2019年7月29日月曜日

7/28こども説教「婦人を生き返らせる」使徒9:36-43


 7/28 こども説教 使徒行伝9:36-43
 『婦人を生き返らせる』

9:36 ヨッパにタビタ(これを訳すと、ドルカス、すなわち、かもしか)という女弟子がいた。数々のよい働きや施しをしていた婦人であった。37 ところが、そのころ病気になって死んだので、人々はそのからだを洗って、屋上の間に安置した。38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちはペテロがルダにきていると聞き、ふたりの者を彼のもとにやって、「どうぞ、早くこちらにおいで下さい」と頼んだ。39 そこでペテロは立って、ふたりの者に連れられてきた。彼が着くとすぐ、屋上の間に案内された。すると、やもめたちがみんな彼のそばに寄ってきて、ドルカスが生前つくった下着や上着の数々を、泣きながら見せるのであった。40 ペテロはみんなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。それから死体の方に向いて、「タビタよ、起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起きなおった。41 ペテロは彼女に手をかして立たせた。それから、聖徒たちや、やもめたちを呼び入れて、彼女が生きかえっているのを見せた。42 このことがヨッパ中に知れわたり、多くの人々が主を信じた。43 ペテロは、皮なめしシモンという人の家に泊まり、しばらくの間ヨッパに滞在した。                (使徒行伝9:36-43

 救い主イエスご自身が何人かの死んでいた人たちを生き返らせてあげました。マルタとマリアの弟ラザロ、会堂長の娘、ちょうど今日この後に読むナインという町の未亡人の一人息子など。主イエスの弟子たちもおなじように死んでいた人たちを生き返らせました。この婦人は、ほかにも何人か。それよりなにより、救い主イエスご自身が十字架の上で殺され、墓に葬られ、その三日目に墓から生き返らされ、今も生きて働いておられます。それらは、復活の主イエスに率いられて、やがてこの私たち自身も死んだあと、生き返らされることのしるしです。この世界の多くの人たちは、「しばらく生きて、やがて死んで、死んだらそれでおしまいだ」と教えられ、そのように考えています。けれど聖書の神を信じる私たちは、そうではなく、「死んでそれでおしまいではなく、その後に、神さまと共に生きる新しい生命がつづく」と教えられ、習い覚えて、そのように信じています。このことを、よく覚えておかなければなりません。やがて世界の祝福が成し遂げられる終わりの日が来て、救い主イエスによる審きをへて、主イエスを信じる者たちは、神の国に迎え入れられ、いつまでも生きることになります。それが神からの約束だからです。それなら、つかの間に過ぎてしまうとても短い人生を、私たちはどんな風に生きて、やがて、どんなふうに幸いに死んでいくことができるでしょうか?


