2015年10月26日月曜日

10/25こども説教「まさか私のこと?」マタイ26:17-26

 10/25 こども説教 マタイ26:17-26
 『まさか私のこと?』
+付録/故・久保田良、愛子、記念会
「自分を捨てて従え。そうすれば」10/26

26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。18 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。22 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。                      (マタイ26:17-22)

      *「パンとパン種」;おうちで、よくパンとかピザなどを作ってくれる料理好きなお母さんの子供たちには分かりやすいんですけど、パンやピザは、ただ小麦粉をコネて伸ばしたり丸めたりしただけでは、パンやピザになりません。プ~っと膨らんで、やわらかくフカフカしたパンやピザになるのは膨れる種(パン種、酵母)が入っているからです。パン種がなければ、よくコネても混ぜても伸ばしても、やわらかくフカフカにはなりません。奴隷にされていたエジプトを逃げてくる最後の夜、パン種の入っていない「ペッタンコのパン」を食べました。毎年毎年、パン種の入っていないペッタンコのパンを食べて、あの最後の夜の出来事を思い出して味わいました。それが、「除酵祭」という祭りです。

  まず、除酵祭(じょこうさい=パン種を取り除く祭り)と過越祭(すぎこしさい)の説明をしておきましょう。除酵祭は、過越祭の一部分です。奴隷にされていたエジプトの国から神さまが助け出してくださいました。モーセとアロンがエジプトの王様に「私たちをこの国の外へ出してください」と何度も何度も頼みました。王様はとても頑固で、しかも気分がコロコロ変わって「いいよ行かせる」「いいやダメ」「行かせる」「やっぱりダメ」と十回もダメダメダメと神の民イスラエルを縛り付けつづけようとしました。神さまはイスラエルの民を助け出すため、最後にはエジプト中のそれぞれの家の最初の赤ちゃんを殺すという災いを起こしました。ただし、小羊の血を戸口に塗ったイスラエルの家には、それをしるしとして、『災いがふりかからずに過ぎ越し』ました。その最後の災いの夜、神の民イスラエルは大急ぎで旅支度を整え、いつもはパン種でふっくら膨らんだパンを食べたのに、パン種の入っていないペッタンコのパンを食べてエジプトから逃げ出しました。過越祭は、その夜の出来事をよく覚えて感謝するために、あの夜と同じことをし、同じ食事や旅支度をして味わう祭りです(出エジプト記12:18-27参照)。あの夜はパン種の入っていないペッタンコのパンを食べたので、祭りの準備は、一週間もかけて、余計な悪いパン種を取り除いて大掃除をすることです。パンの中だけじゃなく 家中の隅々から、いいえ、ただ家の中だけじゃなく 皆の心や態度や普段のあり方の中からも、神さまに逆らう頑固でわがままな心をよくよく取り除いて、ゴミ箱に捨て去って、そうやって、神さまに従って旅立つための準備をしました。それが、除酵祭(じょこうさい=パン種を取り除く祭り。マタイ16:6,コリント(1)5:7参照)という祭りの心です。
  18節で、「わたしの時が近づいた、と主イエスが仰った」と報告されています。かつて子羊の血が流され、戸口に塗られて、神の民が災いから守られ救い出されたように、今、十字架で流されようとしている救い主イエスの血によって私たちは救われる。ですから世々のキリスト教会は主イエスの十字架の死と復活の出来事を『第二の過越し』と呼び習わしてきました。かつて子羊の血が流されて最初の過越しがあり、今、救い主イエスの死と復活によって『第二の過越し』が成し遂げられると。だから洗礼者ヨハネは主イエスを指差して、「見なさい。このお方こそが、世の罪を取り除く神の小羊である」(ヨハネ福音書1:29-30)と証言しました。その、私たちの救いのための、主イエスの十字架の時がほんの数日後にまで近づいています。
  さて、夜になって過越しの食事(=最後の晩餐)をしているとき、「ここにいる弟子たちの中に私を裏切る者がいる」と主イエスが仰いました。弟子たち皆はとても心配になり、恐ろしくなって、「まさか私ではないでしょう」「私かなあ」「いや、たぶんお前だよ」「君じゃないの」などと言い出しました。ユダが裏切ると、はっきり告げられました。でも本当には ユダだけじゃなく、弟子たち皆が主イエスを裏切り、主イエスを見捨てて、置き去りにして、自分たちだけで逃げ去ってしまいます。「主イエスを裏切ってしまう私かも知れない。それは、この私のことじゃないのか」と心を傷めること。それこそが、主イエスの弟子たち皆の大事な出発点です。だってね、それまでは、「当てになる、しっかりした、正しい私だ」と勘違いして、自惚れていました。けれど、「裏切ってしまうかも知れない、危うい、全然しっかりしていない、頼りにならない私だ。本当に」と気づきはじめました。そのときから、主イエスを頼みの綱として、主イエスに信頼を寄せて生きることを、やっとようやく、まるで生まれて初めてのように しはじめようとしています。私たち皆も、彼らと同じです。「まさか私のこと?」と心が痛くなりましたか? もし、そうならば、主イエスを信じて新しく生きはじめることが、あなたや私にも出来るかも知れませんね。






 ◎とりなしの祈り
  イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。私たちの国の中でも、大人も子供も、強い豊かなものが弱い貧しいものをいじめたり、のけものにしたり、便利にただ利用されたり、困らせたり苦しめたりしませんように。沖縄の人々もそうです。まるで植民地のように、まるで支配される奴隷のように、彼らは力づくで言いなりにされつづけています。薩摩藩に力づくで占領された1609年から今日まで、316年もの間ずっとです。1972年に米国統治下から日本領土に変更された後でも、力づくで言いなりにされつづける中身はほとんどまったく変わっていません。「自分たちだけに戦争の基地や爆弾や外国の兵隊たちを押し付けられるのは嫌だ。朝から晩まで耳も心も壊れてしまうほどのジェット機の爆音にさらされ、ビクビクしながら暮らすのは嫌だ」といくら訴えても聴いてもらえません。「普通に生きる最低限の権利があるはずだ」と訴えても、「権利はない。憲法が保証する権利も人権も、そこでは適用されない」と撥ね退けられます。まったく本当に、お詫びのしようもありません。申し訳ないことです。福島から避難して遠くの土地で暮らす人々もそうです。原子力発電所事故がまだまだ全然収束していないのに、そこで仕方なしに暮らす大人や子供たちもそうです。あちこちの原発の町で暮らす人々も、そこで使い捨てのようにされて働く労働者たちもそうです。日本で邪魔者扱いされ、片隅へ片隅へと押しのけられながら心細く暮らす外国人たちとその家族もそうです。職業訓練生、研修生と呼ばれて、この国で安く働かされている外国人たちも。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と、間違っていることは間違っているとする公正な心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、気に入らない都合の悪い誰かを踏みつぶそうとする人たちに、この私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。









