2021年12月20日月曜日

12/19「神からの憐れみ」ルカ1:50-55

         みことば/2021,12,19(クリスマス礼拝)  350

◎礼拝説教 ルカ福音書 1:50-55            日本キリスト教会 上田教会

『神からの憐れみ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:50 そのあわれみは、代々限りなく

主をかしこみ恐れる者に及びます。

51 主はみ腕をもって力をふるい、

心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、

52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、

53 飢えている者を良いもので飽かせ、

富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、

55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを

とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。ルカ福音書 1:50-55

 

11:27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。28 福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、31 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。32 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。33 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。34 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。35 また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。36 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。(ローマ手紙 11:27-36)


「憐み。憐み。憐み」と三度も繰り返されました。神の憐れみこそが、クリスマスにも他のどの日にも告げ知らされつづけます。神さまからの憐れみを受けたたくさんの人々がいました。ときには打ち散らされたり、引き下ろされたり、あるいは高く上げられたりしながら。空腹のまま追い返されたり、良い物で満たされたり、あるいはそれを取り上げられたりもしながら、やがてついに神さまからの憐れみを受け取って、感謝と喜びにあふれた無数の人々がいました。「そうか。神の民イスラエル。あの人たちも、この私と同じだったのか」と気づきました。とても小さかったのです。見下げられるほどに、ほかの人たちから「なんだ」と侮られるほどに、すごく弱々しかったし、貧しかった。「なにもない」とバカにされても仕方がないほどに。おなかをペコペコにして、とても心細かったのです。神さまがその小さな貧しい人々にも目を留めて、その彼らを愛してくださいました。だから大喜びし、ニコニコしながら歌っていました。「憐み。憐み。憐み。神の恵み。恵み。恵み」と。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、私たちはあまりに小さい。私たちの小ささに比べて、受け取った贈り物はあまりに大きく、とてもとても豊かだった。――たぶん彼女は、聖書の勉強をとてもたくさんしたということではないでしょう。でも大事なことが、はっきりと分かりました。実地訓練で習い覚えました。彼女の毎日の暮らしの中のさまざまな出来事が、その喜びや悲しみの一つ一つが、彼女のためのとてもよい先生でした。

わたしたちは折々に、「思い上がってはいけない」「身を屈めて、へりくだりなさい」と命じられつづけてきました。「後の者が先になり、先の者が後になる」と予告されつづけ、なんのことだろうと首を傾げてきました。クリスマスの季節にも、いまご一緒に読んだとおりに、「心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせます」と語りかけられ、そんな神さまはヘソマガリでアマノジャクだなあとなんだか嫌な気がしました。けれど、それらの神さまのなさりようは、恵みと救いの受け渡しに大いに関係があったのです。「神さまの憐れみ」と告げられるたびに、なんだかピンと来ませんでした。「憐れみ。恵み、恵み、恵み」と耳にタコが出来るほど聞かされつづけて(ルカ1:50,54,78,ローマ11:31-32、私たちは聞き流しつづけました。けれど謙遜にされ、へりくだった低い場所に据え置かれて、そこでようやく私たちは神さまからの良いものを受け取りはじめました(ローマ11:25-32。なぜならば、救い主イエス・キリストご自身がそのように低く身を屈めて(イザヤ52:13-53:11,ピリピ2:5-11,エペソ4:8-10、そこで、すべての恵みを差し出しておられたからです。低く降り、その後に高く昇っていかれた方ご自身が、この私たちにも、やがて高く引き上げていただくために、同じく低く身を屈めなさいと命じておられるからです。へりくだった、その低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。

 51-53節;「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」。そのとおり。ですから兄弟たち、主なる神さまの腕は他の誰に対してよりもまず真っ先に、ここにいるこの私たち自身に対して振るわれるでしょう。もし、受け取った憐れみを忘れて思い上がるなら、主なる神さまは、この私たちを打ち散らしてくださるでしょう。モミガラのように吹き飛ばしてくださるでしょう。受け取った憐れみをもし忘れて、私たちが誇るなら、高ぶるなら、そのとき主は、私たちをその座から容赦なく引き下ろしてくださるでしょう。受け取った憐れみを脇に置いて、もし、私たちが自分だけの豊かさをむさぼるなら、あるいは満ち足りることを知らずに「もっともっと。まだ足りない。まだまだ不足だ」とつぶやき続けるならば、主はふたたび私たちを空腹にし、追い返してくださるでしょう。きっと必ず、そうしてくださるでしょう。なぜなら、そのうぬぼれと思い上がりこそが、私たちに大きな災いをもたらすからです。その権力や誇りが、その高ぶりこそが、私たちの目を見えなくし、私たちの耳を聞こえなくするからです。その豊かさや賢さこそが、私たちをかえって貧しくするからです。主は、憐れみによって、そのとき私たちを打ち散らし、引き降ろし、追い返してくださるでしょう。それこそが私たちのための祝福であり、私たちのための幸いです。

