2021年5月3日月曜日

5/2「主であると分かった」ヨハネ21:1-14

        みことば/2021,5,2(復活節第5主日の礼拝)  317

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 21:1-14                  日本キリスト教会 上田教会

『主であると分かった』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。      (ヨハネ福音書21:1-14)
  まず1-4節。「そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」。「テベリアの海」と呼ばれている湖は、あのガリラヤ湖のことです。1人の人が別の呼び名で呼ばれることがあるように、同じ1つの湖が、こちらの岸辺に暮らす人々からは○○と呼ばれ、あちらの岸辺の人々からは▽□と呼ばれるように。あの彼らは故郷の、自分たちがそこで長年魚を獲って暮らしていたあの湖に戻ってきています。そこで、復活の主イエスと出会います。私たちは、主イエスの最初の弟子たちのその貧しさに目を向けましょう。生きてゆくために、あの彼らもまた額に汗して働かねばなりません。しかも、ごく普通の一介の漁師として。金も銀も持たず、蓄えもなく家も土地もなく、裸一貫で主に従いはじめた彼らは、何の後ろ盾もなく裸のままで故郷の湖のほとりへと戻ってきました。「わたしは漁に行く」と1人が言い出し、「じゃあ私たちも一緒に」と小舟に乗り込みました。魚を求めて夜通し舟を漕ぎ、濡れて冷たい網を打ち、引き上げ、また打って引き上げて夜通し懸命に働きつづけ、けれどなお何の収穫もなく、ただただ疲れ果てて、腹ペコのまま岸辺へと戻ってきました。

  この彼らこそが、キリスト教会の基礎を築く人々とされたのです。格別な教育を受けたわけでもない、教養も知識もないはずの、どこにでもいるごく普通の、いいえ、無力な無きに等しい彼らが。だからこそ、やがて、「私たちを見なさい。私には金も銀もない。誇れるものを何一つ持たない私だが、持っている飛び切りに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3:6参照)と語りかける者たちとされていきました。本当に文字通りに、救い主イエスご自身こそが彼らの支えであり、頼みの綱であったからです。

  5-11節。「イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた」。ここにいるこの私たちもそうであるように、主の弟子たちは様々な性分と持ち前の者たちでした。例えば、同じ小舟に乗り合わせた2人の弟子たちのうちの1人は、夜明けの薄暗い岸辺に立っているお方が主イエスだと真っ先に気づきました。「主だ」と言いました。けれどもう1人の弟子は湖に飛び込んで、主イエスのいる岸辺に向かって泳ぎはじめました。よく考えて判断してということではなく、むしろ後先考えず、そうせずにはいられなかったのです。主イエスを愛する心が1人の弟子に、「主だ」と気づかせます。その同じ心が、もう1人の弟子に、湖に飛び込ませます。

それよりも何よりも、救い主イエスが復活なさったのです。聖書は証言します;「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」(コリント手紙(1)15:1-8)。聖書が証言するばかりではありません。ここにいるこの私たちも同じく語り始めます。家にいるときにも道を歩いていても、家族の前でも誰の前でも、自分自身の魂に向かっても。朝も昼も晩も。キリストが、聖書に書いてあるとおり、この私自身の罪のためにも死んでくださったこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、多くの兄弟たちに現れ、そして最後にとうとう、月足らずで生まれたような私にも現れました。これこそ、この私にとっても最も大切なことです。なにしろキリストが死んで葬られ、復活してくださった。この私たちもまた、キリストに結ばれて、古い罪の自分と死に別れ、神さまに逆らう考えやあり方を葬っていただき、そのようにして神さまの御前で、神さまに向かって新しく生きる者とされた(ローマ手紙6:1-11)。告げ知らされてきた福音は、このことです。この私たち自身も受け入れ、これまでも生きてゆくことの拠り所としてきたし、今もこれからもそうです、と。

  復活の主イエス・キリストは、7人の弟子たちの目の前に現れました。その生身の体をさらして。ガリラヤの湖のほとりで腰を下ろし、親しく語りかけ、弟子たちと一緒に食べたり飲んだりもなさいました。しかも、主イエスの弟子たちよ。この同じガリラヤの湖で、この同じ『元・漁師』たちのために、主イエスが彼らと出会った一番最初のときとまったく同じ出来事がわざわざ繰り返されたのです。出会った一番最初のとき。夜通し漁をして虚しく帰ってきた翌朝、「網を降ろしてみなさい」と主イエスから命じられ、半信半疑で、網を降ろしてみました。おびただしい数の魚に2艘の小舟が沈みそうになったとき、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と縮みあがってひれ伏したペトロでした(ルカ福音書5:8)。主よ、私から離れてください。私は罪深い者です。『私はとても汚れた者だし、恵みと祝福にまったく値しない罪人である』という認識はそのままに、やがてその同じ彼が、「だから離れてください」というのではなくて、「私はとてもとても汚れた者なのです。あなたがよくよくご存知のとおりに。ですから、どうか、私から離れないでいてください。こんな私を二度と再び離さないでください。あなたから離れては何もできず、何一つも実を結ぶことができない私だからです(ヨハネ福音書15:5参照)。頼みます。お願いですから」と、必死になってすがりつく者とされていきました。そのペテロが、岸辺に主イエスが立っておられると知った途端に湖に飛び込んで、泳いで近寄ってゆく彼とされていきます。

  最初に、「子たちよ、何か食べるものがあるか。舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(5-6)と指図なさった。弟子たちが期待に反して何の収穫もなく、手ぶらで戻ってくるその前から、岸辺では炭火が起こしてあり、その上に魚が載せてあり、パンさえもすでに用意してありました。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12)と招いてくださいました。彼らが食べる物を何も持たず、疲れ果てて、腹ペコであることを、復活の主イエスはよくよくご存知でした。あの彼らのことを、ここにいるこの私共のことさえも、ちゃんと顧みておられます。もう誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとしません。すっかり十分に分かったからです。目の前にいるこのお独りの方が自分たちの主である、主に従って生きる私たちであると。陸に上がるとすでに炭火がおこしてあり、その上に魚が載せてあり、パンもすでに用意してあり、153匹もの大きな魚で網がいっぱいでした。153匹。とれた魚の数を一匹一匹、弟子たちにわざわざ数えさせているのは、主の恵みの御計らいを何一つも忘れず、すべての恵みを心に留め、刻み続けて生きるためです(詩103:1-2参照)。しかも、それほど多くの収穫だったのに、網は裂けずにしっかりと保たれてあったことも、皆すべて、神ご自身の格別な計らいでした。その恵みの収穫をあの彼らも私たちも喜び味わい、神さまへの感謝と信頼を深く心に刻みつけるためです。今日この箇所をご一緒に読んだのは、この私たちが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じて、イエスの名により生命を受けるためです。生命を受け取りつづけて一日ずつを生き延び、主イエスの復活の証人でありつづけるためです。『イエスは主である』と私たちも知っています。神さまご自身が教えてくださったからです。ある日、「私が暮らしてゆく毎日の生活と、この救い主とは関係がある。この一回の礼拝と、普段のいつもの暮らしの中で私が何をどう選び取り、何を捨て去り、何を掴み取り、何を投げ捨てることができるのか。どんな眼差しで物事を見据え、どういう腹積もりで生きることができるのかということとは大いに関係がある。むしろその礼拝の積み重ねの土台の上に立って、一日ずつを生きる私である」と、その人は気づきはじめました。神さまが、とうとうその人にも教えはじめてくださったからです。さまざまなことに振り回されつづけていた人が、あるとき気づきはじめます。「この私こそが主に逆らっていた。天の父の御心を知らされながら、なおそれを二の次三の次とし、後回しにしつづけていた。なんということだろう」と。神さまが、その人に教えてくださったのです。湖のほとりで「パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた」13節)ときにも、聖晩餐のパンと杯を受け取るときにも、「わたしたちに必要ないのちの糧を一日ずつどうぞ贈り与えてください」と願い求めて、主からの恵みの糧の一つ一つを感謝して受け取るときにも、この私たちもまた、それが主からの恵みの糧であると分かりはじめました。そのように主を知りはじめました。神さまご自身こそが、私たちにも、主が確かに主でありつづけてくださると教えてくださったのです。



5/2こども説教「迫害者だった私に」使徒26:9-11

  5/2 こども説教 使徒行伝26:9-11

 『迫害者だった私に』

 

26:9 わたし自身も、以前には、 ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。10 そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。11 それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。(使徒行伝26:9-11

 

 キリスト教の信仰の中身を知らせようとして、彼はまず、その神と自分との出会いを、自分自身の信仰の出発点を打ち明けます。救い主イエスに逆らっていた私だ。神を信じる多くのクリスチャンを苦しめたり、いじめたり、牢獄に閉じ込め、ひどい目にあわせてきた私だ。彼らを殺すことにも賛成して、その手伝いもしてきた私だと。とても悪い人間だったその私が罪をゆるされ、神の恵みを証しする証人とされたと。だれでも悪い心をもっており、神さまは、私たちの罪や悪い心や行いをゆるしてくださる、思いやり深く、あたたかい心の神さまだからです。こどものための信仰問答は、このように説明しています。「あなたはすでに救われていますか」「はい、救われています」「どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか」「はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです」「神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか」「そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません」(「当教会のこども交読文」から。ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,ヨハネ福音書3:16,テモテ手紙(1)1:12-17,創世記4:1-15 ,同8:20-22,申命記31:8を参照)。 

 

2021年4月25日日曜日

4/25「信じる者になりなさい」ヨハネ20:24-31

         みことば/2021,4,25(復活節第4主日の礼拝)  316

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:24-31                    日本キリスト教会 上田教会

『信じる者になりなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。                         ヨハネ福音書 20:24-31

 救い主イエスは、ただ十字架にかけられて、苦しく惨めな死を遂げただけではありませんでした。惨めで無残な、見捨てられた者の死がそこにある。けれど、それだけではありません。勝ち取ってくださった『罪のゆるし』が、そこにあります。新しく生きるための格別な生命と、朽ちることも萎むこともない平和と救いの源がそこにあります。主イエスが死んで、新しい生命によみがえってくださったように、この私たちも古い罪の自分と死に別れさせていただいて、そのようにして新しい生命に生きる者たちとされます。主イエスの十字架の死と復活の、その1週間後のことです。

  まず24-25節。「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に『わたしたちは主にお目にかかった』と言うと、トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』」。

デドモとは「ふたご」という意味のあだ名です。救い主イエス・キリストは、聖書の中であらかじめ予告されていたとおりに(イザヤ53:5-12,16:10,ホセア6:2,マタイ福音書16:24,ルカ福音書24:25-27,コリント手紙(1)15:3-5、十字架につけられて殺され、葬られ、その3日目に墓からよみがえりました。その復活した姿を弟子たちに見せてくださいました。弟子たちはそのとき、主イエスを殺したユダヤ人たちを恐れ、自分たちも何をされるか分からないと家の中に閉じこもりました。小さくなって震えていました。そこへ主イエスが来て、彼らの真ん中に立ちました。「安らかでありなさい。あなたがたに平和があるように」と仰いました。そう言ってから、手と脇腹に残った十字架刑の傷跡を見せました。弟子たちはその傷跡を見て、喜びにあふれました(19-20)。けれどそのとき、12人の弟子の1人トマスは、そこにいませんでした。ほかの弟子たちは、「私たちは復活なさった主イエスを、この目で見た。本当なんだ」と言います。けれどトマスは、頑として聞き入れません。

  つづいて26-28節を読みましょう。「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。8日後にもう一度、主イエスが現れてくださったのは、特には、あの疑い深いトマスのためです。トマスに目を向けます。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ。また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」。この疑い深さは、良いことです。私たちもそうであるように、この人にも長所と短所があるでしょう。けれどこの彼の一番良い所は、ここです。疑い深いこと。そう簡単に信じたり飛びついたりしないこと。なぜなら簡単に信じた人は、同じように、ごく簡単に失望してガッカリしてしまうかも知れません。気軽に飛びついた人は、同じように気軽に、あっさりと捨て去ってしまうかも知れません。

  もう一か所、使徒言行録17:10-12に、疑い深いことのとても素敵な良い手本があります。ベレア地方の人々です。彼らは主の弟子たちを迎え入れ、その人々が語る福音の説教を熱心に聴きつづけました。そればかりでなく、聴いた後で、「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人々が信じ、信仰に入った」と。礼拝説教を聴いて、「素晴らしい。感動した」と感じるときがあります。あるいは逆に、「つまらなかった。少しも心に響かなかった」と。けれど、その時々の気分や感情は、実は、あまり当てになりません。長続きもしません。それよりも、そのメッセージが本当に神さまから来ているのかどうか。それこそが大切です。もし神からのものであれば、聴きづらくても耳痛くて苦くても、それを飲み込みたいのです。もし人間からのものであれば、たとえ雄弁で耳障りが良くても、決して鵜呑みにしてはいけません。そのためにこそ、それぞれ手元に1冊ずつの聖書を持っています。主イエスのところへ行き、この独りの方から格別な生命を受け取るために(ヨハネ福音書5:39-40。ベレア地方の人々のように。あるいは疑い深いトマスのように。

