2021年12月27日月曜日

12/26「過ぎ越しの子羊」ルカ22:7-13

            みことば/2021,12,26(主日礼拝)  351

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:7-13               日本キリスト教会 上田教会

『過ぎ越しの小羊』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:7 さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、8 イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。9 彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。10 イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、11 その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。12 すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。13 弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。ルカ福音書 22:7-13

 

13:3 モーセは民に言った、「あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。主が強い手をもって、あなたがたをここから導き出されるからである。……6 七日のあいだ種入れぬパンを食べ、七日目には主に祭をしなければならない。7 種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない。8 その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。9 そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。10 それゆえ、あなたはこの定めを年々その期節に守らなければならない。……14 後になって、あなたの子が『これはどんな意味ですか』と問うならば、これに言わなければならない、『主が強い手をもって、われわれをエジプトから、奴隷の家から導き出された。15 そのときパロが、かたくなで、われわれを去らせなかったため、主はエジプトの国のういごを、人のういごも家畜のういごも、ことごとく殺された。それゆえ、初めて胎を開く男性のものはみな、主に犠牲としてささげるが、わたしの子供のうちのういごは、すべてあがなうのである』。             (出エジプト記 13:3-15)


7節、「さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭(じょこうさい。パン種(酵母)を取り除く祭り)の日がきたので」。救い主イエス・キリストの十字架の死と復活は、過越しの祭りと深い結びつきがあります。彼が十字架にかけられる前夜の最後の晩餐は、ユダヤの大きな祭りのその最中になされました。それは、まったく、過越しの小羊が殺される日でした。かつて、過越しの小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られ、それをしるしとしてエジプト全土を襲った大きな災いが神の民とされたイスラエルをよけて、通り過ぎていました。死ぬべき大きな災いを免れさせていただきました。そのように今度は、世界の罪を取り除く神の小羊である救い主イエスが十字架の上で殺されることによって、災いから救い出され、救い主イエスを信じる者たちは新しい生命に生きるものとされました。救い主イエスの十字架のあがないの死は、『第二の過越し』と呼ばれ、世々の教会によって覚えられつづけます。かつてエジプトで奴隷とされていた神の民を救うために小羊が殺されたように、救い主イエスの死と復活は世界中のすべての罪人を救うために成し遂げられました。神ご自身がこの救いの御業を計画し、用意し、ついにとうとう成し遂げてくださいました。

聖書は証言します、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ手紙2:5-11

8-12節、「イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。エルサレムの都に入るとき、ロバの子がつないであるから引いてきなさいと弟子にお命じになったときと、そっくり同じです。主イエスはなんでもよく御存知だからです。「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい」(ルカ19:30

13節、「弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした」。二階の広間には、すでに過越しの食事のための下ごしらえが整えられていました。そのうえで、弟子たちは食事の用意をしました。しきたりどおりに用意をするには、1500年以上もつづいてきた細々した取り決めがあります。それは、今も守られ続けます。おもなものは、ほふられた小羊の肉、ぶどう酒、苦菜、パン種(酵母菌)の入っていないパンです。この22章1節に、「さて、過越と言われている除酵祭(じょこうさい)が近づいた」とあります。家の中からパン種と、パン種を含む食品をすべて取り除き、パン種の入っていない膨らまないパンを食べて一週間を過ごします。それが、過越しの祭りの最初の部分で、除酵祭、「種入れぬパンの祭」などと呼ばれています。ユダヤ人先祖エジプト脱出の夜、種酵母を入れないパンをもって出たので、祭りの中で、その出来事をそのとおりに再現して味わいます。「七日のあいだ種入れぬパンを食べ、七日目には主に祭をしなければならない。種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない」(出エジプト13:6-7と命じられているからです。「少しのパン種が練り粉全体を膨らませ、全体に大きな影響を与える」。新約聖書の中にも、このパン種の伝統と意味が受け継がれて、悪い意味と良い意味と両方のしるしとして用いられます。まず、自分を誇ってしまい、他の人を悪く思ってしまう悪いパン種、「あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか」。また逆に、良いパン種もあります、神を信じて御心にかなって生きようとするパン種、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」(1コリント手紙 5:6-8,マタイ13:33と。

さて、過越しの祭り、そして聖晩餐のパンと杯にあずかるときの心得が語り継がれています、「いかなる世においても、誰でも自分自身がエジプトから脱出させていただいた者のように思わなければならない。その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これは私がエジプトから出るときに、主が私になされたことのためである。』と記されている。聖なる者にしてほむべきお方は、私たちの先祖を救われただけでなく、彼らと共に私たちをもお救いくださったのである。『われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地に入らせ、それをわれわれに賜った。』と記されている。

過越し祭の食事。家長である父親はパン種の入っていない薄いパンの皿を置く。食事の席に加わっている子供が尋ねる、『今晩は、どうしてほかの夜と違うの。いつもの晩は、膨らませてある普通のパンと薄いパンを僕たちは食べるのに、今晩は薄いパンだけだよ。いつもの晩は別の野菜を僕たちは食べるのに、今晩は苦菜(にがな)だよ』。父親が答える、『私たちはエジプトでファラオの奴隷だったのだ。私たちの神、主が、力強い御手と差し伸べた御腕をもって、私たちをそこから連れ出して下さった。もし、聖なる者にしてほむべきお方が、エジプトから私たちの先祖を連れ出して下さらなかったら、ご覧なさい、私たちも、私たちの子供も、そして私たちの子供の子供も、エジプトでファラオの奴隷でありつづけただろう。

