2020年12月14日月曜日

12/13「ザカリヤからの讃歌」ルカ1:67-80

      みことば/2020,12,13(待降節第3主日の礼拝)  297

◎礼拝説教 ルカ福音書 1:67-80                   日本キリスト教会 上田教会

『ザカリヤからの讃歌』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:67 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、

68 「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。

神はその民を顧みてこれをあがない、

69 わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。

70 古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、

71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、

救い出すためである。

72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、

73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、

74 わたしたちを敵の手から救い出し、

75 生きている限り、きよく正しく、

みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。

76 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。

主のみまえに先立って行き、その道を備え、

77 罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから。

78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。

また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、

79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。

                                                                       (ルカ福音書 1:67-79)

 67節、「父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った」。それは神から授けられた預言でもあり、神への感謝の歌でもあります。ザカリヤとエリサベツ、年老いた1組の夫婦がいました。ずっと長い間、心の底から願いつづけてきた大切な願いがとうとう神さまの恵みによって叶えられると告げられて、けれどザカリヤはそれを信じることも受け取ることもできませんでした。「私たちはずいぶん年を取った。だから、私たちには出来るはずもない」(1:18)と。それでザカリヤは、約束の赤ちゃんをその手に抱くときまでは口が利けなくされてしまいました。それはただの罰や懲らしめではなく、大切なことを語りはじめるための準備の時間でした。生まれた赤ちゃんに名前をつける際に、ちょっとしたもめ事が起こりました。その赤ちゃんに名前をつけるとき、母親のエリサベトが奇妙なことを言い張りはじめます。「ヨハネと名づける。他のどんな名前でもダメで、必ずそうしなければならない」と。父親のザカリヤに尋ねると、字を書く板を持ってこさせて、そこに『この子の名はヨハネ』と書きました。すると、たちまちザカリヤは口が開き、舌がほどけ、神を賛美しはじめました。その讃美の歌が68-79節に記録されています。神殿で務めをしているとき神の御使いから赤ちゃんが与えられると知らされ、「その子をヨハネと名付けなさい」(1:13)とザカリヤは命じられていました。ですから彼ら夫婦は、ただ神の御命令に従っています。なにしろ神さまがそうせよとお命じになるで、だから私たちはそう名付ける。ヨハネという名前は、《主は恵み深い》という意味です。神さまからの恵み、贈り物、憐れみという意味です。その1人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物であるということです。1個のキリスト教会がその地に根を張って伝道をしつづけ、群れが養われつづけてきたことも、私たちが神を信じて生きる者とされ、そのようにして暮らし、職を得てそれぞれの働き場で働き、家庭を築きあげてきたことも、健康を支えられ、幸いと喜びを与えられつづけてきたことも、それら一切は、ただただ《主は恵み深い》という現実によっています。

 68-71節、「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである」。彼は神に感謝をし、あらかじめ告げられていたあがないが救い主イエス・キリストによって成し遂げられるその有様を語り出します。救い主イエスによるあがないの成就をこそ土台として、キリスト教会の安全と繁栄が成り立っています。私たち自身の生活やそれぞれの人生もそうです。それを成し遂げた神は、「主なるイスラエルの神」と呼ばれます。

 「神はその民を顧みて、これをあがなって」と改めて言われるのは、神がしばらくの間、その民とされた先祖と私たちから顔を背けていた時期があったからです。それは先祖と私たちが神に背きつづけていたためです。苦しみと悩みの深みに沈め入れられ、打ちのめされて、神が自分たちに目を留めてくださっているなどとは誰にも思えないような日々が長く続いたからです。神が私たちを救い出してくださるためには、その順序があります。まず神がその私たちに目を留めてくださいました。先祖と私たちは、自分自身の罪と悲惨の中に閉じ込められて、牢獄の中の囚人のような惨めな有様でした。救い主イエスの恵みを通してでなければ、誰もそこから解き放たれることはできませんでした。

 68-70,72-73節。「救いの角」も「救い」も、主ご自身であるイエス・キリストのことです。「ダビデの家から」「これ(=聖なる契約)は~アブラハムに立てられた誓い」;ダビデの血筋から、救い主が起こされる。それはアブラハム契約へとさかのぼる旧約聖書、新約聖書を貫く同じ一つの契約です。《神さまと神の民との間に交わされた救いの契約》です。「救ってあげますよ」と神さまが招き、手を差し伸べてくださり、先祖と私たちは「はい。どうぞ、よろしくお願いいたします」とその招きに応え、差し出されたその手を握り返しました。これが救いの契約、そこで神と先祖との間に、またその同じ神さまと私達との間にも同じ一つの契約が結ばれました。「預言者たちの口を通して語られていた通りに」;旧約聖書の証言そのままに、神さまから教えられたとおりにです。その聖なる契約の本質は『主の憐れみ』です。「憐れみ。憐れみ。憐れみ」(72,78)と執拗にクドクドと3回繰り返されていることを、私たちはよくよく肝に銘じねばなりません。救い主によって成し遂げられるこの救いの御業の全体は、主の憐れみによってこそ貫かれ、覆われているからです。

