イエスの祈りのように、私たちも、「私の願いどおりではなく、父よ、あなたの御心のままになさってください。御心にかなって生きることを、私にも願い求めさせてください」(マルコ福音書10:15,14:36,ローマ手紙12:1-2と生きることができます。幸いは、ここにあります。

「あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。神が身を屈めて、神でありながら同時に人間となってくださった。まことの神であり、どうじに、まことに人間でもある。救い主イエスが選び取ってくださったその人間性とは、限界ある生身の人間という肉の本質と、心の動きです。人間に固有のもろもろの心の動き、人間としての私たちの弱さを身に負ってくださった。弱く貧しく愚かであるものたちに対してあわれみ深い、しかも父なる神に対してどこまでも忠実であってくださる大祭司となるために、人間のもろもろの感情に身を委ねてくださった。その「祭司」の務めは、神に背き、逆らいつづける者たちに対する神の怒りを鎮め、悲惨な者たちを助け、倒れてしまった者たちをふたたび起き上がらせ、疲れ果てた者たちを慰める職務です。さまざまな悪と試練に悩まされる度毎に、私たちは、その悩みと苦しみを御子イエスもまた味わってくださったことを思い起こすことができます。深い失望と落胆を味わう度毎に、この私たちは、救い主イエスもまたその1つ1つを味わってくださったことを思い起こすことができます。

18節、「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」。助けることができる。ぜひそうしたいと願ってくださった。だから、どんな悩みや災いの中からも、どんな誘惑や試練からも、きっと必ず助け出してくださる。そればかりでなく主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされていく。神からのこの約束を信じることができます。










【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

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7/17こども説教「いのちの言葉を堅く持って」ピリピ2:14-15

7/17 こども説教 ピリピ手紙 2:14-15

 『いのちの言葉を堅く持って』

 

2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。15 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。   (ピリピ手紙 2:14-15

 

 

  【こども説教】

 まず14節で、「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」と語りかけられています。聖書の中で一番多くつぶやいたり、疑ったりしつづけた人々は、やはり奴隷にされていたエジプトの国から連れ出された神の民イスラエルの人々です。彼らは、モーセやアロンに対してつぶやきながら、同時に、むしろ神ご自身に向かってつぶやき、不平不満を言い立て、神に背きつづけました。そのおかげで、荒野を40年間もさまよいました。新約聖書の時代にもあの彼らのことが思い起こされつづけます。「これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。……ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」(1コリント手紙10:6-1115節で、「あなたがたはいのちの言葉を堅く持って」いなさい、と励まされます。神さまに信頼し、神にこそ感謝して生きるためには、聖書の言葉によく聞き従い、救い主イエスの言葉を心に留め、そこにあるいのちを受け取りつづける必要があります。聖書の中にいのちがあり、それは救い主イエスについて証しをします。その言葉こそが、私たちを神さまの憐れみのもとに留めてくれるからです(ヨハネ福音書5:38-40,20:31参照)

 

 

 【大人のための留意点】

 わたしたちは、物が足りなくなったり、精神的に弱ったりすると、すぐ動揺したり、迷ったりするのではないでしょうか。わたしたちは、いつも、そんなに弱いのです。ただ「つぶやき」や「疑い」は、その中で「求め」、「祈り」、「門を叩く」こととは違います。「戦う」ことでもありません。戦ったり、求めたりすることは大切なことです。たとい弱さの中でも、門を叩く人には道が開かれるでしょう。けれども、つぶやきや疑いからは、何も生まれてきません。迷い、困り、足りなくなったら、一番近い解決者・まことの与え主である神さまのところにゆきましょう。それは、わたしたちの中に働いて、実現させてくださる神さまだからです。

 「(あなたがたが)星のようにこの世に輝く」;わたしたちは太陽の光を反射して光るのです。あたりが冷たければ冷たいほど、暗ければ暗いほど、その光は、道行く旅人を導くのです。私たちは太陽のように自分から光を出すことはできなくても、イエスさまの光を反射することは、できるはずです(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)



2022年7月11日月曜日

7/10「苦難の救い主」へブル2:10-13

          みことば/2022,7,10(主日礼拝)  379

◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:10-13             日本キリスト教会 上田教会