それだから、私たちみんながたとえ賢い者であっても、私たちみんなが理解力に富んでいても、私たちみんなが経験豊かな年寄りでも、私たちみんなが律法に十分に通じていても、エジプト脱出について語るのは、私たちに課せられた掟なのだ。エジプト脱出について、くわしく語る者は誰でも賞賛に価するのだ。

【一同で、感謝を言い表す】

なんと多くの素晴らしい恵みを、遍在者(へんざいしゃ。どこにでも存在するお方)なるお方から私たちはいただいていることだろう。もし神がエジプトから私たちを導き出し、私たちに向かって海を分断して下さりながら、濡れないでその中を渡らせてくださらなかったとしても、

      ―—私たちは満足である。

もし濡れないで海の中を渡らせて下さりながら、40年間の砂漠生活において必要を満たして下さらなかったとしても、もし、マナをもって養って下さりながら、安息日を私たちにお与えにならなかったとしても、      ―—私たちは満足である。

もし、私たちをシナイ山まで導いて下さりながら、律法をお授けにならなかったとしても、     ―—私たちは満足である。

もし、私たちをイスラエルの地に入らせて下さりながら、なお神のお望みになる神殿の建築を私たちにお許しにならなかったとしても、    ―—私たちは満足である。

まして私たちは遍在者なるお方から、その二倍も三倍もの何と素晴らしい恵みをいただいていることだろう。それは、神がエジプトから私たちを導き出してくださり、海を私たちに向かって分断なさり、濡れずに私たちを渡らせて下さった。40年間の砂漠生活において私たちの必要を満たし、マナをもって養ってくださり、安息日をお与えになり、シナイ山に私たちを導き、律法をお授けくださった。さらに、カナンの地に入らせてくださり、私たちのあらゆる罪をあがなうために、お望みになる神殿の建設を私たちにおゆるしになられたからである」(『過越し祭のハガダー(式次第)』山本書店)。やがて、ついに、私たちをそのもろもろの罪から救い出すために救い主イエスを地上に生まれさせ、十字架の死と復活の御業をもって、その救いを成し遂げてくださいました。罪をゆるされた罪人として、この私たちをも、神への感謝と信頼のうちに日々を生きる者たちとしてくださったからです。

神の民とされた兄弟姉妹たちよ。だからこそ過越しの食事であり、最後の晩餐でもある食事の席で、救い主イエスは、「苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた」と仰り、パンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて仰った、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。杯も同じ様にして、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」(ルカ22:15-20と仰いました。

 

   《祈り》

救い主イエス・キリストの父なる神さま。

   あなたの独り子を世界と私たちの救いのためにこの世界に贈り与えてくださって、ありがとうございます。御子イエスを待ち望み、迎え入れ、この御子イエスを信じる   

信仰によって私たちをあなたの恵みの中に留めてください。

    貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか、一日ずつを生き延びてゆくための希望と支えが差し出されますように。

     主なる神さま。私たちの目を開いて、何が美しいことかを教えてください。私たちの心を開いて、何が本当かを教えてください。私たちの中に思いやり深く温かい良い心を呼び起こしてくださって、神さまに喜ばれる良いことを教え、それを選び取らせてください。あなたや周りの人たちを悲しなせ、苦しめるような、してはいけない悪いことが何なのかをよくよく教えてくださって、この私たちも、自分自身の悪い思いを投げ捨てつづけて生きることができますように。

   救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 



グリューネバルト「磔刑」

12/26こども説教「アブラムとの契約」創世記15:1-21

12/26 こども説教 創世記 15:1-21

 アブラムとの契約

 

15:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。……8 彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。9 主は彼に言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。10 彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた。ただし、鳥は裂かなかった。11 荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った。12 日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。13 時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。14 しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。15 あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。16 四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。17 やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。  (創世記 15:1-21

 

 

 【こども説教】

 アブラムと神との契約は、すでに12章で結ばれています。ノアのときの虹の契約からつづくその同じ1つの救いの契約の内容が、ここで詳しく伝えられています。アブラムとサライ夫婦は子供がいないまま、ずいぶん年を取っていました。それなのに、この2人の間に子供が与えられて、子や孫が増えていき、神からの祝福を受け取りつづけると約束されました。「空の星を見なさい。あなたの子供たち孫たちは、あの数えきれない星のように増えて広がる」と。アブラムは、この神の言葉を信じました。そのうえで、「どうして知ることが出来ますか」と、神に確かなしるしを求めましたた。400年間の悩みの日々を耐えること(13節)も予告されました。

9-17節までで、神さまはアブラムに、契約のしるしを見せてくださいました。牛とヤギと羊と山鳩とそのヒナ。鳥はそのままにして、他の動物たちは二つに引き裂き、裂いたものを向かい合わせて地面に置きました。17節、「やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた」。これが、神とアブラムとの間に結ばれた救いの契約のしるしです。誰かと誰かが約束を交わします。それが本当だというしるしに、このように動物を引き裂いて、裂いたものの間を、約束を交わしたその2人は通ります。『もし約束を守らずに破ったならば、この動物たちのように自分の身体を引き裂かれても文句を言わない』というしるしです。いつものしるしとは違って、ただ神さまだけが裂かれたものの間を通り過ぎてみせました。アブラムには、そうしなさいとは命令されませんでした。ただ神さまご自身だけが、「アブラムとその子孫のために結んだ救いの契約を必ず守る。そうしなければ、自分の身体を引き裂かれても良い」と約束してくださいました。こういう神さまです。ここが大切です。

 