 付録/「故・久保田良、愛子、記念会」
  『自分を捨てて従え。そうすれば』
(ルカ福音書 9:20-25

      「人 もし我に従い来らんと思わば、己をすて、
      日々 おのが十字架を負いて我に従え」     
(ルカ福音書20:23/文語訳)

 この掛け軸、探し出して、今日のこの日のためにわざわざ掛けてくださったものです。
良さん、愛子さんの生涯を味わい、私たち自身もまたそれぞれに短い生涯を生きてやがて死んでいくことをつくづくと思い起こすために、この聖書の一句をごいっしょに読み味わいましょう。「人もし我に従い来らんと思わば、己をすて、日々おのが十字架を負いて我に従え」さらに続けて、「己が生命を救わんと思う者はこれを失い、我がために己が生命を失うその人はこれを救わん」。実は、これこそが良(りょう)さんのお祖父さんである甲子治(かねじ)さんからこの一族へともたらされたキリスト教信仰の、その中心にある生命です。現代語に訳したもののその全体を、お手元の印刷物の中のページに記しておきました。ルカ福音書 9:20-25

彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。ペテロが答えて言った、『神のキリストです』。21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる』。23 それから、みんなの者に言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか』」。

神さまであられ、同時に身を屈めて人間ともなってくださった救い主イエス・キリストは、その弟子たちに尋ねました、「世間の皆は私のことを何と言っている? ほおお、それじゃあ、あなたがた自身は、この私のことを何と言うのか」。弟子の一人が答えました、「神であられる救い主です」。そこで主イエスは、大切な秘密を弟子たちに初めて打ち明けました。救い主である自分がどうやって人々を救うのか。その方法と手順と、救いの中身についてです。22節に「人の子は」とあります。救い主イエスがご自分のことを度々こう仰いました。ですから、「この私イエスは多くの苦しみを受け、捨てられ、十字架の上で殺され、そして三日目に復活する」と。さらにつづけて、「私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うであろう」と。
 「自分を捨てて」と厳しく命じられます。これを本気で、「はい。分かりました」と額面通りに受け止めることができるかどうか。そこに、信仰の新しい生命を受け取って、新しく生きはじめることができるかどうかがかかっています。誰でも皆、「いいや私は 私は私は」と我を張りつづけていました。神さまの仰ることも人様の言うこともろくに聞きもせず、ただただ「私のやり方は、私の好き嫌いや気分や感じ方は。私の体裁は、面子は」などと。これこそが、神さまにも人さまにも逆らってばかりいる私たちの罪の実態であり、『古い罪の自分』です。それでは救い主について行くことなど到底できません。なんとしても捨てねばならない『自分。己』とは、そういうものです。「自分を捨てなさい」と命令されて、どんな気持ちがしますか? 嬉しいですか。それとも、なんだか嫌な気がしますか。正直なところ、嬉しくもあり、嫌でもありますね。「自分を捨てちゃったら、どうやって、何を生きがいにして生きていっていいか分からない」などとも思います。けれど心を鎮めて、よくよく考えてみますと、「いいや私は。私は私は」とか。ただただ「私のやり方は。私の考え方、私の好き嫌いや気分や感じ方は。私の体裁は、面子は、私の評判は」などとかたくなに、頑固に、我を張りつづけるのはあまり楽しくない。「どうしてもこうでなければならない」などとこだわって言い張りつづけなければならないほど大切なものは、そう多くはない。ないことはないけど、案外に少ない。多くの場合、あんまり大事でもないことで、私たちは意固地に頑固になっています。「私のやり方。私の考え方、私の好き嫌いや気分や感じ方。私の体裁、面子、私の評判」、ようく考えてみると、それは、あまりたいしたものではありませんでした。そのつまらない頑固さを止めることができれば、どんなに晴れ晴れすることか。恥ずかしい話ですが、実は、クリスチャンになった後でも、何十年たっても、まだまだなかなか、その「いいや私は。私は私は」という頑固さを捨てきれません。それで、度々ハッとして気づかされます。「ああ、またやってしまった。また頑固になり、我を張っている。また、私は私はと自分の好き嫌いばかりを押したてようとしている。なんとことだろうか」と。それで、思い直し思い直ししながら、毎日毎日自分を捨てながら生きていきます。救い主イエスが十字架の上で死んで、葬られ、復活してくださったからには、この私たちも『頑固な古い罪の自分』を十字架につけていただき、殺して投げ捨てていただき、その恵みの結果として、「いいや私は。私は私は」という頑固さの言いなりにされず、罪の奴隷にもされずに、神さまの御心に従って生きて死ぬ者とされていきます。それぞれとても頑固なんですけれど、なにしろ神さまこそがこの私のためにも『頑固な古い私』を捨てさせてくださり、『神さまに従って生きる素直な私』にならせてくださる。
 これが、救いと新しい生命の中身です。まずはじめに甲子治(かねじ)さんが受け取り、一族の中に次々と手渡されていった信仰の中身です。それは、とても晴れ晴れとしていました。それはとても心強く、慰め深い生き方でした。甲子治さんからバトンリレーのように手渡され、受け取られ続けてきた同じ幸いが、「もし良かったら、あなたもどうぞ」と、ここに集った私共一人一人にも改めて差し出されています。「人もし我に従い来らんと思わば、己をすて、日々おのが十字架を負いて我に従え。己が生命を救わんと思う者はこれを失い、我がために己が生命を失うその人はこれを救わん」。
 祈りましょう。              (10,26  久保田家ご自宅にて)


 (1)招きの詞   
      讃美歌         
        故人の略歴
        讃美歌      
        聖書
        説教       
        祈り                     
        讃美歌         
        派遣と祝福

