2022年7月26日火曜日

7/24「大祭司イエス」へブル3:1-6

          みことば/2022,7,24(主日礼拝)  381

◎礼拝説教 ヘブル手紙 3:1-6               日本キリスト教会 上田教会

『大祭司イエス』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:1 そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。4 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。5 さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、6 キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。      ヘブル手紙 3:1-6

 

2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 (ピリピ手紙 2:6-13)


まず1-2節、「そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである」。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ」と呼びかけられています。呼びかけられている相手は、ヘブル教会の信徒たちであり、ここに集っているこの私たち自身でもあります。私たちもまた、神のものである教会に招かれ、教えを受けつづけ、それによって養われているのは、神さまが私たちを選び、ご自身の恵みの領域へと招き入れ、神の民としてくださったからです。「聖なる兄弟たち」と語りかけられています。少し前に、私たち自身は何者でもないと申し上げました。聖なる兄弟と呼ばれる理由もまた、私たち自身が清く、正しく、神聖な存在であるとかいうことではまったくなく、ただただ『神のお働きの中に入れられ、神の憐れみの中に据え置かれている』という意味です。神の御心に聞き従って生きることができる者たちとされている私たちです。

だからこそ、「大祭司なるイエスを、思いみるべきである」と戒められ、励まされつづけます。「思いみるべきである。思いなさい」という戒めは、神を信じて生きる者とされた私たちにとって、とても大切です。なぜなら、普段のいつもの暮らしの中で、さまざまな思い煩いの中にいつのまにか紛れてしまい、大祭司であり、教師であり、私たちの信仰の導き手であられるイエス・キリストを思うことができなくなってしまいやすい私たちだからです。心が鈍くされて、救い主イエスがどういうお方であり何をしてくださったのか、イエスを信じて私たちがどのように生きることができるのかがよく分からなくなってしまいやすい私たちだからです。道案内をしてくださる導き手として大祭司イエスに目と心をはっきりと向けるとができなくなれば、神を信じて生きる者たちとされていることが、その途端に、危うく不確かなものになってしまいかねないからです。「大祭司なるイエスを思いみるべきである。思いなさい」。十分に注意深く大祭司イエスとその教えを熟慮しつづけましょう。やがて神の国に辿り着くはずの私たちであり、そのため、神の御心にかなって一日ずつを生きるはずの私たちからです。その約束と希望が虚しいものになってしまわないためにこそ、この私たちは、大祭司なるイエスを思いみるべきであり、注意深く、よくよく思いつづけて生きる必要があります。

2-4節、「彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である」。大祭司イエは、ここでモーセと対比されています。モーセは神に用いられて、偉大な大きな働きをさせていただいた働き人ですが、貧しさと弱さを抱え、思い悩んでたびたび心を鈍くさせました。何者でもなく、主なる神に仕える働き人たちの1人にすぎません。しかも聖書自身が証言するように、良い先生は神お独りしかおらず、私たちは皆、神に用いられて神に仕える働き人にすぎないと覚えておきましょう。「名誉牧師」とか「名誉会長」などという人間のつまらない理想像を信仰の領域に持ち込んではいけません。しかも、私たちが生きるすべての領域、全生涯は神のお働きの只中に置かれています。さて、救い主イエスこそが神の家と神の民全体に対して、また世界全体に対して、教師また道案内として神によって立てられ、また父なる神に対して忠実でありつづけました。

「おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である」。モーセも、その他おびただしい数の指導者たちも、キリスト教会を建て上げるための一部、一員であり、家を建てるために積み上げられてゆく「石」(1ペテロ手紙2:5などにもたとえられてきました。ただ神ご自身だけが卓越しておられ、唯一の建築者であり、建物全体の上に据えられるべき頭(かしら)であり続けます。コリント人への第一の手紙3章で、キリスト教会は建物であり、畑であるとたとえられました。「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である」35-9節)。とくに教会の中では、神の力によって生まれたのでないものは何一つもない。ただ神ご自身だけがその御手によって教会を造り、建て上げ、保ちつづけてきました(詩87:5。神がその教会を建て上げるために私たち人間をどれほど用いようとも、すべてのものを完成するのは神のみです。道具である私たちは、製作者である神から何ものをも奪い取ることができないからです。だからこそ、その歩みを思い起こして、私たちは感謝と喜びにあふれます。

 

5-6節、「さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである」。神ご自身である救い主、また教師、大祭司として、イエス・キリストは神の家全体に対して、また神の家と全世界を治めることについて忠実であられた。しかも、このお独りの方イエス・キリストこそが天と地のすべて一切の権威と責任と支配とを御父から委ねられた王の中の王であられます。世界の富と幸いの相続者であられ、このイエス・キリストを抜きにしてはどんな幸いも祝福もありえない。だからこそ、救い主イエスが御父に忠実であられたように、主イエスに仕える私たちもまた御父に忠実であり、救い主イエスとその御言葉に対してどこまでも忠実であることが要求され、命じられつづけます。ここにこそ、世界とキリスト教会と私たちとその家族にとっての幸いと祝福があるからです。

この「忠実」は、もっぱら御父と救い主イエスに対する忠実であり続けます。何かを判断し、選び取ろうとするとき、その判断の只一つの土台は、ただただ救い主イエスとその御心と御言葉に対しての忠実であるほかありません。人間の立てた制度や秩序に対する忠実ではなく、多くの人々の考えや意見に対する忠実でもなく、社会的・一般的な常識に対する忠実でもなく、その判断が神の御心にかなうものであるのか、聖書に証言される福音の道理に対する忠実であるのかこそが、いつも問われるべき唯一の判断基準です。主イエスの弟子たちは、このことを肝に銘じつづけてきました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」、また「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19-20,5:29と。これこそが、神を信じて生きることの、いつもの最重要の生命線でありつづけます。

『父なる神に対する御子イエスの忠実』はゲッセマネの園での祈りの格闘の際に明確に示され、また、十字架の死と復活こそが御父に対する御子イエスの忠実のささげものであったと聖書は証言します。この証言にこそ、一生涯をかけて、何度も何度も立ち戻りつづける私たちです。ゲッセマネの園で、大祭司であられる救い主イエスは御父に向かってこう祈りました、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書14:36ピリピ手紙2:6以下ははっきりとこう証言します、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。ほかの誰に対する忠実でもなく、人間に聴き従うことでもなく、自分たちの腹の思いの言いなりになることもなく、ただただ『御父と御子イエスとその福音の教えに対する忠実』こそが指し示されつづけます。そうである限り、私たちは神の家でありつづけ、神の永遠の御国にやがて必ず迎え入れられることになります。この教会の「こども交読文」は、大人にも子供にもよく分かることを願って、『神への忠実』についてこう説き明かします、「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」(上田教会、日曜学校「こども交読文」から)。ここに、神を信じて生きることの幸いと希望がありつづけます。

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     金田聖治
(かねだ・せいじ)

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