2019年9月22日日曜日

聖書研究『モーセの顔覆いとは何か?』


 聖書研究『モーセの顔覆いとは何か?』
                         2019,8,14  金田聖治


 1.発端 「新しい神々を造ろう」  ………………………………………………1
 2.モーセ崇拝はいつから始まったか?  …………………………………………3
3.私たちには自己神格化や自己崇拝に向かうはなはだしい傾向がある。………4
4.モーセの顔覆い         ………………………………………………5
5.「世の光である私たち」と「世の光である主イエス」、
 そして「ひととき燃えて輝くあかり」と。      ………………………………7
 6.私たちを神から離反させるもの。      ………………………………9-12

出エジプト記34章28-35とコリント人への第二の手紙3章6-18節。
その明らかな発端は出エジプト記32章の「金の子牛事件」でしたが、32章と34章には深い関連があると考え、この7~8年ほど思い巡らせつづけている難解箇所の金田の課題です。十戒を二度目に授けられてシナイ山から下りてきてから、モーセの顔はピカピカとあまりにまぶしく光輝き、人々は恐れて彼の顔を直視できなかった。それで顔覆い。「いいんだよ、いいんだよ。恋をしたときと似ているし。素敵な神さまと会って素敵なお話をして、そしたら顔がキラキラ輝くんだよ。クリスチャンなら経験あるでしょ、分かるでしょ君も。ね」などととても肯定的に楽観的に支持する人たちもいる。他方で、聖書自身が聖書に対して、「それは違うんじゃないか?」と異議申し立てをします。むしろ不信仰であり、彼らの心が鈍くなっていたせいではないかと。とびっきりのチョー難解・大問題個所。生身の人間にすぎない指導者モーセの神格化とモーセ崇拝についてです。しかもこの重大問題は、私たちの只中で、今日に至るまでつづいています。

1.発端 「新しい神々を造ろう」
まず、出エジプト記321-9。十の戒めの板は二度授けられました。その最初のとき、モーセがシナイ山に登って4040夜、帰ってきません。今日来るか明日帰ってくるか、あの彼がどうなってしまった分からない。もう帰ってこないかも知れない。さて、シナイ山に登る直前にモーセはあらかじめ長老たちに自分が不在時における緊急対応法を指図しておきました。出エジプト記24:14、「彼(=モーセ)は長老たちに言った、『わたしたちがあなたがたの所に帰って来るまで、ここで待っていなさい。見よ、アロンとホルとが、あなたがたと共にいるから、事ある者は、だれでも彼らの所へ行きなさい』」。さて、出エジプト記321-9です。「民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、『さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです』。アロンは彼らに言った、『あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい』。そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、『あすは主の祭である』。そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。主はモーセに言われた、『急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。主はまたモーセに言われた、『わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である』』。
神の民がしでかした悪いことについて、一人の注解者はこう説明する、「イスラエルの民はエジプトで労役に服していた時に、この子牛の像に親しんできたに違いない。しかしこの場合は、彼らが一足飛びにバアル崇拝に走ったわけではなく、これは目に見えないヤーウエの台座としての意味を持っていただろう。(のちに王国が南北二つに分裂した際に)ヤロブアムは多分、シナイ山ろくで起こったこの事件を思い起こしながら、同時に、当時カナンにおいて一般的であったバアル神の台座としての雄牛をヤーウエの台座として導入し、『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる』(列王上12:28 新改訳)と言ったのである。それでイスラエルの人々は、ヤーウエへの信仰を持ちながら、大した抵抗もなく、金の子牛を礼拝しにダンまで行ったのである」(「新聖書注解」該当箇所、いのちのことば社)。いったいどうしてあの彼らが、素敵で豪華な足台や台座だけで満足できるでしょう。だって、目に見えない神を見えないままに信じることに、彼らはまったく失敗してしまったのです。その彼らが「目に見える台座、見える足台」だけ造って、その上に乗っかっているはずの目に見えない神を、見えないままに信じることができるはずがない。ただ、「一足飛びにバアル崇拝に走った」と認めるのが、その注解者は嫌だった。別の研究者はこう言います、「(目に見えない神を見えないままに信じつづけることは困難で、そのため)神を自分たちの理解できる範囲の存在として改めて定義し直した。イスラエルは神の存在を超えようとした」。神理解の自己流の好都合なアレンジではないかと。いずれにしても、それははなはだしい不信仰であり、共同体に大きな災いをもたらすはずの罠となりました。レビ人らを用いて大規模で厳しい粛清がなされねばならなかったほどに。「あなたがたには私以外に神があってはならない」と戒められ、「同じ母に生れたあなたの兄弟、またはあなたのむすこ、娘、またはあなたのふところの妻、またはあなたと身命を共にする友が、ひそかに誘って『われわれは行って他の神々に仕えよう』と言うかも知れない。これはあなたも先祖たちも知らなかった神々、すなわち地のこのはてから、地のかのはてまで、あるいは近く、あるいは遠く、あなたの周囲にある民の神々である。しかし、あなたはその人に従ってはならない。その人の言うことを聞いてはならない。その人をあわれんではならない。その人を惜しんではならない。その人をかばってはならない。必ず彼を殺さなければならない」(申命記13:6-11と容赦ない徹底した警戒が荒野時代に命じられている必然があります。受け止めましょう。実際には、金の子牛を拝むそのずっと前に、「生身の人間の指導者に過ぎないモーセ」を拝んでいたし、モーセ大先生を崇拝していた。神に聴く代わりにモーセに聴いたし、神に従う代わりにモーセに信頼して従っていた。エジプトで素敵な子牛像を見る前に、毎日毎日、素敵な子牛像よりもっと素敵な、とても都合の良い神の代用品を眺めつづけていたです。だからこそ、モーセが4040夜の長期出張から帰ってこなかったとき、彼らは「新しい指導者を選ぼう」ではなく、直ちに、「新しい神々を造ろう」と一致団結して決議した。人々がアロンに、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。アロンが造った子牛像を見て、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。だからこそ、主ご自身がモーセにはっきりと仰った、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。彼らは、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」と。

2.モーセ崇拝は いつから始まったか?
預言者サムエルに向かって、主ご自身が断言します。「彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王としてあることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、今日まで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである」(サムエル記上8:7-8。「エジプトから連れ上った日から、今日まで」と。モ-セ在任中から。燃えても燃え尽きない柴の木の前で職務につけられてから、カナン到着の直前まで、その在任期間中に彼は一度も長期休暇を取らなかったし、長く職務から離れることもなかった。つまり、神の民イスラエルが神を捨ててほかの神々に仕えることに、モーセは当事者として深く関与しつづけています。それどころか、自分自身が神の代用品となって、人々に崇拝させ、拝まれるままに自分自身を拝ませつづけていました。就任直前、どこの馬の骨かとモーセは侮られ、軽んじられるだろうと仲間たちを恐れつづけていました(出エジプト記3:11-4:17参照)。エジプト王パロとのエジプトからの脱出を求める10回の外交交渉、葦の海わたり、マナ支給と岩からの水の出来事、アマレクとの戦いの大勝利などをへて、「どこの馬の骨か」扱いからモーセ評価は急速に高まり、いつの間にか、度を越して、彼らはモーセに信頼を寄せすぎてしまいます。
葦の海をわたった直後に、その決定的な痕跡が記されています。出エジプト記14章の末尾、30-31節。「このように、主はこの日イスラエルをエジプトびとの手から救われた。イスラエルはエジプトびとが海べに死んでいるのを見た。イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた」。主とそのしもべモーセとを信じた。そこには、不穏な響きが残ります。「主を信じる」ことと、「そのしもべモーセを信じる」こととは彼らの胸の中では、何対何ほどの割合で両立しつづけるのでしょうか? 2つは1つでしょうか? いつもいつも、主を信じることとモーセを信じることが不都合なく過不足なく、必ず決まって両立するわけではありません。そのとき、先祖と私たちとはどうするでしょう? 教会の子供たちには、こう教えています。「あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか?」「いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます」。神にだけ向かうはずの信頼と讃美がほかの被造物に逸れてしまっては困ります。その分だけ、神への信頼と感謝と讃美が不当に搾取され、損なわれてしまうからです。例えば士師ギデオンと仲間たちがミディアン人を打ち負かしたとき(本当は、それは彼らを用いて主ご自身が戦われ、主ご自身が戦いに勝利されたのでしたが)、ギデオンは「私はあなたがたを治めることはいたしません。私の子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます」と答えたくせに、それとは裏腹に、「あなたがたに1つの願いがあります。あなたがたの分捕った耳輪をめいめい私にください」と要求して、金の耳輪1700金シケルそのほかで1つのエポデを作り、自分の町オフラに展示した。「エポデ」は祭司が職務に当たって着る、祭司だけに許可された職務服であり、神の御心を尋ねるための道具だった。こう付け加えられている、「イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、罠となった」(士師記8:27。「姦淫」は、神の御前での結婚契約に背く、異性との不正な性的交渉ですが、とくに旧約聖書では『他の神々を崇める偶像崇拝』の比喩的表現として多用されつづけました。ここでも同様です。また例えば、ヒゼキア王の時代にアッスリアの王センナケリブの軍隊を南王国ユダの軍勢が打ち破ったとき、「このように主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民をアッスリヤの王セナケリブの手およびすべての敵の手から救い出し、いたる所で彼らを守られた。そこで多くの人々はささげ物をエルサレムに携えてきて主にささげ、また宝物をユダの王ヒゼキヤに贈った。この後ヒゼキヤは万国の民に尊ばれた。そのころ、ヒゼキヤは病んで死ぬばかりであったが、主に祈ったので、主はこれに答えて、しるしを賜わった。しかしヒゼキヤはその受けた恵みに報いることをせず、その心が高ぶったので、怒りが彼とユダおよびエルサレムに臨もうとした」(歴代志下32:22-25。先祖と私たちのために、何が罠として残されているか分かりますか。ヒゼキアさえも心が高ぶって、主から受けた恵みをうっかり忘れてしまいました。危ないところでした。そのいつもの発端は、主ご自身への感謝や信頼と共に、人々が目の前の生身の人間に過ぎない指導者に感謝や信頼を共にささげるところから始まります。