『苦難の救い主』

               ~御子イエスの道(2)~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。11 実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。12 すなわち、「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう」と言い、13 また、「わたしは、彼により頼む」、また、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは」と言われた。                ヘブル手紙 2:10-13

 

53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。     (イザヤ書 53:3-6)

まず10節、「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである」。万物の帰すべきかた、万物を造られたかた。これは、もちろん父なる神、子なる神である救い主イエス・キリスト、そして聖霊なる神です。この3つの神は思いを1つにして生きて働かれつづけます(=三位一体なる神。さんみ・いったい~)。思いを1つにして生きて働かれる3つの神によって、この世界は造られた。しかもなお、この手紙の冒頭で、「御子によって、もろもろの世界を造られた」1:2、また聖書の別の箇所で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ福音書1:1-3と証言されるように、世界創造の働きは、子なる神である救い主イエス・キリストのお働きに集中します。だからこそ、その世界を回復させ、ふたたび祝福のもとに救い出す働きもまた、この同じ子なる神である救い主イエス・キリストのお働きに集中します。世界を創造された神ご自身が、神によって造られた世界と、神によって造られたすべての生き物を栄光と祝福に導くために、彼らの救いの君イエス・キリストを、苦難をとおして全うされました。それは、神の憐れみにふさわしく、また救い主イエスにふさわしいことだからです。

「彼らの救の君を、苦難をとおして全うされた」。救いの君イエス・キリストを、苦難をとおして全うされた。その「苦難」とは、神であられる救い主がへりくだって、ご自分を無になさり、自分自身を卑しくされたことです。肉体をもって生身の人間として地上に生まれ、私たち人間と同じ立場にご自分を置き、それどころか罪人として軽蔑され、あざけり笑われ、十字架上の死によって、すべての人間よりも、どこの誰よりもさらに低く下って卑しめられたことです。恵みにまったく価しない罪人である私たちを救うため、私たちを愛し憐れむ愛から、自分から進んで自分自身を虚しくしてくださった。それは御子イエスがぜひとも成し遂げたいと願ってくださった望みであり、栄光であり、喜びでさえありました。そうまでしなければすべての罪人と神によって造られたすべての生き物とを救いに招き入れることができなかったし、ぜひそのように救いたいと神が願ってくださった。それこそが、神の憐れみの御心にかなうことでした。

「苦難をとおして全うされた」。「まっとうされた。完全な者とされた」。(1)罪と悲惨の中に閉じ込められたものたちを救い出すためには、ご自身がその苦難を十分に味わう必要がありました。この同じ手紙の、同じ2章の末尾で、もう少し説明を加えています、つまり「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル手紙 2:17-18。(2)しかも不思議なことに、これは神が、ご自身の民イスラエルを扱うときの、いつもの同じやり方でもありました。つまり神さまは、神の民とされた私たちをさまざまな苦しみや悩みの中で鍛え、忍耐することを習い覚えさせ、全生涯にわたって十字架のイエス・キリストのもとに希望と慰めを受け取りつづけて生きる者たちとしました。その私たちの長男とされた救い主イエスもまた、言わば実地訓練のように私たちが味わう同じ苦しみと悩みを十分に味わい、最後の最後まで、十字架の死に至るまで耐え抜いてくださり、それによって試練の中にある者たちを必ず助けることができる者とされました。

こう証言されます、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ロ―マ手紙 8:29-30。十字架の恥と屈辱は一気に拭い去られ、救い主イエスの栄光がそこに輝きました。苦しみと悩み、はずかしめにあうとき、私たちもまた救い主イエスと同じく、やがて与えられる大きな祝福と喜びに向けて備える者たちとされます。それが、神さまからの約束です。

11節、「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」。少し分かりにくくなってきました。ここで、「きよめるかた」と「主」は救い主イエスのことです。他方で「きよめられる者たち」とは、救い主イエスを信じて生きる者たちであり、主イエスから兄弟と呼ばれる「彼ら」であり、この私たちです。「皆ひとりのかたから出ている」という「ひとりのかた」は最初の人アダムです。アダムから出たすべての人間を罪から清め、回復させ、救い出すために、救い主イエスは神でありながら、同時にまったく人間となられました。日本キリスト教会信仰の告白はこのことを言い表して、「私たちが主とあがめる神の独り子イエス・キリストは真実に神であり、同時に、真実に人間であり、永遠の神の救いの計画に従い、人間となって人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて贖い(あがない。相応の代償を支払って、人間の罪を償い、本来の望ましい状態を獲得すること)を成し遂げ、復活して永遠の生命の保証を与え、救いが完全に成し遂げられる日まで私たちのために執成していてくださる」と告白しています。これが、キリスト教信仰の希望と幸いの中身です。

「それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」。主であられる救い主イエスは、ご自身を信じる者たちを、この私たちを自分の兄弟と呼ぶことを恥となさらない。「神の御心を行なう者は誰でも、わたしの兄弟、また姉妹、母なのである」(マルコ3:35と。私たちを恥とされず、私たちの兄弟となってくださったことを恥となされなかった。たとえ私たちと主イエスとの違いは大きくても、私たちをご自分の兄弟姉妹と呼んでくださる恩恵を贈り与えてくださったとき、救い主イエスは御自身をとても低くされ、有りえないほどにもへりくだってくださった。もし、そうでなければ、私たちは救い主イエスのしもべに仕えるにも価しない者たちです。

 

さらに12-13節、「すなわち、『わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう』と言い、また、『わたしは、彼により頼む』、また、『見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは』と言われた」。救い主イエスは神の国の福音を告げ知らせ、ご自分の弟子たちにも、同じくその務めを委ねられました。神の国の福音は、神を知る知識へと私たちを導き、神の憐れみと善意が私たちの間でほめたたえられ、讃美されるようになさいました。1人の伝道者はこう打ち明けます、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」(1コリント手紙 15:3-6と。自分が伝えられたことをこの自分も同じく他の人々に伝えている、というのです。今日でもこのように、福音は生身の人間たちによって伝えられつづけます。同時に、その生身の人間たちを用いて、神が御業をなさっていることをよくよく覚えつづけねばなりません。救い主イエスに仕えて働くその人々は救い主イエス・キリストの使者であり、彼らの教えや勧めはキリストの名によってなされます。たとえその人間が貧しく粗末な者であるとしてもなお、生身の人間がそこで語っているだけではなく、その人間の口を通して、キリストご自身が語りかけておられます。

「また、『わたしは、彼により頼む』、また、『見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは』と言われた」。『わたしは、彼により頼む』とは、第一に、救い主イエスが父なる神に依り頼み、信頼し、聴き従うということです。第二に、救い主イエスを信じる私たちクリスチャンが救い主イエスに依り頼み、信頼し、聴き従うということです。また、イエスを通して、イエスに結びつけられて、私たちもまた父なる神に依り頼み、信頼し、聴き従うということです。私自身もこの自分を信仰に導いてくれた牧師から教えられたことをそのまま伝えます、『タテ並びになっている三つの神さまを心に思い浮かべましょう。まず先頭に、父なる神。その後ろに子なる神イエス・キリスト。そのまた後ろに聖霊なる神。子なる神である救い主イエスは、「父は。父の御心は~」(マタイ福音書11:27と天の御父の御心を私たちに教える。父なる神は、「救い主イエスにこそ聴き従いなさい」(マタイ福音書3:17,17:5と子なる神イエスを指し示す。聖霊なる神は、「イエスは。イエスのなさったことと、その教えは~」と私たちにイエスを教え、イエスを信じさせてくださる。このように三つの神は一つ思いになって働かれます。例えばもし、誰かが「わたしは主イエスを信じます」と言い、心でも信じるとすると、それは聖霊なる神さまが教えてくださり、そのように信じさせてくださったのです(コリント手紙(1)12:3』。ぼくを導いてくれた牧師がそう教えてくれました。聖書に、そう証言されているからです。ぼくも同じく教えます。皆さんも、それを大切な家族や友だちに伝えてあげられるならとても幸いです。なにしろ、聖書自身がそう教えているのですから。

『見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは』。別の箇所で救い主イエスはこうはっきりとおっしゃいます、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ福音書 6:37-40。これが、私たちの希望です。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

7/10こども説教「神への従順」ピリピ2:12-13

7/10 こども説教 ピリピ手紙 2:12-13

 『神への従順』

 

2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。   (ピリピ手紙 2:12-13

 

 

 【こども説教】

 先週ご一緒に読んだ6-11節では、十字架の死のありさまを通して、御子イエスが父なる神さまに対して、どこまでも従順であってくださり、すっかり信頼して従い通してくださったことが語られていました。救い主イエスのあの十字架の死、それは父なる神さまに対する御子イエスの『従順のささげもの』だったのです。もし、神を信じて生きていきたい、神によって救われたいと願うなら、この私たち自身も父なる神に対して素直に従うものである必要があります。御子イエスがなさったように、です。思い出してください。ピリピ教会の人々は、『自分は自分は』と自分の思いや考えばかりを言い立てて、互いに争い合っていました。彼らが兄弟たちや家族や、神さまに対してもなんとかして素直な心になれるようにと、あの伝道者は、御子イエスがどこまでも父なる神に従順に従い通してくださったことを思い出させていました。

 12節、「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」。そのとおりです。神に従うことを二の次、三の次にしつづけて、どこまでもわがまま勝手になっていくとき、私たちは神に背き、救いの恵みから今にも転げ落ちようとしているからです。いったい誰に対して従順であるのかが、とても大切です。一番大切なのは、神さまへの従順です。ただただ声の大きな誰彼に言いなりにされて従うのではなく、自分の腹の思いに従うのでもなく、ただただ神さまの憐れみの御心にこそ素直に従おうとする私たちでありたい。神の救いと恵みを、この自分自身こそが受け取るために。神のあわれみの中を生きるためにです。

 

 

 

 【大人のための留意点】

 パウロもコリントの教会の人に、「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは、神さまです。だから、植える者も水を注ぐ者も、ともるに足りない。大切なのは成長させてくださる神のみである」(1コリント手紙 3:6-7)と言いました。パウロは、「いない今」と言う時、わたしのいない今、あなたがたは神さまの前にいる、と言っています。神さまご自身が造り出してくださるものによって、自分の足で立ちなさい、と勧めているのです(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

 

 

 

2022年7月5日火曜日

7/3「御子イエスの道(1)」へブル2:5-9

             みことば/2022,7,3(主日礼拝)  378

◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:5-9                    日本キリスト教会 上田教会

『御子イエスの道(1)

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:5 いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。6 聖書はある箇所で、こうあかししている、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか。7 あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、8 万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。ヘブル手紙 2:5-9

 

4:8 そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。9 さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。10 降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。(エペソ手紙 4:8-10)


 まず5-6節、「いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。聖書はある箇所で、こうあかししている、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか」。これまでご一緒に読んできた部分と共に、さらにつづけて、父なる神の独り子である救い主イエス・キリストにこそ、私たち人間も、また神によって造られたこの世界も、神によって造られたすべての生き物たちも服従すべきことが語られています。なぜなら父なる神が全世界の支配と統治を、救い主イエスの御手にこそ委ねたからです(マタイ福音書 11:27,28:18

「人間が何者だから」という聖書引用は旧約聖書の詩篇8篇から来ています、「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(詩8:4-6ここで特に、神が私たち人間に、全世界とすべての生き物たちを支配し、治める権威と責任と特権とを与えたと語られている。このことは、とても理解が難しい内容であり、カトリック教会、聖公会、またプロテスタント諸派、福音派などのキリスト教会の多くの教派によって、さまざまな違ういくつもの理解が今日までなされつづけています。その主な根拠は創世記1章です。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。……『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記1:26-28。そして、創世記3章の『人間が罪に落ちた』こと。ここで意見が分かれます。一方は、『罪に落ちたが、私たち人間がすっかり罪に染め上げられたわけではない。神の似姿をわずか残し、良いことを願い求める心も多少は残され、すべての生き物を支配し、治める王の権能も私たち人間のうちに保たれている』と。他方、改革派教会の信仰の伝統は、『人間が罪に落ちたことは全面的な現実であり、すべての人間は罪に深く囚われ、虚しくされ、ただただ救い主イエスを信じる信仰によって、ただキリストの成し遂げたあがないによって、救い主イエスに似た者として回復される他はない』と。聖書は証言します、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」、また、「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。……キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」(ローマ手紙8:29,コロサイ手紙3:9-11