 まず、本当かどうか疑う。次に、自分で聖書を調べて、確かめてみる。だからこそ、その人々は、やがて生身の人間たちをではなく、神ご自身を信じて頼みの綱とする者たちへと育っていきます。説教を聴いて、「本当かどうか」と引っかかる時もあります。心がざわめき、疑わしく思えるときもあります。聖書のページを自分で開いて、自分自身の心で確かめてみましょう。もし、そのとおりだったら、それは受け入れて聴き従うに値します。それが本当に神からのものであるならば、聴いた言葉はあなたを生かし、あなたを心強く導きはじめるでしょう。

 ですから、疑い迷うその人たちを侮ってはいけません。ためらって考え込んでいるその人を、見くびってはなりません。手間取り、疑ったり悩んだり迷ったりし、行きつ戻りつして足踏みした者たちは、本気で信じるための準備をしています。行きつ戻りつして踏みしめられた足元の地面は、踏み固められ、やがてその人がしっかりと立つための堅いガッシリした土台となります。「手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ。また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない」。トマスの魂の叫びが聞こえます。「私は決して信じない」。それは、ぜひ信じたいと叫んでいます。私も信じたい。信じて生きることをしてみたい。そのためならば、この指を伸ばして、あの方の釘跡に触ってみさえする。この手をそのわき腹に入れ、その深い傷跡の中にぜひとも手を触れてみたい。

  主イエスは、11人のためにご自分の姿を現わしてくださいました。疑い深いトマスのためにも、ご自分の姿を現わしてくださいました。あの一人の彼のことも、ちゃんと顧みておられるのです。それぞれの恐れと悩みをよく知っておられるからです。ぜひ信じたいという、その願いを知っておられるからです。あなたがたに平和があるように。十字架にかけられる前の晩に主イエスはおっしゃいました、「わたしは平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなあたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27。それぞれに抱えもった恐れと思い煩いの中でも消えて無くならない、主イエスご自身から贈り与えられた平和と心の安らかさがあるように。あるとき誰かが、あなたにちょっとしたことを言います。分かってもらえないことはあります。誤解されたり、ひどくねじ曲げられることも。誰も賛成してくれなかったり、誰一人も支えてくれないこともあります。かえってきびしく非難されたり叱られたり、見下されたり知らんぷりされたり。すると、鍵をかけたくなります。家の中に閉じこもって、小さくなって震えていたくなります。「こんなことをしたら世間の皆さまからどう思われるか。いったい、なんと見られるだろうか」と。

ですから、27-29節をよく確かめましょう。「それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と勧められて、トマスはその後、どうやって主イエスを信じたでしょう。指を傷跡に入れたか、入れなかったのか。もし指と手のひらで触れてみたのなら、とても重要なことなので、「触れてみた。差し入れてみた」と、はっきり書いてあるはずです。けれども、そうしたとは一言も書いてありません。聖書が何のために書かれ、どのように書かれているのかを聖書自身が明確に証言します、「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ福音書20:31と。その証言を受け止めて、世々の教会は「聖書には、罪人が救い主イエスを信じて救われるために必要なすべて一切が、十分に書かれてある」と習い覚えてきました。もし指と手のひらで触れてみたのなら、「触れてみた。差し入れてみた」とはっきり書いてあるはず。けれども、そうしたとは一言も書いていない。つまり、あのときトマスは、自分の指を主イエスのてのひらの釘跡に当ててみませんでした。自分の手を主イエスの脇腹の傷跡に入れてみませんでした。そんなことをわざわざしてみるまでもなく、疑いは拭い去られ、すでにはっきりと信じていたからです。「指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。さあ、どうぞ。あなたは信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。そのように目の前で自分に向かって本気で語りかけてくださり、「あなたの指をここにつけて。手を伸ばして、わたしの脇腹に」と強く促していただいたとき、それでもう十分に分かりました。主イエスご自身の心が彼の心にも届いて、彼の疑いと迷いがすっかり拭い去られていました。「わたしの主、わたしの神」とトマスは、ついにとうとう救い主イエスの御前に身を屈めさせていただきました。わたしの主、わたしの神。救い主イエスに対して直接に、はっきりと「神」と呼び、しかもとうとう「わたしの神」とさえ呼ばわることができた弟子はトマスが最初でした。疑い深く、心がやや頑固でもあった彼こそがまず最初に、神ご自身の憐れみによってねじ伏せられ、主であり神であられます救い主イエスへの信仰を言い表す者とされました。なんということでしょう。しかも今では、この私たちも、救い主イエスのお姿を見たわけでもなく、手で触れたわけでもなく、その御声をこの耳で直接に聴いたわけでもなく、にもかかわらず、はっきりと信じています。神ご自身がこの私たちをも、神を信じて生きる者たちとしてくださったからです。

 


4/25こども説教「神が約束した希望」使徒26:1-8

  4/25 こども説教 使徒行伝26:1-8

 『神が約束した希望』

 

26:1 アグリッパはパウロに、 「おまえ自身のことを話してもよい」と言った。そこでパウロは、手をさし伸べて、弁明をし始めた。「……4 さて、わたしは若い時代には、初めから自国民の中で、またエルサレムで過ごしたのですが、そのころのわたしの生活ぶりは、ユダヤ人がみんなよく知っているところです。5 彼らはわたしを初めから知っているので、証言しようと思えばできるのですが、わたしは、わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をしていたのです。6 今わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。7 わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。8 神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。    (使徒行伝26:1-8

 

 ローマ帝国から遣わされた役人と、その植民地とされたユダヤの王の前で、パウロはキリスト教の信仰の中身がどういうものであるのかを説明しはじめました。それは同時に、ユダヤ人が神から約束され、信じ続けてきた希望でもあったのです。6-8節、「今わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」。神が死人をよみがえらせることができる。そのように救い主イエスが父なる神の御力によって死人の中からよみがえらされた。救い主イエスに率いられて、この私たちも同じよみがえりの生命に生きる者とされること。なんでもおできになる神が、それをなさった。神にできないことは何一つもないし、そのうえ、その同じ神が私たちの味方であってくださる。これが、このキリスト教信仰の中身です。