3.私たちには自己神格化や自己崇拝に向かうはなはだしい傾向がある。
こうしたことを調べ始めていたころ、ヴァルター・リュティ講解説教集『アダム』(新教出版社)所収の「虹の契約」直後のノアの醜態について、説教者リュティは「ノアの醜態がはっきりと記録されていることが御心にかなっていた」と説き明かします――
「今日に至るまで、われわれ人間は自己神格化や自己崇拝に向かう傾向を顕著に示しています。けれども、かかる領域に関しては、神の言葉は特に用心深いのです。(人間に)後光がさすところには神の言葉が介入します。アブラハム、ヤコブの場合、ダビデ、ペテロの場合がそうです。そして、ノアの場合にもです。彼らすべての者から、時として無神的と思えるほどの厳しさをもって、威嚇的な後光が取り除かれます。「聖人」も恵みによって生きるのです。ただ恵みによってのみ生きるのです。人間の顔立ちをしている者のうち、罪の赦しなしに生きた者は誰一人として存在しません。……いつの時代においても、教会の中にあるわれわれの足下から自己義認の萌芽と残滓とを取り除くのに役立つことでしょう。そして同時に、われわれは、神によって提供されている赦しを受け取るべく招かれるのです」(前掲書 p269。自己神格化や自己崇拝に向かう傾向が私たちにははなはだしくあること。また、ぜひとも取り除くべき自己義認の萌芽と残滓と。
もう一つの示唆は、サムエル記上8章7-8節。主ご自身がサムエルに打ち明けます――

「彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王としてあることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、今日まで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである」


「わたしがエジプトから連れ上った日から、今日まで」。士師時代からでもなく、ヨシュア時代からでもなく、モーセ在任中から。そこから、金田の探索がはじまりました。それは具体的には、いつ、どんなふうにと。出エジプト記32章に辿り着きました。長い間、考えつづけてきましたが、出エジプト記32章と34章にはアロンとイスラエル同胞の不信仰と心の鈍さがとても危機的で重篤なまま連続してつづいているように金田には思えます。モーセが行方知れずになったと思った途端に、彼らの目には主なる神も消え失せたように思えた。「だから、新しい別の指導者を」なら信仰にも道理にかなっています。けれどそうではなく、一足飛びに、いきなり「新しい神々を造ろう」と。心を鈍くされた彼らの目にはモーセと神は一体化して、二重写しに見えていました。モーセの神格化であり、モーセ崇拝の明確な証言でもあります。
モーセの顔の輝きは1回目の十戒授与時には目撃されず、2回目のみ。また34章以外では、顔が光輝いたことも、顔覆いもまったく一回も記録に現れません。これと『救い主イエスの山上の変貌』とを対比して肯定的に受け取る人々もいますが、救い主イエスは神であり人であるかたですから太陽のように輝いてもよいでしょう。けれど、被造物にすぎない人間では大きな差し障りがあります。「もし仮に、そう見えたのだとしたら、しかもそれであまりに畏れ多くてすくみ上ったのだとしたら、彼らの心が鈍くなっていたためでしょう。主にこそ向き直って、共々に覆いを取り除いていただかねばなりません」(コリント手紙(2)3:14と戒めあわねばなりません。出エジプト記32章では、神の民とされたイスラエルとモーセの目から見た出来事がほぼそのまま報告されています。1つの観点です。やがてずいぶん後になってから、それとは違う別の角度から、もう1つの相反する報告がなされます。

4.モーセの顔覆い
出エジプト記34章28-35節、「モーセは(二度目に)主と共に、四十日四十夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十誡を板の上に書いた。モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。モーセは彼らを呼んだ。アロンと会衆のかしらたちとがみな、モーセのもとに帰ってきたので、モーセは彼らと語った。その後、イスラエルの人々がみな近よったので、モーセは主がシナイ山で彼に語られたことを、ことごとく彼らにさとした。モーセは彼らと語り終えた時、顔おおいを顔に当てた。しかしモーセは主の前に行って主と語る時は、出るまで顔おおいを取り除いていた。そして出て来ると、その命じられた事をイスラエルの人々に告げた。イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた」。先ほどのリュティなら、「おい、どういうことだ? おいおい後光が射しているいるぞ、前からも後ろからも」と私たちに大慌てで警告するでしょう。パウロは、「そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」(コリント手紙(2)3:13-16。「心が鈍くなっている彼ら」とは、第一にはアロンとイスラエル同胞です。「その鈍い心と目ではモーセの顔は光り輝いて見えたし、恐れを呼び起こした」とパウロは解釈しています。「今日に至るまで」「今日に至るもなお」と強調して、その同じ不信仰と心の鈍さが私たちにも悪影響を与えうると大きな危機感をもって厳しく警告されているように金田には思えます。主に向き直りさえすれば、顔の覆いも心の覆いも取り去られるし、それらの覆いは取り除かれるはずだと。
 「モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに」「モーセが、消え去ってゆくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いをかけたようなことは(私たちは)しない」(コリント手紙(2)3:7、13。「消え去るべき栄光」についてはJ.カルヴァンの見解も含めて複数の推測がなされています。あるいは、モーセの顔の輝きは「神の栄光や権威の照り返し」のようなものかも知れません。仮にそうであるとしても、ほんのひと時、それが人間の存在や顔を輝かせるとしても、長く特定の個人の顔に留まるべきではありません。しかもそれは、相手に喜びや自由や感謝ではなく、むしろ逆に、目をそむけたくなる畏怖を呼び起こす、権威的で威圧的な輝きでした。J.カルヴァンもコリント後書注解の該当箇所で、「パウロは「(人々の恐れについて)イスラエルの子らは、おそれを抱かせる奴隷の霊を受けた」と言っている。ローマ8:15」「(イスラエルの子らの)その盲目ぶり」「今パウロは見る目の鈍さのことを言っている」と。

 5.「世の光である私たち」と「世の光である主イエス」、そして「ひととき燃えて輝くあかり」と。
 救い主イエスこそ「世とすべての人を照らすまことの光」(ヨハネ福音書1:9、同8:12、同9:5。その光を照り返して、私たちは「地の塩、世の光」とされている。あのお独りの方が光であることと、私たちもまた、あのお独りの方に率いられ、伴われて、まことの光を反射して「光とされ、塩とされている」こと。それらは、独り子イエスと御父との深く固い結びつきを根拠としています。御子の、御父への徹底した従順です。ルカ福音書612-13節。「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」。このときばかりでなく、救い主イエスは折々に、何度も何度も寂しい場所に独りで退き、また独りで山に登り、天の父なる神に向かって祈り、御父と語り合いました(ルカ5:16,6:12,マタイ14:23,マルコ1:35ほか多数)。しかも「夜を徹して」というのは、ずいぶん念入りな、心を尽くし力を注ぎだした祈りの格闘だったからです。天の御父とよくよく語り合い、よくよく祈って、御心を教え知らされたその結果として、救い主イエスは12人の弟子を選び、また少し前の4章43節でも、「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである」と。この「~しなければならない」という断固たる口調は、『神ご自身の決断と意思』の言葉だと世々の教会は聞き取ってきました。「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである。だから、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えなければならないし、また、12人をこのように選び出さねばならない」と。神の国の福音を宣べ伝えることも、12人の働き人たちを選び出すことも、一つ一つ皆、天の御父があらかじめ決めて用意しておられた救いの計画です。ですから、それらの決断は天の父なる神とよくよく語り合った後になされます。主イエスの一つ一つの働きや決断の前に、必ず、こうした祈りの時間があったと報告されます。「救い主イエスはそのためにこの地上に遣わされた」。誰から。もちろん天の父なる神からです。自分を遣わした御父からの使命を果たすこと。それこそが、遣わされた者であることの根本的な意味です。だからこそ天の父なる神は、独り子である神、救い主イエスを名指しして、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。だから、これにこそ聴け」(ルカ3:22,9:35と私たちに命じます。二度も繰り返して、念を押してです。それゆえ救い主イエスもまた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ福音書5:19-20,6:38,8:28-29と。また聖霊なる神は、救い主イエスがどんな方であるのか、何をなさり、何を教えたのかを分からせ、私たちに救い主イエスを信じさせます。そのようにして、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は一つ思いになって、一つの救いの御業を成し遂げます。
主イエスから遣わされて生きる、主イエスの弟子である私たち一人一人もまた、御父と主イエスから「しなさい」と命じられたことをなし、「してはならない」と戒められていることをしないでおきます。自分からは何一つもせず、自分の心のままをするのではなく、ただただ御父と主イエスの御心を行うことを願って一日ずつを暮らすことができます。だからこそ私たちそれぞれの粗末ないたらない光と塩加減を見たり、味わったりしてさえも、「人々が、天にいます私たちの父を崇める」(マタイ福音書5:16ようにもなる。それが、私たちがクリスチャンであり、主イエスから遣わされた者たちであることの意味と中身です。他方でヨハネ福音書5:35-44、「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。……あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。わたしは人からの誉を受けることはしない。しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか」。聖書中にある生命を得るために救い主イエスのもとへと来ようとしない。この「あなたがた」として、2つのグループが想定されています。1つには、律法学者らに指導されるユダヤ人たち。また、「指し示す指先である者たち」を喜び楽しもうとするばかりで、救い主イエスのもとに来ようとしない、救い主イエスに聴き従おうともしない先祖と私たちにも語りかけられています。救い主イエスのもとへ来て、聴き従って、生命をぜひ得るようにと。
「一つの教会・伝道所で長く務めた伝道者は辞職し、また引退した後でもなおそこに長く留まってはいけないと思います。互いに慎みをもって、その群れを離れて、余計な関わりを保ちつづけないように深く自制しつづける必要があると思います。どうぞ、お考え下さい」と、ある年配の教職がこの数年、同じような趣旨の要望を公けの場で何度か繰り返して発言しています。無任所であり、あるいは他の引退教師、その教会を辞した教師がなお引き続き、その教会の長老たちや教会員との間に深く強い信頼関係や牧会的なつながり、大きな影響力を保ち続ける。そのために新しく赴任した伝道者の働きが妨げられて、不本意なしかたで辞職してしまう。同じような事例が、私たちの周囲でも、遠くのあちこちでもいくつも起こっています。少なくとも数十年以上も前から頻回に繰り返して。他の教派集団でも同様です。そうした出来事が教会に痛手とはなはだしい災いをもたらしつづけます。
「世の光である私たち」と「世の光である主イエス」、そして「ひととき燃えて輝くあかり」と。同じ一つの本質から、これらは出発した。けれど道を逸れて、私たちを惑わせ、心を鈍くさせるようにも働く。働きつづける。とくに洗礼者ヨハネは、伝道者と一人一人の私たちクリスチャンの根源の生命と使命とをはっきりと表わした。「照り返す光」であり、「指し示す指先」であると。もし、洗礼者ヨハネという名前の一人の生身の人間に過ぎない伝道者に信頼して、その彼にだけ聞き従って生きることしかできないのならば、弟子たちは道に迷ってしまいます。あの彼も、ほかすべての伝道者も、『救い主イエスを指し示す指先』にすぎません。このことを、もちろん伝道者自身も含めて、すべてのクリスチャンはよくよく分かっていなければなりません。『救い主イエスを指し示す指先』と、『指し示されている救い主イエスご自身』と。その『指先』は救い主イエスを指し示し、イエスがどういうお方であるのか、何をしてくださるのかを告げ知らそうとしています。それなのに弟子たちが、もし、いつまでたっても『指先』ばかりに目を凝らしつづけて、指し示されている救い主イエスご自身をちっとも見ようとせず、いつまでたってもイエスに聞き従おうとしないならば、『指先』は神さまから委ねられた大切な役割と使命をちっとも果たしていないことになります。むなしく、むだに働いたことになり、むしろ大きな災いの種となってしまいます。だからこそ、「花嫁(=クリスチャン、キリストの教会)をもつ者は花婿(=救い主イエス)である。花婿の友人(=伝道者)は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼(=救い主イエス)は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ福音書3:29-30と洗礼者ヨハネは証言した。そのとおり。洗礼者ヨハネだけではなく、ほかすべての伝道者も、『救い主イエスを指し示す指先』にすぎません。もし、指し示す指先にすぎないはずの伝道者がリア王のような妄執にかられて自分自身の栄光と讃美と人からの信頼を求め続けてどこまでも栄えようとするなら、その分だけ、花婿である救い主キリストのための栄光と権威と、彼のための信頼と讃美が不当に損なわれ、虚しく衰えてゆくほかありません。恐ろしいことです。その一人の伝道者が委ねられた務めを精一杯に十分に果たしたかどうかは、どんなクリスチャンが育っていったかにかかっています。一つ一つの事柄についてどういう判断基準をもって選び取り、捨て去り、何を大事にして、どのように生きるクリスチャンが生み出されたのか。判断基準はただただ聖書であり、主イエスの福音です。神の御心にかなっているのか、そうではないのかという判断です。もし、「天に主人がおられる」とよくよく弁えて、「人間に聞き従うのではなく、神にだけ聞き従うべきだ」(コロサイ手紙4:1,使徒4:19,5:29と腹をくくって生きるクリスチャンが育っていくなら、その伝道者はとても良い働きをしたことになるでしょう。






























              
            

             グリューネバルト『祭壇画』(部分)



6.私たちを神から離反させるもの。
生身の人間であるすべての伝道者は、キリストの先に遣わされた使者です。主イエスの弟子であるすべての福音伝道者たちは、「主イエスの弟子である」という理由で尊ばれねばなりませんし、これまでも必要なだけ十分に尊ばれてきました。けれど、限度を超えて尊ばれすぎてはなりません。聖書は証言します、「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」(コリント手紙(1)3:5-7と。何者か、いいや決して何者でもない。「植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」と、わざわざ厳しく容赦なく釘を刺しました。そうしつづける必要があるからです。思い上がって、ついつい図に乗ってしまう私たちだからです。だからこそ、今回のこの集会の呼びかけのチラシは語りました、「使徒行伝は、エチオピアの宦官に洗礼を授けた使徒ピリポはその瞬間、もはやそこから埒し去られたと伝えています。そこには受洗者が父・子・聖霊に満たされ、ピリポがいる余地がなかったと。日本キリスト教会信仰告白は、教会のしるしは御言葉の説教と聖礼典の執行と信徒の訓練であると告白しております。このすべては、ただキリストをあらわしています。この『自己不在』の伝統は私たちに何を訴えているのでしょうか」と。この『自己不在の伝統』は御子イエスの御父への徹底した従順に由来し、十字架上の御子の自己奉献を指し示し、それゆえ私たちも自分自身の義や願いや欲求や志しなどではなく、「ただただ御心が成し遂げられますように」と神への従順にこそ生きることを願う生きざまを呼び起こしつづけます。神の恵みの教理、神中心の信仰の中身はこれです。そうした自己不在の良い伝統があるはずの私たちの教会で、キリスト教会自身も、それぞれの伝道者たちも、自己を主張し、宣伝し、やたらと言い張り、ただ虚しく固執しつづけているからです。だから、この無残で惨めなあまりのテイタラクです。私たちは花婿に付き添うことを仰せつかった介添え人だったはずなのに。「何者か、いいや決して何者でもない。取るに足りない。」「植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」と、わざわざ厳しく容赦なく釘を刺されねばならない理由は、私たち自身のうちにあります。自己を尊びすぎ、人からの誉れを求めて傲慢になってしまう自己中心・人間中心の性分に。その自己神格化・自己崇拝の傾きこそが神を主人とすることを拒ませ、神から離れ去らせようとしつづます。
しかも、「目の前の生身の人間に過ぎない指導者に過度で不相応な感謝や信頼をささげてしまう過ち」は、「天使たちに過度で不相応な感謝や讃美や信頼をささげてしまう過ち」とよく似ています。J.カルヴァンが指摘します、「人間の理性は、天使たちに帰してはならない尊敬はないのだという考えにすぐに傾くからである。神とキリストのみにしか属さないはずのものが天使に移される。こうして、われわれは神の御言葉に反して、度をすごした讃美が天使らの上に積み上げられて、キリストの栄光が多くの方法によって幾時代も前から曇らされるのを見るのである。また、今日われわれが戦っているもろもろの悪徳のうち、これよりも古いものはほとんどない。パウロも、天使を非常に高めるだけ、それだけキリストを同じところまで引き下ろす人々と、激しく争ったらしく思われる(コロサイ手紙1:16,20参照)。これは、われわれがキリストを見捨てて、それ自身では存在するに耐えず、われわれと共通な泉の水を汲む者にすぎないものに赴いてはならないということである。たしかに、神の神々しい輝きが天使のうちに照り映えているのであるから、われわれにとっては、愚かになって、彼らをひれ伏し拝み、神にしか帰してはならないいっさいのものを天使に帰するに勝って安易なことはないのである」「天使たちが神のもとに、まっすぐにわれわれの手を引いて行って、われわれがこの唯一の援助者を仰ぎ見、彼を呼び、彼を崇めるようにしないならば――、また、天使たちが神の手にすぎず、神から指示を受けることなしには動くこともできないものであると、われわれが考えるのでないならば――、また、天使たちが、われわれを唯一の仲保者キリストに固くとどまらせ、われわれが全幅的に彼に依存し・彼に身をまかせ、彼にささげきり、彼に安らうようにさせるのでないならば――、そのとき、彼らはわれわれを神から離反させるのである。……というのは、神は、御自身の栄光を天使たちと分かりあうような意味で、彼らを御自身の力と恵みとの管理人としたもうのではないように、また、われわれの信頼をわれらと御自身との間で分かち合うような意味で、天使たちを御自身の助けの管理者として約束したもうこともないからである」(「キリスト教綱要」第1篇 第1410-11節)。そのとおりです。神にのみ帰されるべき信頼と讃美と誉れを、天使にも、また被造物にすぎない他どんなものにも分け与えてはなりません。なぜなら、その分だけ、神への信頼と感謝と讃美が不当に搾取され、はなはだしく損なわれてしまうからです。