上記が、当教会の葬儀式、記念会などのおよその式順です。「故人の歩みや業績や家族・友人らとの格別な交際などに、どうして説教でほとんど触れないのか?」と疑問に思われるかも知れません。ご覧のように、「故人の略歴」と「説教」とを分離しているのが特色です。「略歴」は長老の一人が手短に紹介し、「説教」は聖書の説き明かしに集中します。略歴紹介でも、「召される間際に呼吸が浅く苦しげになり、ややしばらくの間は酸素吸入をし、やがて……」などと詳細には語りません。それは遺族がよくよく承知しており、別の機会に詳しく語り合うこともできるからです。故人が受け取った神の恵みを聖書から明らかにし、残った私たちが同じ祝福にあずかっていかに生きうるかをこそ、一途に説き明かします。すると、その集まりの意味も目的も、いつもの普段の礼拝とまったく同じです。
  (2)つい先日、「葬儀依頼願書」を改訂し、皆に配布しました。送付の際の添え状にこう書き記しました;「従来からの書式ですでに願書を提出していただいている方々にも、改めて、同封の『葬儀依頼願書・改訂版』に記入して、ぜひ提出していただきたいと願っています。申請人を、『ご本人とご家族の連記』としました。ご家族にも十分にご理解いただいて、ご一緒に葬儀などの判断をしていただきたい、と考えました。これを機会に、私たちの信仰の中身や、神さまを信じて生きることの幸いを、ご家族にも受け止めていただくための良い語り合いのときとなりますなら嬉しいことです。
『やがて死すべき自分であることを思え(メメント・モリ)』と西欧の古い格言は告げています。こうした書類を書き、自分自身の生涯や死を思うことは、残された時間を惜しみつつ魂に刻んで生きるために有益です。年配の方々にも、若い方々にも、それは同じことでしょう。よろしくお願いします」。


10/25「隠れたことを見る神」マタイ6:1-5,コリント手紙(1)4:1-5

                                       みことば/2015,10,25(主日礼拝)  30
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:1-5,コリント手紙(1) 4:1-5    
 日本キリスト教会 上田教会
『隠れたことを見る神』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。                                                     
(マタイ福音書 6:1-5)

 
  1-4節。「自分の正しさを、見られるために人の前で行わないように注意しなさい」。けれど、何のためでしょう。願っているその『自分の正しさ』はすでに他人と周囲の人々の目から見た正しさ、世間的な立派さに過ぎないからです。もうすでに頭の中では、人間のことばかり思い煩って、神さまを思う暇がほんの少しもないからです(マタイ16:23参照)。「誉められたら嬉しい。けなされれば悔しい。感謝されたり、尊敬されたりされれば鼻高々になり、誰にも見向きもされなくなったら寂しいし、悲しい」。ぼくもそうです。多分、たいていの人はそういうふうに出来ています。けれど、他人から良く思われたいという願い、悪く思われたらどうしようという恐れが度を越してその人の心を支配し、左右しはじめるとき、その人は、『人様がどう思うか。世間様にどう見られるかという病気』にかかっています。すでに、かなり重体です。他の人々もクリスチャンも、ほとんどすべての人がこの病気にかかります。放っておくと症状が急激に悪化し、ついには死に至ります。2-4節をもう一度、読みましょう。「自分の前でラッパを吹き鳴らすな」「右の手でしていることを左の手に知らせてはいけない」と極端な言い方をしています。けれど、そう語りかけている主イエスの真意が分かりますか。また、自分自身の普段の行いや考え方や感じ方、腹の据え方に、ここで警告されていることがよく当てはまると気づくことができますか? 
  神さまは隠れたことを、ちゃんと見ていてくださる。だから、あなたもそこに目を凝らしなさい、と勧められています。「誉められたら嬉しい。けなされれば悔しい。感謝されたり、尊敬されたりされれば鼻高々になり、誰にも見向きもされなくなったら寂しいし、悲しい」。もちろん、そうです。それでもなお、人間たちに誉められたりけなされたり、周囲の人間たちから喜ばれたりガッカリされたりする以上に、その千倍も万倍も 神さまこそがあなたをご覧になって、喜んだりガッカリしたりしておられます。「偽善者め。不届きなしもべだ」と叱られたり、ガッカリされたりもします。あるいは天の主人から、「良い忠実なしもべよ、よくやった。私も嬉しい」と喜んでいただけるかも知れません。ぼくは、それを願っています。ぜひ、なんとかして、この僕自身もそうでありたい。私たち人間のモノの見方や評価と、神さまご自身のモノの見方や評価とは全然違うと語られつづけます。預言者は告げました;「 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる」。また、イスラエルの最初の王がクビにされた理由は、兵士たちや人々のよい評価を得ようとし、人々の気に入ることをしなければと心を惑わせ、神さまの御心に従うことを二の次、三の次としてしまったからでした。サウル王のふり見て我がふり直せ、と厳しく戒められています(サムエル上13:7-1415:13-25)。次の王を立てようとするとき、預言者の口を通して神ご自身がこう仰いました。「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る』」(イザヤ書55:8-9,サムエル上16:7)

