2020年4月6日月曜日

4/5「神の御国を」ルカ11:1-2


        みことば/2020,4,5(受難節第6主日の礼拝)  261
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-2                      日本キリスト教会 上田教会

『神の御国を』 ~主の祈り.3~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。       (ルカ福音書 11:1-2)

 どう祈るかという問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。それは生き方と腹の据え方についての問いであり、祈りと信仰をもってこの私という一個の人間が、毎日の具体的な生活をどう生きることができるかという問いです。
 主イエスが十字架におかかりになる前の晩のことです。いよいよ間もなく、救い主は死んで葬られ、その三日目に墓を打ち破って復活なさいます。神ご自身の救いのご計画が成し遂げられるのか、どうか。私たちにもそれが確かな現実となるのか、どうか。その別れ道に私たちは立たされます。ここで、私たちがよくよく目を凝らすべきことは、主イエスご自身の祈りの格闘です。そして、その只中で弟子たちを深く顧みておられることです。十字架の上での主の言葉;「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46)は、あの当時も今も、主を仰ぎ見る私たちの心を悩ませ続けます。あまりに謎めいていて、また恐ろしくもあり、マタイとマルコの福音書はこれを記録しましたが、けれどこのルカ福音書とヨハネ福音書は記録せずに省きました。聞かなかったことにしたのです。主イエスご自身の認識と思いとは、十字架の上で、どんなふうだったのだろう。本当に、神さまが救い主を見捨てたのか。救い主は、「あ。私は天の御父から見捨てられた」と思ったのかどうか。そこまで苦しんだのなら苦しみは本物だったと言えるだろう、もしそうでないなら(つまり、やがて救われ復活するとはっきり分かっていたなら)、苦しみは眉唾、八百長試合のようではないか。人々は、そんなことを言います。けれど主イエスの弟子たちよ。自分自身が見捨てられてしまったと心底から絶望している救い主が、いったいどうして、罪人の救いを確信し、「大丈夫です。本当のことですよ」と約束さえできるのでしょう。十字架の上での苦しみはどの程度のものだったのか。御父への主イエスの信頼と服従は揺らいだのかどうか。ゲッセマネでの主の姿こそが、それらに対する強い光を投げかけます。
  十字架の出来事の前の夜、主イエスは苦しみ悶えながら、ただ独りで祈りの格闘をします。しかも、そこに主イエスお独りしかおられなかったのに、その姿がこんなに詳しく報告されていますね。なぜか。「あの時こんなふうに私は祈っていた」と、主ご自身がその姿を弟子たちに伝えてくださったからです。ほら、こうするんだよ。あなたがたも、地面に体を投げ出して祈りなさい。格闘をするようにして、本気で祈りなさいと。「この苦い杯」。これは、あとほんの数時間後に迫った十字架の惨めで恐ろしい死を指し示します。弟子たちからも見捨てられ、罪人の1人として裁かれ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、十字架の上にその肉を裂き、その血を流しつくすこと。それは、神さまがわたしたち罪人を救ってくださるために、どうしても必要なことでした。神の独り子が、あの救い主イエスが、身悶えさえして苦しみ、深い痛みを覚えておられます。――どんな救い主を、どんな神を、思い描いていたでしょう。また、主イエスを信じて生きる私たち自身を、あなたはいったいどういう者だと思っていたでしょうか。
 この祈りの格闘を細々と弟子たちに語り聞かせてくださったのは、私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの時がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して、本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の小さな人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。わたしは願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神が私自身と家族のためにも生きて働いておられ、その神が、真実にこのわたしの主であってくださることを。

  あれから長い歳月が流れ去って、ゲッセマネの園でのあの一夜は遥か遠い昔のこととなりました。キリストの教会は世界中あちこちに数多く建てられ、主イエスを信じて生きる者たちがそれぞれの暮らしを建て上げ、悪戦苦闘しつづけています。神ご自身の祝福、平和と恵みと憐れみを携え、それを差し出し、手渡そうとして。祝福の源でありつづけるための、それぞれの悪戦苦闘を。キリストの教会は、私たちクリスチャンは、どのように生きることができるでしょう。この地上を旅するようにして生きるための、その旅の備えをどのように整え、どういう弁えと心得をもって、何を選び取り、また何を手放したり捨て去ったりできるでしょう。主イエスの弟子たちよ。あの夜、主は祈りつつ生きて死ぬことの格闘をしつづけておられました。「御父よ、もし御心ならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」。自分自身がいま現に抱えている切実な願いや心の思いがあり、他方で、御父ご自身の願いや御心がある。驚くべきことに、救い主イエスご自身がその2つの心、2つの願いの間にある隔たりや喰い違いに突き当たっています。自分自身の心と願い、そして御父の心と願いと。それらは喰い違っています。あの彼は、血の汗をしたたらせ地面に身を投げ出して格闘し、自分自身の心と願いをねじ伏せようとしておられます。必死になって自分を退け、投げ捨てようとし、御父の御前にひれ伏しています。
 さて、ゲッセマネの園。主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに」。御心のままにとは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の愛情と信頼に辿り着きます。わたしたちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、わたしたちの思いや願いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、このわたしのためにさえ最善を願い、わたしたちにとって最良のものを備えていてくださる。父なる神さまの御心こそがわたしたちを幸いな道へと導き入れてくださる。
 主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて、身体中がすっかり冷たくなって、やがてとうとう死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。祈るようにといったい誰が勧められ、祈る場所へと招かれつづけていたでしょうか。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、いよいよ必死になって祈りつづけなさい。
  なぜなら、「なんて弱い私か」と私たちは落胆するからです。「自分に少しも自信が持てない。小さく弱く、とても危うい私だ。壊れやすくて華奢なガラス細工のような私だ」と落胆するからです。主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、愛してやまない弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らのことが気がかりでならないからです。「私につながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができない。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」と主はおっしゃいました(ヨハネ15:4-5)悩みと思い煩いの中に、私たちの目は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神の現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。「けれど御心どおりではなく、ただただ私の願いのままにおこなってください。私の心、私の願い、私の心私の願い」とそればかりを渇望しつづけて。神さまの御心も何もかもそっちのけにして。ただただ自分自身の心と人間のことばかり思い煩いつづけて。なんということでしょう。
この私たち自身は、いったいどうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによって。思い続けることによって。あの時、あの丘で、あの木の上にかけられたお独りの方によって、いったいどんなことが成し遂げられたでしょうか。なぜ私たちはクリスチャンなのか。神を信じ、ただ神にこそ聴き従って生きる者たちにとって希望や慰めや支えは、どこからどのようにしてやってくるのか。聖書ははっきりと証言します。「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである」(1ペテロ手紙1:18-21



 
〈祈り〉
 主イエス・キリストの父なる神よ。御子イエス・キリストによって、私たちを贖い、死と破壊と滅びから救い出し、新しい命に召し入れ、永遠の命の希望を堅くしてお与えくださいましたことを感謝します。とくに今日は聖晩餐のパンと杯を覚えながら集う礼拝ですから、生命の糧を受け取り、永遠の生命の希望を堅くしていただく備えをさせてください。そのため何より、心底からの悔い改めを、どうか私たちの心に贈り与えてくださいますように。
 政治と社会の課題にたずさわる者たちすべてを、あなたが導き、治めたまいますように。そしてすべての権力のもとにある人々が祝福されますように。医療従事者、福祉施設、子供たちのために働く多くの人々のその働きと家族の健康をおささえください。また、不自由さと惨めさの中に置かれた人々が、社会や、周囲の人々を憎んだり、軽んじて退けたりする貧しい心に囚われてしまわないように強く導いてくださり、支えてくださいますように。隣人を思いやる心をこの私たちにも贈り与えてください。
 私たち自身の家族、親族、親兄弟や子供たち、長年連れ添ってきた連れ合い、親しい友人たちの平安を願い求めます。そのために、私たち自身が神を第一として生活し、自分自身を神さまへの感謝の献げものとすることができますように。困難と心細さと恐れの中に置かれている世界中の人々と共にいまし、私たちも彼らと助け合えますように。われらの主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン


4/5こども説教「無事に出かけていきなさい」使徒16:35-40


 4/5 こども説教 使徒行伝16:35-40
 『無事に出かけていきなさい』

16:35 夜が明けると、長官たちは警吏らをつかわして、「あの人たちを釈放せよ」と言わせた。36 そこで、獄吏はこの言葉をパウロに伝えて言った、「長官たちが、あなたがたを釈放させるようにと、使をよこしました。さあ、出てきて、無事にお帰りなさい」。37 ところが、パウロは警吏らに言った、「彼らは、ローマ人であるわれわれを、裁判にかけもせずに、公衆の前でむち打ったあげく、獄に入れてしまった。しかるに今になって、ひそかに、われわれを出そうとするのか。それは、いけない。彼ら自身がここにきて、われわれを連れ出すべきである」。38 警吏らはこの言葉を長官たちに報告した。すると長官たちは、ふたりがローマ人だと聞いて恐れ、39 自分でやってきてわびた上、ふたりを獄から連れ出し、町から立ち去るようにと頼んだ。40 ふたりは獄を出て、ルデヤの家に行った。そして、兄弟たちに会って勧めをなし、それから出かけた。
(使徒行伝16:35-40

 朝になって、彼らを牢獄に閉じ込めさせた長官たちは部下の警察官たちを来させて、「あの人たちを牢獄から出して自由にさせなさい」と言わせました。主イエスの弟子たちは「いいや。それではダメだ」と自由になるのを断りました。ここはローマ帝国の支配のもとにある国で、私たちはそのローマ帝国の市民だ。そういう私たちを裁判にかけもせずに、人々の前でムチ打り、正しくない間違ったやり方で牢獄に入れた。それなのに、また裁判にもかけず勝手に、また誰にも知られないようにこっそりと牢獄から出したり入れたりしていいだろうか。それは間違っている。もし、牢獄から出てほしいのなら、せめて長官たち自身がここに来て、私たちを連れ出すべきだ」。その弟子たちがローマ帝国の市民だと聞いて、長官たちは怖がって、彼らによく謝ってから、どうか立ち去ってくださいと彼らにお願いしました。彼らは、出てきました。さて36節で、牢獄の看守が「無事にお帰りなさい」と主イエスの弟子たちに言いました。ここが大事です。神を信じていない他の人立の普通のいつもの挨拶と同じ言葉が使われているからと言って、ここでも同じ意味で使っているわけではありません。それは元々の言葉では、「神さまとの平和のもとに、先に進んでいきなさい」という意味です。無事であることも、何かを怖がることもなく安心であることも、神さまの恵みのもとにこそ成し遂げられるからです。看守とその家族も、主の弟子たちも私たちも、その同じ神の平和のもとに心安らかに生きる者たちだからです。