【大人のための留意点】

 「アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(ローマ手紙4:3)。たしかに神は、われわれが信仰の父を考えるときにその信仰にのみ目を留めることを、よしとなさいます。そして、この信仰こそは、決してアブラハムの業や功績ではないのです。それは、もっぱら人間をお救いになる神の恵みですw・リュティー 創世記講解説教『アブラハム』、該当箇所)

 

 

2021年12月20日月曜日

12/19「神からの憐れみ」ルカ1:50-55

         みことば/2021,12,19(クリスマス礼拝)  350

◎礼拝説教 ルカ福音書 1:50-55            日本キリスト教会 上田教会

『神からの憐れみ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:50 そのあわれみは、代々限りなく

主をかしこみ恐れる者に及びます。

51 主はみ腕をもって力をふるい、

心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、

52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、

53 飢えている者を良いもので飽かせ、

富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、

55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを

とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。ルカ福音書 1:50-55

 

11:27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。28 福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、31 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。32 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。33 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。34 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。35 また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。36 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。(ローマ手紙 11:27-36)


「憐み。憐み。憐み」と三度も繰り返されました。神の憐れみこそが、クリスマスにも他のどの日にも告げ知らされつづけます。神さまからの憐れみを受けたたくさんの人々がいました。ときには打ち散らされたり、引き下ろされたり、あるいは高く上げられたりしながら。空腹のまま追い返されたり、良い物で満たされたり、あるいはそれを取り上げられたりもしながら、やがてついに神さまからの憐れみを受け取って、感謝と喜びにあふれた無数の人々がいました。「そうか。神の民イスラエル。あの人たちも、この私と同じだったのか」と気づきました。とても小さかったのです。見下げられるほどに、ほかの人たちから「なんだ」と侮られるほどに、すごく弱々しかったし、貧しかった。「なにもない」とバカにされても仕方がないほどに。おなかをペコペコにして、とても心細かったのです。神さまがその小さな貧しい人々にも目を留めて、その彼らを愛してくださいました。だから大喜びし、ニコニコしながら歌っていました。「憐み。憐み。憐み。神の恵み。恵み。恵み」と。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、私たちはあまりに小さい。私たちの小ささに比べて、受け取った贈り物はあまりに大きく、とてもとても豊かだった。――たぶん彼女は、聖書の勉強をとてもたくさんしたということではないでしょう。でも大事なことが、はっきりと分かりました。実地訓練で習い覚えました。彼女の毎日の暮らしの中のさまざまな出来事が、その喜びや悲しみの一つ一つが、彼女のためのとてもよい先生でした。

わたしたちは折々に、「思い上がってはいけない」「身を屈めて、へりくだりなさい」と命じられつづけてきました。「後の者が先になり、先の者が後になる」と予告されつづけ、なんのことだろうと首を傾げてきました。クリスマスの季節にも、いまご一緒に読んだとおりに、「心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせます」と語りかけられ、そんな神さまはヘソマガリでアマノジャクだなあとなんだか嫌な気がしました。けれど、それらの神さまのなさりようは、恵みと救いの受け渡しに大いに関係があったのです。「神さまの憐れみ」と告げられるたびに、なんだかピンと来ませんでした。「憐れみ。恵み、恵み、恵み」と耳にタコが出来るほど聞かされつづけて(ルカ1:50,54,78,ローマ11:31-32、私たちは聞き流しつづけました。けれど謙遜にされ、へりくだった低い場所に据え置かれて、そこでようやく私たちは神さまからの良いものを受け取りはじめました(ローマ11:25-32。なぜならば、救い主イエス・キリストご自身がそのように低く身を屈めて(イザヤ52:13-53:11,ピリピ2:5-11,エペソ4:8-10、そこで、すべての恵みを差し出しておられたからです。低く降り、その後に高く昇っていかれた方ご自身が、この私たちにも、やがて高く引き上げていただくために、同じく低く身を屈めなさいと命じておられるからです。へりくだった、その低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。

 51-53節;「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」。そのとおり。ですから兄弟たち、主なる神さまの腕は他の誰に対してよりもまず真っ先に、ここにいるこの私たち自身に対して振るわれるでしょう。もし、受け取った憐れみを忘れて思い上がるなら、主なる神さまは、この私たちを打ち散らしてくださるでしょう。モミガラのように吹き飛ばしてくださるでしょう。受け取った憐れみをもし忘れて、私たちが誇るなら、高ぶるなら、そのとき主は、私たちをその座から容赦なく引き下ろしてくださるでしょう。受け取った憐れみを脇に置いて、もし、私たちが自分だけの豊かさをむさぼるなら、あるいは満ち足りることを知らずに「もっともっと。まだ足りない。まだまだ不足だ」とつぶやき続けるならば、主はふたたび私たちを空腹にし、追い返してくださるでしょう。きっと必ず、そうしてくださるでしょう。なぜなら、そのうぬぼれと思い上がりこそが、私たちに大きな災いをもたらすからです。その権力や誇りが、その高ぶりこそが、私たちの目を見えなくし、私たちの耳を聞こえなくするからです。その豊かさや賢さこそが、私たちをかえって貧しくするからです。主は、憐れみによって、そのとき私たちを打ち散らし、引き降ろし、追い返してくださるでしょう。それこそが私たちのための祝福であり、私たちのための幸いです。