  ご一緒に読んだもう一つの聖書箇所を確かめましょう。コリント手紙(1)4:1-5;「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」。クリスチャンって何なんだろう、と折々にたびたび思いめぐらせていますね。どういうふうに生きていこうか、何を目指して、どういうふうに暮らしを立てていこうかなどと。ここに、はっきりした答えがあります。そもそもの初めから教えられ、よくよく躾けられてきたとおりに。救いのご計画の中身を、あなたも知っていますね。『救い主イエスを信じる者を、たとえその人たちが罪人であろうが薄情で身勝手な極悪人であろうが、ずる賢い臆病者であろうが、弱虫であろうが、なにしろイエスを信じて生きたというただ1点で救う』という計画です。私たちはキリストに仕える者であり、この救いのご計画をゆだねられている管理者である。だから、忠実であることが要求されている。では誰に対して、何に対して。もちろん、ただただ主イエスに対しての忠実。主イエスに対する忠実、信頼、従順。それこそがクリスチャンであることの意味であり、中身です。『主イエスへの忠実こそが命じられている』という肝心要を、この私たちも、しばしばすっかり忘れ果ててしまいます。そこから さまざまな混乱や争いや悩みも次々と沸き起こってきます。
  3-5節。「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」。「自分自身をつくづくと振り返ってみて、何一つもやましいことはないが」とあの彼は言っています。が、これはアッサリと聞き流してください。誰でもちょっと思い違いをしたり、うっかり口が滑ったりしますが、彼もそうです。うっかり口が滑りました。私たち皆がそうであるように、あのご立派そうに、清廉潔白に見える彼だって、ほんの少し立ち止まって胸に手を当てて考えれば、やましい所や恥ずかしいことが山ほどあります。折々に、私たちは問いただされました。「あなた、本当にクリスチャンなの? 証拠は?」と。職場の同僚や親戚や自分の夫や妻から、子供たちから、「あれれ」と疑わしげな眼差しを向けられ「お母さん、本当にクリスチャンなの?」と。だってその時の私は、人から誤解されたり悪く思われる度毎に、クヨクヨしたり腹を立てたり、ひどく気に病んだり、よけいに意固地になるからです。人から恥ずかしい思いをさせられたり見下されたらどうしようと尻込みしたり、おじけづいたりしています。ちょっと待ってください。それでは、《人からどう見られ、どう思われるか》という秤で物事を量っているではありませんか。また別の時にのボクは、「私はそれをしたい、したくない。好きだ嫌いだ」と、《自分の考え。自分のやり方。自分の好き嫌い。その時々の気分。その場の空気、雰囲気》という秤にすっかり心を奪われて、その秤の言いなりにされているではありませんか。別の時には、「○○さんがこうしろと言うので」などと、ついうっかりして、その○○さんの召使いのように《その人の考え。その人の指図》という秤で、自分がすべきこと、してはいけないことという1つ1つの言動や態度を量っている。しかも兄弟たち、そのあまりに人間的で生臭い、そのみみっちくてケチくさい秤はあまり楽しくない。その、人間のことばかり思い煩い神さまのことをほんの少しも思わない秤は、あまり自分を幸せにはしてくれない(マルコ福音書8:33参照)
 「せっかくクリスチャンとしていただいたのに、これじゃあ、どこがどうクリスチャンなんだか自分でもさっぱり判らない」と溜め息をつき、そこでようやく思い出しました。もう1つの全然違う素敵な秤を持っていたことを。「そういえば、たしか持っていたはずだ」。ポケットの中をゴソゴソ探しました。あった。何年も何年も使わないで放ったらかしにしていたおかげで、ずいぶん錆びついているけど、手入れをすればまだ使える。そして、使い始めました。この秤、このモノサシ。《私を裁くのは主なのだ》という秤とモノサシ。その、私たちを裁くためにやがて来られる主。その方は、ポンテオ・ピラトのもので裁判にかけられ、唾を吐きかけられ、ムチ打たれ、あざけられ、なお口を閉ざしたまま十字架につけられた、あのナザレの人イエスです。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分からないのですから」(ルカ23:34)と私たちのために執り成しをし、また、そのためにこそ、ご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流しつくしてくださった救い主イエスです。そのただお独りの方は、私たちを、つまらない惨めな秤やモノサシから自由にしてくださるために、みせかけやゴマカシの裁きから解き放ってくださるためにこそ来てくださいます。『イエスこそ主である』というこの秤、このモノサシ、この腹の据え方こそが、私たちを広々とした場所へと連れ出してくれるでしょう。晴れ晴れとした、さわやかな場所へと。キリスト者の自由(ガラテヤ手紙5:1-)という名の素敵な場所へ。そこで私たちは、《して良いこととしてはいけないこと。言って良いことといけないこと》を判断し、区別し、心で聞き分けることができます。心の奥底で密かに弁えるだけではなく、「あなたはそんなことを言ってはいけません。それは悪いことです」と口に出し、誰の前でも何様に向かってでも、いつでもどこででもはっきり態度に示すことさえできます。ね、素敵でしょう。それまではドンヨリ曇っていた心が晴れ晴れとしてくるでしょう?
 しかも兄弟たち。終わりの日の、その最後の決定的な裁きの法廷に私たちそれぞれが立たされるとき、果たしてお誉めにあずかるのかそうではないのか。それは、ただただ救い主イエスを信じたのかどうか、この1点にだけかかっています。それを知りながら生きるのと、知らないで生きるのとでは、辿り着く場所が全然違うからです。よくよく分かっていてください。「貧しく惨めな小さな旅人たちに、この私がコップ一杯の水を与えたのかどうか、いいよいいよと宿を貸し、衣服を着せかけ、見舞ってあげたかどうか。何回あたたかく迎え入れ、また何回くらい冷たく薄情に退けたり、乱暴に追い払ったりしたのか」(マタイ25:31-46参照)ということではありません。それは、終わりの日の裁きの判断材料ではありません。分かりますか? 騙されてはいけません。もし仮に、それを厳しく問われるならば、いったい誰が合格点に達して誉めていただけるでしょう。そんな人は1人もいません。ただの1人も。皆、誰も彼も全員が落第で あなたもこの私も失格する他ありませんでした。けれど、それなのに 救い主イエスを信じる信仰というただ1点(ローマ手紙3:9-26,130:3-4,エレミヤ31:33-34)。大昔から、聖書自身の時代から今日に至るまで2000年もの間ずっと議論されつづけてきた根本問題であり、この信仰の永遠のテーマです。良い行いによって救われるのか、それとも信仰によってただ恵みによってだけ救われるのか。もちろん、良い行いなどどうでもよいということではありません。神ご自身も私たち1人1人も、人に親切にする温かい善良な人間でありたいと心から願いつづけます。それでもなお、正しい人間は1人もおらず、人は誰も皆あまりに罪深い存在だったのです。救われるに値しない身勝手で冷淡な人間を、なお神さまは見捨てることなく、迎え入れようとして、ゆるそうとして、手を差し伸べつづけます。これが、福音の核心です。終わりの日だけでなく、今日も明日も、こう語られつづけます。「親切な、心優しい温かい行いを、あなたもほんの少しはした。薄情で冷たい身勝手なふるまいも山ほどしでかし、やましいところがいくつもあるあなただ。百も承知だ。それでもなお綱渡りのようにしてかろうじて、あなたも救い主イエスを信じとおし、生きて、その信仰に守られつづけてやがて死んでゆく」と(ヨハネ福音書3:16-21,テモテ手紙(1)1:12-17,ローマ手紙3:21-28,4:21-25,5:1-11,8:1-11,31-39,詩編130:1-4,マタイ福音書25:31-46)
なんという恵み、なんという喜びか。さあ、祈りましょう。


2015年10月19日月曜日

10/18こども説教「どんな主人なのかを、すっかり誤解していたから」マタイ25:14-30

 10/18 こども説教 マタイ25:14-30
 『どんな主人なのかを、
すっかり誤解していたから』

ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり……。                  (マタイ25:24-25