2020年3月29日日曜日

3/29こども説教「主イエスを信じなさい。そうすれば」使徒16:25-34


 3/29  こども説教 使徒行伝16:25-34
 『主イエスを信じなさい。そうすれば』

16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。……28 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。29 すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。30 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。32 それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。33 彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、34 さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。 (使徒行伝16:25-34

 主イエスの弟子たちは牢獄に閉じ込められていました。神さまに祈り、神をほめたたえ、信頼し、感謝する祈りの歌を歌っていました。ほかの囚人たちは耳を澄まして聞き入っていました。大地震が起こって、牢獄のドアがみな開き、すると牢獄の監守は「ああ困った。みんな逃げ出してしまっただろう。その責任を自分が負わされてしまう」と思って、剣を抜いて自分で死んでしまおうとしました。「いや、待ちなさい、待ちなさい 自分で死んではいけない。大丈夫、誰も逃げ出してはいないから」と弟子たちの声が聞こえました。牢獄の看守は「本当かなあ」と疑いながらも、確かめてみました。その通りでした。神を信じている弟子たちが牢獄の中で安らかに安心しているだけでなく、まだ神を信じていないはずの他の囚人たちも、1人も逃げ出さずに、ニッコリ安心して座っています。居心地が良かったからです。牢獄から逃げ出すよりも、神さまをほめたたえ、信頼し、感謝するその歌や祈りをいっしょに聴いていたいと願ったからです。どこで何をしているよりも気持ちがよくて、嬉しくて、幸せで、とても居心地がよくて、いつまでもそうしていたかったからです。不思議ですね。30-31節です。牢獄の看守は「わたしは救われるために何をすべきでしょうか」。弟子たちが答えました、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。おかしいなあ。おかしいでしょ? 囚人の誰も逃げ出していません。責任を負わされてきびしい罰をうけたり、仕事をクビにならずにすみます。じゃあ、もうすっかり救われて、いままで通りの生活ができるじゃないですか。そうです。このままで十分に救われている。だから いままでどおりの普通の生活の、普通の安心や喜びや幸せの、その千倍も万倍も素敵な幸せや安心や、まったく違う希望を見つけたのです。牢獄の中での安らかな様子を。弟子たちと囚人たちのあの祈りや歌の中にある、他のどこにもない幸いを。その格別な救いをぜひ自分も欲しいと願いました。この私たちも、その同じ一つのものを願い、受け取りました。主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。

          【補足/2種類の牢獄監禁】
           使徒行伝では、主イエスの弟子たちが牢獄に閉じ込められるよく似た事例が何回か報告される。5:17-21と今回と。5章では夜中に主の使いが来て、牢獄の戸を開いて弟子たちを外へ連れ出してくれた。この16章では、地震が起きて牢獄の戸がみな開かれたが、それは弟子たちを救出するためではなかった。牢獄の看守と家族をクリスチャンに加えるためだった。また弟子の一人パウロは、牢獄でずいぶん長く過ごすことになり、牢獄からピリピ教会へ手紙を書き送った。「わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」(ピリピ手紙1:12-14)。
受難予告の際に、弟子たちは主イエスご自身から、「自分を捨てて、私に従いなさい」と命じられていた。捨てるべき自分は、肥大化した自己顕示・主張と自己承認の過度で病的な欲求でしょう。「その自分」は不要で邪魔で、かえって自分を自己愛という牢獄の中に幽閉する。簡単に、その邪魔で要らない「自分」をポイと捨て去ることができます。できますよお。神さまが、私たちにもさせてくださるからです。「牢獄」は、その自己愛という牢獄から逃れて自由になるための稀有な実習体験でした。その意味でキリストの囚人であり、主の囚人である。前に伸ばした両手を縛られ、その縄を主なる神ご自身こそが握って、私たちを御心のままに連れ歩く。神への従順に生きることの幸いです。『クリスチャンの自由』とは、この神への従順と表裏一体であるところの自由であり、平安です。だからこそ、神以外のどんなものからも縛られず、言いなりにされず、まったく自由であることができます。

3/29「神の御名を」ルカ11:1-2


       みことば/2020,3,29(受難節第5主日の礼拝)  260
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-2                   日本キリスト教会 上田教会
『神の御名を』 ~主の祈り.2~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。        (ルカ福音書 11:1-2)
主イエスが教えてくださった『主の祈り』を少しずつ味わいはじめて、今日はその2回目です。「天の父よ。あなたのお名前を誉めたたえさせてください」。父なる神よと呼ばわりはじめて、「あなたの名」「あなたの国」「あなたの心こそが」と目を凝らしています。つまり、「父なる神さまの名」「父なる神さまの国」「父なる神さまの御心こそが」と。それが、主の祈りに含まれる6つの願いのうちの前半3つの願いです。誰よりも高いところにおられます御父をこそ尊び、信頼を向け、御父に従って歩み、御父の国が地上に建て上げられて自分もそこに住むことを待ち望むように。また、私の願いや他の誰彼の願いや計画どおりではなくて、ただただ御父の御心にかなうことこそが成し遂げられていきますように。そのように祈り求め、腹に据えつづけなさいと救い主イエスご自身が、私共に教え、命じておられます。なぜなら私共すべてのクリスチャンは、主イエスの後につづいて生きようとする主イエスの弟子たちだからです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、あなたの御心のままになさって下さい」(マタイ福音書26:39)。そうか、あのゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘そのままではないか。あなた自身もこの私も、そのように生きることができる、という神さまからの招きです。
 聖書の神を信じる人々は、なにより神の御前に深く慎む人々でありつづけました。その慎みによって、直接にあからさまに神のことを言ったり指し示したりすることを差し控えて、しばしば間接的で遠回しな言い方をしました。ここでもそうです。「父なる神さま。あなたの名前こそがあがめられますように」。それは直ちに、ただ名前だけではなく、父なる神ご自身が尊ばれ、信頼され、深く感謝されますように。他の誰彼がみんながという以前に、なによりまずこの私こそが神に信頼し、願い求め、感謝することもできますように、という願いです。「神の国が来ますように」。神の国、天の国。国が確かに国であり、神の王国が確かに名実共に神ご自身の王国である。その理由も実体も、まったくひたすらに国の王様にかかっています。王様がそこにいて、ただ形だけ名前だけいるのではなくて、そこで力を発揮してその領土を治めている。そこに住む住民一人一人の生活の全領域を、王様ご自身が心強く治めていてくださる。だから、王国はその王の王国となるのです。その領土に住む1人の住民の安全も幸いも、希望も慰めも支えも、すっかり全面的に、その国王の両肩にかかっている。それが神の国の中身です。
 神ご自身が尊ばれ、神こそが信頼され、感謝される。神ご自身が生きて働いてくださり、ご自身の恵みの出来事を持ち運んでいてくださる。そのことを渇望して願い求めている者たちは、つまり、「今はあまりそうではない」と気づいています。神のご支配のもとに据え置かれながら、なお神に反抗して自己主張し、我を張りつづけ、神の御心にかなって生きようとすることを二の次、三の次に、どんどん後回しにしつづける。そういうキリスト教会と自分自身のいつもの生活や現実に心を痛め、「どうしてそうなんだろうか」と思い悩んでもいる。私たちは気づきはじめています。神ではない別のものが尊ばれ、別のものが崇められたり恐れられたりしている。神ではない別のものが信頼され誉めたたえられたりしている。別のものが、まるで王様のように大手を振ってのし歩いている世界に、この世界に、この私は生きていると。その只中で、私もまた引きづられ、言いなりにされ、しばしば、この私自身さえもが目を眩まされ、心を深く惑わされている。なんということかと。『悔い改める』という聖書独特の言葉もまた、ただ反省したり悪かったと思うことではありません。自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いつづけることから解き放たれて、その眼差しも思いもあり方も180度グルリと神へと向き直ることでした。なぜなら、「私がどう思い、どう考えるか」とそればかりを思い、そればかりにこだわりつづけるのは、あまりに虚しく淋しい生き方であるからです。「周囲の人々が私をどう思うだろう、どう見られているだろうか」と顔色をうかがい、引きずられ、言いなりにされてゆく生き方は、とても心細いからです。あまりに惨めです。誉められたといっては喜び、けなされたといっては悲しみ悔しがり、受け入れられたといっては喜び、退けられたといっては嘆き、一喜一憂し、恐れつづけます。それでは、いつまでたっても淋しく惨めで、心の休まるときがないからです。
 長い長い時が流れました。『神ご自身が尊ばれ、信頼される。神ご自身が生きて働いていてくださり、ご自身のその恵みの出来事を、ご自身で持ち運んで、きっと必ず成し遂げてくださる』。その信頼と確信のもとに、今日でも、1人のクリスチャンが誕生します。心をさまよわせていた1人のクリスチャンが、ついに『私は一個のクリスチャンである』という恵みの場所へと立ち返ります。今日でも、同じ一つの確信のもとに、それは起こります。起こりつづけます。例えば、とても臆病で気の小さい人がいました。傷つきやすい、いつもビクビクオドオドしていた人がいました。夫の前でも親の前でも、子供たちの前でも、職場の同僚たちの前でも、「こんなことを言ったら何と思われるだろう」と彼女はためらいます。「聞いてもらえないかもしれない。馬鹿にされ、冷たくあしらわれ、はねのけられるかも知れない。相手の自尊心を傷つけ、互いに嫌な思いをするかも知れない」などと思い巡らせます。それで長い間ずっと、人の顔色をうかがいながら他人の言いなりにされてきました。けれど、クリスチャンである彼女はその一方で、もう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。そうだった。なにしろ神さまをこそ尊ぶ私である。神に信頼し、感謝し、神にこそ聞き従うはずの私である、と。また例えば、「私が。私が」と長い間、我を張って生きてきた頑固な人がいました。私は私のしたいことをする。したくないことはしない。思い通りにできれば気分がいい。したくないことをさせられれば気分が悪い。けれどクリスチャンである彼は、あるいは彼女は、その一方でもう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。「父よ、あなたの御心をこの地上に成し遂げてください」という心からの願いと信頼をです。ゲッセマネの園での主イエスの祈りそのものではありませんか。けれど私の願い通りではなく、あなたの御心にかなうことが成し遂げられますように。ああ、そうだった。私の考えや思いや立場を重んじるよりも、なにしろ神ご自身を尊ぶ私である。私に信頼し誰彼に聞き従うよりも、なにしろ神の御心にこそ信頼し、感謝し、神にこそ聞き従うはずの私である。「御名と御国を。私や他の誰彼の願いや計画ではなく、あなたの御心にかなうことをこそ」という願い。私たちの目の前にあるその一つの具体的な話題、その一つの判断とこの腹の据え方とは無縁ではありません。むしろ、いよいよそこで「御父の御心こそ」という願いが、私たちのための現実となっていきます。ついに、願い求めるその人は、「それはいけない。間違っている」と言い始めます。「そんなふうにしてはいけない」と言いはじめます。あるいは、「私が間違っていました。ゆるしてください」と。あるいは、喉元まで出かかった言葉を、思いと言葉と行いをかろうじて飲み込みます。もちろん、私たちは生身の人間です。嫌な顔をされるよりは、されないほうが居心地がいい。けなされるよりは誉められるほうが好きです。言い争うよりは、カドの立ちそうな話題は避けて、当らず障らずにいるほうが気楽です。わざわざ波風立つよりは立たないほうがよほどましに思えます。だから、力の強そうな声の大きな人物が目の前にいるなら、「はい。分かりました。あなたの思うとおりにやってください」と。どこまでも言いなりにされ、流されていきそうになります。あるいは強い私は、「私の気持ちは。私の立場や満足は」とどこまでも我を張って、私の言いなりに従わせようとします。それでもなお、私たちはクリスチャンです。なぜでしょうか? もう一つのことを心に留めているからです。「神の御名を、私たちにもあがめさせてください。神ご自身の御国を、ここへも来させてください」という祈りが、かろうじて危ういところで、私たちをクリスチャンでありつづけさせます。目の前のその強い大きな人を尊んだり恐れたりする2倍も3倍も、神さまをこそ 尊ぶ私たちであるからです。その人に信頼し従うよりも、自分の考えややり方に従わせようとするよりも、神にこそ信頼し、感謝し、聞き従いたい。その願いのほうが、ほんのちょっと大きい。ほんのちょっと色濃い。いいえ。その千倍も万倍も大きく色濃い。私たちはクリスチャンです。なぜなら、この私にもあなたにも天に主人がおられます(コロサイ手紙4:1参照)
私たちは晴れ晴れとして膝を屈めます。堅く抱え込んでいたものを安らかに手離すこともできます。臆病で気の弱い、卑屈でいじけた私のためにも、天におられるこの主人こそが強く大きくあってくださる。この主人こそが豊かであってくださる。私たちは、そこでようやく楽~ゥに、晴れ晴れとして顔をあげます。私たちはクリスチャンです。