もちろん私たちは、目の前のその伝道者の言葉に聞きます。その教えを受け、その説き明かしに精一杯に耳を傾けます。ほんのしばらくの間だけは、その伝道者の声を喜び楽しんでもよいでしょう。けれど、ずっといつまでもそれでは大変に困ります。やがて、救い主イエスの御声にこそ精一杯に耳を傾け、イエスにこそすべての信頼を寄せ、救い主イエスの福音を喜び、それにこそよくよく聞き従う者へと成長してゆくのでなければ、とても困るからです。もちろんその伝道者に聞き従うためでなく、その彼に信頼するためでなく、ただただ神にこそ聴き従う自分となるためにです。救い主イエスのもとへと来て、イエスから生命を贈り与えられるのでなければ、死んでしまうはずの者たちであるからです。救い主イエスはこう語りかけます、「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネ福音書5:25。私たちの救いについて、救い主イエスご自身が、「よくよくあなたがたに言っておく」としばしば語りかけます。よくよくあなたがたに言っておく。なぜなら、私たちが喜びにあふれて毎日毎日の暮らしを幸いに生きることを、主が心から願ってくださっているからです。主イエスが語った福音を信じることがとても大切であり、だからこそその言葉を心に堅くしっかりと刻み込んでいるべきだからです。死んだ人たちが、神の独り子である救い主イエスの声を聴くときが来る。今すでに来ているし、今がそのときである。そして、主イエスの言葉を聴く者は生きる。ところで、「死んだ人間」とはどういう意味でしょう? 何か霊的な、比喩のような精神的な意味で、主イエスはそうお語りになるのでしょうか。心の中でだけ、その人の新しい生きざまがほんの少しくらいは起こることもあるが、もちろん実際に死んだ人間が生き返ることなど決してあり得ないと。いいえ、決してそうではありません。もし死人の復活がないなら、キリストもよみがえらなかったはずです。キリストがよみがえらなかったとするなら、わたしたちの宣教はむなしく、わたしたちの信仰もむなしいものです。そうだとすると、キリストを信じて眠った者たちは滅んでしまったことになります。もし私たちが、この世の生活の中でだけ、頭のほんの片隅でだけキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在だということなります(コリント手紙(1)15:13-19参照)
たしかにそうであるとして、「死んだ人間が生き返る」とは現実の体のことでもあり、同時に、霊的な魂の事柄でもあります。その両方です。まるで死んだように生きていた日々が、この私たちにもあったからです。聖書は証言します、「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、……この世のならわしに従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子だった」(エペソ手紙4:1-3。罪と悲惨の只中に死んでいた私たちです。そのように、私たちの本性がはなはだしく堕落して、神の正しさを慕い求める気力も願いもすっかり失われていたとするならば、神からの生命は私たちの中でまったく消え失せていたことになります。だからこそ、救い主イエス・キリストの恵みは「死んでいた人が本当によみがえる出来事」なのです。私たちの教会の信仰告白がはっきりと言い表すように、「神の恩恵によるのでなければ、罪に死んでいた人は神の国に入ることなど決してできません」(「日本キリスト教会 信仰の告白」参照)。この恵みが、救い主イエスの福音によって、私たちの中にはっきりと確かに植え付けられています。また、植え付けられつづけます。救い主イエスが、その御霊の力によって私たちの心の奥深くにまで語りかけるからです。差し出されているキリストの生命を、私たちは主イエスを信じる信仰によって受け取るからです。
その伝道者が語り教えた言葉や知識が、神から出たものであるのかどうか。どの伝道者に対しても、その口から出る一つ一つの約束事やルールが神の御心にかなうものであるのかどうかを熟慮し、なんとかして聞き分けなければなりません。もし、御心にかなう教えや説き明かしならば、それを聞き入れたらよい。けれど、もし、そうではないのなら、それらの教えや説き明かしは、またその約束事やしきたりやルールは拒んで、きっぱりと断固として退けねばなりません。なぜならば、救い主イエスのところに行こうとして、救い主イエスから生命を受け取ろうとして、救い主イエスを必要なだけ十分に信じる自分になろうとして、そのようにして、目の前に立っている一人の伝道者の言葉に私たちは耳を傾けつづけるからです。すると伝道者たちの言葉も、聖書の説き明かしも、やがて少しずつ、ずいぶん違ったものに変貌してゆくでしょう。顔と魂の覆いと鈍さが一枚また一枚と剥ぎ取られて、いよいよ主イエスへと一途に向かう私たちとされてゆくでしょう。
           (「教理教育研究会」日本キリスト教会神学校にて)

9/22こども説教「苦しめられる」使徒12:1-5


9/22 こども説教 使徒行伝12:1-5
『苦しめられる』

12:1 そのころ、ヘロデ王は教会 のある者たちに圧迫の手をのばし、 2 ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。3 そして、それがユダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった。それは除酵祭の時のことであった。4 ヘロデはペテロを捕えて獄に投じ、四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。過越の祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりであったのである。5 こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。 (使徒行伝12:1-5

 心の優しい良い王さまもいるし、とても悪いことをする悪い王さまもいるんだよ。悪い王さまが目の前にいて、自分や他の人たちにひどいことをするとき、自分はどうしたらいいだろう?
ヘロデ王は洗礼者ヨハネを殺し、救い主イエスを死刑にする裁判にも手を貸しました。さらに主イエスの弟子であるヨハネの兄弟ヤコブを殺し、ペテロをも殺そうとして牢獄に閉じ込めました。しかもその理由は、「ただ大勢の人に気に入られたいから、好かれたいから」というだけのつまらない、とても恥ずかしい理由で(3節で「ユダヤ人たちの意にかなったのを見て」、4節で、「彼を民衆の前に引き出すつもりで」とありますね)そういう悪い王は昔も今も、これからもたくさんい続けます。私たちにも、そういう苦しいことや辛いことや嫌なことは次々と起こります。もし、神さまが救いの手を伸ばしてペテロや私たちを守ってくださらなかったら、助け出してくださらなかったとしたら、ペテロもこの私たちもまた 殺されてしまうほかありません。けれど、もちろん神さまこそが生きて働いておられます。だからこそ教会の中ではクリスチャンたちの祈りの戦いがつづいています。「神さま、助けてください。けれど私たちの願い通り、思い通りではなく、ただただ神さまの御心にかなうことが成し遂げられますように」と。この私たちも、苦しいことや辛いこと嫌なことがたくさん起こる只中で、同じ様に、神さまに助けられ、守られつづけて生きることができます。心安らかに、晴れ晴れとしてです。




9/22「神のもとにある家族」ルカ8:19-21


                      みことば/2019,9,22(主日礼拝)  233
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:19-21                    日本キリスト教会 上田教会

『神のもとにある家族』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
8:19 さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。20 それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。21 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。(ルカ福音書 8:19-21)