 どうぞ聴いてください。
  主イエスが弟子たちに大切なことを教えようとして、たとえ話で語り出しています。たとえ話を読むコツを覚えていますね。何が何をたとえているのかを頭に収めながら読むのです。では、旅に出ようとしてしもべたちに自分の財産を預けた主人は、だれのこと? 神さまですね。このしもべたちは、特には私たち人間です。だれもがこの主人から、主人のものである財産を預かっています。「よろしく頼みますよ」と預けられました。3人のしもべたちがそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントずつ預けられました。やがて帰ってきた主人が「わずかなもの。わずかなもの」(21,23)と仰るので、「なんだ。少しなのか」と早合点してしまいそうになります。本当は、3人ともとても沢山の財産を預けられたのです。5タラントは、普通の人がだいたい100年働いて稼ぐだけの労働賃金。2タラントは40年分、1タラントでさえ6000日の、つまり20年分の労働賃金です。一番少なく預けられた人でさえ、あまりにたくさんすぎる財産。ね、ビックリです。
  ほかのしもべたちは預けられた多くの財産を使って、それぞれ忠実に真面目に働いて誉められました。「良い忠実なしもべよ、よくやった。一緒に喜んでくれ」(21,23)と。けれど1タラント預けられたしもべは、その財産を土の中に隠しておいて、後でひどく叱られ、とうとう追い出されてしまいます。かわいそうですね。どうしてこんなかわいそうなことになってしまったのか、あのしもべはどうして主人の財産を土の中に隠したのか。その理由こそが、この箇所で一番大切です。主人がそのしもべを、「悪い、なまけもののしもべよ」と叱りました。ここも早合点してしまいやすい所です。よく読むと、怠け者だったから失敗した、わけではないことが分かります。悪いしもべの言い分によく耳を澄ませましょう。24-25節「一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』」。これで、すっかり分かりました。どうして、このかわいそうなしもべが失敗してしまったのか。主人のもとにずっといたくせに、どんなご主人さまなのかを全然知らなかったのです。「まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることをよく知っていました。そこで、意地悪で残酷で冷たくて、思いやりも親切心もないひどい主人から何をされるか分からないと思ったら、もう恐ろしくて恐ろしくて」ですって。すっかり勘違いしていました。なんてかわいそうな、愚かなしもべでしょうか。ああ、可愛そうだ可愛そうだ。ここでようやく、「他の忠実な良いしもべたち」の、どこがどう良かったのかも、はっきりと分かります。「良い忠実なしもべよ、よくやった。うれしい、一緒に喜ぼう」。何が、どう嬉しいのか。5タラント儲けたとか、2タラント儲けたから、だから誉められたのではありません。じゃあ仮に5タラント儲けたいと願いながら1タラントしか利益が無かったとしたら。儲けるどころか、たまたま大雨浸水被害で店舗が水浸し、商品もダメになって90000000兆円の大赤字だったら、主人はどんな顔で、なんと仰るか? もちろん、「良い忠実なしもべよ、よくやった。うれしい、一緒に喜ぼう」。大金持ちのご主人にとって、それら100000億万円だとか、2000000000兆円だかの利益などハシタ金であり、儲けても損しても痛くも痒くもない。というか儲けた損したとか、役に立つとか、あまり役に立たないなどとケチ臭いことを考えている主人じゃないのです。隠れたことを見極め、人の心の奥底を見通す主人です。主人の喜びは儲けや損の大小と何の関係もなかったのです。分かりますか? どんな心で主人の財産を使うのか、どういう心で主人に仕えて働くのか、それを見て喜んだり悲しんだりなさっています。こんなに沢山を委ねて信頼してくださったのかと喜び、主人に感謝して、精一杯に働いたのかどうか。ポイントは、その一点です。また、莫大な資金や土地建物などの財産が主人の目には『わずか』と見えるなら、次に預けようと申し出られた多くの財産(21,23)は何? 天国への門のカギであり、主人の子にしていただくことであり、子としての祝福と幸いです。それをあずけて、「人間を獲る漁師」に加えてくださることです。恵みの中へ1人、2人と捕まえた。そしたら、「良い忠実なしもべよ、よくやった。うれしい、一緒に喜ぼう」。しもべの粗末な姿や行いや不親切さや主人への不忠実を見て、5、6人とあみの外へと逃げていったら主人は悲しむでしょう。いいえ、それでも精一杯でなお失敗して2030人とそのしもべのいたらなさ、ふつつかさから網の外へ逃げていってもなお、主人は悲しい顔をするだけで厳しくは叱らないかも。いいえ、ご主人さま、申し訳ありません。「良い忠実なしもべよ」と喜んでいただきたくて精一杯に働いていますが、たびたび大失敗を繰り返して主人の財産を減らしています、このぼく自身は。
皆が皆、この主人から、主人のものである沢山の財産を預けられているといいましたよ。じゃあ、あなたは、ご主人が帰ってくるとき、大丈夫ですか。どんな主人なのかを、ちゃんと教えていただいて、よくよく覚えていますか? どんな主人なのかをちゃんと覚えているか、いないのかが、決定的な分かれ道です。ちゃんと覚えていさえすれば、それだけで救われます。間違った嘘を教える人もいるらしいです。誰かが、あなたの耳元で、「恐ろしいわよ 知ってる。あのご主人さまって、まかない所から刈り、散らさない所から集める、意地悪で残酷で冷たくて、親切心のないひどい主人なんだから」とウソ情報を伝えてきても、決して騙されてはいけません。やさしいやさしい、とても親切なご主人さまだって、あなたも よくよく知ってるでしょ(ヨナ4:2,34:8参照)。そしたら安心して、楽~ゥな気持ちで、主人から預かったたくさんの財産を使って、精一杯に働いてもいいのです。




 とりなしの祈り
  イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。シリアで恐ろしい戦争が起こっています。神さま、どうか助けてください。あなたの力強い御手を今こそ差し伸べてください。シリア、チュニジア、ソマリアだけではなく、アフリカのあちこちで、今なお戦争や内乱やきびしい争いの火種がくすぶりつづけています 恐ろしい戦場から命懸けで逃げてきた人たちが新しい土地で暖かく迎え入れられ、家族の平和をもう一度取り戻すことができますように。世界中のみんなが、そのかわいそうな人々を迎え入れ、助ける、心やさしさを持つことができますように。私たちの国も、彼らのための手助けを後回しにしないで、自分たちのことと同じだけ大切に真剣に、何をすべきか何ができるかと立ち止まって、よくよく考えることができますように。私たちの国の中でも、大人も子供も、強い豊かなものが弱い貧しいものをいじめたり、のけものにしたり、便利にただ利用されたり、困らせたり苦しめたりしませんように。沖縄の人々もそうです。福島から避難して遠くの土地で暮らす人々もそうです。原子力発電所事故がまだまだ全然収束していないのに、そこで仕方なしに暮らす大人や子供たちもそうです。あちこちの原発の町で暮らす人々も、そこで使い捨てのようにされて働く労働者たちもそうです。日本で邪魔者扱いされ、片隅へ片隅へと押しのけられながら心細く暮らす外国人たちとその家族もそうです。職業訓練生、研修生と呼ばれて、この国で安く働かされている外国人たちも。なんということでしょうか。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、気に入らない都合の悪い誰かを踏みつぶそうとする人たちに、この私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。























 付録/詩 126篇を読み味わう
「主の恵みを実感し、味わい、感謝し、    
だからこそ なお願い求め、待ち望む」
                                    
126篇  都もうでの歌
126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、
われらは夢みる者のようであった。
      2 その時われらの口は笑いで満たされ、
われらの舌は喜びの声で満たされた。
その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と
言った者が、もろもろの国民の中にあった。
     3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、
われらは喜んだ。
     4 主よ、どうか、われらの繁栄を、
ネゲブの川のように回復してください。
     5 涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
     6 種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。