7/28「死んでいた若者を生き返らせる」ルカ7:11-17


                        みことば/2019,7,28(主日礼拝)  225
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:11-17                     日本キリスト教会 上田教会『息子を生き返らせて
いただいた』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 7:11 そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。12 町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。13 主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。15 すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。16 人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。        (ルカ福音書 6:22-23)
 11-15節。「そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった」。救い主イエスは、未亡人であり、いままた一人息子に先立たれてただ独りで残されたこの婦人を深く憐れみました。「泣かないでいなさい」と声をかけ、死んだ息子を生き返らせ、その息子を婦人に返してあげました。
 生き返らせていただいたこの息子は私たちのためのしるしであるということを、私たちは知らねばなりません。この彼がそうであるように、主イエスを信じる私たち一人一人も、復活の新しい生命に生きる者たちであるからです。マルタとマリア姉妹の弟のラザロもそうです。パウロの長い長い話を聞いているうちに居眠りをし、三階の窓から落ちて死んでよみがえった若者もそうです(ヨハネ福音書11:1-44,使徒20:10-。私たちがはっきりと信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をもイエスと一緒に墓から導き出してくださいます。主イエスをよみがえらせた御父が私たちをもよみがえらせ、御前に立たせてくださると私たちは知っています。死人を生かし、無から有を呼び出される神を私たちは信じたのです(テサロニケ手紙(1)4:14,コリント手紙(2)4:14,ローマ手紙4:17。このことが明白な真実であることが分かるために、この一人息子は多くの人々が見ている前でよみがえらされました。町の門の前で、それが起こりました。死んだ人を運び出す葬りのために集まった群衆と、主イエスについてきていた大勢の人々がこのことの証人とされました。棺に手をかけて担いでいる人たちを立ち止まらせた主イエスは、私たちに復活の生命を得させるためにも私たちに手を差し伸べてくださり、そればかりか、私たちを起き上がらせて神の国に招き入れてくださるために、墓穴と陰府の底にさえくだってくださいました。
  14-15節。「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出しました。救い主イエスは死んでいた若者に呼びかけました。声を聴かせ、すると直ちに、若者はこの世界に呼び戻されて生きている者とされました。私たちの場合もこれとまったく同じです。遠い昔に、預言者エゼキエルは主なる神から問いかけられました。「これらの骨は生き返ることができるのか」。預言者は答えました、「主なる神よ、あなたのみが御存じです」。すると命じられました。「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」(エゼキエル書37:4-6預言者エゼキエルは命じられるままに枯れた骨に語りかけ、骨は預言者の声を聴き、すると直ちに、そのようになりました。主が語りかける言葉を聞き、主の霊を注がれる。けれどそれは、いつ、どこで起こっているでしょう。『ずっと昔にはこうだった』という思い出話を聞いているのではありません。今日でも、私たちの間にも、まるで死んだようになって、生きていても死んでいるのとあまり変わらないような気分で毎日毎日を生きている人がとても大勢います。枯れた骨のように、乾いて、谷底にただ横たわるように生きる人もいます。その人は起き上がるでしょうか? その人は、再び生き返るでしょうか? 「主の言葉を聞け」と主ご自身がその人に語りかけ、その人のすっかり塞がれていた耳をついにとうとう開いてくださることを。「これらの骨は生き返ることができるか?」「主なる神よ、あなたのみがご存知です」。この問いと答えの間に、キリストの教会はたちつづけてきました。信仰と不信仰との間に。信じることと疑うこととの間にです。「あなたのみがご存知です。しもべは聞きます。どうぞ教えてください」と答えようとして、けれどあるとき、「そんなバカなことが信じられるか」と私たちは小さな声でつぶやきました。常識で考えたって、小さな子供だって分かる。骨は骨、もし起き上がってカタカタカタカタと歩きだしたら、そりゃあ、面白おかしいだけのただのホラー映画だろう。ただのおとぎ話か絵空事だろう、などと。みなさんもそれぞれ手元にお持ちの、このやたらに分厚い聖書。信仰をもって生きて死んでいった人々と神さまとの出来事ですけれど、そこには折々に、信じようとして信じきれなかった疑い迷う人々の姿が描かれつづけました。しつこく何度も何度も。読み返しながら、「ここにもある。ここにもある。あ、この人もこの人もだ」と疑う人々の姿を見せつけられながら、私たちも首を傾げつづけてきました。
また私たちは、主イエスが私たちを信仰によってどのように元気づけ、奮い立たせてくださるのかを教えられています。主イエスは、ご自身の言葉に、隠された秘密の力を吹き込んでおられます。だからこそ彼の言葉は死んでいる者の魂の中にも入り込んで、ゆだねられた使命をそこで成し遂げるのです。救い主イエスはこう語りかけます、「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネ福音書5:25。私たちの救いについて、救い主イエスご自身が、「よくよくあなたがたに言っておく」としばしば語りかけます。よくよくあなたがたに言っておく。なぜなら、私たちが喜びにあふれて毎日毎日の暮らしを幸いに生きることを、主が心から願ってくださっているからです。主イエスが語った福音を信じることがとても大切であり、だからこそその言葉を心に堅くしっかりと刻み込んでいるべきだからです。死んだ人たちが、神の独り子である救い主イエスの声を聴くときが来る。今すでに来ているし、今がそのときである。そして、主イエスの言葉を聴く者は生きる。イエス・キリストが語った福音を聴いて信じることが、私たちが思いも及ばないほどの大きな力を発揮する。「死んだ人間」とは、どういう意味でしょう。何か霊的な、比喩のような精神的な意味で、主イエスはそうお語りになるのでしょうか。心の中でだけ、その人の新しい生きざまがほんの少しくらいは起こることもあるが、もちろん実際に死んだ人間が生き返ることなど決してあり得ないと。いいえ、決してそうではありません。例えば、今日ごいっしょに読んだとおり、ナインという町の未亡人の一人息子は確かに死んで棺に納められ、葬りのために町の門から外へ運び出されようとしていましたが、「若者よ、さあ、起きなさい」と主イエスから命じられて、すると大勢の人たちが見ている前で直ちに起き上がりました。また例えばマルタとマリアの弟であるラザロは死んで4日もたった後、墓に葬られ、けれど「ラザロよ、出てきなさい」と主イエスから命じられて、すると手足を布で巻かれ、顔も顔覆いで包まれたまま、直ちに墓穴から出てきました(ヨハネ福音書11:44。もし死人の復活がないなら、キリストもよみがえらなかったはずです。キリストがよみがえらなかったとするなら、わたしたちの宣教はむなしく、わたしたちの信仰もむなしいものです。そうだとすると、キリストを信じて眠った者たちは滅んでしまったことになります。もし私たちが、この世の生活の中でだけ、頭のほんの片隅でだけキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在だということなります(コリント手紙(1)15:13-19参照)
  たしかにそうであるとして、「死んだ人間が生き返る」とは現実の体のことでもあり、同時に、霊的な魂の事柄でもあります。その両方です。まるで死んだように生きていた日々が、この私たちにもあったからです。聖書は証言します、「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、……この世のならわしに従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子だった」(エペソ手紙4:1-3。罪と悲惨の只中に死んでいた私たちです。そのように、私たちの本性がはなはだしく堕落して、神の正しさを慕い求める気力も願いもすっかり失われていたとするならば、神からの生命は私たちの中でまったく消え失せていたことになります。だからこそ、救い主イエス・キリストの恵みは「死んでいた人が本当によみがえる出来事」なのです。私たちの教会の信仰告白がはっきりと言い表すように、「神の恩恵によるのでなければ、罪に死んでいた人は神の国に入ることなど決してできません」(「日本キリスト教会 信仰の告白」参照)。この恵みが、救い主イエスの福音によって、私たちの中にはっきりと確かに植え付けられています。また、植え付けられつづけます。救い主イエスが、その御霊の力によって私たちの心の奥深くにまで語りかけるからです。差し出されているキリストの生命を、私たちは主イエスを信じる信仰によって受け取るからです。死んでいる人々の耳を神さまが開かせてくださり、彼らはキリストの声を受け取り、その御声が死んでいた人々をふたたび生命へと回復させるからです。だからこそ、そのようにして、こう語られつづけています、「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」。そのようにして、かつて死んでいた私たちも、失っていた生命へと連れ戻され、ふたたび生きる者たちとされました。生命へと何度も何度も連れ戻されつづけ、ふたたび生きる者たちとされつづけます。
 16-17節。「人々はみな恐れをいだき、『大預言者がわたしたちの間に現れた』、また、『神はその民を顧みてくださった』と言って、神をほめたたえた。イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった」。そこに居合わせた人々はみな恐れを抱きました。神が確かに生きて働いておられると知って、そこで様々な種類の「恐れ」が生じます。神を信じない人々は恐れおののいて、そこから逃げ去りたくもなるでしょう。神を信じる人々は、そこで神を敬う心に揺り動かされて、喜びにあふれて身を屈めます。ただ恐ろしいだけの恐れと、うれしくてワクワクするような畏れと。そのような二種類の恐れが生じています。神の真実さとその力にふれて、人々は神に対してただ敬意を抱いただけでなく、「ありがとうございます」と神に感謝をしています。慰められ、勇気を与えられ、そこでそのようにして大喜びに喜んでいます。
 「神はその民を顧みてくださった」と言った。元々の言葉では、「神はその民を訪れてくださった」という意味です。目を留め、顧み、心にかけていてくださる神ですが、それだけでなく、直々に先祖と私たちを訪れてくださる神です。しかも、神ご自身によるその訪問は、先祖と私たちをあるべき本来の姿へと回復させることができます。先祖と私たちはたびたび踏みつけにされ、ないがしろに取り扱われてきただけではなく、奴隷状態の中に据え置かれました。そこでとても頑固になり、臆病にもなって、惨めに怯えて暮らしつづけました。私たちに残された希望は、神が私たちの救い主であってくださると約束してくださったことにかかっています。驚くべき出来事に触れた彼らは、自分たちが本当にすっかり回復される救いのときがいよいよ近づいたと感じて、感謝し、喜んでいます。もちろん、そのとおりです。なぜなら目の前に立っておられた主イエスは、偉大な預言者、かなり大物の優れた預言者などという程度ではなく、約束されつづけていた、あの救い主ご自身であるからです。
 このお独りのかたが、私たちにも語りかけます。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15

2019年7月22日月曜日

7/21こども説教「主イエスの名によって」使徒9:32-35


 7/21 使徒行伝9:32-35                       
 『主イエスの名によって』

9:32 ペテロは方々をめぐり歩い たが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。33 そして、そこで、八年間も床についているアイネヤという人に会った。この人は中風であった。34 ペテロが彼に言った、「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さるのだ。起きなさい。そして床を取りあげなさい」。すると、彼はただちに起きあがった。35 ルダとサロンに住む人たちは、みなそれを見て、主に帰依した。            (使徒行伝9:32-35

 救いの出来事を見た人たちが「主に帰依(きえ)した」と報告されています。帰依するとは、「神さまを信じて、その力やお働きにすっかり信頼を寄せて生きはじめる」ことです(*注)
 さて、8年間も寝たきりだった体の不自由な人がいました。34節、「ペテロが彼に言った、『アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さるのだ。起きなさい。そして床を取りあげなさい』。すると、彼はただちに起きあがった」。よく似た同じことが繰り返されつづけています。まず救い主イエスご自身が体の不自由な一人の人を立ち上がらせました。「起きて、床を担いで帰りなさい」と。また弟子たちも、神殿の境内の入り口で、体の不自由な一人の人を立ち上がらせました。「わたしたちを見なさい。金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(ルカ福音書5:18-,使徒3:4-6と。あの弟子たちも私たちも、主イエスによって起き上がらせてもらいました。同じように、ほかの人たちにも語りかけます。「わたしたちを見なさい。金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。それを聞いて、信じて起き上がり、イエスを信じる信仰によって歩きはじめる人たちが一人また一人と生み出されていきます。その人たちはとても幸いです。