だから年末年始の慌ただしい季節には、「あれもしなければならない。これもこれも」と我を忘れていそしむ日々には、キリストの教会と一人一人のクリスチャンはよくよく身を慎まねばなりません。私たちがどこに、どのように足を踏みしめて立っているのか、どこへと向かおうとしているのかと目を凝らさねばなりません。この私たちが働く前に、主なる神さまこそが第一に、先頭を切って働いてくださった。それこそが、私たちが安心して心強く働くことができる理由であり、私たちの希望でありつづけるからです。だからこそ、とりわけ賢く、まじめで誠実であり、骨惜しみせず働く勤勉な者たちこそは、よくよく身を慎み、私たちがどこにどのように足を踏みしめて立っているのかと、必死に一途に目を凝らさねばなりません。私たちの救い主は、どんな見栄えも華やかさも立派さも、ポイと投げ捨てて、低くくだり、徹底して身を屈めてくださり、家畜小屋のエサ箱の中に身を置いてくださいました。布切れ一枚に包まれただけの裸の姿で。何のためでしょう。それは、どんなに貧しく身を屈めさせられた者も、小さな者も、弱い者も誰一人、この方の御前におじけることも恐ることもないために。安らぐことができるために。救い主キリストもその福音の中身も、いつの間にか私たちが忘れてしまわないために。憐れみを忘れない神を忘れて、その神さまから憐れみを受け取ったことも、私たちがうっかり忘れてしまわないために。私たちがそれ自体で何者かであるかのように勘違いをし、どこまでも高ぶり、どこまでも賢くご立派になり、そのようにしてどこまでも神さまから遠く離れ去ってしまわないために。

54-55節、「主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。神さまからの憐れみは、いつまでも誰に対しても限りなく、主を畏れる者に及びます。弱く小さく愚かだった、あまりに心細かったしもべイスラエルを受け入れて、神さまは憐れみをお忘れになりません。だからこそこの私たちも、受け取ったその憐れみを決して忘れない50,54節参照)。彼女は、アブラハムとその後につづく者たちに対してなされた古い約束を思い起こしています。つまり、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:1-3。アブラハムとその子孫を通して祝福されるはずの「地のすべてのやから」とは、いのちあるすべての生き物たちです。クリスチャンだけでなく、すべての民族。ただ人間だけではなく、神によって造られたすべての生き物たちです。なぜなら、造り主であられる神は、ご自分が造られたすべてのものに目を留め、「はなはだ良い」と喜んでくださり、祝福し、ご自分のものとなさったからです。また、ノアの大洪水の後に、空に虹を置き、ノアと家族とすべての生き物たちに対して約束なさったからです、「またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである」(創世記1:31-2:3,9:10-12。このあわれみの契約には、人間だけでなくすべての生き物も契約の当事者として招かれています(創世記 910,12,15,16節)。アブラハムとの契約、モーセによるシナイ山での契約、ダビデとの契約に先立つノアの契約は、やがて立てられる新しい契約(エレミヤ書31:31-34,1コリント手紙11:23-26につながっていきます。人間が神から背き去ったにもかかわらず、その人間と世界を二度と呪わないと言われる神の決意は、救い主イエス・キリストの誕生と、その十字架の死と復活の出来事を指し示しています。それらすべては、ただただ憐み深い神の御心によりました。神の憐れみによる同じ一つの救いの契約です(「旧約聖書に聴く『原初史が語る人間と世界』(10)高松牧人」『福音時報』202110月号を参照)

かつては、私たちの誰一人も神の民ではありませんでした。今は、神の民とされています。かつては、私たちは神からもほかの誰からも憐れみを受け取ろうとしませんでした。人さまからも、どこの誰からも。そんな惨めなことは嫌だと毛嫌いしたからであり、うぬぼれも高すぎたからです。けれど今は、憐れみを受けています。だから、神の憐れみの民とされています(ペトロ手紙(1)2:10。憐れみを受け取り、受け取った憐れみを差し出し、それを手渡してあげて、分かち合うために。ともどもに喜び合うために。そうか。神の民とされたイスラエル。私も、あの人たちと同じだ。だから大喜びし、だからニコニコしながら、大きな声で歌った。「恵み。恵み。恵み。憐れみ、憐れみ、憐れみ」と。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、私たちは小さい。あまりにチッポケだ。私たちの小ささと貧しさに比べて、私たちが受け取った贈り物はあまりに大きく、とてもとてもとても豊かだった。そこでようやく胸を張って、背筋をピンと伸ばして、晴れ晴れしながら私たちも歌う。「神さま、ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」と。

なんという幸いか、なんという恵みでしょう。

 

 

 《祈り》

 救い主イエス・キリストの父なる神さま。

 あなたの独り子を世界と私たちの救いのためにこの世界に贈り与えてくださって、ありがとうございます。御子イエスを待ち望み、迎え入れ、この御子イエスによって私たちをあなたの恵みの中に留めてください。

 貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか希望と思いやりが差し出されますように。

 私たち自身と家族も、あなたからの助けと支えを待ち望みます。私たちの口に、あなたの思いやりと愛をほめたたえさせてください。あなたの御心を行うことを願い、あなたの御足のあとに従って生きる私たちとならせてください。

 救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

 

12/19こども説教「妹だと言ってほしい」創世記12:10-20

12/19 こども説教 創世記 12:10-20

 『妹だと言ってほしい』

 

12:10 さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。11 エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。12 それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。13 どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。14 アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、15 またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。16 パロは彼女のゆえにアブラムを厚くもてなしたので、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女の奴隷および、らくだを得た。17 ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。18 パロはアブラムを召し寄せて言った、「あなたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。19 あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」。                      (創世記 12:10-20

 