  1-3節と4-6節という2つの部分から、この祈りは成り立っている。

  1-3節は「すでに成し遂げられた救い=回復」を受け取って、その喜びと感謝をしみじみと味わっている。それなのに4-6節では、「主よ、救ってください。回復してください」と苦境の中で待ち望んでいる。表面的には、また理屈としても、矛盾するしチグハグだ。どういうことだろうか。受け取ったはずの回復はどこへ消えてしまったのか。回復は偽りだったのか、まさか。立ち止まって、よくよく熟慮しなければならない点である。私が信頼を寄せる注解者(カルヴァン「詩篇注解」該当箇所)は、「たぶん、バビロン捕囚からの帰還直後に書かれただろう」と推測し、1節を「主がシオンの民を連れ帰られたとき」と思い切って翻訳した。この推測に同意したい。
 「回復(=救済)された」(1)。しかもなお、「回復してください」(4)。バビロン捕囚からの帰還は驚くべき大きな恵みの御業だった。十二分な恵みである。しかもなお、故郷に帰り着いてから、なお何十年も彼らは悩みと辛さの中で苦闘しつづける。なぜなら、都も家々も城壁も神殿さえ徹底して打ち壊された瓦礫の中であり、そこから再建作業が始まってゆくからだ。「故郷に連れ帰っていただいたことは確かに大きな十分な恵みだったが、なお、すっかり完全に回復されたわけではない」。旧約聖書の民は、神さまの大きな恵みの御業を2度体験した。エジプト脱出と、バビロン捕囚からの帰還と。奴隷にされていた国エジプトからようやく導き出されるまでが大変だった。けれど、その後の荒野の40年の旅も、カナンの地に住み着くまでも、その後も、悩みと辛さの中での苦闘はなおつづく。教会の歩みも、私たちそれぞれの信仰の生涯もまったく同様ですね。段階的な恵みであり、折々の救いであり、その恵みと救いの全体を十二分に味わい尽くすのは、死の川波を乗り越えて永遠の御国に辿り着いてからである。しかもなお、差し出され受け取ってきたそれぞれの「段階的な恵み」「折々の救い」は本当であり、大きな十二分の恵みだった。神さまご自身の御業への驚きが積み重ねられてきた。だからこそなお苦境がつづくとしても、神の民は、慰められ、希望を与えられながら、心強く忍耐することができる。恵みと救いを受け取り、味わい、感謝を魂に刻んだ者たちは、その感謝を土台として、さらに忍耐し、神さまに信頼を寄せ、聴き従い、願い求め、救いと恵みを受け取りつづけて、必ずきっと御国へと辿りつく。
  1節「夢見る者のよう」;私たち人間には邪さがあり、鈍さや愚かさのために、なかなか神の恵みを受け取れない。しかもなお神さまの卓越した大きな恵みが、そのような私たちをさえ圧倒する。「ひとりびとりは、神の比ぶべくもない恩愛を把握するには程遠く、これを考えるだけでも、われわれは驚愕の念で食い尽くされるのである。まるでそれは夢であって、すでに起こったことではないかのごとく」(カルヴァン、前掲書)差し出された恵み、自分自身のための神の大きな御業に圧倒され、深く驚いている。驚きの連続であり、だからこそ、その信仰者は神に信頼を寄せ、感謝し、聴き従い、願い求めつつ生きる者とされていく。「あなたや私が」ではなく 神さまご自身こそが、それを成し遂げてくださる(ヨシュア記24:14-27,ヨハネ14:14,21:15-19,ローマ手紙8:1-11,12:1-2,ピリピ手紙1:6,マタイ19:23-26参照)
 2節「口は笑いで、舌は喜びで」;5-6節の、涙と痛みの中で「回復させてください。救ってください」という願いと共に、これが祈りであり、神を讃美する現実である。讃美歌の本質と生命は、音楽であることを豊かに高く超え出て、ここにある。音楽でもある。しかも、それらの心は、圧倒的に断固として「祈り」である。
 2-3節「もろもろの民の中に」;神をよく知らない、まだはっきりと神を信じてはいないはずの異邦人たちの中にさえ、「主の大いなる御業を認め、讚美して誉めたたえ、目を凝らす者たち」が起こされる。すでに神さまを信じて生きてきた私たちのためにも、憐れみをもって、神さまが同じことをしてくださるだろう。「遠い国からくる異邦人が。すべての異邦人が。すべての民が。あなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです」(列王記上8:41-43、「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに」(使徒2:38-40,「もろもろの民」イザヤ60:3)

  5-6節;「涙をもって種まく者は~」。彼らにとっても、この私共にとっても、これは「過ぎ去った過去のこと」であり、同時に確かに、「現在」「未来のこと」でもある。「完全な回復はいまだに彼らの肉眼には明らかでないとしても、しかも長い待望から生ずる悩みを和らげる。さらに現在においては、種は涙によって湿っているとしても、刈入れは喜ばしいであろうと確言する」「現下の悲しみに歓喜が続くようになるために、神の約束された結果を生き生きと見据えることを学ぼうではないか。神は信仰者たちの目から涙を拭い取られるだけでなく、量るべからざる歓喜をもって、彼らの心を飽き足らせられるであろうという預言が、すべての信仰者に関わりのあることを、われらは知るのである(カルヴァン、前掲書)
  「種をまく人」「刈入れをし、収穫の束を携え帰ってくる人」と語りだされた途端、聖書66巻全体を貫く連続して一貫したメッセージ(創世記2:4-18,1:1-3,126:5-6,イザヤ61:3,マルコ4:26-29,ルカ13:6-9,マタイ13:1-23,ヨハネ12:23-26,15:1-17,ローマ手紙11:17-24,12:4-5,コリント手紙(1)3:6-9,6:14-15,(2)9:8-11)と、私たちは直面させられている。つまり、神ご自身こそが「種まく人」であり、だからこそ「土を耕し守る人」であることと。ただ種をまいて、蒔きっぱなしに放置なさる神ならば、涙は不要であろう。喜びの叫びも、そこには無い。実を結ばせたいという熱情があり、切なる願いがあって種をまいたなら、その方は土地を耕し守らざるを得ない。種をまき、土地を耕し守るお方の労苦と切なる願いと涙がもしなければ、この世界は草一本生えない、不毛の、荒涼とした荒地でありつづけたはずだった。けれど農夫である神さまご自身の涙があり、労苦と忍耐があり、それゆえついに喜びの叫びがある。これが聖書全体の主題である。その上で、私たちは「種をまかれる土地」とされ、やがて同時に、「種をまき、土地を耕し守る人々」ともされた。