2020年3月23日月曜日

3/22こども説教「牢獄に入れられる」使徒16:16-24


 3/22 こども説教 使徒行伝16:16-24

16:16 ある時、わたしたちが、祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。17 この女が、パウロやわたしたちのあとを追ってきては、「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」と、叫び出すのであった。18 そして、そんなことを幾日間もつづけていた。パウロは困りはてて、その霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。19 彼女の主人たちは、自分らの利益を得る望みが絶えたのを見て、パウロとシラスとを捕え、役人に引き渡すため広場に引きずって行った。20 それから、ふたりを長官たちの前に引き出して訴えた、「この人たちはユダヤ人でありまして、わたしたちの町をかき乱し、21 わたしたちローマ人が、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しているのです」。22 群衆もいっせいに立って、ふたりを責めたてたので、長官たちはふたりの上着をはぎ取り、むちで打つことを命じた。23 それで、ふたりに何度もむちを加えさせたのち、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。24 獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかりとかけておいた。                   (使徒行伝16:16-24

 神さまを信じて、そうしたら良いことばかりがあるかと思っていた。でも、そうではありません。嬉しいことや良いこともあり、嫌なことや苦しいことも起こります。私たちもそうです。それでもなお、神を信じて生きることはとても幸いで、心強いのです。さて、困ったことが起きました。占いをする一人の女奴隷を助けてあげました。その女奴隷は朝も晩も何日も何日も「この人たちは神のしもべで~」とずっと叫び続けてついてきます。うるさくて心が休まらないし、とても迷惑で困ったから、だから仕方なしに助けてあげました。いつもは、「可哀そうだ。助けてあげたい」と助けてきましたから、とても珍しいことです。そうしたら、その主人たちがおかげでお金儲けができなくなって、とても損をして、怒って、彼らを牢獄に閉じ込めさせました。役人も、まわりにいた大勢の人々も、主イエスの弟子たちを牢獄に閉じ込めることに賛成しました。何度もムチを打たれ、足には足かせをはめられ、扉にもカギをかけられ、もう逃げられません。このあと何が起こるのかを、主の弟子たち自身も他の誰も知りません。苦しんでいた一人の女の人が苦しみから自由にされただけではなく、そこには他にも、神さまの救いの計画があったのです。どんな素敵な計画なのかは、来週、聖書を読んでごいっしょに確かめましょう。

3/22「父よ、と祈ること」ルカ11:1-4


        みことば/2020,3,22(受難節第4主日の礼拝)  259
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-4                        日本キリスト教会 上田教会
『父よ、と祈ること』 ~主の祈り.1~
  
 +付録 FEBC番組の予告;〈交わりのことば〉3月28日(土)


     「あなたは どういう神を信じているのか。
       ~賢いおとめと愚かなおとめ 前半~」(約28分間)


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。 
                 (ルカ福音書 11:1-4)