 

2021年4月20日火曜日

4/18こども説教「訴える理由」使徒25:23-27

 4/18 使徒行伝25:23-27

 『訴える理由』

 

25:23 翌日、アグリッパとベルニケとは、大いに威儀をととのえて、千卒長たちや市の重立った人たちと共に、引見所にはいってきた。すると、フェストの命によって、パウロがそこに引き出された。24 そこで、フェストが言った、「アグリッパ王、ならびにご臨席の諸君。ごらんになっているこの人物は、ユダヤ人たちがこぞって、エルサレムにおいても、また、この地においても、これ以上、生かしておくべきでないと叫んで、わたしに訴え出ている者である。25 しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。26 ところが、彼について、主君に書きおくる確かなものが何もないので、わたしは、彼を諸君の前に、特に、アグリッパ王よ、あなたの前に引き出して、取調べをしたのち、上書すべき材料を得ようと思う。27 囚人を送るのに、その告訴の理由を示さないということは、不合理だと思えるからである」。    

(使徒行伝25:23-27

 

25-26節、「しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。ところが、彼について、主君に書きおくる確かなものが何もないので、わたしは、彼を諸君の前に、特に、アグリッパ王よ、あなたの前に引き出して、取調べをしたのち、上書すべき材料を得ようと思う」。主イエスの弟子であるパウロが、「私はローマ皇帝に上訴する」と言い出しています。それで、ローマ皇帝からユダヤの国に遣わされてきた役人フェストは困った立場に置かれました。もし、わざわざパウロを罪人として皇帝のもとに送り届けるならば、ちゃんとした事情や理由を説明した手紙を添えて送らなければなりません。けれどそのはっきりした理由が見当たらないのです。「彼(パウロ)は死に当たることは何もしていないと私は見ている。そして、彼について主君に書き送る確かなものが何もない」とフェストは言います。この取り調べで、なんとかして、ローマ皇帝に説明する材料を手に入れなければなりません。

 

4/18「安らかでありなさい」ヨハネ20:19-23

       みことば/2021,4,18(復活節第3主日の礼拝)  315

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:19-23                 日本キリスト教会 上田教会

『安らかでありなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。(ヨハネ福音書 20:19-23

                                               

5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。                  (2コリント手紙 5:18-21)


 救い主イエス・キリストはエルサレムの都に上ってくる旅の途中で何度も何度も、ご自分の死と復活を予告しつづけました。その約束通りに、人間たちの不当な裁判にかけられ、はずかしめられ、十字架につけて殺され、墓に葬られ、やがて三日目に復活なさいました。しかも、人間たちの不当な裁きだったばかりではなく、十字架の上で死んで復活してくださることが、神ご自身の御心であり、救いの御計画でもありました。その日の夕方のことです。

 19節、「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めて、小さくなって閉じこもっていた。これが、彼らと私たちの現実です。19,20節と、2度続けて「安かれ」と弟子たちに語りかけます。「あなたがたに平安があるように」という、ごく普通に用いられていた挨拶でもあります。こんにちはとか、お変わりありませんかなどのように。そのごく普通の挨拶でもある同じ言葉が、けれどここでは、いつもとは違う格別な意味合いを込めて語りかけられます。なぜなら、復活なさった主イエスが弟子たちに最初に語りかけたこの「安かれ」、『平安・平和』という言葉は、同じ主イエスが十字架にかかる前夜の最後の食事の席で弟子たちにぜひ伝えようとしていた『平安・平和』だったからです。あのとき主イエスは弟子たちにこうおっしゃいました、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」。また、その『平安・平和』は、十字架の上で死なれる前の最後の贈り物でもあったからです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27,16:33。この『平安・平和』を思い起こさせようとして、ここで安かれ、「平安。平安」と重ねて語りかけています。「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」。平安・平和があるのかないのか。それこそが、この世界にとっても、また私たちのいつもの普段の暮らしにとっても、夫婦や親子の間でも、隣近所同士の付き合いでも職場でも、肝心要でありつづけます。この数日の間に弟子たちの身に何が起こり、彼らが何を味わい、今どんな気持ちでいるのか。またこの後、彼らにどんな出来事が待ち構えているのかをつくづくと思い描きながら、主イエスは仰るのです。「あなたがたの心が安らかであり、平和があるように。私の平和を、あなたがたにぜひ贈り与えたい」と。なぜなら、平和とは程遠いところに彼らはいました。主イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人の仲間たちが、今度はこの自分たちをも同じヒドイ目に合わせるのではないかと恐れていました。いったい何をされるか分からない、自分たちがどうなってしまうか分からないと。主イエスを裏切って、見捨てて、逃げてしまった自分たちでもあります。その自分たち自身の弱さ、だらしなさ、とても不誠実であったことに自分たち自身でガッカリしていました。けれども皆さん。その彼らに向かって、「どういうつもりか」と叱るのでもなく、責めるのでもなく、いたらなさや欠点を1つ1つ並べ立てるのでもなく、「安らかでありなさい。私の平安・平和をあなたがたにあげましょう」と主イエスは仰います。この救い主は、私たちに平安・平和があるためにこそ救いの御業をすっかり十分に成し遂げてくださいました。

すると、ここで私たちは、奇妙な堂々巡りの輪の中に閉じ込められていることに気づきます。約束されている事柄とすでに実現している事柄との間に。差し出されているものとすでに受け取って手にしているものとの間にある奇妙なズレと隔たりに。救い主イエスは十字架の上にご自身の体をささげてくださり、さらに死人の中から復活して永遠の生命の保証を私たちに与え、私たちのための格別な平和をそこで確かに獲得してくださった。それなのになぜ、いまだに、私たちの中に『平和であること』と『平和ではないこと』とが混じり合って残るのでしょう。なぜ度々、安らかさや平和とは程遠い所に私たちは閉じ込められて、誰かや何事かを恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたり、悔やんだり苛立ったり嘆いたりしているのか。罪をゆるすことについても同様です。私たち人間の罪をゆるすことができるのは、ただ神お独りだけでした。それが、聖書から教わってきたことです(マルコ2:7-10,使徒5:31)。それなのに、ここで、「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。誰の罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(23)と主はおっしゃる。あなたがゆるすならゆるされる。あなたがゆるさなければ、ゆるされないままずっといつまでも残る。どういうことか。 