 【こども説教】

 神の民とされたアブラム(のちのアブラハム)の一族の新しい旅が始まりました。知らない新しい土地に入る。美しい妻を奪おうとして、土地の人が私を殺そうとするだろう。だから、「妻ではなく、ただの妹です」と言ってほしいと妻に頼みます。妻は、そうすることを受け入れます。これは、神に対するひどい裏切り行為です。しかも、しばらくして、この2人はもう1度これと同じ悪だくみをし、するとその様子を見ていた息子夫婦さえも、「父さん母さんがしているなら、自分たちもそういうズルくて悪いことをしてもいいかも知れない」と、うっかり思ってしまいました。自分の父さん母さんとそっくり同じに、「妻ではなく、ただの妹です」と嘘をついて、神さまをひどく裏切ってしまいます(当箇所、創世記20:1-18、同26:6-11。つまり3度も、神への同じとても悪い裏切り行為が報告されています。11-13節、「エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、『わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう』」。なぜ、そんなことをしてしまったのか。神さまを十分には信じられなかったからです。神さまが守ってくださるとは思えなかったので、ついつい自分のズルい悪だくみと自分の知恵で生き延びようと思ってしまったからです。困ったことです。

 

 

 【大人のための留意点】

 われわれ人間、われわれ信仰者は試練に屈することがあるという点です。われわれのうち誰もがです。けれども、なぜアブアブラハムは試みる者の前に屈したのでしょうか。答えは大変はっきりしています。すなわち、試みのときに、アブラハムは神のもとに身を避けて助けを求めることをしないで、自力を頼みとしたためです。その結果、当然、なるような次第となったのです。アブラハムは、依然として、なおも信仰者です。エジプト逃避行の間も、彼は決して信仰者であることを止めてはいません。けれども、彼は今や、しなくてもよい旅に出かけ、神の命令に従ってではなく、独断でエジプトに赴きます。彼の信仰は不従順となり、この瞬間から内側から挫折してしまっています。確かな期待、神への信頼は失せ去りました。

 かかる者が「信じる人の父」なのです。そして、かかる者はアブラハムひとりに留まりません。アブラハムの他にも、聖書にはダビデの姦通が記されています。ペテロの否認があり、サウロ(パウロ)のキリスト者迫害があります。……神の慈しみに触れたアブラハムの顔は、そのとき恥ずかしさで真っ赤に染まったことでしょう。神は彼を地獄の最も深いところに追いやる代わりに、彼を家路に連れ戻されました。「約束の地」に。それは失われた息子の帰還のごとく、次には喜びの祝いと変わるでしょう。神は御国を、われわれの弱さや失敗を通しても建設なさいますw・リュティー 創世記講解説教『アブラハム』、該当箇所)

 

  

2021年12月13日月曜日

12/12「ユダに、悪魔が入った」ルカ22:1-6

         みことば/2021,12,12(待降節第3主日の礼拝)  349

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:1-6                     日本キリスト教会 上田教会

『ユダに、悪魔が入った』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:1 さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。2 祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである。3 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。4 すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。5 彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。6 ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。       ルカ福音書 22:1-6

 

1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。 (1ヨハネ手紙 1:6-10)

 

1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。(1テモテ手紙 1:15-17)

1-2節、「さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである」。ここから、いよいよ救い主イエスの十字架の苦しみと死と、復活についての報告が始まります。キリストの死は、私たちとこの世界に新しいいのちをもたらすために成し遂げられました。救い主イエスの地上の生涯のどの部分にも、4人すべての福音書記者がこれほどまでに深く、こまごまと目を凝らしつづけることはありませんでした。救い主イエスのお生まれについての報告は、ただ2つの福音書だけが告げています。けれど救い主の死と復活については、4人の福音書記者すべてが詳しく十分に報告しています。

救い主イエスの十字架の死に関する報告の第一歩は、ユダヤ民族の宗教的指導者たちの心の思いと、その行動です。約束され、待ち望まれつづけた救い主を本来なら真っ先に喜び迎えるはずだった彼らが、正反対に、救い主イエスをどうにかして殺してしまおうと思い図り、相談をし合います。『世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ1:29が自分たちのもとに来てくださったことを大喜びで喜び祝う当の中心人物だったはずの人々が、救い主イエスを憎んで、十字架につけ、犯罪人として殺してしまうおとしています。彼らは、「目の不自由な人たちを手引きして、導き歩く者」だと自認し、自分たちこそが「心細く生きる彼らのための、暗闇に輝く光である」と主張していました。あの彼らは、神についての自分たちの知識を誇っていました。けれど救い主イエスに聴き従ったガリラヤの片田舎のほんの一握りの貧しい漁師たちよりも、なおあまりに何も知りませんでした。どんな神であり、どういう救いであるのか、神を信じてどのように生きることができるのかを。

3-6節、「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた」。12人の弟子の1人であるユダにサタンがはいった、と報告されています。サタン(=悪魔)は人間の頭の中で生み出されただけの架空の存在ではなく、現に確かに存在し、生きて働きつづけています。もし、悪魔を、人間が頭の中で勝手に生み出した架空の、想像の上だけの存在だと侮ってしまうなら、その人は、その同じ考え方で、生きて働かれる神をも頭の中の片隅にいるだけの、虚しい絵空事だと侮ってしまうでしょう。それでは、とても困ったことになります。