        【補足/すべての信頼を神におくこと】(*注)
         「神さまを信じて、その力やお働きにすっかり信頼を寄せて生きはじめる」ことだと説明しました。そのためには、信頼を寄せるに足る相手であると神を知る必要があります。あるいは、神と付き合って、神がどんなかたであるのかを知ってゆく中で、だんだんとその信頼が十分なものに育ってゆくとも言えます。500年も前の古い信仰問答は「神を敬う正しい在り方はどういうものか」と問いかけ、こう答えています。「全信頼を神に置くこと。その御意思に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを心でも口でも認めることです」(『ジュネーブ信仰問答』問答7 1542年)と。

7/21「隊長と一人の兵隊」ルカ7:1-10


                     みことば/2019,7,21(主日礼拝)  224
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:1-10                    日本キリスト教会 上田教会
『隊長と一人の兵隊』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 7:1 イエスはこれらの言葉をことごとく人々に聞かせてしまったのち、カペナウムに帰ってこられた。2 ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。3 この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。4 彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。5 わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。6 そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。8 わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。9 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。10 使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。                         (ルカ福音書 6:22-23)

 ローマ帝国軍隊で100人の兵隊を指揮する隊長からの使いが主イエスのもとにやってきます。この隊長からの願いを聞いて、主イエスはその手下の一人の兵隊の病気を治してあげました。そのとき、9節、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と主イエスは仰いました。これほどの信仰。ですから、何がこれほどなのか、どういうところが百卒長の信仰のとても良いところなのかと目を凝らしましょう。6節後半から8節です。「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。彼の部下である一人のしもべが病気にかかって死にかけていました。彼はユダヤ人の長老たちを使者として主イエスのもとへ遣わして、自分のしもべを助けてくださるようにと願いを伝えさせました。彼の家に主イエスが来る途中で、「わざわざ家にまで来てくださらなくても大丈夫。ただお言葉をください。そうすればしもべは治りますから」と使いの者に伝言させる。自分の家やその屋根の下に入れることを遠慮して、謙遜することが良いわけではありません。例えばシモン・ペテロは主イエスを家に入れて、寝込んでいたしゅうとめの熱を癒していただきました。また、そのためにわざわざ主は来てくださいました。死にかけていた娘をもつ会堂長もそうです。マルタ、マリア、ラザロの3姉弟も家に主イエスと弟子たちを招き、喜んでもてなしました(ルカ福音書4:36-,10:38-42。家に招いても良いし、招かなくても良い。そんなことではなく、大事なポイントは、主イエスからの言葉をいただくだけで彼の部下は必ずきっと病いを治していただけると、彼は信じ、確信していた。この一点です。あの彼は救い主イエスに強く深く信頼しており、それが「これほどの信仰」と主イエスがとても喜んだ彼の信仰の中身です。
  こういう箇所を読んで私たちは戸惑います。この隊長と、彼を信頼し一途に従う部下の姿があまりに現実離れしているように見えるからです。まさか主は、この私たちに「あの隊長と部下の在り方」を手本とせよとお命じになるのでしょうか。あるいは、「この確信や信頼とこの従順がなければ、クリスチャン失格だ」などと? もし、そのように命じられ、そのように要求されるならば、私たちは失格とされ見放される他ないように思えます。神さまへのそんな確信も信頼も従順も、こんな私たちなんかにはカケラもないと言いたくなります。その一方で、しかし、私たちはこの隊長と部下の姿にどこか見覚えがあるようにも思えます。また彼の部下は、ともに死の陰の谷を渡り歩くような崖っぷちの日々を何度も何度もくぐり抜けてきた長年の深い付き合いの中で、この一人の隊長によくよく信頼して従うことを習い覚え、体で覚え込んでもいます。全幅の信頼を寄せるに足る相手である。ひたすらに聴き従うに価する相手である、本当にそうだ、と深く頷くことを積み重ねてきました。だからこそ、たとえ瀕死の重傷を負っていても、足腰立たなくて気を失いそうになっているとしてもなお、その彼がこの私に「行け」と命じるなら、私は行く。その彼が「来い」と命じるなら、それなら私はたとえ這ってでも、棺桶から這い出してでも来る。生き死にを共にしてきた戦いの日々に、あの隊長がどういう隊長なのかをあの一人の部下はよくよく知ったのです。『権威があるもの』、それは『主である』ということです。最後の最後まで責任を負う者という意味です。その『権威のもとに置かれている私だ』ということは、その真実と慈しみのもとに据え置かれつづけてきたということです。あの一人の隊長はたしかに私にとっての最善最良を知り、願い、それを備え、最後の最後まで全責任を担い通してくださる。「本当に。たしかにそうだった」と。
  こういう隊長と部下たちが、はたして、この地上に現実にいるかどうか。それはどうでもいいことです。むしろ本当には、私たち人間同士のことではないからです。そんなことよりも、そういうただお独りの隊長と、この私たち自身は、ともに死地をくぐり抜け長く深く付き合ってきた。その中で、このただお独りの隊長によくよく信頼して従うことを習い覚えてきた。全幅の信頼を寄せるに足る相手である。ひたすらに聴き従うに価する相手である、本当にそうだ、と深く頷くことを積み重ねてきたということです。こうして隊長と部下は、『主イエス』と『主イエスに従って生きる私たち』との本来の姿を指し示します。もちろん、そうした信頼関係は一朝一夕(いっちょういっせき=わずかの日時)には形造られません。例えば詩23篇のあの羊たちも、はじめから「主は私の羊飼い」と喜びと信頼にあふれたわけではありませんでした。むしろ、とても良いただお独りの羊飼いを片隅へ片隅へと押しのけ、その呼び声に耳を塞ぎ、すっかり忘れ果てて、そのために何度も何度も迷子になりました。むしろ自分自身の弱さと愚かさにばかり心を奪われ、自分の危うさと貧しさだけがこの迂闊な羊の心を暗くウツウツとさせつづけたでしょう。羊飼いとはぐれてしまった羊のように、飼う者のない迷子の羊のように。「なぜ、私は熊やライオンのようではないのか。するどい牙も角も強い腕も、速い足も、よく聞こえる耳もない。私は一匹の無力で無防備な羊にすぎず、そのうえうまい水も草も見当たらない。乏しい乏しい、乏しいことばかりだ。恐ろしい恐ろしい、恐ろしい。恐怖と不安と心細さの連続だ」と。ぶつぶつと不平不満をつぶやいてばかりいたその同じ羊が、同じ弱さと心細さの只中で、ある日、喜びを噛みしめています。たまたま上等のうまい水と草場にありついて、そこで、というのではありません。たまたま狼や熊やライオンや羊ドロボウから逃げおおせて、そこで、というのでもありません。「私は一匹の羊にすぎない。それ以上でもそれ以下でもなく、どこにでもいるただのごく普通の羊」と気づきました。「けれどなにしろ とても良いただお独りの羊飼いがこんな私のためにさえ、確かにいてくださる。だから心強い。だから乏しいことはないし、どんな災いが襲ってきても、ち~っとも恐れない」と思い出したのです。
 2節、「頼みにしていたしもべが病気になったので」。誤解しやすいところです。「格別に役に立つ、信頼できる、梅雨実で優秀な部下だから」ということではありません。この優秀な部下だけを特別扱いして、ひいきにしてということでもない。同じように、4-5節でユダヤ教の長老たちがこの隊長のために頼みに来たとき、「この人はそうしていただく値打ちがあります。私たちユダヤ人を愛し、いろいろ親切にしてくださり立派な会堂も建ててくださったから」と。その長老たちはそう考えました。けれど、もちろん救い主イエスの判断は彼らのモノの考え方とまったく違います。値打ちや資格がなる無しに関係なく、あの彼と部下とをただ憐れんでくださった。私たちも、救い主から同じように憐れんでいただきました。値打ちや資格やふさわしさとは何の関係もなしに。だから、この救いは「ただ恵み、ただ憐みの救いであり恵み」なのです。ここが分からないと、救いも祝福もすっかり分からなくなります。
  あの隊長は、(ローマ軍のではなくて、地上のどの軍隊のでもなくて、天の万軍の最高司令官であるただお独りの隊長は)実は、どの一人の部下も重んじる方です。良い羊飼いがどの一匹の羊をも大切に慈しんだように。あるとき、一人の部下は思い出しました。「そう言えば私も、あの隊長からとても重んじられつづけている。隊長の命令によく従うからではなく、よく気がつく働き者だからでもなく、むしろ、たびたび反抗した、あまりに不従順で身勝手で、怠け者で頑固な部下だったのに。健康で元気ハツラツとしているときにも、重い病気にかかって死にかけたときにも、あの隊長は私を」と。もう一つのこと。隊長と部下が『主イエス』と『主に従う私たち』の在り方を指し示しているとして、その福音の第一の光は、主イエスに従う者同士である私たちの互いの在り方をも照らし出します。生身の人間にすぎない私たちクリスチャンが、ただ養われ世話されるばかりの羊であるだけではなくて、それぞれ互いに羊飼いの役割をも委ねられているからです。大きな大きな良い羊飼いであるイエス・キリストから、あのペトロと共に、「私を愛するか、愛するか、愛するか。私の小羊の世話をしなさい、羊の面倒をみて養いなさい。そのようにして私に従いなさい」(ヨハネ福音書21:15-17参照)と命令されているからです。良い羊飼いが私たちのためにもおられ、そのただお独りの羊飼いのもとに戻ってきた私たちですし、天に主人がおられるからです(ヨハネ福音書10:11-18,ペテロ手紙(1)2:25,コロサイ手紙4:1
  奇妙なことに、ある一人のクリスチャンは洗礼を受けた後でも、ずっと長い間なんだかピンと来ませんでした。「イエスは主なり」と口先では唱えても首を傾げるばかりで、本当のことのようには思えませんでした。「御心のままに。御心のままに」と口癖のように言い続けながら、それと裏腹に、自分のその時々の気分や腹の虫に命じられるままに奴隷のように生きていました。人々の顔色をうかがい、周囲の人々の言いなりに聞き従っていました。ですから度々くりかえして心をかたくなにし、臆病になったり体裁ばかりを取り繕ったり、狡賢く振る舞いつづけました。ですから、いつまでたっても心細いままでした。「汚れた霊たちや湖の風や波までも主イエスに聞き従った。外国人の百人隊長もそうだった」と聞いても、なんだか他人事のようであり、どこか遠くのお話でありつづけました。主イエスとこの自分自身のことが語られている、などと思いもよりませんでした。この自分に対しても、主イエスという方がすべて一切の権威を握っておられることも、「よい羊飼いは羊のために命を捨てる。命を捨てる」(ヨハネ福音書10:11,15とおっしゃっていたことも、この自分がその一匹の羊であり、その一人の部下であることも少しも気づきませんでした。――けれどあるとき、その時々の気分や腹の虫がウズウズしても言いなりにさせられなくなりました。人々の言いなりにもされなくなりました。「神に聞き従うよりも自分や他の誰彼に聞き従うほうが正しいかどうか、神の御前に判断してもらいたい。私はとっくに、よくよく判断してしまった」(使徒4:19-20参照)と涼し~い顔をしはじめました。いつの間にかその人もまた、主イエスの権威の下に深々と膝を屈めさせられたからです。身を起こさせられ、立ち上がらせられつづけるうちに、主イエスの権威の下に朝も昼も晩も生きることを、ついにとうとう習い覚えさせられたからです。そこはようやく、晴れ晴れとした自由な場所でした。主イエスが洗礼を受けたときと、山の上で姿が変わったときと2回、同じことが繰り返されました。主イエスを名指しして、主イエスがどんなおかたであるのかをはっきりと告げ知らせて、天の御父の声が聞こえたことです。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者である」。そして、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」(ルカ福音書3:22,9:35)。イエスにこそ聴けと命じられ、「はい。分かりました。いつもそのようにいたします」と私たちは答えたのです。それが、私たちがクリスチャンであることの意味であり、中身です。弟子たちが復活の主イエスによって世界宣教へと送り出されたとき、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20天においても地においてもいっさいの権威を授けられたかたからの御命令です。主イエスから命じられているいっさいのことを守るように教える。どうやって互いに教え合うことができるでしょう。なによりまず、この自分自身こそが、そのように生きはじめることによってです。私たちは、他のどんな権威や支配のもとでもなく、ただただ主なる神さまの真実と慈しみの只中に置かれ、主イエスの権威のもとにだけ据え置かれている。だから、その分だけ自由です。それが私たちのための神さまからの約束です。一番下っ端の下っ端の下っ端の、ただの一兵卒にすぎない私たちの力と安らかさの源でありつづける。ああ、そうだったのかと。そうであるなら、やがて「あなたは行きなさい」と命じられるときに、私たちは安らかにここを立ち去ってゆこう。「来なさい」と命じられるときに、どこへでもいつでも、私の準備ができていようがいまいが、気が進もうが進むまいが、虫が好こうが好くまいが、そんなこととは何の関係もなしに 「はい分かりました」と出かけていこう。それまでは、ここに留まろう。「しなさい」と命じられることをし、「してはならない」と禁じられることをしないでおこう。この私自身こそは。天に主人がおられますことを、その主人の権威の下に据え置かれてることを、この私たち自身もよく分からせていただいたのだから。
 主イエスを信じた私たちは、あの百卒長と同じく、あの忠実な一人の部下と同じく、ただお独りの主人であられる救い主イエスのもとから、この世界へと、いつもの生活の現場へと送り出されつづけます。