だから年末年始の慌ただしい季節には、「あれもしなければならない。これもこれも」と我を忘れていそしむ日々には、キリストの教会と一人一人のクリスチャンはよくよく身を慎まねばなりません。私たちがどこに、どのように足を踏みしめて立っているのか、どこへと向かおうとしているのかと目を凝らさねばなりません。この私たちが働く前に、主なる神さまこそが第一に、先頭を切って働いてくださった。それこそが、私たちが安心して心強く働くことができる理由であり、私たちの希望でありつづけるからです。だからこそ、とりわけ賢く、まじめで誠実であり、骨惜しみせず働く勤勉な者たちこそは、よくよく身を慎み、私たちがどこにどのように足を踏みしめて立っているのかと、必死に一途に目を凝らさねばなりません。私たちの救い主は、どんな見栄えも華やかさも立派さも、ポイと投げ捨てて、低くくだり、徹底して身を屈めてくださり、家畜小屋のエサ箱の中に身を置いてくださいました。布切れ一枚に包まれただけの裸の姿で。何のためでしょう。それは、どんなに貧しく身を屈めさせられた者も、小さな者も、弱い者も誰一人、この方の御前におじけることも恐ることもないために。安らぐことができるために。救い主キリストもその福音の中身も、いつの間にか私たちが忘れてしまわないために。憐れみを忘れない神を忘れて、その神さまから憐れみを受け取ったことも、私たちがうっかり忘れてしまわないために。私たちがそれ自体で何者かであるかのように勘違いをし、どこまでも高ぶり、どこまでも賢くご立派になり、そのようにしてどこまでも神さまから遠く離れ去ってしまわないために。

54-55節、「主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。神さまからの憐れみは、いつまでも誰に対しても限りなく、主を畏れる者に及びます。弱く小さく愚かだった、あまりに心細かったしもべイスラエルを受け入れて、神さまは憐れみをお忘れになりません。だからこそこの私たちも、受け取ったその憐れみを決して忘れない50,54節参照)。彼女は、アブラハムとその後につづく者たちに対してなされた古い約束を思い起こしています。つまり、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:1-3。アブラハムとその子孫を通して祝福されるはずの「地のすべてのやから」とは、いのちあるすべての生き物たちです。クリスチャンだけでなく、すべての民族。ただ人間だけではなく、神によって造られたすべての生き物たちです。なぜなら、造り主であられる神は、ご自分が造られたすべてのものに目を留め、「はなはだ良い」と喜んでくださり、祝福し、ご自分のものとなさったからです。また、ノアの大洪水の後に、空に虹を置き、ノアと家族とすべての生き物たちに対して約束なさったからです、「またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである」(創世記1:31-2:3,9:10-12。このあわれみの契約には、人間だけでなくすべての生き物も契約の当事者として招かれています(創世記 910,12,15,16節)。アブラハムとの契約、モーセによるシナイ山での契約、ダビデとの契約に先立つノアの契約は、やがて立てられる新しい契約(エレミヤ書31:31-34,1コリント手紙11:23-26につながっていきます。人間が神から背き去ったにもかかわらず、その人間と世界を二度と呪わないと言われる神の決意は、救い主イエス・キリストの誕生と、その十字架の死と復活の出来事を指し示しています。それらすべては、ただただ憐み深い神の御心によりました。神の憐れみによる同じ一つの救いの契約です(「旧約聖書に聴く『原初史が語る人間と世界』(10)高松牧人」『福音時報』202110月号を参照)

かつては、私たちの誰一人も神の民ではありませんでした。今は、神の民とされています。かつては、私たちは神からもほかの誰からも憐れみを受け取ろうとしませんでした。人さまからも、どこの誰からも。そんな惨めなことは嫌だと毛嫌いしたからであり、うぬぼれも高すぎたからです。けれど今は、憐れみを受けています。だから、神の憐れみの民とされています(ペトロ手紙(1)2:10。憐れみを受け取り、受け取った憐れみを差し出し、それを手渡してあげて、分かち合うために。ともどもに喜び合うために。そうか。神の民とされたイスラエル。私も、あの人たちと同じだ。だから大喜びし、だからニコニコしながら、大きな声で歌った。「恵み。恵み。恵み。憐れみ、憐れみ、憐れみ」と。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、私たちは小さい。あまりにチッポケだ。私たちの小ささと貧しさに比べて、私たちが受け取った贈り物はあまりに大きく、とてもとてもとても豊かだった。そこでようやく胸を張って、背筋をピンと伸ばして、晴れ晴れしながら私たちも歌う。「神さま、ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」と。

なんという幸いか、なんという恵みでしょう。

 

 

 《祈り》

 救い主イエス・キリストの父なる神さま。

 あなたの独り子を世界と私たちの救いのためにこの世界に贈り与えてくださって、ありがとうございます。御子イエスを待ち望み、迎え入れ、この御子イエスによって私たちをあなたの恵みの中に留めてください。

 貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか希望と思いやりが差し出されますように。

 私たち自身と家族も、あなたからの助けと支えを待ち望みます。私たちの口に、あなたの思いやりと愛をほめたたえさせてください。あなたの御心を行うことを願い、あなたの御足のあとに従って生きる私たちとならせてください。

 救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン