2015年10月26日月曜日

10/25「隠れたことを見る神」マタイ6:1-5,コリント手紙(1)4:1-5

                                       みことば/2015,10,25(主日礼拝)  30
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:1-5,コリント手紙(1) 4:1-5    
 日本キリスト教会 上田教会
『隠れたことを見る神』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。                                                     
(マタイ福音書 6:1-5)

 
  1-4節。「自分の正しさを、見られるために人の前で行わないように注意しなさい」。けれど、何のためでしょう。願っているその『自分の正しさ』はすでに他人と周囲の人々の目から見た正しさ、世間的な立派さに過ぎないからです。もうすでに頭の中では、人間のことばかり思い煩って、神さまを思う暇がほんの少しもないからです(マタイ16:23参照)。「誉められたら嬉しい。けなされれば悔しい。感謝されたり、尊敬されたりされれば鼻高々になり、誰にも見向きもされなくなったら寂しいし、悲しい」。ぼくもそうです。多分、たいていの人はそういうふうに出来ています。けれど、他人から良く思われたいという願い、悪く思われたらどうしようという恐れが度を越してその人の心を支配し、左右しはじめるとき、その人は、『人様がどう思うか。世間様にどう見られるかという病気』にかかっています。すでに、かなり重体です。他の人々もクリスチャンも、ほとんどすべての人がこの病気にかかります。放っておくと症状が急激に悪化し、ついには死に至ります。2-4節をもう一度、読みましょう。「自分の前でラッパを吹き鳴らすな」「右の手でしていることを左の手に知らせてはいけない」と極端な言い方をしています。けれど、そう語りかけている主イエスの真意が分かりますか。また、自分自身の普段の行いや考え方や感じ方、腹の据え方に、ここで警告されていることがよく当てはまると気づくことができますか? 
  神さまは隠れたことを、ちゃんと見ていてくださる。だから、あなたもそこに目を凝らしなさい、と勧められています。「誉められたら嬉しい。けなされれば悔しい。感謝されたり、尊敬されたりされれば鼻高々になり、誰にも見向きもされなくなったら寂しいし、悲しい」。もちろん、そうです。それでもなお、人間たちに誉められたりけなされたり、周囲の人間たちから喜ばれたりガッカリされたりする以上に、その千倍も万倍も 神さまこそがあなたをご覧になって、喜んだりガッカリしたりしておられます。「偽善者め。不届きなしもべだ」と叱られたり、ガッカリされたりもします。あるいは天の主人から、「良い忠実なしもべよ、よくやった。私も嬉しい」と喜んでいただけるかも知れません。ぼくは、それを願っています。ぜひ、なんとかして、この僕自身もそうでありたい。私たち人間のモノの見方や評価と、神さまご自身のモノの見方や評価とは全然違うと語られつづけます。預言者は告げました;「 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる」。また、イスラエルの最初の王がクビにされた理由は、兵士たちや人々のよい評価を得ようとし、人々の気に入ることをしなければと心を惑わせ、神さまの御心に従うことを二の次、三の次としてしまったからでした。サウル王のふり見て我がふり直せ、と厳しく戒められています(サムエル上13:7-1415:13-25)。次の王を立てようとするとき、預言者の口を通して神ご自身がこう仰いました。「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る』」(イザヤ書55:8-9,サムエル上16:7)