2019年7月15日月曜日

7/14こども説教「弟子たちの仲間に加えられる」使徒9:26-31


 7/14 こども説教 使徒行伝9:26-31
 『弟子たちの仲間に加えられる』

9:26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。27 ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名を大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。28 それ以来、彼は使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語り、29 ギリシヤ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り合い、また論じ合った。しかし、彼らは彼を殺そうとねらっていた。30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れてくだり、タルソへ送り出した。31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。               (使徒行伝9:26-31


 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうとしました。けれどそれまでの悪い噂や評判を聞いて、彼を恐れる者たちがほとんどです。なにしろクリスチャンを苦しめたり困らせたり、乱暴して牢獄に閉じ込めたりしていた人物なんですから。「今までの彼じゃない。ちゃんと神さまを信じている。もう同じ神を信じる仲間になったんだ、本当だよ」と説明してくれる者がいました。
神が味方だとは、このことです。困ったことや苦しいことがあるとしても、逃れる道が用意され、助けてくれる者が神さまによって用意されています。サウロだけでなく、私たちもそうでしたね。これまでも今も、これからもそうです。だから、「恐れてはならない。あなたには私がついている」と励まされます。「わたしはあなたがたに蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったくない」(使徒18:9-10,ルカ10:19)。ああ本当だった。そのとおりでした。