 あの弟子たちは主イエスが祈っている姿を何度も見ていました。朝起きて、主イエスは祈っていました。夜眠るときにも食事の前にも、神さまに仕える御用のために働きに出るときにも、帰ってきたときにも折々に、主イエスは祈っていました。うれしそうにニコニコして祈っているときもあったし、苦しそうに顔をゆがめて祈っているときもありました。穏やかに、とても安らかに祈っているときもありました。必死に激しく、しがみつくように格闘をするように祈っているときもあったのです。弟子たちは、その姿をいつも見ていました。それはちょうど、子供が父さん母さんの働く姿をいつも見ているように。喜んで働く姿があり、苦しみ悩みながら働く姿もあったように。いつも見ているうちに、「自分もあんなふうに祈ってみたい」と思いました。彼らも、祈りをまったく知らなかったわけではありません。それどころか、いろんな人のいろんな祈りが彼らの周りにあふれていました。けれど、自分たちの祈りや他大勢の専門家たちの祈りと主イエスの祈りとではどこかが決定的に違う、と気づきました。その違いは大きく、しかも主イエスの祈りの姿は素敵でした。彼らの魂を揺さぶり、心を強くひきつけました。主イエスが祈るように、この私も祈ってみたい。それが出発点です。弟子たちは主イエスの御前に進み出て、こう願い求めました。「先生。私たちにも祈ることを教えてください。あなたのその祈りを私たちにも教えてください」。主イエスが父なる神に語りかけ、聞き届けているように、この私も同じく父なる神に語りかけ、父なる神からの語りかけを聞き届けたい。ちょうどあんなふうに。《どう祈るか》という問いは、祈りの仕方や作法についての問いを豊かに越えています。それは、生き方そのものについての、祈りと信仰をもってこの私がどう生きることができるのかという問いです。
 祈るとき、神さまはどのように生きて働いてくださるでしょう。聖書によって私たちは、3つの神さまを信じています。父なる神、独り子なる神イエス、そして聖霊なる神を。「この3つの神さまはそれぞれバラバラ勝手にではなく1つ思いになって働く」と教えられてきました。これが三位一体なる神という意味です。神さまご自身は、どういうふうに1つ思いになって働くのか。ぼくが教えられたのは、縦並びの神さまの在り方です。先頭に立つ父なる神、その後ろに独り子なる神イエス、その後ろに聖霊なる神。主イエスも聖霊なる神も、へりくだった心の謙遜な神さまです。「私が私が」と我を張ったり、やたらと自己主張したりなさらない。誰かが問いかけます、「あなたのことを教えてください。あなたの独自性や、すぐれた点や素晴らしさや重要性を」。すると主イエスは、「いいえ。私は父から委ねられ、命じられたこと以外いっさい何もしません。むしろ父の御名が崇められるように。父の御心こそがこの地上でも実現し、父の御国が到来しますように」。聖霊なる神もまた、「私については、ただその働きにだけ心を向けてください。私は主イエスの救いの御業とその教えをあなたがたに思い起こさせ、教えます。私はあなたがたに、主イエスを信じさせます。だからあなたがたも、イエスはイエスはと心を向け続けなさい」。しかも父なる神は、「これは私の愛する子、これに聴け」と、ただもっぱら主イエスをこそ名指しして、主イエスに聴き従うことを私たちにお命じになる(マタイ福音書3:17,17:5,11:27,コリント手紙(1)12:3。こうして、3つの神が1つ思いになって働くことができる。神さまを信じることは、神さまの御心とご意志に従って生きることです。信じるとは、そのことです。私たちも、聖書と神ご自身の指図に従って、そこでようやく、1つ思いになって働く神を信じて生きることができます。
祈りにおいても他の何についても、最も大切なこととして伝えられてきたものは何だったでしょう。救い主イエスの死と葬りと復活、天に昇って今も生きて働きつづけ、やがて終りの日に再び来られますこと。これこそが私たちの生活の拠り所、私たちを救う信仰の根源的な土台でありつづけます。つまりは、救い主イエスの救いの御業に目を凝らし、そこにこそ集中しつづけています(ヨハネ福音書5:39-40,20:30-31,コリント手紙(1)15:1-5参照)。ですから例えば、祈りのおしまいにいつも必ず何というかを教えられてきました。「主イエスのお名前によって祈ります、アーメン」。イエスのお名前によって祈る。だから、祈りは必ずきっと聴き届けられる(ヨハネ福音書14:13-14,15:16-17)。これが、1つ思いになって働く3つの神さまからの救いの約束です。
  さて、誰が祈るどんな場合にも、その祈りの本質はまず呼びかけに表われます。祈るとき、あなたはどんなふうに呼びかけているでしょう。例えば「主なる神さま」と呼びかける人は、神が主であり、そのご主人さまのしもべ・召し使いである私だと知りながら、そのことを大切に受け取りながら祈っています。例えば、「慈しみ深い神さま」と呼びかける人は、私の神は慈しみ深いと受けとめており、その慈しみ深さこそが神とその人とを結びつけています。例えば「全能の神」と呼びかける人は、何でもできる神であることに信頼し、この私のためにも何でもしてくださる神に願いと希望をたくしています。例えば「聖なる神さま」と呼びかける人は、神聖にして高くいます神の御前に畏れと慎みをもってひれ伏しています。そして今、「父よ」と主イエスは呼びかけます。それが、主イエスの祈りであり、この方のいつもの基本姿勢なのです。神に対して《父よ》と呼びかける。驚くべき呼びかけです。それまでは誰一人も、そんなふうに神に呼びかけたものはいませんでした。主イエス以前には、《父よ》という祈りの呼びかけは存在しませんでした。神が私たちの父であるなどという神認識は到底ありえませんでした。なぜなら神は神。人間は人間に過ぎないからです。人間は、どこまでいっても限界ある生身の、弱さと貧しさを抱えた人間に過ぎません。神と人間とは、親子ではありません。私たちは神の甥や姪でもなく、血がつながってもおらず、神とのどんな親戚関係にあるのでもありません。人間は人間に過ぎないし、神は神であられるからです。この、とても厳しい断固たる区別のもとに、人々は神さまの御前にひれ伏し、身を低く屈め、一途に信頼を寄せ、聴き従いつづけてきました。もちろん今では、私たちは「父なる神」「御父」「天におられる私たちの父であってくださる神」などと祈り、そのように呼びかけることが許されています。今では、それはふさわしいこととされました(ガラテヤ手紙4:4-7,ローマ手紙8:14-17)。けれど、それは「こう祈りなさい」と教えられ、許可されたあの時に始まったまったく新しい出来事です。「父なる神さま。御父。天におられる私たちのお父さま」;それらは正しく真実です。しかもその意味は、《イエス・キリストの父なる神さま。だからこそ確かに、私たちの父であってくださる神》。《イエス・キリストは神の独り子であり、私たちはこのイエスを主とし、イエスのものとされている。そのイエスによって、神は私たちをご自分の真実な子としてくださった》ということです。つまり、この主イエスというお方を抜きにしては、神を父とすることはありえません。私たちは神の子とされました。どんな私か、どんな信仰か、どんな生まれや生い立ちや素性かなどと私たちの側の資格や条件を一切問うことなしに、ただ恵みによって、神のあわれみの子とされています。「父よ」という神への呼びかけは、私たちにそのことを思い起こさせます。主イエスによって開かれた新しい恵みの道を、イエスによって贈り与えられた神とのまったく新しい関係と結びつきを、私たちに思い起こさせます。主イエスがあの『主の祈り』を与えてくださって以来、「父なる神」という呼びかけと《神を真実な父とし、その父の子とされている》とする生き方、腹の据え方は、私たちクリスチャンの格別な財産になりました。「父よ。父なる神さま」と私たちは呼ばわります。この神は私たちを愛し、見守り、私たちがよりよく日々を生き抜き、すくすくと成長してゆけるようにと励まし、手を差し伸べ、導いてくださいます。ちょうど親が子供たちに対してそうであるように。親であられる神であり、現に確かに神の子供たちとされている私たちだと。
 いまや神が私たちの父である。どんな父でしょう。十字架におかかりになる直前、ゲッセマネの園で、主イエスは「アッバ、父よ」と祈っておられました(マルコ福音書14:36)。アッバというのはその地方の独特の言葉で、父親に向かって呼びかける呼び名です。言葉を覚えはじめたばかりの小さな小さな子供が、お父さんをこう呼びます。「おっとう。父ちゃん」と。私たちの救い主イエス・キリストは、この時、小さな子供の心に返って天のお父さんに向けて、「トウチャン。オットウ」と呼ばわっています。相手に対するわずかな疑いもなく、すっかり信頼して。感謝や愛情、素朴な願いを込めて、一途に「おっとう。とうちゃん」と。不思議なことです。イエスさまはもちろん、もうすっかり大人なんですけれど、このお父さんの前では、このお父さんに向かっては、本当に小さな子供です。小さな子供の心で、自分を心底から愛してくれる親に向かって祈っています。
 主イエスは「死ぬばかりに悲しい」とひどく恐れて身悶えしながら、「この苦しみのとき、この苦い杯」と噛みしめながら、この崖っぷちの緊急事態の局面で、ここで、一途に父なる神にこそ目を凝らします。「どうかこの苦い杯を私から取りのけてください。しかし私が願うことではなく、あなたの御心にかなうことが行われますように」。「御心にかなうことが。御心のままに」とは何でしょう。どういう意味で、どういう腹の据え方でしょうか。自分を愛してとても大切に思ってくれるお父さんやお母さんといっしょにいるときの、小さな子供の心です。
この祈りの格闘を弟子たちに語り聞かせ、告げ知らせてくださったのは、私たちそれぞれにも悲しくて惨めで辛くて、とてもとても困ったことがあるからです。あなたにも、おっかなくて苦しくて心細い日々があります。
つまり、神さまが本当に神さまらしく、ちゃんとやっててくださること。私たちが喜んだり悲しんだり、安心したり困って心細かったりすることの1つ1つに対して、神さまこそが全責任をもって、ちゃんと世話して必ずきっと助けてくださること。そういう神さまが生きて働いてくださって、この私のためにも助けてくださること。それを知って、私たちも安心して晴々として暮らしていけること。「しかし私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。おとうちゃん。おっとう」と主イエスは呼ばわります。私たちも、同じくそう呼ばわることができます。全幅の信頼を寄せて、聞き従いながら生きるに値する真実な父親が、あなたにもいてくださるからです。だから、私たちは神さまの子供たちなのです。ちょうどまったく、小さな子供が自分の親に呼びかけるように。ちょうどまったく、小さな子供が何の心配も遠慮もなく「おっとう。父ちゃん」と呼びかけるように。主イエスは、「私がそう呼ぶだけでなく、今やあなたも、天の御父に向かってそう呼びかけていい。さあ呼んでごらん」と招きます。「おっとう。父ちゃん」と呼びかけた主イエスの全幅の信頼と親しさに、それゆえ一途に聞き従う神への従順に、この私もぜひ預かりたい。その幸いと心強さを、この私も受け取りたい。若い青年の日々にそうであるだけでなく、やがて大人になった後でも、所帯をもって家庭を築き、子供の親として生きる日々にも「おっとう。父ちゃん」と天の父に目を凝らしたい。目を凝らしつつ生きることをしたい。年を取って、おじいさんおばあさんになっても。恐れと不安の中に奴隷のように閉じ込められることがもうない、というわけではありません。苦しむことも深く悩むこともあります。これからも何度も、「人からどう思われ、どう見られるだろうか」「私はこれからどうなってしまうのか」と私たちは恐れます。不安にかられ、さまざまな思い煩いにがんじがらめに縛り付けられる日々は次々とあるでしょう。けれど大丈夫。なぜならば、苦しみ悩む度毎に私たちはそこから、その度毎に連れ出され、何度でも何度でも、きっと救い出されていくからです。「おっとう。父ちゃん」と天の御父に目を凝らし、小さな子供が親に呼びかけるように呼ばわり、その父との格別な出会いを積み重ねているからです。これまでもそうだった。今も、これからもそうです。もし、せっかく祈るならば、世間様や人さまに向かってではなく人々の前ででもなく ただただ神さまに向かって、神さまの御顔の前で心を注ぎだして、この私たちも祈りはじめましょう。



付録 FEBC番組の予告;〈交わりのことば〉 聖書の豊かさ

                 3月28日(土) 10:04
「あなたは どういう神を信じているのか。
~賢いおとめと愚かなおとめ 前半~」(約28分間)

                  金田聖治×(お相手)長倉崇宣
25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。(マタイ福音書25:1-13

    〈対話のためのメモ〉
1節で「そこで天国は、~に似ている」と始まる。
「天国。神の国」というのは、神が生きて働いておられ、その働きと力を及ぼしている恵みの領域です。マタイ福音書では、24章とこの25章のすべてを使って「終わりの日」のことがていねいに様々な角度からくわしく説き明かされつづけます。とても大切だということです(その直後26章冒頭でご自身の十字架の死が改めて弟子たちに予告されます)。とくに救い主イエスが2度目にこの世界に来られて、世界の救いを成し遂げることにたとえ話のすべてが集中して語られます。やがてふたたび来られる救い主イエスは、例えば「家に帰ってくる主人」として描かれ、またここでは、「花嫁と結婚の祝いをする花婿」として描かれます。旧約時代から、神と私たちとの親しく愛情深い関係は夫婦や恋人同士にたとえられつづけ、その土台の上に立って、花婿である主イエス、その花嫁とされたキリスト教会、その一人一人のクリスチャンです。

1-4節。あかりと、蓄えの十分な油が必要。花婿を待ち望む長い長い夜がつづく。
終りの日、それぞれの生涯の間も、耐え忍んで、約束を信じて待ち望み続けねばならない長い長い時間がある。「蓄えの十分な油」とは何か?

