2022年7月5日火曜日

7/3「御子イエスの道(1)」へブル2:5-9

             みことば/2022,7,3(主日礼拝)  378

◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:5-9                    日本キリスト教会 上田教会

『御子イエスの道(1)

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:5 いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。6 聖書はある箇所で、こうあかししている、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか。7 あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、8 万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。ヘブル手紙 2:5-9

 

4:8 そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。9 さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。10 降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。(エペソ手紙 4:8-10)


 まず5-6節、「いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。聖書はある箇所で、こうあかししている、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか」。これまでご一緒に読んできた部分と共に、さらにつづけて、父なる神の独り子である救い主イエス・キリストにこそ、私たち人間も、また神によって造られたこの世界も、神によって造られたすべての生き物たちも服従すべきことが語られています。なぜなら父なる神が全世界の支配と統治を、救い主イエスの御手にこそ委ねたからです(マタイ福音書 11:27,28:18

「人間が何者だから」という聖書引用は旧約聖書の詩篇8篇から来ています、「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(詩8:4-6ここで特に、神が私たち人間に、全世界とすべての生き物たちを支配し、治める権威と責任と特権とを与えたと語られている。このことは、とても理解が難しい内容であり、カトリック教会、聖公会、またプロテスタント諸派、福音派などのキリスト教会の多くの教派によって、さまざまな違ういくつもの理解が今日までなされつづけています。その主な根拠は創世記1章です。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。……『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記1:26-28。そして、創世記3章の『人間が罪に落ちた』こと。ここで意見が分かれます。一方は、『罪に落ちたが、私たち人間がすっかり罪に染め上げられたわけではない。神の似姿をわずか残し、良いことを願い求める心も多少は残され、すべての生き物を支配し、治める王の権能も私たち人間のうちに保たれている』と。他方、改革派教会の信仰の伝統は、『人間が罪に落ちたことは全面的な現実であり、すべての人間は罪に深く囚われ、虚しくされ、ただただ救い主イエスを信じる信仰によって、ただキリストの成し遂げたあがないによって、救い主イエスに似た者として回復される他はない』と。聖書は証言します、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」、また、「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。……キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」(ローマ手紙8:29,コロサイ手紙3:9-11

すべての人間は罪に落ち、神に背いてしまったために、受けていた権限も恵みもすっかり取り上げられてしまい、すべての支配力もはぎ取られてしまった。救い主イエスを信じる信仰によって、キリストのおかげで神の憐れみにあずかる者とされるまでは、誰一人も、神のどんな恵みにもあずかることができない。つまり、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ手紙3:22-24。救い主イエスを抜きにしては、神からのどんな恵みも祝福もなく、私たちは、心細く惨めな存在であり続ける。だからこそ万物に対する人間の支配や優越や特権が問題となるときには、いつでも、私たちは心を低くへりくだらされて救い主イエスによってあらわされた神の憐れみにこそ眼差しと心を向け返さねばなりません。そうでなければ、その憐みからこぼれ落ちてしまうからです。「来たるべき世界」(5節)とはっきりと語られていることも、これに深くかかわっています。救い主イエスを信じる信仰によって、古い罪の自分と死に別れさせていただいて、キリストによって新しい回復がなされはじめるまで、その幸いは実現しないからです。滅びの道から逃れ去らせていただき、日毎に悔い改めて、神の憐れみのうちに新しく生き始めつづける私たちです。「人間は何者だから、神はこれを御心に留められるのか」。何者でもない私たちです。そのことをよくよく十分に知る必要があります。ただキリスト・イエスを信じる信仰によってだけ、ただ恵みよって、価なしに救われる私たちであるからです。そうでなければ私たちは家族や隣人を、職場の同僚たちを厳しく裁きつづけ、不平不満をつぶやき、傲慢と不信仰の罪に陥ってしまうからです。だからこのことだけは、二度と決して忘れてはなりません。私たちは皆、一生涯ずっと、罪人の中の罪人でありつづけます。ここは、神からあわれみを受けた罪人たちの集団です。ただキリスト・イエスを信じる信仰によってだけ、ただ恵みよって、価なしに救われる私たちである。希望と祝福は、そこにだけあります。

 7-9節、「『あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、万物をその足の下に服従させて下さった』。『万物を彼に服従させて下さった』という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。ただ、『しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった」。しばらくの間、低くされ、やがて栄光と誉れを与えられた「彼」とは、もちろん、救い主イエス・キリストのことです。救い主イエスの十字架の死と、葬りと、死人の中からよみがえらされ、天に昇り、父なる神の右の座につかれたことです。その「父なる神の右の座」とは、繰り返し述べてきましたように、御父から天と地のすべての権威を委ねられ、王の中の王として全世界を治める働きと役割のことです。ピリピ手紙2:6以下は、こう語りかけます、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。世界の王としての働きを救い主イエスは担いつづけます。けれど、その働きは決して安泰なものではなく、彼に敵対する者たちとの戦いが長く続きます。また、救い主イエスに従って生きる私たちもまた、そのために試練や誘惑の只中に置かれつづけます。8節で、「『万物を彼に服従させて下さった』という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない」と。神の王国はなおまだ建設途上に置かれつづけ、救い主イエスご自身の闘いはつづき、私たちもまた悪と、神に逆らおうとするこの世界のさまざまな力や支配者たちに抵抗して、耐え忍ばねばならないということです。イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するときが来る。その日は、終わりの日に、最終的に成し遂げられます。今は、救い主イエスを信じるほんのわずかな者たちが『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰しつづけて生きる姿を見るだけで、慎ましく満足している必要があります。今は、それで充分なのです。また、この私たち自身こそが救い主イエスに十分に信頼を寄せ、聴き従い、キリストにこそ願い求め、そのように日々を生きることができるなら、それで良いでしょう。終わりに日に、その栄光と誉れの日が完全に成し遂げられることは、1コリント手紙15:24-28ではっきりと予告されています、「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。

9節。「イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった」。救い主イエスが十字架の死の苦しみを耐え忍んでくださり、死んで葬られ、死人の中からよみがえらされてくださいました。それによって、恵みに価しない私たち罪人が罪から解放され、神の憐れみのもとに新しく生きる者たちとされました。だからこそ、神によって造られたあらゆる生き物たちに先立って、この私たちこそが救い主イエスの御前にひざをかがめ、また、私たちの舌と心と行いが、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰することができるようにされています。「わが主よ、わが神よ」と膝を屈めて喜びにあふれたあのトマスのように、私たちも、そのへりくだった低い場所で、ついにとうとう喜びと感謝にあふれます。そのように生きることができるなら、私たちは幸いです。

主イエスはおっしゃいました、「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:31-







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     金田聖治
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