 あの日の夕方、主イエスは、恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立って19節)、そこで「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」とおっしゃいました。十字架の上でご自分の生命を投げ捨ててくださって、そのようにして勝ち取ってくださった特別仕立ての、大切な平和です。だからこそ、てのひらの釘跡と、脇腹の槍で刺された傷跡を、よくよく見せてくださいました。それを見るまでは、彼らも私たちも心から喜ぶことがどうしてもできませんでした。それを見て、とうとう弟子たちは喜びにあふれました。「私は平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える」。だから受け取りなさい。この私たちは、いつまでも真ん中に立ち続けていてはいけません。謙遜にされて、慎み深く、脇へ二歩三歩と退く必要があります。「平和があるように」とおっしゃる主イエスが私たちの真ん中に立ってくださるとき、つまり、私たちがこのお独りの方をこそ私たちの真ん中に迎え入れるとき、その時にこそ、そこで初めて私たちに主イエスの平和があります。自分は正しい正しいと言い立て、語りかける声に耳を塞ぎつづけ、いつの間にかはなはだしい傲慢に陥っていたあのヨブのためにも、とうとう神の御前に自分自身が打ち砕かれるときが来ました。「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を分かったふりをして述べ立てつづけました。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分自身を恥じ、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ記42:1-6 新改訳聖書を参照)

ご覧なさい。「安らかであれ。あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、主は手とわき腹とを見せてくださった。あなたも見せていただいた。てのひらの釘の跡、わき腹の槍で刺し貫かれた傷跡、その傷跡は、私たちへの主の慈しみと憐れみを物語ります。はっきりと、見過ごしようもないほど明らかに物語っています。それなのに誰がいったい私たちの心を惑わせたのか。目の前に、十字架につけられたキリストが示された。示されつづけている(ガラテヤ手紙3:1-。惜しみなく、いいえ、むしろ徹底して私たちを惜しんでくださり、神の憐れみの子供たちとして迎え入れてくださったただお独りの方がおられます。そのために尊厳も体裁も面目も、生命さえ投げ捨ててくださったただお独りの方がおられます(ピリピ手紙2:5-。その方は、十字架の上でただ惨めで無残な死をとげただけではありません。ただ死んで葬られただけではありません。死んで、三日目に死人の中から復活なさいました。

22-23節です。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、平和とゆるしとを告げました。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」。主からの平和の中に生きることは、主からの生命の息(=聖霊なる神のお働き)を受け取って生きることでした。それは、具体的なこの私たちの毎日毎日の営みです。『この私があの人を、あのことを、ゆるすこと』だというのです。「あなたがたがゆるせば、ゆるされる。ゆるさなければ、それはゆるされないまま残る」。もちろん神ご自身がゆるしてくださる他ありません。神がゆるし、神ご自身が解き放ってくださるのでなければ、私たちは、私たちを縛りつけるものから自由になることはできません。あのとき、あの十字架の上で、主イエスはこう呼ばわっていました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34。主はこのように願い求め、まったく何をしているのか自分で自分が分からない私たちをゆるし、再び憐れみの神のもとへと連れ戻すために、そのためにこそ、あの木の上でご自分の血を流しつくしてくださいました。ご自身の体を引き裂いてくださいました。兄弟姉妹たち。だから、私たちは罪をゆるされているのです。すでに決定的に。

十字架にかかる直前、その前の夜、ご自身がはっきりと仰いました。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:26-27)キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割は、この地上に、私たちの間に平和をもたらす悪戦苦闘でありつづけます。それが救い主イエスが語った神の国の福音の主要な内容でありつづけます。第一には、ご自身の尊い血潮による罪のあがないによって打ち立てられた『神と人間』との間の平和であり、次に、『人間と人間同士。人間とこの世界、すべて生命あるものたちとの間』の平和です。救い主イエスによってはっきりと差し出された神の恵みと慈しみとを、この世界と自分自身の中に注ぎ込まれる。それによって成し遂げられ、建て上げられてゆく平和です。キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割はここにあります。自分自身と大切な家族のための救いも、ここにあります。

救い主イエス・キリストはエルサレムの都に上ってくる旅の途中で何度も何度も、ご自分の死と復活を予告しつづけました。その約束通りに、人間たちの不当な裁判にかけられ、はずかしめられ、十字架につけて殺され、墓に葬られ、やがて三日目に復活なさいました。しかも、人間たちの不当な裁きだったばかりではなく、十字架の上で死んで復活してくださることが、神ご自身の御心であり、救いの御計画でもありました。その日の夕方のことです。

 19節、「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めて、小さくなって閉じこもっていた。これが、彼らと私たちの現実です。19,20節と、2度続けて「安かれ」と弟子たちに語りかけます。「あなたがたに平安があるように」という、ごく普通に用いられていた挨拶でもあります。こんにちはとか、お変わりありませんかなどのように。そのごく普通の挨拶でもある同じ言葉が、けれどここでは、いつもとは違う格別な意味合いを込めて語りかけられます。なぜなら、復活なさった主イエスが弟子たちに最初に語りかけたこの「安かれ」、『平安・平和』という言葉は、同じ主イエスが十字架にかかる前夜の最後の食事の席で弟子たちにぜひ伝えようとしていた『平安・平和』だったからです。あのとき主イエスは弟子たちにこうおっしゃいました、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」。また、その『平安・平和』は、十字架の上で死なれる前の最後の贈り物でもあったからです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27,16:33。この『平安・平和』を思い起こさせようとして、ここで安かれ、「平安。平安」と重ねて語りかけています。「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」。平安・平和があるのかないのか。それこそが、この世界にとっても、また私たちのいつもの普段の暮らしにとっても、夫婦や親子の間でも、隣近所同士の付き合いでも職場でも、肝心要でありつづけます。この数日の間に弟子たちの身に何が起こり、彼らが何を味わい、今どんな気持ちでいるのか。またこの後、彼らにどんな出来事が待ち構えているのかをつくづくと思い描きながら、主イエスは仰るのです。「あなたがたの心が安らかであり、平和があるように。私の平和を、あなたがたにぜひ贈り与えたい」と。なぜなら、平和とは程遠いところに彼らはいました。主イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人の仲間たちが、今度はこの自分たちをも同じヒドイ目に合わせるのではないかと恐れていました。いったい何をされるか分からない、自分たちがどうなってしまうか分からないと。主イエスを裏切って、見捨てて、逃げてしまった自分たちでもあります。その自分たち自身の弱さ、だらしなさ、とても不誠実であったことに自分たち自身でガッカリしていました。けれども皆さん。その彼らに向かって、「どういうつもりか」と叱るのでもなく、責めるのでもなく、いたらなさや欠点を1つ1つ並べ立てるのでもなく、「安らかでありなさい。私の平安・平和をあなたがたにあげましょう」と主イエスは仰います。この救い主は、私たちに平安・平和があるためにこそ救いの御業をすっかり十分に成し遂げてくださいました。