 71節「それは救い」だと断言しています。72-73節、我らの先祖を憐れみ、また私たちをも憐れみ、その憐れみをもって誓ってくださった救いの約束を、主なる神さまは、ちゃんと覚えていてくださるというのです。それならば、私たちもまた、「神さまが先祖と私たちを憐れんでくださって、だから」という肝心要をはっきりと心に刻み、よく覚えておく必要もあります。

73-74節、「こうして我らは救われ、恐れなく主に仕える」。ここです。私たちが現に確かに救われたこと、救われつづけて今日ここにあるを得ておりますことには、目的があったのでした。あるいは、その確かな恵みには、はっきりとした、誰にでもすぐ分かるはずの実りが伴ってあったのです。《恐れなく主に仕える》ことこそが目的であり、救いと恵みの結果です。神さまにこそ仕えつづける中で先祖と私たちは救われ、罪から解き放たれ、それぞれにいつの間にか根深く抱えつづけてしまったそれぞれの《恐れ》から解き放たれつづけます。そのことを兄弟姉妹たちと共々に味わう一回ずつの礼拝となるなら幸いです。そのような、それぞれの一つ一つの営み、日々の生活となる。これが、これこそが、その一回の礼拝の根本の目標・願いとなり、一つ一つの営み、生活、の目標や願いとなります。いつどこにいても、誰と何をしていても、教会でも家にいても道を歩いていても職場でもそれは恐れなく主に仕えることであり、それへと私たちを向かわせると目を凝らしながら。「主に仕えることは、義務・使命・努力目標であることを遥かに超えて、軽々と飛び越えて、恵みの贈り物」だったのです。

  75節。主に仕えることは、生涯、生きている限りは、御前に「清く、正しく、恐れなく」成し遂げられつづけます。「清く、正しく、恐れなく」という3つの在り方は、「神さまの御前に」という前提をもちます。主なる神さまの御前にあって、そこでようやくと。しかも、正しい人は独りもいないのです(ローマ3:9,創世記8:24-。高潔で清らかな者などただの一人もなく、正しいものもなく、けれど、にもかかわらず清く正しく。どういうことでしょうか。77節「罪のゆるしによる救いを主の民に知らせるからである」。罪のゆるしという、決して欠くことのできない大前提がありつづけます。それをいつのまにか度外視しはじめるとき、私たちは神を信じて生きることの危機に瀕しています。罪のゆるしあってこそ、その上に足を踏みしめてこその私たちです。「どうぞゆるしてください」とゆるしを請い求め、「ありがとうございます」と受け取り、ゆるされつづける中でこそ、そこでだけ、「清く、正しく、恐れなく」がかろうじて成り立っています。決して清いわけじゃなく、正しいわけでもなく、恐れるほかない私たちです。罪深さと肉の思いに従おうとするよこしまさが繰り返し何度も何度も私たちの中に舞い戻ってきます。恐れるほかない者たちに私たちは取り囲まれています。しかも、自分の正しさやふさわしさを度を越して言い立てようとする頑固さを抱える私たちです。だからこそ神の憐れみの計らいの只中に置かれている。あなたも私もと。

 78-79節。「これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」;救い主イエス・キリストによって罪のゆるしによる救いがもたらされたと告げるだけではなく、これはまったく「わたしたちの神の憐み深い御心による」と念を押しています。神のその憐みの心こそが、わたしたちと家族と隣人たちにも臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くのであると。その平和は、神ご自身から出た平和であり、第一に私たちと神との間の平和です。次には、私たちと隣人たちや家族との間の平和です。多く愛され、多くゆるされてきた私たちがどんな平和をその相手に差し出すことができるでしょう。聖書は証言します、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」 (コリント(2)5:15-21,ヨハネ20:22-23)

 救い主イエスを迎え入れるその道備えをするために遣わされた預言者は、『ヨハネ。主は恵み深い』という名前を与えられた働き人でした。すべて一切が神の恵み深さによって立っていることを私たちがよくよく覚え続けている必要があるからです。神さまからの恵み、贈り物、憐れみであると。その1人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物である。1個のキリスト教会がその地に根を張って伝道をしつづけ、群れが養われつづけてきたことも、私たちが神を信じて生きる者とされ、そのようにして暮らし、家庭を築きあげてきたことも。健康を支えられ、幸いと喜びを与えられつづけてきたことも、それら一切は、ただただ《主は恵み深い》という現実によっています。