7/14「土台なしで家を建てる?」ルカ6:46-49


                       みことば/2019,7,14(主日礼拝)  223
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:46-49                    日本キリスト教会 上田教会
『土台なしで家を建てる?』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。49 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。             (ルカ福音書 6:46-49)
 救い主イエスは語りかけつづけておられます。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や家族との、普段のいつもの付き合い方。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの福音と律法の本質と生命についてです。まず46-47節。神に向かって、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。けれど、主の言うことを行わない。それはどういうことでしょう。主のもとに来て、主の言葉を聞いて行うとはどういうことでしょうか。神を信じる信仰によって、この私たちは、毎日毎日の暮らしを、どんなふうに生きることができるのでしょうか。48-49節、「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。土台って、なんのことですか。土台があるとか無いとか。ええっ? 主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなくはなはだしい雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。
今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、実際に、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、現実に具体的に悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いたことを実際に行い、そのように暮らしはじめる人々だったのです。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく、とても幸いな人々です。なんということでしょう。


私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。小さな子供たちも中学生や高校生たちも、悪戦苦闘しながら懸命に自分自身の家を建てており、おじいさんおばあさんになってもなお家を建てつづけています。建物のことではなく、その中身です。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。キリスト者の一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ていますね。私たちの手に委ねられている一つ一つの働きも、家を建てることに似ています。そっくりです。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。
 49節。砂の上に家を建てた愚かな人。倒れ方がひどかったそのあまりに脆い家。でも、なぜ、彼らは《土台なし》に家を建ててしまったのでしょう? 驚くべきことに、やがていつか川の水があふれて押し寄せるというだけでなく、神の民とされたイスラエルは、わざわざ自分から進んで大水の中に入って行かされました。まず葦の海の中へ。次には、ヨルダン川の中へと(出エジプト記14:1-31,ヨシュア記3:1-。奴隷にされていたエジプトの国から導き出され、ヨルダン川を渡って、ついに約束の土地に辿り着いたとき、川床から取った12個の石が積み上げられました。その12個の石は、信仰教育のための教材とされました。その石を見て、子供たちが、父さん母さんに質問するのです。「どこの河原にでもあるようなこんな普通の石に、どんな意味があるの。どうして、ここにわざわざ置いてあるの」と。そのとき子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いた所を渡ったと、あなたは話して聞かせなさい。「いいかい、○○ちゃん、よく聞いてね。あなたたちの神、主は、あなたたちが大きな深い川を渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、私たちが葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じだったんだよ。それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、主の御手の力強いことをあなたも知るためであり、また、あなたたちがいつもいつでも、あなたたちの神、主を敬うためだったんだよ」(ヨシュア記4:23-参照)と。あのとき何が起こったのかを、覚えておきましょう。ヨルダン川を渡ろうとして、キャンプ地をみんなで後にしたとき、神さまとの契約の石の板を入れた箱を祭司たちが担ぎました。そして、皆の先頭に立ちました。ちょうど春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤防を越え出てきそうなくらいに、いっぱいになっていました。箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる泥水は、はるか遠くのザレタンの隣町で壁のように立ったのです。それは、ちょうど葦の海を渡った40年前とそっくり同じでした。すべてのイスラエルが干上がって乾いた地をわたって行く間、主の契約の箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中の干上がって乾いた川床に立っていました。人々が渡ったのも、契約の箱を担ぐ祭司たちが立っていたところも、ドロドロのぬかるみではなく、乾いて干上がった川床でした。大慌てで走ってではなく、歩いて渡ったのです。ここが大事。だって、そうでなければ、体の丈夫な、泳ぎの達者な何人かしか渡れなかったでしょう。けれどイスラエルの人々の中には、杖をついて手押し車を押してゆっくりゆっくり歩くおばあさんたちがいました。膝や足腰がギシギシ痛むおじいさんたちがいました。つい先ごろ危ない手術をしてやっと退院してきたばかりのおじさんもいたし、風邪をひいている人もいたし、お腹の大きなお母さんもいたし、小さな子供たちや赤ちゃんもいたのですから。すべてのイスラエルとは、そういうことです。
  防災・避難用具の袋の中に、懐中電灯やラジオやペットボトルの水や乾パンなどと一緒に、このギルガルの12個の石が入っています。各家庭に一個ずつ。そう、私たちの手元にあるのは、ヨルダン川の干上がって乾いた川床で拾ったギルガルの石です。一人一冊ずつの聖書も、ギルガルの石。それぞれ心に刻んできた聖書の一節も、大切に口ずさんできた大切な讃美歌も、一回一回の礼拝も祈りも、あのパンと杯も、その一つ一つはヨルダン川の真ん中で干上がった乾いた川床から持ち帰ってきたとても大切な石です。厳しく辛い出来事が私たちを襲い、心淋しく惨めな思いを噛みしめる日々に、その石を見つめて私たちは問いかけます。その石自身が私たちに答えます。「川の流れはせき止められた。イスラエルはヨルダン川を乾いた地にされて渡った。紅海を乾し涸らして渡らせていたときと同じだった。あなたの足の裏は、乾いた土地を踏みしめて立っていた。あの時だけでなく、川の流れは何度も何度もせき止められ、私たちは大水の底の、けれども乾いて干上がった所を渡りつづける。今もそうだ。それは私たちが主の慈しみの御手が力強いことを知るためであり、いつでもどこでもどんな辛さと悩みの只中にあっても、そこでこそ私たちの神、主を敬うためである」と。
 実は、どこもかしこも、ひどく危うい川べりの砂地に建った家でした。けれども、類稀な、他のどこにもいないお独りの建築家がいたのです。倦むことなく、黙々と、その建築家は土台を据えつづけます。しかも最良の揺るぎない土台と建築材料を惜しげもなく注ぎ込んで。長い歳月が流れました。その、ただお独りのとても良い建築家は、今も土台を据えつづけます。むしろ救い主イエスは、「どんな家か。土地は岩場か、砂地か」などと家や地質を選ぶことをなさいませんでした。どこにでも、そしてどんなに傾きかけた危うい家にも土台を据えつけようとされ、どの家の下にも堅い磐石な岩を据えつけようとされました。そのお独りの建築家には願いがあったからです。どの家も確固として建てあげたい。あなたのその大切な家もぜひ、と。家を建ててくださるのは、主ご自身です(127:1)。家の土台を据えつけてくださるのも、主です。「私が建てる。あなたのためにも、この私こそが格別な土台を据えつける」と、主がおっしゃいます。断固として、そのように約束してくださいました。だからこそ家を建てあげようとする私たちの労苦は、むなしくはない。決して、むなしくはない。「主のもとに来て、主の言葉を聞いて行う」。それは、主の言葉を聞いて、聞いたことを信じて、信じたとおりに毎日毎日を生きることです。もし、聞き届けてきた主の言葉とは違う別のやり方で、自分の肉の思いのままに選び取り、判断し、習い覚えてきた主の言葉とは別に、もし腹の思いのままに行なってきたとするならば、その毎日毎日の暮らしや生き方、わたしたちのその家には土台がなかったことになります。強い風が吹きつけると、ごく簡単に倒れてしまいます。しかもその倒れ方ははなはだしく被害甚大である。それでは困ります。どのように家を建て上げてゆくのか。この私たちは、どのように毎日毎日を生きてゆくのか。つまりは主への信頼と忠実、聞き従って生きること。なアんだ、そんなことか。それなら、私たちにだってできます。しかも、そのように毎日毎日を生きてきたはずの私たちではありませんか。困難は突風のように吹きつけ、泥水のように押し寄せます。私たちを取り囲み、押し倒そうと迫ってきます。台風が近づいています。いいえ、もう暴風雨圏内に巻き込まれています。それなら私たちは、今こそ呼ばわりましょう。「どうぞ、私を助けてください。私の家が今にも倒れてしまいそうです」と。「主よ主よ。私たちの願いどおりではなく、ただただ天の御父の御心にかなうことを成し遂げてください」と。拠って立つべき根源の土台に、今こそ、あなたはしがみつきなさい。見栄も恥も外聞もかなぐり捨てて。主にゆるされ、主のあわれみを受け、主に助けられる場所へと、あなたは大慌てで駆け戻って、そこに身を置きなさい。いつでも、どこからでも駆け戻って、そこに身を据え置きなさい。