5節。花婿の到着がおくれて、皆、居眠りをして寝てしまった。
ここで居眠りは咎められない。ゲッセマネの園での3人弟子。思い煩いと疲れで、ついつい眠ってしまう。「目覚めて待つ」ことの難しさ。もちろん1日24時間ずっと起きて働けなどとムチャな要求ではなく、この世界や隣人のため、自分自身のためにも神さまが生きて働いておられることを心に留めて生活せよ。

6-9節。「油を分けてください。消えかかっていますから」「分けてあげるほどは無い。店に行って自分の分を買いに出るがよい」。A.受け皿の中の油は、受け取った恵みであり、救いの確信。主への信頼、主に対する感謝。この私自身の受け皿の中に、1滴また1滴と溜まり、集められてゆくのでなければ、それは私自身の信仰のともし火を燃やす油とはならない。そこに大きな道理。また、最期の最後に神さまご自身によって「戸が閉められ」、油や明かりを分けてもらったり、あげたりもできなくなる『〆切。門限』が定められている。厳粛に受け止めねばならない。最後の最後にはと。
B.実は正直なところ、この彼女たちの会話内容についてこの5~6年、「なんだかおかしい。腑に落ちない」と思い悩み続けてきた。1年くらい前に、とうとう気づいた。正しい真理も含みながら、けれど大切な何かが欠けて、抜け落ちている。「目を覚まして気づけ」と自分の心が揺さぶられつづけるような。福音の真実の別の大切な側面がある。たしかに最後の最後には。けれど今はどう? まだ残り時間があり、間に合うかも知れない。現に、「油を分けてあげたり、いただいたり」している私たちでもあると気づいた。例えば隣近所同士などの付き合いで、醤油や味噌を貸してあげる。生活が苦しくて、「すみません。お米2人分ほど分けてもらえませんか」。もちろん分けてあげます。しかも、その明かりは神さまを信じて生きるための明かりであり、油であるなら、その何倍も切実な訴えです。もし、油と明かりを求めている相手が生涯添い遂げると誓い合った愛する連れ合いだったら。もし、かけがえのない息子や娘たちだったら、どうするか。「自分の分は十分ある。けれど分けてあげて、一緒にその光と暖かさを喜び味わうほどには全然足りない。残念でした」などと冷たく追い払うだろうか。それではあまりにケチ臭く、安っぽく、薄情で無慈悲。「自分のためには十分ある。でも分けてあげるほどはない」というあまりに貧しい考え方はむしろパリサイ人や律法学者たちのいつもの了見の狭さや偽善にとてもよく似ている。習い覚えてきたはずの神とその福音の思いやり深さや温かさがわざと隠されているような。肝心要のところをちゃんと分かっているかどうかと試みられ、テストされているみたいです。憐み深い神であり、私たちが受け取ってきた恵みはただ価なしの無償の慈しみだった。救いは、その恵みをこそ唯一の土台としている。神の憐みのもとにある賢さは、もっと広々していて気前がよく、とても心安らかだったのでは。しかも憐れんでいただいた者たちは、その憐みを隣人に無償で差し出すことさえできるのでは? むしろ自分のための油の最後の数滴でさえ、「はい。どうぞ」と惜しみなく、喜んで贈り与えることもできる。なにより主イエスご自身こそが私たちのためにそのようにしてくださったと思い出した。油どころか、自分のすべて一切を投げ尽くして、ご自分を無になさった。だから彼女たちのやりとりは、私たちの心を激しく揺さぶります。

10-13節。到着し、「戸が閉められた」。「あなたがたを知らない」。
ノアの箱舟。「そこで主はノアのうしろの戸を閉められた」。ノアではなく他の誰でもなく、ただ神さまが扉の鍵を握っておられ、主なる神がそのとき戸を閉める。神に委ね、従うほかない決定的な時が待ち構えている。戸の中に誰と誰が入れていただけて、誰が外の闇に取り残されるのかは神だけが御存知。「門限があり、〆切期限がある」と知らされなければ、いつまでも眠りをむさぼりつづけてしまう私たち。それでは困る。
 
 一度目に来られ、終りの日にもう一度ふたたび来られるだけではなく、実は、「私たちといつも共にいる」とも約束してくださった。これが告げ知らされ、習い覚えてきたはずのもう1つの真実。「主よ来てください」と待ち望むばかりでなく、「いつもいっしょにいてくださる」と確信し、実感し、支えられ守られつづけながら、安心して生活を建て上げてゆく私たちです。やがて来られる救い主イエスを待ち望み続けるためには、明かりと十分な蓄えの油が必要です。改めて驚かされますが、『片時も離れずいつも共にいてくださる主イエスご自身』こそが、この世界と私たち自身を明るく照らすまことの明かりであり、その蓄えの十分な油です。私たちを照らす光がすでに昇っており、汲んでも汲んでもなくならず湧き出しつづける生命の水・生命の油を贈り与えられているからです。一度目に来られて神の国を宣べ伝しはじめたとき、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた」また、「神の国はあなたがたの只中にある」と仰った。神の救いの御心と働きを背負って、救い主イエス自身が地上に降り立ったからです。その方によって、終りの日に、いよいよ神の御支配が地上に成し遂げられます。ですから、むしろ、「終わりの日々」はすでに始まっていると考えるべきかも知れません。私たちはこの『終りの日々。救いの完成される日々』にすでに辿り着いてしまっている。なぜなら、すべてのものの回復はただこのお独りの救い主の到来にかかっており、希望をもって、その日を待ち望む理由があるからです。さまざまな嵐が次々と襲いかかり、「その日が来れば」と待ち望むのでない限り、キリストの教会はすっかり、何度も何度も、打ち倒されていたはずだから。神を信じて生きる一人のクリスチャンも、まったく同じです。主を待ち望む者は新しい力を得、走っても疲れず、歩いても弱り果てることがないと証言されていますね。

私たちクリスチャンにとって、世界のはじめと終わりこそ神を信じて生きるための生命線であり続ける。はじめに神さまが私たちを救いへと選び出し、終りの日の審判を経てやがて永遠の御国へと招き入れられる希望を与えられている。それこそが、神さまの現実に向けて私たちの目を見開かせ、勇気を与え、励ましつづけます。         
 (番組の後編は、多分4月24日に放送・配信)




















Wブレイク「十人の乙女たち」


2020年3月16日月曜日

3/15こども説教「主が彼女の心と開いた」使徒16:11-15


 3/15 こども説教 使徒行伝16:11-15
 『主が彼女の心を開いた』

16:11 そこで、わたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。12 そこからピリピへ行った。これはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。わたしたちは、この町に数日間滞在した。13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。15 そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。  (使徒行伝16:11-15

 とても大切な話をされても、ちっとも聞こうとしない人もいるし、耳を傾けてよくよく聞こうとする人もいます。信じる人もいるし、信じられずに聞き流しつづける人もいます。昔も今も、これからもそうです。14節を見てください、「ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」。神さまが、その人の心を開いて、耳を傾けさせた。だから、その人は耳を傾けてよく聞くことが出来ました。礼拝の中でも、家にいて家族といっしょに祈るときにも、「神さま。私たちの耳と心をあなたが開いてくださって、聞くことができるようにさせてください」といつも祈っているのは、このことです。しかも彼女もその家族も、洗礼を受けて、神を信じる者たちとされました。「どうぞ、私の家に来て泊ってください。お願いします。さあ、どうぞどうぞ」と、熱心に強く願い求めて、主の弟子たちを連れて行きました(注)。どんな神さまなのか。どういう救いと幸いが与えられるのか。神を信じて、どのように毎日毎日を暮らしてゆくことができるのかをぜひ詳しく聞きたかったからです。自分ばかりではなく、わたしの家にいる私の大切な家族みんなにも、その大切な話を、ぜひ聞かせてあげたかったからです。

       (*)【補足/懇願し、強いて連れて行った理由】
        15節、「主イエスの弟子たちに自分の家に来て、泊ってください」と、彼女がとても熱心に、とてもとても強く精一杯に願い求めたことが分かる。「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら」;信じたからこそ洗礼を受けたのだし、授けたのはその弟子たち自身である。もし、宿泊を断るなら、それは「この女性が主を信じる者だと認めていない」ことになるではないか。しかも「懇願し、強いて~連れて行った」と報告される。彼女の心と、強制連行するばかりの切なる情景が目に浮かぶようではないか。