  ご一緒に読んだもう一つの聖書箇所を確かめましょう。コリント手紙(1)4:1-5;「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」。クリスチャンって何なんだろう、と折々にたびたび思いめぐらせていますね。どういうふうに生きていこうか、何を目指して、どういうふうに暮らしを立てていこうかなどと。ここに、はっきりした答えがあります。そもそもの初めから教えられ、よくよく躾けられてきたとおりに。救いのご計画の中身を、あなたも知っていますね。『救い主イエスを信じる者を、たとえその人たちが罪人であろうが薄情で身勝手な極悪人であろうが、ずる賢い臆病者であろうが、弱虫であろうが、なにしろイエスを信じて生きたというただ1点で救う』という計画です。私たちはキリストに仕える者であり、この救いのご計画をゆだねられている管理者である。だから、忠実であることが要求されている。では誰に対して、何に対して。もちろん、ただただ主イエスに対しての忠実。主イエスに対する忠実、信頼、従順。それこそがクリスチャンであることの意味であり、中身です。『主イエスへの忠実こそが命じられている』という肝心要を、この私たちも、しばしばすっかり忘れ果ててしまいます。そこから さまざまな混乱や争いや悩みも次々と沸き起こってきます。
  3-5節。「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」。「自分自身をつくづくと振り返ってみて、何一つもやましいことはないが」とあの彼は言っています。が、これはアッサリと聞き流してください。誰でもちょっと思い違いをしたり、うっかり口が滑ったりしますが、彼もそうです。うっかり口が滑りました。私たち皆がそうであるように、あのご立派そうに、清廉潔白に見える彼だって、ほんの少し立ち止まって胸に手を当てて考えれば、やましい所や恥ずかしいことが山ほどあります。折々に、私たちは問いただされました。「あなた、本当にクリスチャンなの? 証拠は?」と。職場の同僚や親戚や自分の夫や妻から、子供たちから、「あれれ」と疑わしげな眼差しを向けられ「お母さん、本当にクリスチャンなの?」と。だってその時の私は、人から誤解されたり悪く思われる度毎に、クヨクヨしたり腹を立てたり、ひどく気に病んだり、よけいに意固地になるからです。人から恥ずかしい思いをさせられたり見下されたらどうしようと尻込みしたり、おじけづいたりしています。ちょっと待ってください。それでは、《人からどう見られ、どう思われるか》という秤で物事を量っているではありませんか。また別の時にのボクは、「私はそれをしたい、したくない。好きだ嫌いだ」と、《自分の考え。自分のやり方。自分の好き嫌い。その時々の気分。その場の空気、雰囲気》という秤にすっかり心を奪われて、その秤の言いなりにされているではありませんか。別の時には、「○○さんがこうしろと言うので」などと、ついうっかりして、その○○さんの召使いのように《その人の考え。その人の指図》という秤で、自分がすべきこと、してはいけないことという1つ1つの言動や態度を量っている。しかも兄弟たち、そのあまりに人間的で生臭い、そのみみっちくてケチくさい秤はあまり楽しくない。その、人間のことばかり思い煩い神さまのことをほんの少しも思わない秤は、あまり自分を幸せにはしてくれない(マルコ福音書8:33参照)
 「せっかくクリスチャンとしていただいたのに、これじゃあ、どこがどうクリスチャンなんだか自分でもさっぱり判らない」と溜め息をつき、そこでようやく思い出しました。もう1つの全然違う素敵な秤を持っていたことを。「そういえば、たしか持っていたはずだ」。ポケットの中をゴソゴソ探しました。あった。何年も何年も使わないで放ったらかしにしていたおかげで、ずいぶん錆びついているけど、手入れをすればまだ使える。そして、使い始めました。この秤、このモノサシ。《私を裁くのは主なのだ》という秤とモノサシ。その、私たちを裁くためにやがて来られる主。その方は、ポンテオ・ピラトのもので裁判にかけられ、唾を吐きかけられ、ムチ打たれ、あざけられ、なお口を閉ざしたまま十字架につけられた、あのナザレの人イエスです。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分からないのですから」(ルカ23:34)と私たちのために執り成しをし、また、そのためにこそ、ご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流しつくしてくださった救い主イエスです。そのただお独りの方は、私たちを、つまらない惨めな秤やモノサシから自由にしてくださるために、みせかけやゴマカシの裁きから解き放ってくださるためにこそ来てくださいます。『イエスこそ主である』というこの秤、このモノサシ、この腹の据え方こそが、私たちを広々とした場所へと連れ出してくれるでしょう。晴れ晴れとした、さわやかな場所へと。キリスト者の自由(ガラテヤ手紙5:1-)という名の素敵な場所へ。そこで私たちは、《して良いこととしてはいけないこと。言って良いことといけないこと》を判断し、区別し、心で聞き分けることができます。心の奥底で密かに弁えるだけではなく、「あなたはそんなことを言ってはいけません。それは悪いことです」と口に出し、誰の前でも何様に向かってでも、いつでもどこででもはっきり態度に示すことさえできます。ね、素敵でしょう。それまではドンヨリ曇っていた心が晴れ晴れとしてくるでしょう?
 しかも兄弟たち。終わりの日の、その最後の決定的な裁きの法廷に私たちそれぞれが立たされるとき、果たしてお誉めにあずかるのかそうではないのか。それは、ただただ救い主イエスを信じたのかどうか、この1点にだけかかっています。それを知りながら生きるのと、知らないで生きるのとでは、辿り着く場所が全然違うからです。よくよく分かっていてください。「貧しく惨めな小さな旅人たちに、この私がコップ一杯の水を与えたのかどうか、いいよいいよと宿を貸し、衣服を着せかけ、見舞ってあげたかどうか。何回あたたかく迎え入れ、また何回くらい冷たく薄情に退けたり、乱暴に追い払ったりしたのか」(マタイ25:31-46参照)ということではありません。それは、終わりの日の裁きの判断材料ではありません。分かりますか? 騙されてはいけません。もし仮に、それを厳しく問われるならば、いったい誰が合格点に達して誉めていただけるでしょう。そんな人は1人もいません。ただの1人も。皆、誰も彼も全員が落第で あなたもこの私も失格する他ありませんでした。けれど、それなのに 救い主イエスを信じる信仰というただ1点(ローマ手紙3:9-26,130:3-4,エレミヤ31:33-34)。大昔から、聖書自身の時代から今日に至るまで2000年もの間ずっと議論されつづけてきた根本問題であり、この信仰の永遠のテーマです。良い行いによって救われるのか、それとも信仰によってただ恵みによってだけ救われるのか。もちろん、良い行いなどどうでもよいということではありません。神ご自身も私たち1人1人も、人に親切にする温かい善良な人間でありたいと心から願いつづけます。それでもなお、正しい人間は1人もおらず、人は誰も皆あまりに罪深い存在だったのです。救われるに値しない身勝手で冷淡な人間を、なお神さまは見捨てることなく、迎え入れようとして、ゆるそうとして、手を差し伸べつづけます。これが、福音の核心です。終わりの日だけでなく、今日も明日も、こう語られつづけます。「親切な、心優しい温かい行いを、あなたもほんの少しはした。薄情で冷たい身勝手なふるまいも山ほどしでかし、やましいところがいくつもあるあなただ。百も承知だ。それでもなお綱渡りのようにしてかろうじて、あなたも救い主イエスを信じとおし、生きて、その信仰に守られつづけてやがて死んでゆく」と(ヨハネ福音書3:16-21,テモテ手紙(1)1:12-17,ローマ手紙3:21-28,4:21-25,5:1-11,8:1-11,31-39,詩編130:1-4,マタイ福音書25:31-46)
なんという恵み、なんという喜びか。さあ、祈りましょう。