深い大水の底にいたはずなのに、けれど不思議なことに、その場所は干上がって乾いています。泥水が押し寄せようとして、けれど川の水はせき止められています。干上がって乾いた川床に、あなたは足を踏みしめています。なんということでしょう。なにしろイエスを主とするあなたであるからです。神の民イスラエルの子供たちよ。主の呼び声が聞こえ、私たちはついにとうとう、まるで初めてのようにして、聞き届けるでしょう;「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である』」(イザヤ43:1-3)

2019年7月7日日曜日

7/7こども説教「サウロ、助けられる」使徒9:23-25


 7/7 こども説教 使徒行伝9:23-25
 『サウロ、助けられる』

9:23 相当の日数がたったころ、 ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。24 ところが、その陰謀が彼の知るところとなった。彼らはサウロを殺そうとして、夜昼、町の門を見守っていたのである。25 そこで彼の弟子たちが、夜の間に彼をかごに乗せて、町の城壁づたいにつりおろした。
(使徒行伝9:23-25

 ユダヤ人たちが彼を殺そうとしたのは、彼がクリスチャンで、神さまのために働く人だったからです。それは彼らにとってとても都合が悪かったので、相談して、準備をして、彼を殺そうとしました。仲間たちが彼を助けて、殺されないように逃がしてくれたのもやはり、彼がクリスチャンで、神さまのために働く人だったからです。そして、神さまのためにしなければならない仕事がまだたくさん残っていました。仲間たちを用いて、実は、神ご自身が彼を逃がしてくださいました。神さまを信じて生きていて、良いこともあれば、苦しいことや嫌なこともあります。殺されそうになったり、助け出されたり、牢獄に閉じ込められたり、そこから助け出されたり、また牢獄に閉じ込められたり。それらすべては、父なる神さまの慈しみ深い御心の中で取り扱われます。「天の御父の御心なしには髪の毛一本もむなしく地に落ちることはない」(「ハイデルベルグ信仰問答」第1問答,1563年)と約束されています。あの彼もそうでした。私たちもそうです。
 すると、クリスチャンの父さん母さんに、子供たちが真剣な顔で質問します。
「本当ですか? でも、お父さんの髪の毛はもうたくさん地面に落ちて、ずいぶんハゲてしまって、残り少なくなっていますね。お母さんもこのごろ白髪が増えて、顔にシワも増えましたね。それはどういうことでしょう。それも、やっぱり神さまの御心どおりなんですか?」「そうだヨオ。本当にその通りで、神さまにありがとうって感謝をしていますよ」とお父さんやお母さんがニッコリして、嬉しそうに答えてくれるかも知れません。もしそうならば、その父さん母さんと子供たちはなんと幸いな家族でしょう。

  ★★★【補足/幸いな人生への招き】
    生きていれば誰でも、嬉しいことも嫌なこともある。喜びもあり、はなはだしい悲しみや痛手や、苦しみや悩みもある。それでもなお、神のもとに揺るぎない確かな幸いが用意されています。なぜなら神は正しいお方であるだけでなく、慈しみ深い、まったくの善意のおかただからです。もし、その神に十分に信頼を寄せつづけ、聞き従い、願い求めて生きることができるなら、私たちは幸いに生きて死ぬことができます。500年も前の古い信仰問答は「神を敬う、正しい在り方はどういうものですか」と問い、こう答えています、「全信頼を神におくことです。その御意思に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです」(『ジュネーブ信仰問答, 問答7』J.カルヴァン,1545年)。


7/7「良い木が良い実を結ぶのだろうか?」ルカ6:43-45,ローマ11:16-24


                      みことば/2019,7,7(主日礼拝)  222
◎礼拝説教 ローマ手紙11:16-24 ルカ福音書 6:43-45   日本キリスト教会 上田教会

『良い木が良い実を
結ぶのだろうか?』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 11:17 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、18 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。23 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。24 なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。         (ローマ手紙11:16-24)

6:43 悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。45 善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。  (ルカ福音書 6:43-45)