すると、ここで私たちは、奇妙な堂々巡りの輪の中に閉じ込められていることに気づきます。約束されている事柄とすでに実現している事柄との間に。差し出されているものとすでに受け取って手にしているものとの間にある奇妙なズレと隔たりに。救い主イエスは十字架の上にご自身の体をささげてくださり、さらに死人の中から復活して永遠の生命の保証を私たちに与え、私たちのための格別な平和をそこで確かに獲得してくださった。それなのになぜ、いまだに、私たちの中に『平和であること』と『平和ではないこと』とが混じり合って残るのでしょう。なぜ度々、安らかさや平和とは程遠い所に私たちは閉じ込められて、誰かや何事かを恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたり、悔やんだり苛立ったり嘆いたりしているのか。罪をゆるすことについても同様です。私たち人間の罪をゆるすことができるのは、ただ神お独りだけでした。それが、聖書から教わってきたことです(マルコ2:7-10,使徒5:31)。それなのに、ここで、「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。誰の罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(23)と主はおっしゃる。あなたがゆるすならゆるされる。あなたがゆるさなければ、ゆるされないままずっといつまでも残る。どういうことか。 

 あの日の夕方、主イエスは、恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立って19節)、そこで「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」とおっしゃいました。十字架の上でご自分の生命を投げ捨ててくださって、そのようにして勝ち取ってくださった特別仕立ての、大切な平和です。だからこそ、てのひらの釘跡と、脇腹の槍で刺された傷跡を、よくよく見せてくださいました。それを見るまでは、彼らも私たちも心から喜ぶことがどうしてもできませんでした。それを見て、とうとう弟子たちは喜びにあふれました。「私は平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える」。だから受け取りなさい。この私たちは、いつまでも真ん中に立ち続けていてはいけません。謙遜にされて、慎み深く、脇へ二歩三歩と退く必要があります。「平和があるように」とおっしゃる主イエスが私たちの真ん中に立ってくださるとき、つまり、私たちがこのお独りの方をこそ私たちの真ん中に迎え入れるとき、その時にこそ、そこで初めて私たちに主イエスの平和があります。自分は正しい正しいと言い立て、語りかける声に耳を塞ぎつづけ、いつの間にかはなはだしい傲慢に陥っていたあのヨブのためにも、とうとう神の御前に自分自身が打ち砕かれるときが来ました。「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を分かったふりをして述べ立てつづけました。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分自身を恥じ、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ記42:1-6 新改訳聖書を参照)

ご覧なさい。「安らかであれ。あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、主は手とわき腹とを見せてくださった。あなたも見せていただいた。てのひらの釘の跡、わき腹の槍で刺し貫かれた傷跡、その傷跡は、私たちへの主の慈しみと憐れみを物語ります。はっきりと、見過ごしようもないほど明らかに物語っています。それなのに誰がいったい私たちの心を惑わせたのか。目の前に、十字架につけられたキリストが示された。示されつづけている(ガラテヤ手紙3:1-。惜しみなく、いいえ、むしろ徹底して私たちを惜しんでくださり、神の憐れみの子供たちとして迎え入れてくださったただお独りの方がおられます。そのために尊厳も体裁も面目も、生命さえ投げ捨ててくださったただお独りの方がおられます(ピリピ手紙2:5-。その方は、十字架の上でただ惨めで無残な死をとげただけではありません。ただ死んで葬られただけではありません。死んで、三日目に死人の中から復活なさいました。

22-23節です。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、平和とゆるしとを告げました。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」。主からの平和の中に生きることは、主からの生命の息(=聖霊なる神のお働き)を受け取って生きることでした。それは、具体的なこの私たちの毎日毎日の営みです。『この私があの人を、あのことを、ゆるすこと』だというのです。「あなたがたがゆるせば、ゆるされる。ゆるさなければ、それはゆるされないまま残る」。もちろん神ご自身がゆるしてくださる他ありません。神がゆるし、神ご自身が解き放ってくださるのでなければ、私たちは、私たちを縛りつけるものから自由になることはできません。あのとき、あの十字架の上で、主イエスはこう呼ばわっていました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34。主はこのように願い求め、まったく何をしているのか自分で自分が分からない私たちをゆるし、再び憐れみの神のもとへと連れ戻すために、そのためにこそ、あの木の上でご自分の血を流しつくしてくださいました。ご自身の体を引き裂いてくださいました。兄弟姉妹たち。だから、私たちは罪をゆるされているのです。すでに決定的に。

十字架にかかる直前、その前の夜、ご自身がはっきりと仰いました。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:26-27)キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割は、この地上に、私たちの間に平和をもたらす悪戦苦闘でありつづけます。それが救い主イエスが語った神の国の福音の主要な内容でありつづけます。第一には、ご自身の尊い血潮による罪のあがないによって打ち立てられた『神と人間』との間の平和であり、次に、『人間と人間同士。人間とこの世界、すべて生命あるものたちとの間』の平和です。救い主イエスによってはっきりと差し出された神の恵みと慈しみとを、この世界と自分自身の中に注ぎ込まれる。それによって成し遂げられ、建て上げられてゆく平和です。キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割はここにあります。自分自身と大切な家族のための救いも、ここにあります。

2021年4月12日月曜日

4/11「泣かなくても良い」ヨハネ20:11-18

       みことば/2021,4,11(復活節第2主日の礼拝)  314

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:11-18                 日本キリスト教会 上田教会

『泣かなくても良い』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne

20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。           (ヨハネ福音書 20:11-18

 復活なさった救い主イエスとマグダラのマリヤとの対話を、このヨハネ福音書だけが報告しています。二人の弟子ペテロとヨハネが家に帰っていった後、なおもこの一人の女性は救い主イエスが葬られた墓を離れずに、そこに留まりつづけていました。それで、死人の中からよみがえらされた主イエスと彼女が一番最初に出会うことになり、主の御声を最初に聴き、最初にこの主イエスと言葉を交わすことになりました。