 主イエスがなお群衆に向かって語りかけておられるとき、その母と兄弟たちが何か話したいことがあって待ち構えていました。そこである人が、「あなたの母上と兄上がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」。主イエスは、取り次いだその人と弟子たちと大勢の群衆に向かって、こう答えます。21節、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
  だいぶん前のことです。ある人が70歳くらいの年頃になって、やっとようやく洗礼を受けました。その人の息子はずっと前からクリスチャンでした。洗礼を受けたそのお父さんは、とても喜んで、ずっと前からクリスチャンである息子にこう言いました。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある」と。今までの関係や付き合いとはちょっと違う新しい家族が、ここに誕生したのです。その格別な驚きと幸いを、ここにいる私たちも知っています。
  ここにいるこの私たちを見て、喜びに溢れて、主はこうおっしゃるのです;「これが私の兄弟、姉妹、また母である」と。私の大切な家族であり、ついにこれこそ私の骨の骨、私の肉の肉であると(創世記2:23)。神の憐れみのもとにある1つの家族とされ、主イエスの兄弟とされた私たちです。それは主が、私たちを格別になにより大切に思っていてくださるということです。あまりに大切に思ってくださるので、この主は、終りの日に打ち明けられるはずの秘密をすでにあらかじめ私たちに知らせてくださっています。主イエスはおっしゃいます;「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれなかったことは、わたしにしてくれなかったことである」。主の弟子パウロも、この同じことを言われました。彼のあの回心のときです。そのころパウロはクリスチャンをいじめたり苦しめたり、ひどく辛い思いをさせたり、追い払ったり、殺したりしていました。主イエスがその彼に呼びかけました。「サウロ、サウ、ロなぜ私を迫害するのか」。「あなたはどなたですか」とパウロは問いかけました。すると、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(マタイ25:40,45,使徒9:4-5)。イエスを迫害しているだって? 彼にもまったく身に覚えがありませんでした。ただクリスチャンたちを迫害していたのです。ただクリスチャンたちをいじめたり、苦しめたり悩ませたりしていただけだったのです。ところが主イエスは、「その1つ1つは、この私にしたことだ」とおっしゃいます。あなたは私を迫害し、この私自身を悩ませ苦しめていると。主イエスを信じる1人の人が苦しむとき、悩むとき、痛みを覚えて泣いたり呻いたりするとき、救い主イエスは、「それは私の苦しみだ。私自身の悩みであり痛みであり、そこでこの私自身が泣いたり呻いたりしている」。主イエスの兄弟とされ、互いに家族とされているとはこのことです。
  主イエスの発言に、もう少し注意して目を向けましょう。21節、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。主イエスこそ、とびきりの年長の格別な兄です。そして、この地上には《父》はいません。天の誰よりも高い場所に誰よりも大きな権威と力をもって、父である神がおられるからです。その家族は、父の権威とお働きのもとにこそ据え置かれているからです。それがこの新しい家族構成です。とびきり年長の格別な兄が、お独りだけいる。この地上には父はいない。すると他大勢はみな、弟たち妹たちです。この家族構成を、いつも弁えておきましょう。年をとってからクリスチャンになった、そして息子とともに喜び祝ったあの1人のお父さんは、他のどこにもない、まったく新しいこの家族構成にこそ驚き、息子と共に喜び祝ったのです。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある」と。あのお父さんは、それまで長く生きてきた中で、ある独特な人間関係と序列の中に首までどっぷり浸かって暮していました。例えば、妻には「家の主人の言うことが聞けないのか。誰に養ってもらっていると思っているんだ。馬鹿者、口答えするんじゃない」などと頭を押さえつけていたかもしれません。例えば息子や娘には、「オレ様が親だ。飯を食わせてもらっている子供の分際で、何を生意気な。だれのおかげで大きくなったと思っている」などと、ついつい思い上がって愚かになり、権威と力を振りかざしたかもしれません。あの彼にも私たちにも、それは大いにありえます。
 けれど、あのお父さんはついに知ったのです。新しいルールと、新しい家族構成の中に飛び込んでみました。それは、素晴らしかった。今までは知らなかった新しい世界が目の前に突然に開けました。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある。この道何十年の熟練者でも古参でも兄貴分でもなく、ともどもに末っ子の、未熟で小さい弟妹同士である」と。
  僕にとって今日の箇所で一番難しく思えたのは、21節「神の御言葉を聞いて行う者」です。ぼくが小学生だったら、「神の御言って、どういう言葉さ?」「行うって、いったい何をどうしなさいっていうの? どれくらい行えばいいんだろう」と質問するでしょうね。神の御言は、聖書の言葉であり、また礼拝や諸集会で説き明かされる言葉でもあります。聞いた福音の御言葉がその人の生活を建て上げてゆくための確かな土台となるように聞く必要があります。もし、そうであれば風が吹き、地面が激しく揺らぎ、川の水があふれて大きな波がうち寄せても、その家はびくともしません。基本の聞き方があります。先週も申し上げましたが、第一には、神のものである一つ一つの御言葉が真実であり、力をもって生きて働くことをはっきりと信じながら、神への信仰をもって聞くことです。聖書は証言します、「ある人々にとって聞いた御言は無益だった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結び付けられなかったからである」と。第二には、それが神の言葉であると思い起こしつづけながら、敬意と畏れをもって聞かねばならないということです。それは、テサロニケ教会の人々の聞き方です。「あなたがたが私たちの説いた神の言葉を聞いたときに、それを人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れてくれた。しかも事実、それは神の言だった」と。とりわけ大事なことは、独りで聖書を読むときにも説教の御言を聞くときにも、神の祝福を求めて、その始めにも聞き終えたときにも、祈りをもって聞くことです。第三には、神の御言を聞いて、その御言に指し示され、促されるとおりに毎日毎日の暮らしを生きることです。「その人々こそ、私の母であり兄弟である」(へブル手紙4:2-7参照, テサロニケ手紙(1)2:13,ルカ8:21と主イエスがはっきりと仰ったように。
難しいのは、この「行う」という小さな言葉です。神の御言を聞いて、神の御言として受け止め、心に刻み、そこに立って生きる人たちこそがクリスチャンです。例えばその人は、「悔い改めて神へと立ち返りなさい」と呼ばわる神の御声を聴きました。そのとおりに従いました。悪いことをするのを止め、良いことをしようと努力し始めました。肉の思いに支配された古い罪の自分を脱ぎ捨てて、なんとかしてぜひ新しい自分を着たいと願い始めました。「救い主イエスを信じて、その信仰によって義とされる」という神の招きを信じ、その御言に従い始めました。その人は自分自身の正しさや能力や甲斐性を誇りとし、それに頼る生き方を投げ捨てて、救い主の助けと支えなしには生きてゆけない自分であるとついにとうとう認めはじめました。「十字架につけられたキリストこそが自分のただ一つの希望である」と受け止め、「キリストを知る知識の絶大な力に比べたら、他すべて一切は塵芥にすぎない。本当にそうだ」と気づきはじめました。その人は、「私が聖であるように、あなたがたも聖でありなさい」(レビ記19:1と命じる神の御声を聴いて、その命令に従いはじめました。自分の肉の思いに言いなりにされないように打ち勝とうと奮闘し、神の御霊に従って生きることをしはじめました。行く手を阻んで取り囲む罪の重荷を投げ捨て、投げ捨てしながら生きることをしはじめました。「神の御言を聞いて、それを行う」ことはとても大変でした。誰にとってもそうです。世の思い煩い、肉の思い、悪魔の誘惑は絶え間なくその人を攻め立てつづけます。その人たちはいつも苦しみ、呻き、身もだえしています。「自分の十字架を負って」と命じられ、けれどその十字架はとても重く、神の国へと至る道は険しく、また狭い道でありつづけます。その人たちは絶えず叫び呼ばわりました、「ああ。私はなんという惨めな人間なのだろう。誰が、この死ぬべき体から私を救ってくれるだろう」。そして、それはただただ私たちの救い主イエス・キリストお独りだと確信し、神に感謝をし、信頼を寄せ、ますます聞き従って生きることをしつづけます(ローマ手紙7:24-25。例えば、何か嬉しいことがあったとき、誰かが親切にしてくれたとき、その人に感謝するだけでなく、そこで《これは天の父の御心によった。私を慈しみ、大切に思ってくださって、天の父がこんな喜びを与えてくださった》と分かっていましょう。そのとき、あなたは父の御心を行っています。
クリスチャンである父さん母さんの生きざまを見て育ってゆく子供たちは、ある日、不意に気づきます。「そうか。そうだったのか」と。薄暗く黄ばんだ、小さな裸電球のような人だ。たいしたことのない人だ。この人もそうだが、そう言うこの私自身だってやっぱり同じじゃないか。誰もが皆、たいしたことのない、つまらない小さな小さな者たち同士だったじゃないか。ご立派そうに、とても偉そうに見える大先生たちも、モーセもアブラハムもダビデも洗礼者ヨハネさえも。誰もが皆、救われるに値しない罪人であり、神からのゆるしと憐れみなしに生きることのできる大きくて立派な良い人間など一人もいないと、よくよく習い覚えてきたはずじゃないか。その薄暗さと心細さと悩みの只中で、けれど、この1人の小さな小さな貧しい人は、格別な明るい光を見つけ出した。その光に一途に目を凝らして、精一杯に生きている。心がねじ曲がる度毎に、その光によって正され、新しく向きを変えさせられ、いじけて縮みあがる度毎に顔を上げさせられ、背筋をピンと伸ばさせていただいている。その光にすがり、その光によってかろうじて支えられ、励まされて、この人は生きてきたのか。この人を明るく照らし出す格別な光が確かにあって、だからこそ、こんな危うい人であっても、格別な幸いと祝福を受け取ってきたのか。受け取り続けてきたのか。
 苦しみや悩みがあり、心が晴れないウツウツとした日々に、けれどなお天の父があなたを思い、あなたを慰め、力づけたいと願ってくださっていることを思い起こしましょう。そして「主よ、私を助けてください」と願い求めましょう。求めているものを、天の父に打ち明けましょう。見栄えの良い願いばかりでなくていいのです。人に知られたくない恥ずかしいものも、汚いものも、人からは「なんだ。そんなこと」と思われるかもしれない些細な事柄も、この天の父に打ち明けることができると分かっていましょう。あなたは御心を行っています。なにしろ主イエスが、天の父の御心をすっかり私たちに示してくださいました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと。この最も小さい者の一人にしてくれなかったことは、わたしにしてくれなかったことである」と主はおっしゃったのです。私たちが自分の周囲にいる人々に何事かをしたり、しなかったり、何気なく何かを言ったり言わなかったりする度毎に、私たちはしょっちゅう釘をさされます。「ちょっと待て。分かっているのか。本当にそれをしていいのか。言ってしまっていいのか。言わずに知らんぷりしておいて、それでもいいのか。キリストはその兄弟のために死んでくださった」(ローマ14:15)と。「ああ、そうだった」と申し訳なく思い、心に痛みを覚えたそのとき、父がご自身の御心を、あなたのために行ってくださっている真っ最中です。知らされた天の父の御心が、ある時には私たちをきびしく叱りつけます。その同じ御心が私たちを慰め、きわどいところで支え、足を一歩踏み出すための格別な勇気を与えます。天の父の御心のもとに据え置かれた私たちです。それは私たちが思っていたよりも、はるかに大きく、広々とした心だったのです。あまりに気前がよ
く、寛大で、そこではどんなに小さな人も、無力な人も貧しく惨めな者も、誰に遠慮をすることもなく恥じることもなく、晴れ晴れとして息をつくことができるほどに。だからこそ私たちは進むことも出来、留まることもできます。惜しげもなくすっかり捨て去ることも出来、決して離すまいとがっちりと抱え込むこともできます。天の父の御心のもとにあるからです。ご覧なさい。ここに主イエスの兄弟とされ、姉妹とされた者たちがいます。天の父の憐れみとゆるしのもとに据え置かれて、今や私たちは、互いに弟たち妹たち同士です。なんと幸いなことでしょう。









2019年9月15日日曜日

9/15こども説教「飢饉が起こって」使徒11:27-30


 9/15 こども説教 使徒行伝11:27-30
 『飢饉が起こって』

11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだって きた。28 その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。29 そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。30 そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。
(使徒行伝11:27-30

 嬉しいこともあるし、嫌なことや困ったこともあります。不思議なことに、ときどき、とても困って苦しくて嫌で嫌で仕方がないとき、その最中に、嬉しいことが起きたり喜んだりすることもあります。
神を信じて生きるクリスチャンたちが乱暴されたり、苦しめられたりしました。追い払われて、たくさんのクリスチャンたちが遠くの国へとバラバラに逃げていきました。けれど、おかげで、それまで神さまのことを知らなかった人たちも神を知り、信じて生きる人たちが起こされました。同じように、世界中に大きな飢饉が起こるだろうと言われて、そのとおりになりました。困ったことや苦しく辛いことも、それだけではなく、良いことを持ち運んで来る場合もあります。全部が全部そうだとはっきり言いきることはできません。けれども、神さまの救いの計画の中で、そういうことがとても良いことのために使われることも度々あります(注)
 29節、「そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた」。飢饉が起こって、食べるものもなくて困っている仲間たちを助けようと、お金や品物が集められました。そこでも、神さまの力が働いていました。