43-45節、「悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである」。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶと告げられます。もし、あなたや私がとても良い格別な木に結ばれているとするなら、当然、良い実を結ぶはずであると。その通りですね。私たちが普段いつもの暮らしの中でどんな実を結んでいるのか。胸に手を当てて、しばらく考え巡らせてみると、その実態が思い出されてきます。あるいは自分自身ではよく分からなくても、身近に接している連れ合いや親や子供たちや、職場の同僚たちや近所の人たちには、すっかりお見通しです。「ああ、あの人はああいう人だ」と。――正直な所、この私自身は自分の胸が痛みます。とても痛みます。お詫びをしたいような、情けないような、あまりに惨めなような、申し訳ない気持ちになります。皆さんはどうですか? 『良い行い』によって救われるのではなく、ただ救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、ただただ恵みによってだけ救われた私たちです。それでもなお、だからといって、私たちがとても短気で怒りっぽかったり、臆病で生狡かったり、身勝手で意固地で頑固でありつづけていいのか。あまりに自己中心で、冷淡で、思いやりの薄い、了見の狭い人間でありつづけていいのか。いいはずがない。いいえ、「救われた者たちはその結果として、感謝と慈しみの実を結ばないはずがない」(ハイデルベルグ信仰問答,問64を参照)と断言されています。良い働きをしつつ生きて死ぬ私たちとなることができる。神さまが必ずそうしてくださる。これが、クリスチャンであることの希望です。
  だからこそ最初から、よくよく語り聞かされつづけてきました。例えば洗礼者ヨハネは、すでに長い間神さまを信じて生きてきたはずの神の民に向かって、「まむしの子らよ」とわざわざ呼びかけました。アブラハムの子孫だからと内心自惚れていた彼らに向けて、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている」(マタイ福音書3:7-11。悔改めにふさわしい実を結べ。この私たちもまったく同じです。一人一人のクリスチャンも、もちろん牧師も、長老も執事も皆が同じく命じられています、「悔改めにふさわしい実を結べ」と。主イエスを信じて生きはじめた最初のときに洗礼を授けられたのは、悔い改めるためです。聖晩餐のパンと杯を飲み食いしつづけているのも、毎週毎週の礼拝説教の言葉を聴きつづけているのも、聖書を開いて読んでいるのも讃美歌を口ずさむのも祈るのも皆すべて、悔い改めつつ毎日の暮らしを生きるためです。例えば、ある人は「♪神はひとり子を」という讃美歌がとても好きで、もう何十年も繰り返して歌いつづけてきました。台所でご飯支度をしながら、家の片づけをしながら、洗濯物をたたみながら。「罪をば犯して神に背き、逆らう我さえなお愛したもう。ああ、神は愛なり。汚れはてし我さえ愛したもう、神は愛なり」(讃美歌184(Ⅱ)番)。口ずさみながら、はっと気づきます。ああ、そうだった。神に背き逆らいつづける、とても汚れた心の私をさえ神さまは愛してくださった。それなのに私は、連れ合いやご近所の誰彼など、かんたんに人を悪く思ったり怒ったり軽蔑したりしていた。ほんのささいなことで、この私は文句や悪口を言っている。なんてことだ。申し訳なかったなあ。この私自身こそが神にも人さまにも逆らってばかりいた。ああ恥ずかしい、恥ずかしい。神さま、ごめんなさい。口ずさみつづけてきたその歌が、その人をクリスチャンであらせつづけています。その歌が、その家に神さまからの祝福を運び続けています。なんという幸い、なんという恵みでしょう。聖書が告げるところの『悔い改め』は、180度グルリと神へと向き直ることです。あり方も腹の思いも何もかも。自分自身と人間のことばかり思い煩って、そのあまりに神を思う暇がほんの少しもなかった在り方から、神さまへと立ち返って生きるために。罪のゆるしを得させる悔い改めであり(ルカ福音書3:3、そのための洗礼、パンと杯、一回一回の礼拝であり、讃美歌を歌うことであり、祈りです。
 今日ご一緒に読んだもう一つの箇所はローマ手紙11:16-24です。(お手数をかけますが、もう一度、その箇所を開いてください)1本の大きな木を思い浮かべてみてください。長い長い歳月をかけて養い育てられていく、1本の、とても大きなオリーブの木です。数千年かけて育まれてきた、1本の、大きな大きなオリーブの木、それが神の民イスラエルです。こ~んなに太い幹の、その根本から梢の先まで、びっしりと、たくさんの枝々が伸びています。1本1本の枝は、それぞれの時代時代のイスラエル民族であり、キリストの教会であり、11人の私たちクリスチャンです。ごく早い時期に根元のあたりから伸びた太い枝があり、数千年後になってから、梢近くで芽を出して伸びてきた若くて小さな枝々もあります。手入れをする農夫。太い幹。そして多くの枝々。それは父なる神、神の独り子イエス・キリスト、そして多くの信仰者たちです。ある者は、ごく早い時期に根元のあたりから伸びた枝のようであり、彼らはユダヤ人と呼ばれました。ずいぶん後になって、野生のオリーブの木から切り取られてこの木に接ぎ木された枝のような信仰者たちもいます。かつては神の民ではなかった。今は、憐れみを受け、よいオリーブの木に接ぎ木され、根から豊かな養分を受け取るようになった。神の民としていただいた(ペトロ手紙(1)2:10)。異邦人であるクリスチャン、つまりこの私たちです。
 「誇るな。思い上がるな。むしろ恐れて、神の慈愛と峻厳とを見よ」(18,20,25)。私たちは、いつもこのように戒められます。梢の先のほうから地面を見下ろすと、ポキン、ポキンと折り取られた無数の枝々が地面に横たわっています。根からの養分が、いつどんなふうに遮られ、枝まで届かなくなってしまったのか。また根から養分を受け取ることを、その枝自身がどんなふうに止めてしまったのかを私たちは聞かされています。恐ろしいことです。そして野生のオリーブの枝であった私共が、いつ、どんなふうにして、この豊かな大きな木に接ぎ木していただいたのかを、よくよく覚えているからです。私たちは恐れつつ、喜びます。喜びつつ、恐れます。彼らは不信仰のために折り取られたのであり、いま私たちは、ただ信仰によって幹に結ばれているのだとすれば。それは、ただ恵みによったのであり、憐れみを受けたからなのですから(ローマ手紙3:21-30)私たちは喜びつつ恐れます。でもいったい何を、誰を、私たちは恐れましょうか。主なる神さまがただ恵みによって私たちを良い木に接ぎ木してくださって、神の民としてくださいました。ならば私たちは、もう誰をも恐れなくてよいはずです(27:1-4)。むしろ、いつも『敵は本能寺にあり』です。その慈しみ深い神の恵みに背いてしまいそうな、せっかく受け取った主の恵みと憐れみをポイと投げ捨ててしまいそうな、この私自身の心のありようをこそ恐れましょう。いじけたり高ぶったりしながら、浮き足立って主の恵みのもとから度々迷い出てしまいそうな、この私自身をこそ恐れます。
 18節、「あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている」。金槌で、頭をいきなりガツンと殴られたような気持ちです。ついうっかりして、あの頼りがいのあるしっかりした誰彼の働きや、この私の働きが肝心要だと思い込んでいました。自分の両肩に背負って、この私たちこそが働いていると。私たちが計画し、この私が心を配り、だからこの私が万端すっかり取り仕切って、私が細々と世話を焼いて面倒を見てやらなければ、この木の幹も、他の枝々も根も、倒れたり枯れたりしてしまうだろうと。この私こそが木の幹を支え、枝々を支え、私が根を支え、土を支えているのだと。まるで親分かご主人さまにでもなったつもりで。いったい何様のつもりか。それは大間違いだ、と聖書66巻は語りつづけます。私たちのご主人さまは天におられ、そのとても良い格別なご主人さまは生きて働いておられると。なにしろ、「あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている」のですから。
25節「兄弟たちよ。あなたがたが自分を知者だと自負することのないために」。傲慢になるな。高ぶるな。どうか謙虚になってもらいたい。ここだけでなく、このローマ手紙の初めから終わりまで、コリント手紙でも、ガラテヤ手紙でもピリピでも、パウロは口を酸っぱくしてクドクドと語りつづけます(ローマ手紙3:27-,4:2,11:18-20,12:3,16,コリント手紙(1)1:26-31,3:21,4:18-19,8:1,13:4,ガラテヤ手紙6:14)。「自分が右の手でしている善い行いを左の手に知らせてはいけない」(マタイ福音書6:3参照)。ついつい自惚れて、他人を見下してしまいやすい私たちだからです。主イエスご自身も、同じくまったく、これを語りつづけます。「偉くなりたいと思う者は仕える人となり、かしらになりたいと願う者はしもべとならねばならない」(マタイ福音書18:4,20:26-,23:11)。神さまからの恵み、恵み、恵み。神さまからの憐み、憐み、憐み。いったい、なぜでしょう。本当に、耳にタコができるほど、ウンザリするほど私たちは聞きつづけてきました。
  30-32節。これが、救いの奥義だというのです。つまり、神さまがその人を憐れむ。その人は、憐れみを受け取って、救われる。これが救いの道筋。「この1本の道筋しかない」と断言していいと思います。「誇り」と「自負」とは、その1本道をなんとかして通って辿り着きたいと願う者たちの前に立ち塞がって、邪魔をしていました。
兄弟姉妹たち。何よりまず私たちがよくよく知るべきことは、それは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ手紙2:6-)ことを。いったいなぜ、《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》に身を置きなさいと命じられるのか? そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所だからです。すべての人の後になり、皆に仕える者となってくださった救い主が、その《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》を、私たちとの待ち合わせ場所となさり、そこで格別な贈り物を受け渡ししてくださろうとして、その《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》で待っておられます。そのようにして格別な恵みと平和とを差し出してくださっています。皆から「立派だ。さすがだ。偉い」と思われたくてウズウズしている、先頭の上のほうにいるその人は、ですからとても残念なことに、待ち合わせ場所を間違えています。いくら待っていても、その救い主はそこに現れません。ご存知でしたか。「何となく聞いてはいる」「だいたい分かった」という程度ではなく、心底から、それを知りたいのです。神さまとの待ち合わせ場所がどこなのかということを。福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所がどんな場所なのかを。「神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めた」(32)。憐れむため。いいえ、むしろ憐れんで、救うために。この、いつもの待ち合わせ場所に、私たちは足を踏みしめつづけます。たしかに憐れみを受けたし、いま現に受け取りつづけている。それをガッチリと抱え持っている。それこそが、この私たちを、この救いの場所に留め置き、この私たち一人一人を最後の最後まで、神の民であらせつづけます。