 11-15節。彼女はとても悲しみ、泣きつづけています。二人の御使いが彼女に問いかけました、「女よ、なぜ泣いているのか」。彼女は答えました、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを彼女は見ました。しかし、それがイエスであることに気がつきませんでした。目と心が塞がれており、見るべきものがたとえそこに確かにあっても気がつかないからです。主イエスは彼女に言われました、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。彼女は、その相手が園の番人だと思って答えました、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。このように私たちも、しばしば恐れや悲しみ、思い煩い、嘆きに深く囚われてしまいます。目の前にある恐れや嘆きに目と心をすっかり塞がれてしまうからです。例えば、アブラハムとサラ夫婦の家を追い出された女奴隷のハガルも、同じように悲しみ嘆いていました(創世記16:4-14参照)。「サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた」と報告されています。その前に、アブラハムは妻サラにこう言っています、「あなたの女奴隷ハガルはあなたの手のうちにある。あなたの好きなようにしなさい」と。つまりアブラハムとサラ夫婦が、サライを苦しめ、彼女が逃げるほかないように仕向けたのでした。しかもハガル自身こそが子を授けられたことで思い上がり傲慢になって、自分の女主人であるサラを見下したことが争いの発端でした。「ハガル自身の罪が自分を苦しめた」と言ってよいでしょう。アブラハム、サラ、ハガル、3人それぞれに、自分自身の罪が招き寄せた苦しみを味わいました。主の御使いが、「あなたは女主人サラのもとに帰って、その手に(自分の)身を任せなさい」と、へりくだるようにハガルをいさめながら、励ましと支えを約束します。そこで、自分のすぐ傍らに豊かな水が湧き出る井戸があることに彼女は気づきます。その井戸を、『主が私を顧みていてくださる(=エル・ロイ)』と名づけました。顧みていてくださり、支えの御手を差し伸べようとしておられる神は、私たちのすぐ傍らにありつづけます。けれどもその神の真実を見失うとき、私たちもまた彼女たちのように傲慢に陥り、あるいは恐れに取りつかれつづけます。女奴隷ハガルを思い起こしたのは、彼女たちにはいくつかの大切な共通点があるからです。悲しみ嘆いていた2人であること。自分自身の罪深さを抱え、神の憐れみによって救い出された者たちであること。マグダラのマリヤは主イエスを目の前に見ていながら、それに気づきませんでした。ハガルは、すぐ傍らにあった豊かな井戸に気づかず、御使いの語りかけによって目を開かれて、そこに井戸があることに驚きます。そして、マグダラのマリヤと向かい合っていた復活の主イエスこそ、かつてサマリヤで、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ福音書4:14とおっしゃった方です。主イエス・キリストによってこそ彼女たちも私たちも神の憐れみを知り、主なる神が私たちを顧みていてくださることを信じる者たちとされました。

嘆いたり泣いたり、恐れたりせざるをえない理由を私たちはそれぞれに山ほど抱えています。悩みも恐れも、一生涯ずっと次々にあり、クリスチャンである私たちにもついて回ります。そのことをよく分かった上で、「恐れなくても良い。もう悲しんだり泣いたりしなくても良い」と、憐み深い神が語りかけます。私たちの恐れや嘆きを取り去ってあげようという招きです。もし、その御声が耳にも心にも届くなら、神にこそ十分な信頼を寄せることができるなら、そこでようやく思い煩いも恐れも、皆すべて取り除かれます。

 16-18節。イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した」。目を開かれ、心の曇りもすっかり取り除かれて、マグダラのマリヤはその方が主イエスだとようやく分かりました。まず、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから」と語られたことに目を留めなければなりません。思わず手を伸ばして、主イエスの御体に、あるいは衣にでも触れてみたくなりました。とても驚いたからです。主イエスを失ったと思った大きな悲しみや絶望が、いきなり大きな喜びに変えられたからです。けれど、「わたしに触れてはいけない」。どういうことなのか。厳粛な思いを与えられ、神を畏れ敬う従順を求められます。ちょうどモーセが燃えて無くならない柴の木の前に立たせられたように(出エジプト記3:2-6。彼女も私たちも、主イエスというお方が『神であり、同時にまったく人間でもあられる』ことをよくよく覚えていなければなりません。その人間性にばかり気をとられて、神であられることを十分に受け止められなくなることがあるからです。地上に降りて来られ、生身の人間の姿形をとられてからも、救い主イエスは神であられることをほんの片時もお止めになりません。だからこそ、このお独りの方こそが、私たちをすべての罪から救い出すことができるのです(ヘブル手紙2:17-18,4:14-16。わたしは、まだ父のみもとに上っていない。だから、今はまだ、私に触ってはいけない。むしろ、あなたが今すべきことがある。神を信じて生きる仲間たち、主イエスの兄弟とされたものたちに、『主イエスは、父なる神のみもとへ上って行く。しかもイエスの父である神は今や、この私たちのとっても真実な父となってくださった』と伝えなさい。そのことを伝えて、恐れと心細さの中に閉じ込められている仲間たちを勇気づけ、励ます務めが主から与えられています。折々の自分自身の気持ちよりも、そのことのほうが何倍も大切です。私たち自身も、今この目で救い主イエスを見ることはできません。主イエスが私たちの心に住んでいて下さることを信仰によって知り、また、二人また三人が主イエスの御名のもとにあつまるとき、『私もそこにいるのである』と御自身の口から約束されていることを信仰によって信じ、受け止めて、それで十分に満足することができます。さらには、終わりの日に、ふたたび来られる救い主イエスとそのとき本当にお目にかかるとも約束されています。ですから、主を待ち望んで希望をもって生きることができます。