3/15「無くてならない只ひとつのもの」ルカ10:38-42


       みことば/2020,3,15(受難節第3主日の礼拝)  258
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:38-42                   日本キリスト教会 上田教会
『無くてならない只一つのもの』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 10:38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。        (ルカ福音書 10:38-42)
マルタという女性が、主イエスを大切なお客様として自分の家に迎え入れました。「イエスさまが私の家に来てくださる」。それは、とても嬉しいことでした。マルタは大喜びで準備をし、精一杯のもてなしをしました。けれどそのうちに、マルタさんはとても疲れてしまいました。世話好きで働き者の彼女でしたし、誰かの役に立つことや働くことが大好きな彼女でしたが、それでもとてもとても疲れて、心か淋しくなってしまいました。さて主イエスは、その間に神さまの話を語りつづけていました。どんな神なのか、どういう救いなのか、神を信じてどのように喜ばしく生きて、希望をもって死ぬことが出来るのかなどと。見ると他の人たちも、自分の妹のマリヤさえ主イエスの足元に座って、すました顔をして話を聞いている。「ああ。私もそこに座って、神さまの話を聞きたいのに」。聞きたいけど、働かなくちゃ。でもすごく聞きたい。困った、どうしたらいいだろう。心がバラバラに引き裂かれてしまいそうな気がしました。マルタ姉さんは、主イエスのところに文句を言いに来ました。口をとがらせて、プンプン怒って。「妹のマリヤはずるいんですよ。私だけにこんなに働かせて。私だけにこんなに汗水流させて、苦労させて。それなのに見てください。涼しい澄ま~した顔をして、ちゃっかりそこに座っている。だからイエスさまから、すぐに手伝うように、きつく命令してやってください」。
 41-42節です。主イエスは、この人がどんなに優しいどんなに嬉しい心で皆の世話を精一杯にしていたのかを、よく分かっていました。そして、この真面目な心の真っすぐな人が、しなければならない色々な事のために心がバラバラに引き裂かれるほどに悩んで、どんなに淋しい惨めな思いを味わっていたのかを、よくよく分かっておられました。だからこそ、「ほかの何よりも千倍も万倍も大事な肝心要のことは、ただ一つだ」と何とかして伝えてあげたかったのです。大事な只一つのこと。『神さまがどんなに素晴らしい神さまなのか。私たちをどれほど深く愛していてくださり、どんなに大切に扱ってくださるのか』ということ。それこそが、他すべて一切を支える土台です。もし、それを聞き届けることができなければ、そうでなければ、ピカピカに磨きあげた部屋も窓ガラスも、塵ひとつない清潔な床も、何の役にも立ちません。心遣いも精一杯の努力も、おいしい立派な料理の数々も、ただむなしいだけ、水の泡になってしまう。
 あのマルタさんも、実は、うすうす気づきはじめていました。だんだんと分かりかけてきていたのです。自分が本当に必要としていたものが何だったのか。何があれば、心安らかに満たされて、心底から喜ぶことができるのかを。だからです。だからこそ、「私も、イエスさまの話がぜひ聞きたい。なんとしても聞きたい」と思いました。もちろん妹のマリヤが選んだ『神さまの話を聞くこと』は、マリヤから決して取り上げてはなりません。何があっても、誰も、その人から奪い取ってはなりません。では、マリヤが聞けばそれで十分なのか。いいえ、とんでもない。マリヤだけじゃなく、マルタからも他の誰からも、決して取り上げてはなりません。もちろんあなた自身からも、あなたはこれを奪い取ってはなりません。誰からも、何があっても、決して奪い取られてはなりません。『神がどんな神なのか。私たちをどんなに愛して、どれほど大切に取り扱ってくださるのか。どういう救いと幸いを神さまから贈り与えられているのか。神を信じて、毎日の暮らしをどのように生きることができるのかを』を。しかも、あなただって、無くてならない只一つの良いものを、自分自身で探し当てて、自分でちゃんと選び取ったはずじゃなかったのか。礼拝を第一とし、神を信じて生きることを自分にとっての第一としつづけて生きることを。なによりも、神を信じて生きるクリスチャンであることを。「だから、淋しいマルタよ。眉間にシワを寄せて、深刻そうなきびしい顔をしているマルタよ。疲れ果てて、このごろ溜め息ばかりついているマルタよ。こっちへ来きなさい。そんな後ろの方に立っていないで、ここに座りなさい。この一番前の席に座って、ここでよ~く聞きなさい。部屋の掃除や片付けを途中で放り出してでも、なにしろ腹いっぱいに、満ち足りるまでに聞きなさい。手遅れになる前に、間に合ううちに、何としても、よくよく聞き届けなさい」。
 あの彼女は、とても重い病気にかかっていました。いろいろのもてなしのために忙しく立ち働いて、多くのことに思い悩み、心を乱し、心を引き裂かれてしまう。これを、『マルタ病』というのです。この病気は命にかかわります。急速に症状が悪化して、放って置くと死んでしまいます。この病気によって、『神さまがどんな神さまなのか。私たちをどれほど愛していてくださり、どんなに大切に扱ってくださるのか』が日に日に分からなくなります。信仰がみるみるやせ衰え、ついに喜びも慰めも希望も死に絶えてしまう。恐ろしいことです。あの骨惜しみしない善良な彼女は、主の慈しみの只中に晴れ晴れとして生きるはずのあの彼女は、あやうく死んでしまうところでした。
 ですから、プンプン怒って主イエスのもとへ近寄っていったとき、彼女は、緊急遭難信号のSOSを発信し、助けを求めていたのです。ちょうど溺れそうな人がバタバタと水面を打ちたたくように。手足を無我夢中で振り回すようにして。主イエスは彼女のSOS信号に答えて、断固としておっしゃるのです、「無くなってしまっては本当に困るほどの、とても必要なことは、ただ一つだけだ」と。この猛烈に苦い薬だけがマルタを救うことができる。この苦い薬だけが、マルタ病にかかったすべての人々を救うことができる。飲みづらくても苦くても無理矢理にも飲み下して、そして主の足元に座り、耳を傾けること。なぜなら、この誠実で熱心な働き者たちは、この私たちは、神が生きて働いておられることや、他の人々も自分に負けず劣らず精一杯に働いていることを、その大事なことを、しばしばすっかり忘れ果ててしまうからです。歯を食いしばって働いて、疲れ果てるあまりに、神さまに喰ってかかり、共に生きるはずの尊い兄弟たちや家族を、仲間たちを、「いたらない。不十分だ。貧しい」と軽々しく非難するようになるからです。だから、なんだか淋しい。なんだか物足りない。なんだか満たされない。「いいから休め。あなたがいなければ立ち行かないわけではない。あなた自身の人生も幸いさえ、あなたの両肩にすべてがかかっているわけではない。あなたが主なのではない。あなたは、主人であるこの私に仕えるしもべではないか。この私こそが担い、背負い、私が運び、私が救い出すから」(イザヤ46:3-4)と命じられます。
 このあとマルタがどうなったか。どんな生涯を歩んだのか。それは聖書に書いてありません。なにしろ格別な教えを主ご自身から受けた彼女は、もしかしたら、キリストの教会に仕える喜ばしい働き人になったかもしれません。例えば後ろの方に、なんだか後ろめたそうに肩をすぼめてそそくさと帰り支度をしている、1人のお婆さんの姿が目に入りました。おや、どなただったかしら? なんと、それは40年後の年老いたマルタお婆さんでした。「どうして後ろめたそうに寂しそうにしているの? せっかくイエスさまのお話を聴いてニコニコしていたばかりだったのに」「だって、元気でハツラツとしていた若い頃はあっという間に過ぎ去ってしまいました。今では足腰弱って車椅子に乗って手もしびれて、もう人様のお役に立てず、ただただ何かをしていただくばかりで、それで申し訳ないやら淋しいやら肩身が狭いやら、自分で自分が惨めで情けないやら」「まあ、淋しいわね。分かった。でも、それは程々のことにしておきましょう」「だあって! あの人がこの人が、その人たちが。それに比べて惨めなこの私は」「あらまあ、手遅れになってしまいますよ。せっかくイエスさまのお話を聞いて腹に収めたんでしょ。せっかく神さまから受け取った喜びも慰めも手放したくないのよ、私は。せっかくずっと信じて生きてきたのに、それじゃあ神さまの恵みがもったいなさすぎるわ。『私や誰彼がどれだけお役に立てるかも大切だけど、それよりなにより、神さまがこんな私のためにも十分に生きて働いてくださる。それを覚えていることこそ千倍も万倍も大切。だから私はなにしろ神さまに信頼して、お任せしている。無くてならない只一つの必要なこと。無くてならない只一つの必要なこと、無くてならない只一つの必要なこと』って口癖のように、自分を支えてくれる念仏やまじないやお守りのように、いつもいつも自分に言い聞かせてたのは誰だったっけ」「え、誰?」「あなたでしょ あなたが言ってたじゃないの。忘れたの? じゃあ、もう1回最初からイエス様にお話してもらいましょう。いつもの、例の、あの病気がぶり返しそうになったら、何度でも何度でも最初から。
  ――主イエスの足元にじっくり座って、腹いっぱいに満ち足りるほどに聞き届けつづける者こそが、やがて立ち上がり、隣人にも兄弟にも家族や自分の子供たちにも、もちろん何よりも主なる神さまに対してこそ心低く身を屈めて、つつましく仕えることができるのです。満ち足りて、晴れ晴れとして働くことも出来ます。神さまの御前に深く慎むことのできる者こそが、慎み弁える限りにおいてだけ、働きを担うことがゆるされます。神ご自身の働きの中の、ほんのごく一部分をです。全面的に心底から委ねつつ、だからこそ心安く担うことを許されます。「主ご自身が先頭を切って、第一に、全責任を負って戦ってくださる」と知っているからこそ、その小さな弱々しい人でさえ、安心して精一杯に働くこともできます。いいえ、それだけではなく、休むこともできます。楽~ゥに息を吸って、何の気兼ねもなくたっぷりと。大事に抱えていることもでき、それだけでなく、すっかり手離してしまうこともできます。進むこともでき、じっと留まることも、退くことさえ誰にでもきっと必ずできます。しかも安心して、晴れ晴れ清々として。
 なぜでしょう。なぜなら、ご覧なさい。天に主人がおられます(コロサイ手紙4:1)。主であってくださる神さまは生きておられ、こんな私たちのためにさえ十分に生きて働いていてくださるからです。今も、そしてこれからも。                            

2020年3月10日火曜日

3/8こども説教「神が招いた」使徒16:6-10


 3/8 こども説教 使徒行伝16:6-10
 『神が招いた』

16:6 それから彼らは、アジヤで 御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。7 そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。8 それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。9 ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。10 パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした
(使徒行伝16:6-10

 夢や幻、預言者や主イエスの弟子たちを用いて、その他いろいろな仕方で神さまが私たちに語りかけつづけます。
 9-10節を読みましょう。「ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした」。主イエスの弟子は夜に幻をみました。その幻の中で、「一人の外国人が『渡ってきて、わたしたちを助けてください。お願いします、お願いします』と一所懸命に頼みつづけます」。これは、幻を使って神さまがこの人たち所へ出かけていって助けてあげさせようとしています。それがはっきり分かったので、神さまからの指図に従って、彼らは出かけていきました。

7節;「イエスの御霊」(=聖霊なる神)

【補足/救い主イエスの弟子(=クリスチャン)はイエスに聞き従う。
神にだけ聞き従う】
  「天から(父なる神の)声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』、「雲の中から(父なる神の)声があった、『これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け』」(ルカ福音書3:20,9:35
  「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19,5:29

3/8「あなたの隣人」ルカ10:25-37

            みことば/2020,3,8(受難節第2主日の礼拝)  257
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:25-37                    日本キリスト教会 上田教会

『あなたの隣人』


      +付録「懲らしてください」 +ある先輩の嘆き発言


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
10:25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。28 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。       (ルカ福音書 10:25-37)