すべての人間は罪に落ち、神に背いてしまったために、受けていた権限も恵みもすっかり取り上げられてしまい、すべての支配力もはぎ取られてしまった。救い主イエスを信じる信仰によって、キリストのおかげで神の憐れみにあずかる者とされるまでは、誰一人も、神のどんな恵みにもあずかることができない。つまり、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ手紙3:22-24。救い主イエスを抜きにしては、神からのどんな恵みも祝福もなく、私たちは、心細く惨めな存在であり続ける。だからこそ万物に対する人間の支配や優越や特権が問題となるときには、いつでも、私たちは心を低くへりくだらされて救い主イエスによってあらわされた神の憐れみにこそ眼差しと心を向け返さねばなりません。そうでなければ、その憐みからこぼれ落ちてしまうからです。「来たるべき世界」(5節)とはっきりと語られていることも、これに深くかかわっています。救い主イエスを信じる信仰によって、古い罪の自分と死に別れさせていただいて、キリストによって新しい回復がなされはじめるまで、その幸いは実現しないからです。滅びの道から逃れ去らせていただき、日毎に悔い改めて、神の憐れみのうちに新しく生き始めつづける私たちです。「人間は何者だから、神はこれを御心に留められるのか」。何者でもない私たちです。そのことをよくよく十分に知る必要があります。ただキリスト・イエスを信じる信仰によってだけ、ただ恵みよって、価なしに救われる私たちであるからです。そうでなければ私たちは家族や隣人を、職場の同僚たちを厳しく裁きつづけ、不平不満をつぶやき、傲慢と不信仰の罪に陥ってしまうからです。だからこのことだけは、二度と決して忘れてはなりません。私たちは皆、一生涯ずっと、罪人の中の罪人でありつづけます。ここは、神からあわれみを受けた罪人たちの集団です。ただキリスト・イエスを信じる信仰によってだけ、ただ恵みよって、価なしに救われる私たちである。希望と祝福は、そこにだけあります。

 7-9節、「『あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、万物をその足の下に服従させて下さった』。『万物を彼に服従させて下さった』という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。ただ、『しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった」。しばらくの間、低くされ、やがて栄光と誉れを与えられた「彼」とは、もちろん、救い主イエス・キリストのことです。救い主イエスの十字架の死と、葬りと、死人の中からよみがえらされ、天に昇り、父なる神の右の座につかれたことです。その「父なる神の右の座」とは、繰り返し述べてきましたように、御父から天と地のすべての権威を委ねられ、王の中の王として全世界を治める働きと役割のことです。ピリピ手紙2:6以下は、こう語りかけます、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。世界の王としての働きを救い主イエスは担いつづけます。けれど、その働きは決して安泰なものではなく、彼に敵対する者たちとの戦いが長く続きます。また、救い主イエスに従って生きる私たちもまた、そのために試練や誘惑の只中に置かれつづけます。8節で、「『万物を彼に服従させて下さった』という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない」と。神の王国はなおまだ建設途上に置かれつづけ、救い主イエスご自身の闘いはつづき、私たちもまた悪と、神に逆らおうとするこの世界のさまざまな力や支配者たちに抵抗して、耐え忍ばねばならないということです。イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するときが来る。その日は、終わりの日に、最終的に成し遂げられます。今は、救い主イエスを信じるほんのわずかな者たちが『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰しつづけて生きる姿を見るだけで、慎ましく満足している必要があります。今は、それで充分なのです。また、この私たち自身こそが救い主イエスに十分に信頼を寄せ、聴き従い、キリストにこそ願い求め、そのように日々を生きることができるなら、それで良いでしょう。終わりに日に、その栄光と誉れの日が完全に成し遂げられることは、1コリント手紙15:24-28ではっきりと予告されています、「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。

9節。「イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった」。救い主イエスが十字架の死の苦しみを耐え忍んでくださり、死んで葬られ、死人の中からよみがえらされてくださいました。それによって、恵みに価しない私たち罪人が罪から解放され、神の憐れみのもとに新しく生きる者たちとされました。だからこそ、神によって造られたあらゆる生き物たちに先立って、この私たちこそが救い主イエスの御前にひざをかがめ、また、私たちの舌と心と行いが、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰することができるようにされています。「わが主よ、わが神よ」と膝を屈めて喜びにあふれたあのトマスのように、私たちも、そのへりくだった低い場所で、ついにとうとう喜びと感謝にあふれます。そのように生きることができるなら、私たちは幸いです。

主イエスはおっしゃいました、「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:31-







【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

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