 また、ここで主イエスがご自分の弟子たちに対して、とても思いやり深く温かい心で語っておられることにも、よく目を留めておきましょう。伝言を弟子たちに伝えさせるとき、主イエスは、弟子たちのことを『私の兄弟たち』と呼んでおられます。また、ご自分の父は私たち主イエスの弟子たち皆にとっても『私たちの父』であり『私たちの神』でもあると。だから今では、神の子供たちとされ、父なる神をそのようにお呼びすることが出来る私たちです。しかもその三日前に、主イエスを見捨てて、散り散りに逃げ出した弟子たちです。このあわれみ深い主は、すべてがゆるされているとして、彼らと私たちを取り扱っておられます。戸惑い、道に迷ってしまった者たちをふたたびご自身のもとに連れ戻してくださることを、まず第一に考えておられるからです。心が挫けてしまいそうな者たちに、何よりも、ふたたび勇気を与え、神を信じて生きいる信仰を回復させてくださろうとしています。後戻りしてしまった者たちを、けれども主は決してお見捨てになりません。あわれみ深い主であられるからです。詩篇103篇は語りかけます、「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」13-14節)と。救い主イエス・キリストによって神のあわれみを知った私たちです。主イエスご自身がこうはっきりと証言しておられます、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ福音書6:37-40と。これが、私たちの確かな希望であり、ただ一つの安心材料です。

 

 

         【補足】#ミャンマー国軍クーデター #エチオピア #香港 #ミャンマーに関する日本政府の人道的措置を求める要請文 一般のニュース報道では十分な情報がなかなか届いていません。けれど、怖ろしいことが起こっています。軍事クーデターや武力衝突、きびしい迫害と弾圧の中にある人々に、暴力から逃れて生き延びる道が備えられるように。いのちをつなぐための食料と水と安全な居場所を彼らに与えられるように。私たちも日本政府も、彼らのために正義と公正と平和とが守られるように手を差し伸べる者たちでありたい。彼らは身近な隣人です。

 日本キリスト教協議会は4月7日付で、日本政府が国軍クーデターに加担することなく、むしろ非暴力による不服従抵抗運動を貫く人々を守るために人道的な措置を取るようにと要請文を公表しました。どうぞ読んでください。このことを知ってください。

 

内閣総理大臣  菅 義偉様

外務大臣   茂木 敏充様

私たち日本キリスト教協議会は 2021 2 1 日にミャンマーで引き起こされた国軍による軍事クーデター と、それに抗議する民衆たちへの無差別な武力攻撃によって多くの死傷者が出ていることに、心を痛めています。 ミャンマーの民衆が粘り強く築きあげてきた民主主義を、暴力によって破壊し、それに抗して非暴力による不服 従抵抗運動 (CDM)を貫く人々へのさらなる武力弾圧は、決して容認できるものではありません。日本政府は 一刻も早くこの事態を終結させるため、国際社会と共に、あらゆる働きかけをおこなって下さい。また国軍の利 益供給につながるあらゆる日本企業の交易のパイプを速やかに凍結させるよう措置して下さい。

また、悲痛な思いを持って日本国内に生きるミャンマー人たちにも、この CDM 運動は広がっています。私たち 日本キリスト教協議会は、この CDM 運動を支持し、この運動に身を投じている人々に連帯します。とりわけ、 CDM 運動に参与し、不服従の意思表示のため職務遂行を中断している在日ミャンマー大使館の職員 2 名につ いて、その身分保障、法的地位の保障が保たれるべきと考えます。しかし、ミャンマー国軍政府はこの 2 名に代え て国軍派遣の職員を日本に派遣しようとしています。それは、CDM を表明した 2 名の職員を解職することを意 味すると共に、在日ミャンマー人たちにとっての圧力ともなり、CDM 運動への弾圧に他なりません。したがって、 日本政府は、新たに在日ミャンマー大使館に国軍側から派遣されようとしている職員に対して、決してビザ発給 をしないでください。

 以下に CDM 運動に踏み切った 2 名の職員が、勇気をもって表明した要請文を掲載いたします。当事者の深刻 な訴えを受けとめ、これらの人々の生命の保護、法的地位の確保のために日本政府として人道的な措置を講じ るよう、日本キリスト教協議会として要請いたします。

 

【当事者による要請文】

日本政府はミャンマー国軍側である「国家統治評議会」が新たに任命した2名に対し、 新規外交官ビザ発給をしないでください

2021 2 1 日にミャンマー国軍はクーデターを起こし、民主的に選出された国家元首であるウィンミィン 大統領、アウンサンスーチー国家顧問、その他の政治家、内閣幹部を拘束しました。以降、ミャンマー国内では、連 日、国軍の武力鎮圧により死傷者が出ており、私たちミャンマー国民、在日ミャンマー人は、民主主義が奪われる ことに、大きな不安を抱えています。 国軍による人権侵害を憂慮し、民主主義を求めるミャンマーの国家公務員は、市民的不服従運動(CDM) に参 加し、国民と共に抗議活動を行ってきました。アウンサンスーチー国家顧問が外相を務める外務省、ネピドー本 省、そして世界各国に赴任している在外ミャンマー大使館職員(公務員)が、CDM に参加しました。

在日ミャンマー大使館に勤務する一等書記官ウー・アウン・ソー・モー(U Aung Soe Moe)氏、二等書記官ドー・ エインドラ・タン(Daw Eaindra Than)氏も、2021 3 6 日に CDM に参加しました。この二人は、不服 従運動に参加したのであり、ミャンマー国の公務員である外交官を辞職したわけでは、ありません。二人の在日 外交官は、暴力によって制圧される国民の側に立ち、共に抗議するために外交官として CDM に参加していま す。よって、両氏は現時点においても、民主的に選出された政府により任命され、正式に日本へ派遣された外交官 です。 ミャンマー国民の側に立ち、CDM に参加した外交官に代わって、国軍側は、軍出身公務員を交代要員として赴 任させることを計画しました。在ミャンマー日本大使館(ヤンゴン)に、国軍からの外交官ビザ申請があった場合、 日本政府は、その申請を決して受理しないよう強く要請します。

不当に政権を掌握し、暴力的に国民を虐殺し続けているミャンマー国軍により結成された国家統治評議会が任 命し、派遣する外交官に、日本政府が外交ビザを発行することは、日本政府が国家統治評議会と正規に連携を取 り、ミャンマー国内での虐殺を幇助することを表明することとなります。元来、外交官の派遣は正当な政権により二国間で承認を得て行われるものです。そのため、国軍が任命する 「外交官」2 名に対し日本政府が外交ビザを発行し、入国させることは、国軍の国家統治評議会を日本が正式に 認めたと、在日ミャンマー国民全員が受け止めます。 日本政府に対し、ミャンマー国軍、国家統治評議会と一切連携を取らぬよう、我々在日ミャンマー国民は何回も 要請してまいりました。この度は、日本政府として、在日ミャンマー大使館勤務のため、国家統治評議会が派遣す る2名に新規外交ビザを決して発行されませんよう、強く要請いたします。