(注)【補足/飢饉や飢え渇くことの贈り物】
        アブラハムとサラ夫婦が神の約束のもとに生きはじめた頃、「やがてエジプトで400年の間、奴隷にされて苦しみ、その後で救い出される」(創世記15:13-16参照)と予告されていました。もちろん約束どおりになりました。彼らをエジプトに移住させるために、神は7年の大豊作、その後の7年の大飢饉を起こし、それを救いの計画のために使いました(創世記41-50章)。
        エジプトから救い出されて、イスラエルの民は荒野で辛い飢え渇きを味わいます。モーセがその日々を先祖と私たちに振り返らせて、こう語りかけます、「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。……あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう」(申命記8:2-10)。
        預言者エリヤは神への信頼を見失って、その信頼を再び取り戻すために神の山ホレブへと逃げ出します。4040夜の逃避行です。飢え渇き、気力も失せて、彼が死を願ったとき、パンと水が与えられ、主の御使いが語りかけます、「起きて食べなさい。道が遠くて、あなたには耐えられないだろうから」。ホレブ山で、彼は再び信仰を回復させられます(列王記上19:1-18)。
                 救い主イエスご自身が、聖霊なる神の導きのもとに、同じ飢え渇きを体験させられます(ルカ福音書4:1-13)。4040夜、荒野をさまよいながら。そして悪魔の3つの誘惑を退けました。聖霊の導きのもとに置かれつづけていたからです。私たちも同様です。苦難や試練と共に、それだけでなく助けや支えがあり、「心の中に何があるのかを確かめられ」、神に信頼して生きることを実地訓練で学ばせられつづけます。



9/15「あかりを燭台の上に置く」ルカ8:16-18


                      みことば/2019,9,15(主日礼拝)  232
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:16-18                      日本キリスト教会 上田教会
『あかりを燭台の上に置く』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
8:16 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。      (ルカ福音書 8:16-18)

 16-18節、「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。《神からの光。神のものである光》のことを思い巡らせましょう。「あなたがたはこの世界と周囲のものすべてと自分自身を明るく照らし出すための世の光である」(マタイ5:15参照)と、救い主イエスを信じて生きるクリスチャンはかつて語りかけられたからです。山の上にある町は隠れることがない。そして旅人は、遥か遠くから山の上のその町の姿を見て、そこに辿り着くことを目指して歩んできます。また、燭台の上に置かれたともし火が家中を明るく照らし出すように、1人のクリスチャンもまた、ともし火をともして、家中を明るく照らし出す。そのためにこそ、この私たち一人一人もそこに置かれていると。
  けれども、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。あなたがたの良い行いを見て、人々が天の父をあがめるようにしなさし」などと言われて、その途端に、私たちはうろたえてモジモジしはじめます。この言葉を聞くクリスチャンの多くは、もしかしたら7割、8割近くの人々がまったく見当外れなことを思い浮かべ、この信仰の中身をひどく誤解してしまうかも知れません。「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を」などと言われて、それは私たち自身の光だと思ったでしょうか。いいえ、そうではありません。「あなたがたの天の父をあがめるようになるためです」(マタイ5:15参照)と、かつて語られたからです。光を輝かせることが出来る」理由も、その目的も、私たち自身も周囲にいる他の人々も天におられます父なる神をあがめるようになるためにです。神にこそ信頼を寄せ、聴き従い、幸いも助けも、必要な良いものすべて一切も神から受け取り、神を喜び、神に心底から感謝して生きるようになるために。
心を鎮めて、よくよく考えてみましょう。・・・・・・その人の笑顔がどんなに素敵でも、その人の祈りがどんなにきちんと整っていて、厳かで格調高くて堂々としていて美しくても、けれど、その笑顔やその祈りを聞いた人々は、はたして本当に、天の御父をあがめるようになるのでしょうか? 天におられます父なる神さまに感謝し、天の父によくよく信頼を寄せ、天の父をこそ喜び、そこに自分自身のための確かな希望と幸いを天の御父のみもとに見出して生きるようになるでしょうか。――そうかも知れません。あるいは、もしかしたら、ただただその人をあがめ、その人自身を誉めたたえたり、うらやましがったりしつづけるばかりかも知れません。私たちが周囲や世界や自分自身を明るく照らし出すはずの、その私たちの光は、私たち自身の光ではありません。私たちの体の中のどこかに眠っていたものではなく、私たちが努力して育てたり、せっせと磨き上げてきたものでもありません。私たちのものでさえありません。神さまが私たちの土地にまいてくださった、御言葉の種からの光です。私たちの土地にまかれた御言葉の種は光を放って、あかるく輝きます。だからこそ、救い主イエスの福音を聞いて信じたすべてのクリスチャンは、とくに注意にして、語られている中身を聞き分けなければなりません。注意深く、賢く、そのあかりを用いなければなりません。
 「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである」。あかりは、神からのあかりです。それは、神を信じて生きるための福音の知識であり、それによってどのように毎日の暮らしを御心にかなって生きることができるかという教えです。それらは、ふさわしく適切に用いられねばなりません。だから、神から教えられ、授けられたせっかくの信仰の知識と知恵を、何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしないのです。むしろ燭台の上に置いて、はいって来る人たちにその光がはっきりと見えるようにします。そこではじめて、神を信じて生きるための知識と知恵は生きて働き始め、役に立ちます。
 私たちが受け取って確かに持っている福音の知識は、それを具体的に用いるためのものです。私たちの毎日毎日の暮らしの中で、その人の生きざまやものの考え方、ふるまい、心の思いや態度として生きて働きつづけます。救い主イエスは仰いました、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。……わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」(ヨハネ福音書12:35-46。福音の知識が光である理由の一つは、それが私たちにはっきりした生き方を指し示すからです。その新しい生き方が出来る理由と土台をもはっきりしと教えられているからです。こう戒められます、「しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである。子供たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが父を知ったからである」(ヨハネ手紙(1)2:8-14
「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。どのように聞くのかに注意しなさい、と勧められています。聞いた福音の御言葉がその人の生活を建て上げてゆくための確かな土台となるように聞くことです。そうであれば風が吹き、地面が激しく揺らぎ、川の水があふれて大きな波がうち寄せても、その家はびくともしません。けれどもし、生活の確かな土台となるように聴くことができなければ、持っていると思っていた福音の知識も信仰の確信もすっかり取り上げられてしまうかも知れません。恐ろしいことですね。基本の聞き方があります。第一には、神のものである一つ一つの御言葉が真実であり、力をもって生きて働くことをはっきりと信じながら、神への信仰をもって聞くことです。聖書は証言します、「ある人々にとって聞いた御言は無益だった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結び付けられなかったからである」(へブル手紙4:2-7参照)と。第二には、それが神の言葉であると思い起こしつづけながら、敬意と畏れをもって聞かねばならないということです。それは、テサロニケ教会の人々の聞き方です。「あなたがたが私たちの説いた神の言葉を聞いたときに、それを人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れてくれた。しかも事実、それは神の言だった」(テサロニケ手紙(1)2:13と。とりわけ大事なことは、独りで聖書を読むときにも説教の御言を聞くときにも、神の祝福を求めて、その始めにも聞き終えたときにも、神に向かう祈り、神へと自分自身を向かわせる祈りをもって聞くことです。第三には、神の御言を聞いて、その御言に指し示され、促されるとおりに毎日毎日の暮らしを生きることです。「御言を聞いて、行う。その人々こそ、私の母であり兄弟である」(ルカ8:21と主イエスがはっきりと仰ったように。
 「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と主イエスはおっしゃいました。この世界も私たち自身も光を必要としているからです。また、この世界も私たちも、ただ自然な姿では、薄暗い弱々しい裸電球のようだったからです。「わたしは世の光である」と主イエスはおっしゃいました。聖書は、このイエス・キリストというお独りの方について証言しつづけます(イザヤ60:1-,ヨハネ1:9-11)。主イエスは、さらにおっしゃいます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」(ヨハネ8:12)と。また、「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と。つまり、私を通りさえすれば、誰でも天におられます父の御もとに行くことが出来る。私に聞きさえすれば誰でも、神について、またこの世界と自分自身についての真理を知ることができる。私から受け取りさえすれば、誰でも、格別な生き生きとした生命を生きることができる。この方は、そうおっしゃいました。私たちは信じました。そして、その通りだったのです。