     神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。
    「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」
   と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。(コリント手紙(2)9:8-11)

「貧しい人たちに散らして種とパンとを与えた彼」「涙をもって種をまく人」とは何者か? 第一に決定的には、救い主イエス・キリストである。私たちこそが「散らして与えられた貧しい人たち」であり、「種をまかれた土地」であり、例外なく、どの土地も皆が 「道ばた」「土の薄い石地」「いばらの土地」だった(マタイ13:1-23参照)。しかも涙と切なる願いをもって種をまいてくださったお独りの方が、ただ種をまいただけでなく、目を凝らし心を砕いて世話をしつづけ、水や肥料を与え、雑草をむしり、着々と「良い肥えた土地」へと至らせてくださる。それゆえに、私たちもまたなおまだまだ「道ばた」「土の薄い石地」「いばらの土地」であり、たびたび荒地へと逆戻りさえするとしてもなお 私たち自身も同時に「種まく人たち」とされた。福音の種を。慈しみと憐れみとゆるしの種を。感謝の種を。それは実を結ぶ。良い実を結ばないはずはない。とすると、やがて着々と結ぶはずの「義の実」の中身は「義の~」と言いながらも、「慈しみと憐れみとゆるしの実。感謝の実」である他はない。それ以外には、これらの土地からはどんな収穫もありえない。神さまご自身こそが 成し遂げてくださる。ならば、「この私のためにもぜひ」と願い、成し遂げていただこうではないか。
 ああ、本当に。神は私共にあらゆる恵みを豊かに与え、私共を常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたである。「彼イエス・キリストは貧しい私共に散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりに。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの『慈しみと憐れみとゆるしの実。感謝の実』を増して下さる。こうして、私共はすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至る。私共も、ついに神さまへの感謝と従順に至らせていただける。以上。             (2015,10,18 婦人会例会 金田)




10/18「復習してはならない!」マタイ5:38-42,ローマ12:16-21

                                       みことば/2015,10,18(主日礼拝)  29
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:38-42,ローマ手紙12:16-21    
日本キリスト教会 上田教会
『復讐してはならない』 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。           (マタイ福音書 5:38-42)

 
どうぞ聴いてください。
38節。まず、昔から教えられてきたという「目には目を。歯には歯を」。この規則は、旧約聖書(21:23-25,レビ24:19-20,申命19:21)ばかりでなく、古代オリエント世界の「ハムラビ法典」にも登場します。「目には目を。歯には歯を」は残酷な復讐を勧めているのではなく、むしろ逆で、裁判が公正であることを求めています。それぞれの被害に応じた罰や弁償が支払われるべきこと、それ以上を求めてはいけないと刑罰の範囲を限定しようとしています。例えば創世記4章の後半に、レメクというとても傲慢な思い上がった人物が登場します。「誰かが私にちょっとした傷を負わせるなら、それだけで私はその相手を殺す。どこかの若者が私に小さな打ち傷を負わせても、私はその若者も殺してしまう。なぜなら、私こそが他人の何倍もとても重要な人物なのだから。カインのための復讐が7倍なら、私のための復讐は77倍だ。わっはっは」(創世記4:23-24参照)と、大きな権力を握る支配者でもあるらしい彼はうそぶきます。なんと思い上がった人間でしょうか。それに比べると、この「誰に対しても、自分がされたことと同じだけの復讐。それ以上はダメ」というルールは、残虐で野蛮というよりもむしろ、とても公正で慎み深い。
  39-42節。「悪人にも善人に対しても一切、手向かってはいけない。されるままにし、求められるなら何でもそのとおりに与えなさい」と主イエスは仰る。むずかしいことが語られていますが、まず1つ整理しておかねばなりません。個人的復讐や仇討ち、仕返し、恨みや憎しみを乗り越えて生きることが差し出されています。福音の寛大さによってこそ『神を愛し、隣人を自分自身のように愛し尊ぶ』という律法が成し遂げられてゆくと。それでもなお公正な裁判は求められねばなりません。公的な社会正義は踏みにじられてはなりません。そのことをどうでもいいとするわけではないのです。私たち自身も、キリストの教会もこの国全体としても、正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとする私たち、教会、国家、裁判所とすべての「公けに立てられた者たち」と人々でありたいのです。ですから例えば、十字架にかかる前夜、大祭司の中庭で、大祭司からの取り調べを受けて主イエスが答えていたとき、受け答えが気に入らなかった下役人の一人が「大祭司にむかって、そのような答をするのか」と言って、平手でイエスを打った。イエスは答えられた、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(ヨハネ福音書18:22-23)。公的権力の横暴と不当なあり方に対して、はっきり抗議をなさっている。例えば主イエスの弟子が牢獄に囚われていたとき、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」と告げて牢獄の看守と家族に洗礼を授けたあの夜の次の朝のこと、町の長官たちは事が表沙汰になるのを恐れて彼らをこっそり釈放しようとしたとき、主の弟子たちは抗議し、こっそり釈放されることを断りました、「彼らは、ローマ人であるわれわれを、裁判にかけもせずに、公衆の前でむち打ったあげく、獄に入れてしまった。しかるに今になって、ひそかに、われわれを出そうとするのか。それは、いけない。彼ら自身がここにきて、われわれを連れ出すべきである」(使徒16:37)。主イエスに従って生きる私共も、まったく同じです。下役人だろうか、上の上の、ずっと上のほうの官僚にも、権力者や最高裁判所裁判官や検察庁にも総理大臣にも、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と必要なだけ、精一杯に抗議をし、抵抗しつづけます。主の御心にかなって生きるためには。また例えば、主イエスの弟子二人が神殿の境内の入口で物乞いと出会ったとき、物乞いはお金を貰えるものと期待しました。お金や食べ物などではなく、その貧しい人も私たちも同じく最も必要としているものを、弟子たちは差し出しました。「わたしたちを見なさい。金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。手を取って起され、足とくるぶしとが立ちどころに強くなって、あの彼は踊りあがって立ち、歩き出しました。歩き回ったり踊ったりして神さまを讃美しながら、彼らと共に神殿に入って行きました(使徒3:4-8)
  「悪人に手向かうな」(39);これに対する最も適切な解釈は、聖書自身による解釈です。ローマ手紙 12:16-21