「ユダに、サタンがはいった」と報告されます。しかもユダの中に入るだけではなく、誰の心と体の中にも入り込むことができ、その人を自由自在に操りはじめるかも知れません。恐るべきことです。悪魔の誘惑を受けることさえ、あまりに危険です。悪魔の策略によって揺さぶられ、ふるいにかけられ、悪魔に捕まえられることは、本当に恐ろしいことです。けれど今や、悪魔が彼の中に入り込み、住みつくとき、その人はどうなってしまうでしょうか。しかも彼は、救い主イエスによって選ばれ、立てられた、あの特別な12人の柱の中の1人です。彼もまた、救い主イエスのためにすべてを投げうって従った者たちの1人です。キリストが語る神の国の福音を聴き、なされた奇跡の御業を見てきました。他のペトロ、ヤコブ、ヨハネなどと何の違いもありませんでした。けれどついに、彼は主人を裏切り、敵対者たちが主人を捕まえて殺すためにその手伝いをしてしまいます。ほかの11人の弟子たちは、救い主イエスが守り、保護しつづけたので、だから誰も滅びなかった。ただ、そのように定められていた『滅びの子』だけが滅びた、と報告されます(ヨハネ17:12。恐ろしいことです。

だからこそ、よくよく警戒し、悪魔との信仰の戦いに備えをして暮らすようにと警告されつづけている私たちです。悪霊に取りつかれていた多くの人々のことが聖書の中に紹介されています。7つの悪霊に取りつかれていた女性がおり、この私たちも、「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」(エペソ手紙6:11-18と警告されています。

また12人の弟子のもう1人、あのペテロも、主イエスご自身から、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている(マタイ16:23と叱られました。ペテロは、救い主イエスの十字架の死と復活を受け入れることがどうしてもできませんでした。主ご自身と自分たち自身のいのちと、目先の平安や幸いばかりに目がくらんで、心を鈍くされていたからです。主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては不都合であり、私が困ります。それは、しないでくださいと。そして、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく叱られました。さらに主イエスは弟子たちに、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」と語りかけました。捨て去るべき自分のいのちとは、自分の「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行おうとすること。それに、どこまでも執着しようとする自己中心の思いと在り方」(エペソ2:3)です。神を信じる以前に、かつてはそうだったというだけではありません。今も現にそうです。この私たち一人一人は。だから、それを「罪」と言い、「私たちは罪人である」と言い表しつづけています。神のゆるしと守りを日毎に必要とする私たちです。しかも、その肝心要をごく簡単に忘れ果ててしまいます。もちろん、たしかに神は十字架の上で罪のあがないを完全に成し遂げてくださいました。そのとおりです。では、この私たちは、洗礼を受けて神の子供たちとされたのだから、今では、すっかり自分自身の罪を洗い清められ、汚れもシミもない無垢で真っ白な人間とされているのか。いいえ、決してそうではありません。違います。成し遂げられた救いの御業と、私たちクリスチャンの日毎の現実との間には、大きな隔たりがあります。『そうあるはずの、恵みの現実』と、この私たち自身の日毎の『あるがままの自分』とはかけ離れています。その恵みの現実に向けて、全生涯をかけて、少しずつ近づいて行く私たちです。

自分の胸に手を当ててみて、直ちに分かります。少しも清くはない私だ。罪をあがなう救いはすでに完全に成し遂げられてある。けれど、成し遂げられた救いと、私たちクリスチャンの日々の現実との間には、はなはだしい隔たりがある。洗礼を受けて長い年月を過ぎてなお、私たちは怒りや憎しみを抱え、他者を見下したり軽蔑したりして暮らしている。「成し遂げられた救いの現実に向かって、少しずつ近づいて行くクリスチャンの実態」であり、「もっとも聖い人たちでも地上の生活にある間は、ほんのわずかばかりこの(神への)服従をし始めるにすぎません。とはいえ私たちは、真剣な決意のもとに、すべての神の戒めに従って生き始めている」(ハイデルゲルグ信仰問答 問114)。だから、クリスチャンである私たちも、毎週毎週の礼拝で「自分自身の罪」を言い表し、「罪のゆるし」の御言葉を聞いて心に収め、日毎の悔い改めをもって生きようと生涯にわたって努めつづけます。『神のかたち』は、ただ救い主イエスによって、救い主イエスを信じる信仰をとおしてだけ回復されてゆくと教えられています。生涯をとおして、少しずつ回復されつづけます。

神からの救いと祝福がどんなものであるのか。私たち自身が何者であるのかを、聖書ははっきりと告げています。しかも信じていない他の人々のことではなく、神を信じて生きてきた私たちのための真実をです、「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」(1ヨハネ手紙:6-10。自分自身の罪深さと傲慢さ、かたくなさを知ることが、憐みの中を生きるための、いつもの出発点です。

もし自分に罪がないというなら、「罪人を救うためにこの世界に降りて来られた救い主イエス」と、この私は、何の関係もない者と成り果ててしまう。その途端に、憐み深い神との交わりはすっかり台無しになってしまう。このことだけは、いつもいつもはっきりと自分の心に刻み込んでおきたい。いつの間にか道に迷ってしまわないように、何度も何度も、この福音の出発点にこそ立ち戻りつづけます。かつては罪に捕らわれ、怒りや憎しみにしばしば支配されていたというだけではなく、長い間、信じて生きてきた今も、また生涯にわたって、自分の怒りや憎しみとの格闘がつづきます。救われた後にも、この私たち自身のはなはだしい罪は根深く残る。救いは完全に成し遂げられ、その完全な救いへ向かって日毎に少しずつ成長してゆく私たちです。だから日毎に、神の憐れみとゆるしを慕い求めて生きる、罪人の中の最たる者である私たちです。私たちは罪をゆるされた罪人であり、ゆるされつづけ、日毎に悔い改め続けて、神の憐れみとゆるしのもとに生きることができます。そこにだけ、格別な恵みと、神からのあわれみと平和があります。