神の御言を聞いて、それを神の御言として受け止め、心に刻み、そこに立って生きる人たちこそがクリスチャンです。その人は、「悔い改めて神へと立ち返りなさい」と呼ばわる神の御声を聴きました。そのとおりに従いました。悪いことをするのを止め、良いことをしようと努力し始めました。肉の思いに支配された古い罪の自分を脱ぎ捨てて、なんとかしてぜひ
朝も昼も晩も神の御前に生きる新しい自分を着たいと願い始めました。「救い主イエスを信じて、その信仰によって義とされる」という神の招きを信じ、その御言に従い始めました。その人は自分自身の正しさや能力や甲斐性を誇りとし、それに頼る生き方を投げ捨てて、救い主の助けと支えなしには生きてゆけない自分であるとついにとうとう認めはじめました。「十字架につけられたキリストこそが自分のただ一つの希望である」と受け止め、「キリストを知る知識の絶大な力に比べたら、他すべて一切は塵芥にすぎない。本当にそうだ」と気づきはじめました。その人は、「私が聖であるように、あなたがたも聖でありなさい」(レビ記19:1と命じる神の御声を聴いて、その命令に従いはじめました。自分の肉の思いに言いなりにされないように、なんとかしてそれに打ち勝とうと奮闘し、神の御霊に従って生きることをしはじめました。行く手を阻んで取り囲む罪の重荷を投げ捨て、投げ捨てしながら生きることをしはじめました。「神の御言を聞いて、それを行う」ことはとても大変でした。誰にとってもそうです。世の思い煩い、肉の思い、悪魔の誘惑は絶え間なくその人を攻め立てつづけます。その人たちはいつも苦しみ、呻き、身もだえしています。「自分の十字架を負って」と命じられ、けれどその十字架はとても重く、神の国へと至る道は険しく、また狭い道でありつづけます。その人たちは絶えず叫び呼ばわりました、「ああ。私はなんという惨めな人間なのだろう。誰が、この死ぬべき体から私を救ってくれるだろう」。そして、私を救うことが出来るのはただただ私たちの救い主イエス・キリストお独りだと確信し、神に感謝をし、信頼を寄せ、ますます聞き従って生きることをしつづけます(ローマ手紙7:24-25
 例えばクリスチャンである1人の母親は、子供の頃からずっと何だか自分に自信が持てないでいました。あまりに臆病でオドオドビクビクしていて気が小さい自分が嫌いでした。子供たちは、そういうお母さんを、傍らで何年も何年もずっと眺めてきました。溜め息をつくお母さんの傍らで、子供たちも溜め息をつきました。「なんだ。だらしがないなあ。クリスチャンのくせに、お母さんたらなんだか意固地で、けっこう自分勝手で、しかも度々いじけたりひがんだり、しょぼくれたり、人目を気にしてばかりいたり右往左往しているじゃないか。もっとしっかりして、もっと堂々と晴れ晴れとしてくれたらいいのに。もっと素直に、もっともっと伸び伸び暮してくれればいいのに」と。けれども、その子供たちもいつの間にか大人になって、生きてゆくことが案外に手強いと気づきはじめます。それぞれの悩みや課題に直面させられ、自分自身の弱さやふつつかさや身勝手さをつくづくと思い知らされ、それぞれの悪戦苦闘を背負うようになって、ある日、不意に気づきます。「そうか。そうだったのか」と。薄暗く黄ばんだ、小さな裸電球のような人だ。たいしたことのない人だ。この人もそうだが、そう言うこの私自身だってやっぱり同じじゃないか。その薄暗さと心細さと悩みの只中で、けれど、この1人の小さな貧しい人は、格別な明るい光を見つけ出した。一途に目を凝らして、精一杯に生きている。心がねじ曲がる度毎に、その光によって正され、新しく向きを変えさせられ、いじけて縮みあがる度毎に顔を上げさせられ、背筋をピンと伸ばさせていただいている。その光にすがり、その光によってかろうじて支えられ、励まされて、この人は生きてきたのか。この人を明るく照らし出す格別な光が確かにあって、だからこそ、こんな危うい人であっても、格別な幸いと祝福を受け取ってきたのか。受け取り続けてきたのか。
そうか。だからこそ、この人はクリスチャンでありつづけているのかと。



2019年9月9日月曜日

9/8こども説教「外国人への良い知らせ」使徒11:19-26


 9/8 こども説教 使徒行伝11:19-26
 『外国人への良い知らせ』

11:19 さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。20 ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。21 そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。22 このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。23 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。24 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。25 そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。                (使徒行伝11:19-26

 ほんの少し前のことですが、主イエスの弟子の一人ステパノという人が主イエスの福音について、神さまを信じて生きることについて皆の前でとてもよい説明をしました。そのことで腹を立てた大勢の人たちに憎まれ、取り囲まれて、意思を投げつけられて殺されてしまう事件が起きました(使徒6:6-7-60参照)。それを大きなきっかけにしてクリスチャンを殴ったりけったり叩いたり、苦しめて、よそへ追い出す動きがあちこちでとてもたくさん、激しく起きつづけました。
 救い主イエスを信じるクリスチャンたちの多くは、その信仰のために苦しめられたり、いじめられたりして、遠くのあちこちまでバラバラに逃げていきました。それは苦しく嫌なことなんですが、そのおかげで、悪いことばかりでなく良いことも起きました。遠くのあちこちまでバラバラに広がって暮らすようになったおかげで、それまでこの聖書の神を知らなかった他のたくさんの外国人たちも神を知り、神を信じて生きるようになっていったことです。クプロ人、クレネ人、そしてギリシャ人たち。やがてずっと後になって、ずっとずっと東のはずれの遠くにあったこの国の私たちにさえも、この聖書の神、救い主イエスのことが語り伝えられるようになり、その神を信じる人たちが少しずつ起こされていきます。21節、「そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった」。主のみ手が彼らと共にあった。神さまが一緒にいてくださって、神さまご自身が強い力を出して彼らを助け、彼らのためにも働いてくださったということです。だから、神を信じて、神様に依り頼んで生きる人々が生み出されていきました。ここで、私たちの周りでもそうです。今も、これからもそうです。神さまが私たちのためにも生きて働いておられます。


        (注)21節、「主に帰依(きえ)する」。帰依するとは、「神さまを信じて、その力やお働きにすっかり信頼を寄せて、神さまをこそ頼りとし支えとして生きはじめる」ことです。使徒9:26以下でも。


9/8「種をまく人が種をまいた」ルカ8:4-15


                        みことば/2019,9,8(主日礼拝)  231
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:4-15                        日本キリスト教会 上田教会
『種をまく人が種をまいた』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 8:4 さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、5 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。6 ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。7 ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。8 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。9 弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。11 この譬はこういう意味である。種は神の言である。12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。     (ルカ福音書 8:4-15)


 主イエスが大切なことをぜひ伝えようとして、たとえ話を使って話しています。神さまがどんな神さまなのか。その神さまが私たちをどう思っておられるのか。その神の恵みのご支配のもとで私たちがどんなふうに生きてゆくことができるのか、ということをです。たとえ話ですから、その話の中で何が何をたとえているのかを1つ1つ心に留めながら、読んでいきます。では、種を蒔く人は誰のこと? 種は何だろう? 種を蒔かれるいろいろな土地は何のことでしょう。

  種を蒔く人が出て行って、いろんな土地に種を蒔きます。種は、神さまの言葉です。蒔かれる土地はこの私たち一人一人のことで、道端の土地(5,12)、岩の上で土がほんの少ししかない土地(6,13)、茨の中の土地(7,14)、そして良い土地(8,15)。せっかく蒔かれた種が、けれどなかなか実を結びません。どうしてでしょう。例えば道端に落ちた種を鳥が来て食べてしまうように、サタンが来て、その大事な《種/神さまからの言葉》を奪い去ってしまうのです。岩の上の土の少ない土地でもまた、種は実を結べません。深く根を張れなかったから、強い日差しに焼かれるようなこの世の悩みや辛さや、いろいろな障害に出会って、とうとうこの種も枯れてしまいました。そして別の土地では、茨や雑草がいっぱいに生い茂って種をすっかり覆いつくしてしまいました。
 14節。「いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである」。生活の心づかいや富や快楽。その他いろいろな欲望。それが雑草や茨のように、心の中で生えてくるというのです。例えば、白雪姫の義理のお母さん、おきさきは世界一の美人で、そして本当のことを教えてくれる魔法の鏡を持っていました。鏡は毎日毎日、「あなたが一番美しい。素晴らしい。素敵~」って語りかけてくれました。だから義理のお母さんは毎日毎日ルンルン気分でした。ところが鏡はある日、今までとは違うことを言い始めます。「白雪姫の方が千倍も万倍も美しい」。この答えを聞いたその瞬間から、おきさきの心の中に雑草が伸び始めます。『白雪姫を見るたびに、憎らしくて憎らしくて、はらわたが煮えくり返るような気がしました。そして、このねたましさや悔しさは、雑草がはびこるように、心の中で伸び広がり、おきさきは昼も夜も、心の休まるときがなくなりました』(こぐま社「こどものためのグリムの昔話.2)分かりますか。あなたは自分の心の中に、そういう雑草が生えたことがありますか? どうでしょう? 例えば、誰かにある日何か嫌なことを言われる。その人は軽い気持ちでなんとなく言ったのかも知れない。でも、その一言が気になって気になって、忘れられなくなって何日も何ヶ月も悶々としてしまう。人から誤解されたり、悪口を言われたり、自分の気持ちをなかなか分かってもらえないことはあります。「こうありたい、こうしたい。こうでなくちゃならない」と思っていることがあります。でも、その通りにならない時があります。願いや期待を持つことはいいことですが、時々その願いや期待が自分を追い詰めたり、苦しくさせることもある。腹が立ったり、がっかりしたりもする。「どうしてこうならないんだろう」と悩み始めます。雑草がはびこるように、茨が生い茂るように、その思いは心の中でどんどん伸び広がり、昼も夜も心の休まるときがなくなってしまいます。
 ちょっと恥ずかしいんですが、僕は、そういうことがよくあります。クヨクヨクヨクヨしてしまう。すごく臆病で、肝っ玉が小さいからです。「人からどう見られるだろう。なんて思われるだろう」と、気にかかって気にかかって仕方がなくなります。「そんなことどうでもいいじゃないか。気にしなくていいんだよ」と自分で自分に言い聞かせても、やっぱりクヨクヨして、溜め息をついている。捨て鉢な気持ちになる。ウンザリしてしまう。だから、白雪姫の話を読んで「あ。このおきさきはいつもの僕と同じじゃないか。そっくりだ」と思いました。
 さて、種を蒔かれたいろいろな土地のこと。考えてみてください。誰かに踏みつけられもせず、また空の鳥のようなサタンが来て大事な種を食べてしまわないような良い土地は、どこにあるでしょう? 強い日差しのようなこの世界の悩みや苦しみ、いろいろな誘惑、すごく困ったことや難しい出来事が起こっても、それでも《種/神さまからの言葉》を守って根づかせるような、深くてタップリした良い土地はどこにあるでしょう? せっかく種を蒔いてもらったのです。ようやくやっと芽を伸ばしかけているこの大事な種を実らせたい。私のこの魂の土地に根づかせ、うれしい実を結ばせたい。良い土地はどこにあるでしょうか?  私たちがそれぞれ種を蒔かれる土地だとして、「この人は道端の土地。この人は石ころだらけの土地。この人とこの人とこの人は茨の土地。そして、おめでとう、あなたは良い土地です」と、そんなことがあるでしょうか? だって、鳥のようなサタンが来て、せっかく蒔かれた大切な種を食べてしまうのは、どこでも同じです。どの土地にもサタンの鳥はやってくる。鳥を追い払い、いつも種を守って土地の世話をする者がいてくれるなら、そこは良い土地ではありませんか。しかもサタンの鳥は次の日も次の日も毎日毎日、私の畑に種を食べに舞い戻ってきます。忍耐深く、サタン鳥を追い払いつづけてくれる者がいるなら、その大切な種はかろうじて守られます。強い日差しのような苦しみや悩みはあります。いろいろな障害もどこでも誰にでも立ち塞がります。茨や雑草のような思い煩いや誘惑、いろいろな欲望もまた、風に運ばれてきます。その思い煩いや誘惑は、初めはほんの小さな種に過ぎませんでした。でも小さな小さな種も、放っておけばどんどん伸びて生え広がり、土地を覆いつくしてしまいます。伸びてくる雑草に目を配り、心を砕いてよく手入れをしてくれる者があれば、そこは良い土地でありつづけます。石っころを取り除き、雑草をむしり、肥料を施し、水をまき、害虫を遠ざけて、昼も夜も世話しつづけてくれる者があれば、その土地はやがてとても良い土地になっていきます。同じ1つの土地が手入れ次第で、どこまでも良くなり、また、どこまでもどこまでも悪い土地になってしまいます。