 ずっと昔、イスラエルの民がモーセの帰りを待ちわびている間に、シナイ山頂で、2枚の石の板に10個の戒めが刻まれました。あのとき神から与えられた律法は、「あなたの主である神を愛しなさい。そして、自分自身を愛し尊ぶように、それに負けず劣らずあなたの隣人を愛しなさい」(ルカ福音書10:27参照)と私たちに命じます。神を愛することと隣人を愛することとは、切り離せない一組の事柄として私たちの前に断固として掲げられます。「わたしの隣人とは誰か」と信仰の専門家が問いかけました。これこそとても良い質問で、よくよく考えてみるに値します。隣人はどこにいるのか。私は誰に対して、その人の隣人であるのか。それは、私たちが差し出したり受け取ったりする慈しみや労わりについての問いかけです。主イエスは、一つのたとえ話をもって、その問いに答えます(たとえ話の中に、道端に倒れている大怪我をした旅人と、そこに通りかかる祭司、レビ人、サマリヤ人。祭司とレビ人は神を信じて生きることの専門家たちであり、人々から尊敬される人々。他方、サマリヤ人は長い歴史の中でユダヤ人から軽蔑され、嫌われ、除け者扱いされつづけてきた外国人)
  まず30-35節です。ある人が旅の途中で追いはぎに襲われました。衣服をはぎ取られ、殴りつけられ、半殺しの状態で道端に置き去りにされました。祭司が通りかかり、けれども道の向こう側を通り過ぎていきました。レビ人も通りかかり、けれども道の向こう側を通り過ぎていきました。彼らは信仰の専門家であり、『神を愛することと隣人を愛すること』の専門家です。けれど、あの彼らは追いはぎに襲われた人の隣人になることはありませんでした。なぜでしょう? すぐ目の前にいたその人が自分の隣人であることに、気づかなかったのかも知れません。その人を自分の隣人とすることを、好まなかったのかも知れません。自分が隣人となることが望まれ、必要とされていたことに気づいていながら、けれど差し出してあげるべき慈しみやいたわりを持ち合わせていなかったのかも知れません。今日でも多くの様々な人たちがその同じ道を通りかかるでしょう。その倒れた人の傍らを、1人の高校生が通りかかります。近所のスーパーまで買い物に行く1人のお母さんが。仕事に出掛ける途中の1人の労働者が。おじいさんやおばあさんが。ある日、あなたが通りかかり、私も通りかかるでしょう。その痛ましい姿を目にしながら、ある時には、関わりあいになるのを好まず、道の向こう側をそそくさと通り過ぎてゆくかもしれません。忙しかったり、それぞれの都合や用事や約束があったり、自分のことで精一杯だったり、それより何より差し出してあげるべき慈しみやいたわりを持ち合わせていなかったりして。しかも道の向こう側を通り過ぎてゆくための、もっともらしい合理的な理由を、わたしたちはそれぞれにいくつも持っているのですから。だからこそ私たちの代表例として、私たちのいつもの姿を映し出す鏡として、祭司とレビ人がわざわざ登場させられています。そそくさと足早に道の向こう側を通り過ぎていったあの彼らは、私たちのことです。
 33-37節。隣人とは何でしょう。私の隣人は誰でしょう。隣人になるとはどういうことでしょう。隣の家や近所に住んでいるから隣人だ、というのではありません。顔見知りで、時々は「こんにちは」などと挨拶くらいはするから、だから隣人だ、というのではありません。ひとつ屋根の下に長年いっしょに住み、同じ食卓を囲み、家族であり親子であり夫婦である、だから隣人だ、というわけでもありません。慈しみやいたわりを差し出しあい、受け取りあい、それでようやく、そこで初めてその人と私とは隣人とされた。いったい誰がこの私の隣人になってくれるか。いいえ、主イエスは「わたしの隣人とは誰か」ではなく、「誰が、その困っている旅人の隣人になったか」と、2歩3歩と踏み込んで問いかけました。この私自身が、その人の隣人となること。その人の隣人として苦しみや喜びを分かち合いながら、その人といっしょに生きはじめること。
 旅をしていたある1人のサマリア人が、この道を通りかかりました。その人を見ました。あわれに思いました。近寄って傷の手当をしてやり、包帯を巻いてあげ、自分のロバに乗せ、宿屋に連れていって解放してあげました。翌日には出掛けなければなりませんでした。朝、宿屋の主人にデナリ銀貨2枚(=およそ2日分の労働賃金)を渡して、こう頼みました;「この人を介抱してあげてください。もし費用がもっとかかったら、帰りがけに私が支払いますから。どうぞよろしく」と。これが隣人であり、その人の隣人になるとはこのことだ、と主イエスが私たちに語りかけます。たとえ信仰の専門家でなくても、神を愛することと隣人を愛することの専門家でなくたって、「だれがその人の隣人になったか。気の毒に思って、近寄ってきて、その人を助けてあげた人だ」と分かります。小さな子供だって分かるでしょう。それが隣人。隣人になるということ。とても恥ずかしいことですが、振り返ってみると私は誰かの隣人になってあげたことはあまりありません。もしかしたら、ただの一回もないかもしれません。さらに主は、私たちにこうお命じになります。「あなたも行って、同じようにしなさい」と。しかも誰かの隣人になることは、神を愛することと切り離すことのできない一組の事柄として断固として掲げられます。そのことを抜きにしては、神を愛することも神を知ることも決してありえないと。・・・・・・さあ、困りました。私は頭を抱えます。
 けれど実のところ、私たちは頭を抱えて、必死に精一杯に悩み果てて大いに困る必要があります。頭を抱えて、「私は隣人として失格だ」と知る必要がおおいにあります。だって、そうでなければ、私たちは「どうしてもっと愛してくれないのか。なぜ手を差し伸べてくれないのか。立ち止まって、近寄ってきて、傷の手当をしたり、どうしてもっと親切にしてくれないのか。どうして心を開いてくれないのか。どうして私の気持ちや悩みを分かってくれないのか。あなたはどうしてもっと十分な隣人になってくれないのか」などと不平を並べ立て、相手を非難し、身近な他者を裁きたててしまうからです。自分を棚にあげて。そうされるのにふさわしい私なのに、と思い込みながら。慈しみやいたわりを差し出すには、私たちは薄情です。慈しみやいたわりを受け取ることには、私たちは貪欲で、とても欲張りです。喜ぶことも感謝することも満ち足りることも少ない。だから、いつもなんだか淋しい。不十分な隣人であり、いたらない貧しい隣人です。あなたの夫に対して。あなたの妻に対して。あなたの子供たちに対して。あなたの兄弟姉妹たちに対して。あなたの職場の同僚たちに対して。近所に住んで、「おはよう。いいお天気ですね」と時々挨拶しあう顔見知りの人々に対しても。あなたもそうですが私もそうです。それは、お互い様でした。

               ◇

 あの格別な、滅多にいないはずの、ただお独りのサマリア人に、目を凝らしましょう。私たちは知りませんでしたが、その独りのサマリア人は、『たまたま偶然に』通りかかったのではありませんでした。たまたま偶然に、その人だけを助けたのでもありませんでした。エルサレムからエリコへの道筋だけでなく、佐久や小諸、塩田、東御市方面にも、長野市や上田界隈にもごく頻繁に通りかかります。あの彼は、追いはぎに襲われ続ける旅人たちのための救出者として、巡回パトロールをしつづけておられます。どの狭い小道や裏通りにも追いはぎが出没したので、どの片隅の道端にも、襲われて瀕死の重傷をおった旅人がうずくまったり倒れたりしていたので、朝も昼も夜明けにも、地の果てに至るまで、彼は、独りきりの格別な救助者として巡り歩かねばなりませんでした。来る日も来る日も、そのただお独りのサマリア人は救出と保護のための巡回パトロールをしつづけました。アダムとエヴァの息子たちの時代にそれは始まりました。ノアの時代にも。アブラハム、イサク、ヤコブの時代にも、数多くの追いはぎが小道という小道、道端という道端に潜み、被害者が続出しました。救出と保護の、はてしなく長い長い時が流れました。
 しかも困ったことには、私たち人間はあまりに物忘れがひどいのです。実は、あの祭司やレビ人も、ほんの数ヶ月前か数年前には、襲われて道端に倒れていた人でした。でも彼らは、ほかのいろいろなことは覚えているくせに、それなのに介抱され、包帯を巻いていただき、「わたしが費用の全部を残らずすっかり支払いますから」と約束され、ずいぶん高額だった治療費の全額を支払っていただいたことを、その肝心要を、今ではすっかり忘れてしまったのです。宿屋の主人も忘れました。「何人もケガ人の介抱と世話を頼まれたが、支払いが滞っている。きっと支払うからと約束しながら、あの奇妙なサマリア人はちっとも戻ってきてくれない。これでは大損、商売上がったりだ」と。あの追いはぎたちさえ、自分が別の追いはぎに襲われて道端に倒れていたことを、近寄っていただいて介抱していただいたことを忘れていました。「隣人とは誰ですか。誰がふさわしいですか」などと訳知り顔で得意そうに質問していたあの専門家も。あの淋しいお母さんも。あの高校生も。あの労働者も。あのおばあさんも、おじいさんも皆が皆、すっかり忘れはててしまいました。淋しい時が流れつづけました。
 あるとき、その淋しい人たちに、不思議な物語を語って聞かせる方がありました。「聞いたことがあるかなあ。ある人が、いつもの道を歩いていた。あるいは自分の家の中で、台所からテレビのある茶の間へと向かう途中だったかも知れない。茶の間から洗面所か、あるいは玄関へと向かう途中だったかも知れない。そこで、追いはぎに襲われた。ひどい傷を負って、うずくまった。心細くて淋しくて、ただメソメソ泣いていた。するとそこに・・・・」。耳を傾けているうちに、あなたはハッと気づきます。自分のことがそこで物語られていると。あなたは、語りかけるその人物に見覚えがあります。確かに、見覚えがあります。あのとき、助け起こして介抱してくださったあのとても奇妙なサマリア人です。別の時には、旅をしていたあなたに宿を貸してくださった方です。また別の時には、喉の渇いていた私に一杯の水を飲ませてくれた相手です。また別の時には、裸だったあなたに服を着せ掛けてくださった相手です。牢獄に閉じ込められていた日々に、あるいは病気のときに訪ねて見舞ってくれた相手です(マタイ福音書25:31-46参照)。それらは皆、隠れた姿で、別の顔つきと名前で来てくださった、あの同じお独りの、格別に良いサマリア人でした。主が私たちと共にいてくださり、主ご自身が私たちの隣人となってくださるとは、このことでした。「私が支払う」と、あまりに高額な治療費を全額すっかり支払ってくださった、あの他のどこにもいない、ただお独りのサマリア人です。その十字架の苦しみと死によって、復活の新しい生命によって、すっかり支払ってくださった救い主イエス・キリストです。ああ、そうでした。「わたしの主、救い主イエス。あなたでしたか。あなたこそが隣人になってくださったのですね。こんな私のためにさえ」。そして、喜びがあふれました。堅い突っかえ棒が外れたように、堰をきったように、この私にも、ついにとうとう喜びがあふれました。




 +付録/『嘆きに応える神の御言』 第24回 エレミヤ書10:23-25
「懲らしてください」+ある先輩の嘆き発言

 こんばんは。エレミヤ書をごいっしょに読み味わっていきましょう。1023-25節です。「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。あなたを知らない国民と、あなたの名をとなえない人々に、あなたの怒りを注いでください。彼らはヤコブを食い尽し、これを食い尽して滅ぼし、そのすみかを荒したからです」。

 1.導入
24節、「わたしを懲らしてください。怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」とエレミヤは、神からの慰めや労わりなどではなく、むしろ懲らしめをこそ願い求めています。兄弟姉妹たち。これは、どういうことでしょうか。「慰めの言葉を聞きたい。元気づけ励ます、喜びと希望の言葉を」とエレミヤも要求されつづけ、私たち伝道者も人々から求められつづけ、そのように努めてもきました。けれど何十年、何百年と語られ、聞かれつづけてきたはずの「慰めと癒しの言葉」は慰めとはならず、その「癒し」は人々をあまり癒しませんでした。その結果、どうしたわけか私たちは窮地に立たされています。ここが正念場です。『人々から求められ、語られてきた慰めはどんな慰めなのか。どこへと向かわせる慰めや癒しなのか』と今こそ真摯に問わねばなりません。神ご自身が差し出そうとする、いのちへと至る慰めなのか。それとも別のところから出てきた、別の慰めなのか。神ご自身は、この私たちと先祖に、どんな慰めを差し出そうとしておられるのかと。とりなして祈ることを神ご自身からきびしく禁じられた稀有な預言者は、ついにとうとう、「わたしを懲らしてください。怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまう」と神に訴えはじめます。