さて1節で、「過越といわれている除酵祭が近づいた」と語りはじめられていました。『過越の祭』と『救い主イエスの十字架の死と復活』とは、深い結びつきがあります。

 

12/12こども説教「アブラムの旅立ち」創世記12:1-9

12/12 こども説教 創世記 12:1-9

アブラムの旅立ち

 

12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。5 アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。6 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。9 アブラムはなお進んでネゲブに移った。  

 (創世記 12:1-9

 

【こども説教】

わたしたち人間が皆、とても罪深く、ついつい悪い考えをもってしまうと分かりながら、神は私たちと世界を滅ぼし尽くすことを思い止まりました。ですから、私たちと世界はさらにますます悪くなっていきました。そのどん底が、この12章です。ここでとうとう神は、私たちと世界を救うための計画を実行しはじめます。救いのための、2段階の計画です。1つは、神を信じて生きる一握りの人々を選び出すこと。もう1つは、やがて救い主イエスによって、私たちと世界の救いを成し遂げることです。1-3節、「時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。地上のすべてのやからとは、神によって造られたすべての生き物たちのことです。「すべての生き物と契約を立てよう」と神がおっしゃった虹の契約がここに受け継がれ、シナイ山での契約、ダビデ契約、新しい契約へと確認されつづけます。それらは、神の同じ一つの憐れみの契約です。

7節以下、「祭壇を築いて、神の名を呼んだ。祭壇を築いて、神の名を呼んだ」と繰り返されつづけます。先祖も私たちも神を礼拝しながら、旅をするようにして地上の生活を生きてゆく者たちです。

 

 

【大人のための留意点】

最初は、神によって創造された好ましい大地、好ましく幸福な人間について、聞かされました。そして次には、神への反逆について。不幸な堕落について。はじめにカインの兄弟殺しがありました。次いで、ノアの時代における全面的腐敗がありました。バビロニアの低地における、巨大な建造部の計画のことも聞きました。そして、われわれは神による刑罰や、当然のととして生じた人間の権利制限にいて、また、審きについて聞かねばなりませんでした。そこには楽園からの追放がありました。大洪水が襲いました。ついには、バベルの塔建設にからんで言語が混乱するに至りました。……そして、いまや、神の答えが述べられます。「すべて地上のやからは」「祝福される」、と。いまや、神は新しい光をともされます。われわれは今、イスラエルの召命という事実に直面しているのであり、地上における信仰者の共同体の定礎に立ち会っているのです。(ヴァルター・リュティー 創世記講解説教『アブラハム』、該当箇所)

 

2021年12月6日月曜日

12/5「目を覚ましていなさい」ルカ21:29-38

    みことば/2021,12,5(待降節第2主日の礼拝)  348

◎礼拝説教 ルカ福音書 21:29-38       日本キリスト教会 上田教会

『目を覚ましていなさい』


 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:29 それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。30 はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。31 このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。34 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。35 その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。36 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。37 イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。38 民衆はみな、み教えを聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった。 

                       (ルカ福音書 20:1-8

 

8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。

                    (ローマ手紙 8:13-16)


まず29-33節、「それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」。私たちの教会の信仰告白は、「終わりの日に備えつつ、主の来たりたもうを待ち望む」(『日本キリスト教会 信仰の告白』、使徒信条前の前文の末尾)と自分たちの信仰を言い表しています。世界の終わりの日が近づいています。それは、救い主イエスがふたたび来られて、この世界と私たちに裁きと救いをもたらす審判の日です。その日に向かって、日毎に備えをしながら、救い主イエス・キリストがふたたび来られるときを待ち望みつつ生きる私たちです。その終わりの日が近づいたことを見分けて、はっきりと知るために、よく目を覚ましていなさいと注意を促されます。イエスご自身からの直々の指図です。

どんなしるしが現れるでしょうか。私たちの周囲の世界で、どんな前触れや兆しが現れるでしょう。神を信じて生きる私たちは、どんなことに特に注意を払って、自分自身と周囲の様子を見ている必要があるでしょうか。

ヘブル手紙1:2は、「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」。つまり、救い主イエス・キリストが最初に地上に降りて来られ、神の国の福音を語りはじめたことによって、『終りの時・この世界の救いが成し遂げられる時』が始まりました。また、その救い主イエスが十字架の死と復活の御業を成し遂げ、弟子たちが見ている目の前で天に昇っていかれたとき、御使いたちが彼らに語りかけて言いました、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒1:11。この世界に「またおいでになる」時まで、救い主イエスは天に昇って行かれ、王としてこの世界を治めつづけ、やがてふたたび、この世界と私たちすべてを裁いて救いの御業を成し遂げるために来られます。このように、『終りの時』はすでに始まり、今も現につづいており、この私たちはその『終りの時』を日毎に生き続けていることになります(登家勝也『小教義学』、「終末の教理」の項を参照)