「互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」。

「高ぶった思いを抱かずに。自分が知者だと思い上がってはならない」と、まず戒められました。兄弟同士や家族や隣人、また夫婦の間でも、争いといがみ合いの出発点はそれぞれに高ぶった思いを抱いてしまうことでした。そこから健全な関係が壊れていきました。つづいて、微妙な塩梅(あんばい=ちょうど良い味加減、サジ加減、バランス。かつては料理に使える調味料は色々は無かった。おもに塩と梅酢を用いた)で福音の道理へと導かれます。「誰に対しても悪に悪を報いず、善をなせ」ではなく「善を図れ。できればそうしたいと願いなさい」と。また、「すべての人と平和に過ごしなさい」ではなく、「できる限りでいいですが、なるべくなら……」と。そうそう心優しく忍耐深く、思いやり深く寛大になど出来ない私たちだと、神さまは百も承知で、腹の思いの奥深くまですっかり見抜かれています。それで、「~図れ。できればそうしたいと願いなさい」「できる限りでいいですが、なるべくなら……」と。復讐心や憎しみや妬みをついつい抱えてしまう私たちです。そのために誰か他の人々を傷つけるだけではなく、自分自身の心がどんどん澱んでいって、損なわれていきます。それで、神さまによって愛されている者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。ついつい抱えもってしまった復讐心や憎しみや妬みを、なんと神さまが肩代わりをしてくださるというのです。ゴミ処理係のように、粗大ゴミ回収業者のように。その復讐心や憎しみや妬みや怒りの感情こそが、あなた自身を傷つけ、おとしめる。だから手放し、私に任せなさいと。末尾21節の「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」は、少し分かりにくい言い方ですね。飢えていたら食べさせ、その敵対者の喉が渇いていたら、おいしい水を飲ませてあげなさい。親切にしてあげなさいというのです。すると、「彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになる」。燃えさかる炭火は「聖霊なる神のお働き」を言い表すときの比喩的な言い方です(「聖霊と火によって洗礼を授ける」マタイ3:11,「舌のようなもの。炎のように~聖霊に満たされ」使徒2:3-4)。意地悪をしたのに、なぜ親切を返されたのか、何だろう何だろうと奇妙に思うことから、神ご自身の導きを受けてその人も神を信じる人になるかも知れません。それが、その人の頭に積まれた『燃えさかる炭火』です。
  マタイ5章に戻ります。40節「あなたを訴えて~」。借金に関する訴訟です。ここで、その相手に「下着ばかりでなく上着も与えよ」は、度を越した譲歩です。行き過ぎた、あまりに不合理な譲歩であり、憐れみ深さです。ユダヤ人の多くはとても貧乏でした。下着は何枚か持っていても上着は一枚しか持っていない貧乏人も多かった。そして夜は凍え死ぬほどにとても冷え込む独特な気候風土です。質草としてその貧乏人の上着を取り上げても、日が沈む前には返してやれと命じられました。未亡人からも上着を取り上げてはならない。なぜなら、その一枚の上着がなければ寒くて寒くて凍え死んでしまうからです。で、その「上着さえ与えよ」。貧乏人にとって一枚のなけなしの上着とは、決して奪い取られてはならない、生きてゆくための必要最低限の権利です。それをさえ明け渡してもいいと勧められます。自分の命と生きる権利さえ「はい、どうぞ」と相手に差し出そうとしている、どこにもありえないほどの徹底した、あまりに愚かなの自己放棄です。41節「1マイル行かせようとするなら2マイル行け」。ユダヤは当時、ローマ帝国の植民地でした。ローマ人には被占領国であるユダヤの人々に強制的に無理矢理に労働を強いる権利がありました。必要な場合には、占領者・支配者であるローマ人はユダヤ人の誰にでも、無理矢理に食事や、宿、馬や馬車などを提供させ、荷物を運ばせる権利があったし、ユダヤ人にはそれに従う義務が課せられました。通りすがりのクレネ人シモンが主イエスの十字架を無理に担がされたのも(マタイ27:32)、同じ事情です。42節「求める者に与え、借りようとする者を断るな」。自分は豊かに安楽に暮らしながら、目の前の他人の困窮や必要に目をつぶっていてよいのか、と問われています。「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう」(ヨハネ手紙(1)3:17-19)

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  さて、ここまで読んできて何が理解できたでしょうか? 「下着ばかりか上着まで差し出せ」と命じられたとき、それは自分の最低限の権利や生命さえ差し出すに等しい、あまりに理不尽で不合理すぎる要求でした。はっとして、思い出すことがありました。また同様に、「右の頬を打たれたら左の頬も」と命じられて、そんなことをしているクリスチャンなどただの一人も会ったことがないなどと、正直なところ呆れ果てました。ただの、気高い倫理が語られていたのではありません。キリストの教会とクリスチャンのあるべき理想像が高らかに歌われていたわけではありません。絵空事の理想像を教会と私たちの間に持ち込んではいけないと、口を酸っぱくして語り続けます。「キリストの教会。一人一人の、生身のクリスチャン。それは罪人の集団にすぎない」;このことをよくよく覚えておきましょう、と。つい先々週も、キリストの教会とクリスチャンについての2種類の両極端の、とんでもない誤解がキリストの福音を歪ませつづけていると報告しました。1つは、「いいんだいいんだ罪深いままで」と罪の中になお留まりつづけようとする誤解。もう1つは、素敵な理想像を教会とクリスチャンに無理矢理にあてはめようとする誤解。しかも両方共が、聖書と神さまご自身をそっちのけにしています。『クリスチャン、キリストの教会。罪人の集団にすぎない』;それを、よくよく分かっている必要があります。『罪をゆるされ、けれどなおまだまだ罪深い罪人』として私たちは生きる。ゆるされた後でもなお罪深い。けれどなお、「下着ばかりか上着まで、名誉も権利も尊厳も生命さえ差し出た」ただお独りの方がおられることを、私共は知っています。右の頬を打たれ、両頬どころかツバを吐きかけられ、茨の冠をかぶせられて嘲笑われ、「他人は救ったのに自分は救えないのか。十字架から降りてこい。それを見たら信じてやろう」と侮られ、鞭打たれ、生命を取られてくださった、ただお独りの方、救い主イエス・キリストがおられたことを知っています。この後歌います讃美歌204番はこう歌いました;「私たちが驚いたり、誉めたたえたりする偉大な業績や働きは世の中に山ほどある。見比べ合って、誉めたりけなしあったり、自惚れたりひがんだりして暮らす私たちだ。それでもなお、神の独り子イエス・キリストが私たち罪人を救うために生命を贈り与えてくださった、その愛には遠く及ばない」(讃美歌2042節の現代語訳)。ああ本当だ、本当だ。だからこそ、ここには薄暗い約束事や慣習やしきたり、作法、体裁、一般常識、細々した四角四面のルールもすっかり消え果てて、神さまの恵みと真理こそが真昼のように、朝も昼も晩も明るく照り輝いている(同讃美歌、4節を参照)
 安心し、期待して、祈り求めましょう。