 このたとえ話を読んで、「何か、どこかがおかしい」と感じませんでしたか? 私たちは、《聖書に書いてあるから。主イエスがおっしゃることだから》と、それを当たり前のように、ごく自然な出来事のように受け取ってしまいます。けれど、このたとえ話には初めから奇妙な所があります;「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので・・・・・・」(5-8)種を蒔く人の、この蒔き方はおかしいと思います。むやみやたらに、いい加減に種を蒔いているのでしょうか。どこでもいいから、芽が出ても出なくてもどっちでもいいから、とにかく、ただ行き当たりばったりに種を蒔いているのでしょうか。まるで、暇つぶしのように? それが神のなさり方でしょうか。
 私たちはここで、心を鎮めて、よくよく考えてみなければなりません。 ルカ福音書15章の羊と羊飼いのたとえ話でも、よく似たことが起こりました;「99匹をそのまま野原に残して、いなくなった1匹を探し回らないだろうか。見つけ出すまで、どこまででもいつまででも捜し回らないだろうか?」(4)と質問されました。けれど、そんな後先を考えない無謀なやり方は滅多にしないのです。そもそもの初めから、この羊飼いは滅多にいないほどの奇妙な人物でした。たった1枚の銀貨を家中ひっくり返して何日も何ヶ月も探し回る女(ルカ15:8-10)も、常識を外れた、滅多にいない、とてもとても風変わりな人物でした。「私も多分おなじようにするだろう」などと、うっかり騙されてはいけません。どこにもいないような、とんでもなく常識外れの、私たちのいつもの道理を踏み外した人物の姿が物語られています。「私たちのいつもの考え方ややり方とは、だいぶん違う」。ここに気づくことが出発点です。《ぶどう園の主人》もそうでした(マタイ20:1-,21:33-)。朝から夕方まで、来る日も来る日も町の広場に出かけてきて、「さあ皆さん。私のぶどう園に働きに来なさい。あなたも、あなたもあなたも」と労働者を招きつづける。これについて例えば、いくつかの注解書では「ぶどうの収穫時期で、人手がたくさん必要で猫の手も借りたい。それで」と説明しています。それ、とんだ大間違いです。そういうこととは何の関係もない、全然違うことが語られています。この私たちのためにさえ生きて働いてくださる神であり、なんでもできる神です。神のものであるそのぶどう園が人手不足で経営困難になったりもするはずがない。だからこそ、夕方のあの驚天動地の、びっくり仰天の支払いの光景です(マタイ福音書20:8-16。「私たちのいつもの考え方ややり方とはだいぶん違う」と気づきたい。「他のどこにもいない奇妙なこの人物は誰のことだろう」と、子悪露を鎮めてよくよく思いを凝らしたい。
 ぼくは、色々なことを知っているわけではありません。「なんだ、そんなことも知らなかったのか」と呆れられたり、馬鹿にされることも度々あります。偏屈だったり、ひどく意固地だったりします。へそ曲がりで、ひねくれた皮肉っぽい心を抱えています。それでも、神さまのことは知っています。ちゃんと分かっています。この世界と私たちに素敵な種を蒔いたあの神さまが、どんな神さまかということを。私たちの主なる神さまは行き当たりばったりに、いい加減に無責任に、暇つぶしのようにして種を蒔いたのではありません。もちろんです。蒔いたからには、種の1粒1粒に対して、その土地の1区画1区画に対して、願いを込めて蒔いたのです。願いを持って蒔いたからには、ちゃんと責任を持ちつづけるのです。どこまでもどこまでも。
  さあ、ご覧ください。これが世界の初めであり、ここが初めにあった世界の全体です。「主なる神が地と天とを造られたとき、地にはまだ野の木もなく、また野の草も生えていなかった」(創世記2:4)。草一本生えない、荒涼とした寒々しい大地が広がっています。神さまは夢を見ました。「草や木が青々と生い茂る世界はどうだろうか。木には花が咲き、おいしい様々な実がたわわに実り、風が吹き渡り、鳥が枝に巣を作ってそこでヒナを育てるようになったらどうだろう。素敵だ」と。その手には、種が握られています。種を見て、そして目の前に広がる荒涼とした大地を見渡して、神さまは種を蒔きはじめます。どんなふうに? もちろん行き当たりばったりにではなく、けれど「この土地にも。この土地にも」と。
 「どんな土地にも種を蒔きたい」と願ったのです。「あの道端の土地のような所にも。あの石っころだらけの痩せた貧しい土地にも。あの茨が生い茂ったような、気難しくて、ひどく手間隙かかる厄介な土地にも、私はぜひ種を蒔きたい。ぜひ、その種を芽生えさせ、葉や茎を伸ばさせ、豊かな収穫を結ばせたい」と。ぜひそうしたいと。熱情の神であり、最後の最後まで責任を負いとおす神です。そして、だからこそ、種を蒔く人は同時に直ちに、土を耕す人でもありつづけました。種を食べようと、鳥が次々にやって来ました。その人は鳥を追い払い、種を守って土地の世話をする者でありつづけました。強い日差しのような苦しみや悩みが、折々に種たちを弱らせました。茨や雑草のような思い煩いや誘惑、いろいろな欲望もまた、風に運ばれてきました。2、3日でも放っておけばどんどん茨は伸びて生え広がり、土地をすっかり覆いつくしてしまいます。今日は、土地を集めて手入れをする日です。知らず知らずのうちに、ずいぶん雑草や茨が生い茂ってしまった土地もありますね。いつの間にか、石ころだらけになってしまった土地もあります。でも大丈夫。伸びてくる雑草に目を配り、心を砕いてよく手入れをしてくれる者があれば、そこはふたたび何度でも何度でも良い土地に生まれ変わってゆくのです。石っころを取り除き、雑草をむしり、肥料を施し、水をまき、害虫を遠ざけて、昼も夜も世話しつづけてくれる者があれば、その土地はやがて、だんだんと少しずつ良い土地になっていきます。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(126:5-6)。それは、あの方と私たちのことです。あなたのためにも、涙と共に種を蒔いたお方があり、心を砕きながら世話をしつづけてくださった方がおられます。「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである」(コリント(2)9:10)。それはあの方と私たちのことです。慈しみとゆるしとは、神の御もとにありました。種を蒔いたのも、蒔いた種の世話をしつづけたのも、それは神の慈しみの業でした。あの方の慈しみがあなたに注がれ、この私にも注がれ、だからこそ、ここにもそこにも、必ずきっと良い実を結ばせます。慈しみの実を。《憐れみを受け、溢れるほどに恵みを受けて、私は、今日ここにあるをえている》という感謝と信頼の実を。私たちの土地に植えられた小さな種はやがて育って大きな木になり、木はさらに育って、その枝を空へと伸ばすでしょう。慈しみの枝です。枝々は張りめぐらされて、空の鳥たちがたくさんの巣を作り、それぞれの巣からヒナ鳥たちがすくすくと成長し、空を自由に羽ばたき、またそれぞれに枝に巣を作り、ヒナを育てつづけるでしょう(マルコ4:30-32)。祈りましょう。