救い主イエスが現れる前、そのずいぶん昔に、預言者エレミヤは新しい契約が結ばれる日が来ると預言しました、「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:33-34。神はここで、律法と福音の間にある違いを言い表します。神の福音は、新しく生まれさせる恵みをもたらします。それは言葉や文字によって知らされる教えではなく、心を刺し貫いて、私たちの内なる力のすべてを新しくします。それによって、神の義ときよさに私たちが従順に仕えて生きることができるようにするのです。また、「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」と言い添えられています。これが、神から贈り与えられる新しさです。中身や内容はまったく変わりません。けれど、その伝え方、与え方が大きく変わります。神は、「これまでとは違う別の律法をあなたがたに与える」とは仰いません。「私は私の同じ一つの律法を書き記す。それはあなたがたの先祖に伝えた同じ律法である」と。しかもその同じ律法を、「彼らのうちに置き」、「その心にしるす」と。私たちが生きている間中ずっと神の律法に一致して、神の御心に従順に歩み通すことは、誰にとっても、とても難しいことです。自分の体中のあらゆる欲望が神に敵対し、神に逆らって戦おうとしつづけるからです。「この世界のあらゆるものを手放し、自分自身をすっかり捨て去るのでなければ、私たちは誰もキリストの弟子になることなどできない」と聖書は証言します。まったくその通りです。

ですから、「私たちの心に神がご自身の律法を書き記す」と預言者が証言していることは、神の特別なお働きを言い表しています。神の律法を心に書き記すとは、その律法がそこで力を十分に発揮し、そこで生きて働き、神の御心に逆らおうとする私たちの肉の欲望を押さえつけ、打ち負かし、断固として退け続けるということです。神の霊によって新しく生まれるのでなければ、誰も悔い改めて神の律法に従って生きることなどできません。御心にかなった良い行いをするためには、神がその人の心の中で、恵みによってそのための準備をすっかり整えてくださる必要があります。

「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」。神が私たちを憐れんでご自身の民としてくださり、救いの契約を結んでくださるとは、どういうことでしょうか。その私たちが神に呼ばわって日々の暮らしを生き、神もまたご自身の民のために心を砕き、必要な一つ一つの配慮をしてくださる。「わたしはあなたがたの神となる」と神が宣言なさる時にはいつでも必ず、神は私たちに父としての慈しみを注ぎ、私たちの救いについて責任を持っていると保証しておられます。神に呼ばわりつつ生きるようにと私たちを招き、その恵みに信頼を寄せるようにと促しておられます。「私たちの神となる」とは、私たちの救いに必要なものすべて一切を必ず与えるという確かな約束です。この約束と保証の上に立って、「あなたがたは私の民となる」という宣言がなされます。

34節、「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。神ご自身がどういう神であられるのか、その福音と救いがどういうものであり、神を信じてどのように生きることができるのかを教える。この信仰教育の務めはとても大切です。それがおろそかにされるというわけではありません。神の国の福音はますますはっきりと知られるようになります。なによりも、神を信じる者とされたこの私たちは何が神の御心にかなうことであるのかを弁え知り、何が良いことであり、何が神に喜ばれることであるのかを知りつつ生きるようになります。「小さな者から大きな者に至るまで」、神の御心をはっきりと知るようになる。神ご自身が、神を信じて生きるその一人一人に親しく教えてくださるからです。なぜならすでに、救い主イエスがこの世界に来てくださり、神の国の福音を宣べ伝え、救いの御業を成し遂げてくださったからです。

「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。神の慈しみ深さと真実の根本の土台がここにあります。先祖と私たちの不義と罪をゆるし、もはやその罪を思うことさえなくなる日が来る。しかも兄弟姉妹たち。神に背きつづける罪をゆるしてくださることは、それをただ大目に見て、「いいよいいよ、どうでもいいよ」と捨て置くことではありません。もし万一、クリスチャンが洗礼を受けた後、何十年も死ぬまで同じく罪深く、神に背きつづけ、同じく身勝手で自己中心な生活をし続け、家族や隣人にもしてはならない悪いことをしつづけるようなら、そのように神を侮り、人々を侮りつづけ、その邪悪な姿を神がただただ放っておくようならば、その神を信じて生きることに、いったいどんな希望があるでしょう。いいえ、それは間違った神理解です。何の役にも立たない、ただ虚しいだけの偽りの信仰です。決してそうではなく、生きて働かれる真実な神であり、「罪のゆるし」は、私たちのその罪深さや邪悪さから解放してくださり、罪の奴隷状態から救い出してくださることです。もし万一、そうでなければ、私たちが幸いに生きることも、自分も家族も救われることなど決してありえません。

神を信じる者たちが隣人たちと共に幸いに生きるためにこそ、そのために独り子イエス・キリストによる贖罪の御業が成し遂げられました。罪の只中にあった私たちが御子イエスの十字架の血によって清められ、神と和解させられ、新しく御心にかなう歩みを願い求めて生きることが始まりました。憐み深い神は、私たちを罪から救い出して下さる神であり、その憐みを救い主イエスによって知る私たちです。神を信じて生きることの格別な幸いと恵みを、救い主イエスによって味わい知る私たちです。

さて34-38節、「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。民衆はみな、み教えを聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった」。神の憐みを救い主イエスによって知る私たちは、御子イエスのかたちに似た者とされてゆきます(ローマ手紙8:29。御父に対する御子の信頼と従順は十字架の死と、その直前のゲッセマネの園での祈りの中にはっきりと刻まれていました(ピリピ2:5-11「死に至るまで(御父に)従順でした」,マルコ14:36「アバ父よ。私の願いどおりではなく」と)。その御子イエスの御父への信頼と従順こそが「御子のかたち」であり、「神の似姿・かたち」の中身です。それが、そのようにして私たちの生活と生きざまと、神を信じて生きる心の思いの中で、積み重ねられていきます。御子イエスよ、来てください。主はふたたび来られます。救い主イエスの御前に立つ日の備えをし、その日を待ち望みつつ生きる私たちです。