 2.祈り
救い主イエス・キリストの父なる神さま。あなたに信頼を寄せ、感謝し、あなたに聴き従い、信頼を寄せつづけて生きる私たちとならせてください。私たちは、ただ険しいだけの荒れ果てた山や丘に成り果てています。薄暗い谷間のように身を屈めさせられ、そこで当てもなくただ虚しく立ち尽くし、座り込んでいます。また私たちは、曲がりくねった凸凹道のようです。進むべき道を自分自身では決められないことも知りませんでした。思ってもいなかったのです。それで、それぞれに道を逸れ、迷いつづけました。あなたの御もとへと戻るべきでしたのに、戻る道を見つけ出すことができませんでした。さまよいつづける私たちをどうか、あなたの慈しみの御もとへと連れ戻してください。
主イエスのお名前によって祈ります。   アーメン

 3.エレミヤ書を読み味わう
 ぜひとも立ち止まって目を凝らすべき中心点は、24節です。「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」。私たちが神の御心にかなった道をまっすぐに健やかに歩んでいくためには、もし道を逸れてしまったときには、懲らしめられ、叱られることがぜひとも必要だと。そうでなければ、間違った道を歩みつづけ、神からどこまでもどこまでも遠ざかり、むなしい慰めと気休めに一喜一憂しながら死と滅びへの道を転がりつづけ、とうとう、わたしたちは無に帰してしまうと。「あなたを知らない国民と、あなたの名をとなえない人々がヤコブを食い尽し、これを食い尽して滅ぼし、そのすみかを荒した」。まさか。もしかしたら、それは異邦人や他の誰でもなく、先祖とこの私たち自身のことでは? 自分自身を喰い尽くし、滅ぼし、自分自身とそのすみかを自分で荒らしつづけているのでは、この私たちこそが。なんということでしょう。
 「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」。自分の子供を叱ることのできない親が増えているらしいのです。友だちのような親です。いっしょに楽しんだり、笑ったり、気が向けばいっしょに愉快に過ごすことはできる。結局は、ただただ甘やかして、子供の好きなようにさせてしまう。ときどき自分がイライラしたときにはカンシャクを起こして、怒ったり怒鳴ったり、腹立ち紛れについつい自分の子供たちに暴力をふるったりしてしまう。けれど、どんなに仲良く過ごしても、どんなに気が合っても趣味が同じでも、決して、親は子供の友だちなどではなかったのです。なぜなら、子供を養い育てる大きな責任がついてまわるのですから。子供を叱ることのできないその親も、もしかしたら、自分の親から本気で叱られたことがなかったのかも知れません。学校や会社や職場でも同じで、上司は部下を叱ることができず、部下は叱られることが苦手で、ちょっとでもダメ出しをされるとすぐに挫けたり拗ねたり、すっかり絶望したりしてしまう。もし、あなた自身が子供の親なら、どんなふうにその子を育てていますか。あなたが子供のとき、自分の親からどんなふうに育てられましたか。してはいけない悪いことを自分の子供がするとき、間違った道へと逸れていこうとするとき、自分自身や他人を傷つけ、その子が誰かを踏みつけにしているのを見たとき、子供の親として、あなたはどうしますか。「そんなことをしてはいけない。止めなさい。なぜ分かってくれないんだ」と問いただし、きびしく叱るでしょう。本気になって必死になって、涙し、自分の胸をかきむしりながら。あるいは声を荒げもするでしょう。もし、自分の子供がどんなに悪いことをしても何をしても、ただヘラヘラ笑って、ただニコニコして眺めているだけならば、その親はその子供をもうなんとも思っていません。愛しておらず、どうでもいいと諦めて、見放しているのかも知れません。もし子供を愛する親なら、そんな薄情なこと決してなどできません。習い覚えてきたとおり、私たちの親である神です。その親から、大切に大切に養い育てられている子供である私たちです。聖書は証言しつづけます、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。しかしわたしはわたしのいつくしみを、彼からは取り去らない」「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは本当の子ではない」「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように」(サムエル下7:14,ヘブル12:5-,箴言3:11)。
 けれど先祖と私たちは、親の愛を軽んじ、あなどって、とてもとても悪い子供に育ってしまいました。親を親とも思わず好き放題にふるまって、ときどき親の顔色を窺います。「ごねんね。ごめんごめん。悪かったよ、もうしないから許してね。そんなに怒らないでよ」と甘えてみたり、わざとすねて親の気を引こうとし、けれどその一方で、してはいけない悪いことをしつづける。「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう」。エレミヤは「あの彼らを」ではなく、「わたしを懲らしてください」と願い求めています。さもないと「あの彼らが」無に帰してしまうというのではなく、このわたしこそが無に帰してしまうと。神をあなどりつづける同胞たちに先立って、彼らに成り代わって、一人の預言者が神の御前に自分の身を投げ出しています。神に逆らい、神をあなどりつづける彼らに代わって、このわたしをこそ懲らしめてくださいと。しかも、「怒らずに懲らしてください」と願い求めたとき、『神の怒り』と『神の懲らしめ』とは、全然違う別のものだとエレミヤは気づいています。怒っているから懲らしめるのではない、心底から愛しており、とてもとても大切に思っているからこそ懲らしめるのだと。そのとおりです。神の子供らを代表して、親である神に向かって、子供としての当然の権利をエレミヤは要求しています。親から愛されている実の子供として、その親から本気できびしく叱られ、懲らしめられることを。それは、他のなにものでもなく親からの愛情だったのです。そのとき、子供たちはますます反抗するかも知れません。あるいは、少しの子供たちは立ち帰って素直な心に戻れるかも知れません。まだまだ未熟な小さな子供だったとき、私たちは思いました。「あ。父さん母さんが恐い顔をしてこの私を怒っている。じゃあ、もう私のことを好きじゃないんだ。愛していないんだ」と。いいえ、違います。あなたを愛して、とてもとても大切に思っているからこそ、その父さん母さんは涙を流しながら声を震わせながら、あんなに必死に真剣に叱っているではありませんか。

 4.とりなしを求める祈り
私たちの真の父であられます神よ。これでも、正しい道を歩もうとしてきました。「これこそ正しい道、主の御心に適った道」と信じて。何度でも、何度でも。けれども、その果てに、今わたしはこんなところにいるのです。無に帰してしまいそうになっているのです。あなたの声を聴き続けてきたはずなのに。懲らしめを受ける度に、悔い改め、立ち返ってきたはずなのに。どうしたらよいのでしょうか。まだ、足りないのでしょうか。あなたの懲らしめを受けることが。わたしの滅びと死を見つめる真剣さが。どこで、わたしは間違えたのでしょうか。あなたの懲らしめ。その完全な姿を、主の十字架に仰ぎます。このわたしの滅びと死。そこにまで降って下さった、主イエス・キリストの御名のゆえに祈ります。アーメン。

 5.聖書朗読と思い巡らし
マタイ福音書5:17-20です、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思っては
ならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」。神の言葉や戒めがごく表面的なものとされ、ただ形ばかりの中身のないものに成り下がっていました。律法学者やパリサイ人たちは形ばかりの中身のない正しさや立派さを重んじ、神を敬うふりをしながら、神を侮り、神に背いていました。あの彼らがやっているような見せかけだけの正しさ、うわべだけの立派さや素敵さなどではとうてい神の国に入ることなどできません。神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、尊んで生きること。それは、「心を入れかえて幼子のようにならなければ、天国に入ることはできない」と主イエスが仰ったことと同じです。つまり、「身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けるのでなければ、主イエスの弟子になることも神の国に入れていただくこともできない」と主イエスは仰る。しかも、すでに主イエスの弟子とされているはずの彼らと私たち一人一人に向かって。そうであるからこそ、「大きくて強くて仕事がよくできてとても役に立って、だから」と人間的な業績、取り柄や働きの多い少ないにばかり心を奪われつづけるなら、無理に膨らませすぎたゴム風船のように、やがてパンと弾けて粉々に砕け散ってしまうかもしれません。この私たち自身は。もう30年も前、一人の先輩が嘆きました。「確かに、二千年に及ぶ教会の歴史において、理想的な教会が姿を現したことなどただの一度もありません。宗教改革期にも、初代教会時代にも、その現実はまことに醜く、その手は血まみれでした。また、教会形成を主眼にしてきたわが日本基督教会も今や気息奄々、さびしく取り残された遺物のようです。あれも駄目、これも駄目と批判に明け暮れているうちにふと気づいてみると自らがやせ衰えていたというわけなのです。私たちは誇るべきものを何一つ持たない裸の存在になってしまいました。他の諸教派に対しても、これこそは貢献できるわれら自身だと言い切れるものがありません。しかし、ここまで言うと、自虐も度が過ぎていると批判されそうです。それにしても、誰一人、真実の兄弟愛をもって責め戒めてくれる者がないのなら、愚かと呼ばれても自らの弱さと貧しさを真実に告白するしかありません。日本基督教会は、これまで余りにも自らを誇りすぎてきました。神学的にしっかりしている、教会的だ、告白的だという風に。自画自賛ほど恥ずべきものはありません。傲慢、これほど厄介な罪はありません。……言うのもつらいことですが、日本基督教会はいま再起不能に近い状態にあります」(宇田達夫「満ち足りるまでにはずかしめを受けよ」福音時報 19925月号)。その通り。そして、ここにこそ希望がありつづけます。なぜ身を低く屈めさせられ、はずかしめを受けねばならないのか。なぜなら、主のみを高くあげ、主をこそ誇れと命じられた神の現実がついにとうとう私たちの現実となるために1コリント手紙1:31)。謙遜にされ、主の言葉に心底から耳を傾けはじめるかも知れません。この私たちは。身を低く屈めさせられた、小さく貧しい場所こそが、福音を福音として受け取るためのいつもの定位置でありつづけるからです。憐みによって迎え入れられた神の子供たちのための安息の場所でありつづけるからです。これからは主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。それを、この日から、ここから、私たちは改めてしはじめましょう。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食ってしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。もしかしたら、まだ間に合うかも知れません。