2019年7月1日月曜日

6/30こども説教「サウロの伝道」使徒9:19-22


 6/30 こども説教 使徒行伝9:19-22
 『サウロの伝道』

9:19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにい る弟子たちと共に数日間を過ごしてから、20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。21 これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。22 しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。                 (使徒行伝9:19-22

 救い主イエスとキリスト教会に逆らっていたサウロは、それまでとは正反対に、主イエスを信じる者とされ、イエスのことを宣べ伝えはじめました。イエスこそ神の独り子であり、私たちとこの世界ぜんぶのための救い主であると。サウロだけでなく、主イエスの弟子たち皆が語るべきことは、いつもこのことです。ただイエスのことを。彼が神の独り子であり、世界のための救い主であることを。聞いた人たちが救い主イエスを信じて、それによって命を受け取るために、彼らは語りつづけます(ヨハネ福音書5:39-40,20:30-31。それまで正反対のことを言って、主イエスを信じる人たちを捕まえて牢獄に閉じ込めたり、乱暴したり、困らせたりしていた人間が、今度はこんなことを言い始めたのです。ですから、町中の人たちはとても驚きました。
それでも、とても驚いたからと言って、語られていることを皆が皆、信じるようになったのかというとそうではありません。主イエスご自身が語った時もそうです。主イエスの弟子たちが語るときにも、やはり、信じる人と信じない人とが分けられつづけます。その弟子たち一人一人を神さまが道具として用いてくださっています。それでもなお、神さまご自身が信じさせてくださらなければ、誰も神を信じて生きるようにはならないのです(*補足)

       【補足/願いつづけること、慎むこと】(*補足)
         大切な家族や友人のために、信仰の導きを精一杯にしてあげたいと願うことは大切です。けれど同時に、神ご自身こそがそれをなさると深く弁えましょう。願いつづけ、けれども慎んで、神さまにこそ委ねます。十分に信頼しているようにと、釘を刺されます。神にこそ従順であり、安らかに生きるためにです。「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」「そしてイエスは言われた、『それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである』」(ヨハネ福音書6:44,65)。そうでなければ、ついつい私たちは傲慢になり、神をさえ自分の意志と願いに服従させたくなってしまうからです。それでは困ります。「私の願い通りではなく、ただただあなたの御心のままになさってください」と願いましょう。


6/30「人を裁くな」ルカ6:37-42


                      みことば/2019,6,30(主日礼拝)  221
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:37-42                日本キリスト教会 上田教会
『人を裁いてはならない』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。39 イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。40 弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。41 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。(ルカ福音書 6:37-42)

 弟子たちと大勢の群衆が聞いています。その中で、とくにご自分の弟子たちに向けて救い主イエスは語り続けています20節を参照)。まず37-38節、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。「人を裁いてはならない」と主はおっしゃいます。「自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るその量りで、自分にも量り与えられるであろう」。国語辞典を開きますと、裁くことは『良い悪いを区別して、決まりをつけること』と説明しています。良いことは良い、悪いことは悪い。言っていいことと悪いことがあり、して良いことと、してはいけないことがある。そのことを腹に収めて一日ずつを生きること。すると、それは裁判官や検察官や陪審員たちがしているだけではなく、この私たち全員一人残らず、普段の生活の中でごく日常的にしていることです。5~6歳の小さな子供たちもしますし、父さん母さんたちは自分の子供に、なんとかして『良い悪いを区別して、決まりをつけること』を習い覚えさせたいと努力します。そういうことのできる大人になってもらいたいと願って。して良いこととしてはいけないこと。言って良いことといけないこと。それを判断し、区別し、弁え知る人間でありたいのです。また、自分が心の奥底で密かに弁えているだけではなく、「あなたはそんなことを言ってはいけない。そんなことをしてはいけない。それは悪いことだ」と口に出し、態度にも示すべき時もあります。さて聖書自身は2種類の裁きがあると告げます。人間が人間を裁くこと。そして、神ご自身が私たち人間をお裁きになること。「人を裁いてはならない」と主はおっしゃいます。それはもちろん、「別にィ。どっちでもいいんじゃないの。私には関係のないことだし」と知らんぷりしていなさいと勧めているわけではありません。軽々しく人を判断し、うかつな間違ったやり方で善悪や物事を区別しては困ると言いたいのです。それでもなお私たちの人生は、朝も昼も晩も、家にいても道端を歩いていても、自分自身で良い悪いを判断し、区別し、裁かねばならない事柄の連続です。裁いてはならない? いいえ。決して避けて通ることなどできなかったのです。だからこそ、目の前の一つ一つの出来事に、中学生も小学生も、幼稚園や保育園に通う小さな子供たちまで、「どうしたらいいだろう」と頭を抱え、胸を痛めます。
39-40節、「イエスはまた一つの譬を語られた、『盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう』」。私たちクリスチャンは、主イエスの弟子です。師であり先生であられる救い主イエスが、「あなたがた私の弟子は、わたし以上のものにはならないが、私のもとで修業を積んで、必ずきっと、私のようになるであろう」。また、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」(ヨハネ福音書14:12,15:14-16。語りかけてくださっている救い主イエスのその心を汲み取らねばなりません。もし、目の不自由な人が目の不自由な人を手引きするのだったら、せいぜいその2人ともが深い穴に落ちて困ったことになるほかない。けれど主イエスが文字通り手を引くように手引きしつづけて、私たちを導き続けます。どんな穴にも、下水溝やくぼみにさえ落ちるはずがないのです。主イエスがはっきりと保証なさり、太鼓判を押してくださいます。手取り足取りして、つきっ切りで指導に当たってくださり、必要なだけ十分に修業を積ませ、子どもたちの親としても、社会人としても、十分な良い働きができる者としていただけます。なにしろ主イエスご自身からの約束です。この約束を、私たちはよくよく覚えておきましょう。
 41-42節、「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう」。梁は、家の屋根を支えるために横に渡した、太くて長い材木です。またもや痛い所を突かれました。兄弟の目にあるほんの小さなチリやゴミははっきりと見えるのに、なぜ自分の目の中のその大きな大きな太い丸太に気づかないのか。まず自分の目からその丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からも小さなおが屑も塵もゴミも取り除くことができる。まったく、その通り。「偽善者よ」と呼びかけられたことに腹を立てたり、嫌な気がしたり、がっかり気落ちしている場合ではありません。とても大事に思い、愛してやまない弟子なので、耳に痛い厳しいことも折々に語り聞かせねばなりません。偽善者に成り下がってしまいやすい性分を根深く抱えた私どもなので、わざわざ「偽善者たちよ」と辛口で語りかけます。なぜなら偽善者にならないで済むためにです。深く慎んで、自分自身のよこしまさや、しばしば大きく膨れ上がってしまいやすい自分の悪い心に自分で気づいていることが役に立ちます。
さて、私たちの目を塞いで、ものが見えなくさせる丸太とは『罪。肉の思い』です。また私たち自身の信じる心が弱く乏しいことであり、私たち自身の『不信仰』と言うこともできるでしょう。それが、折々に私たちの目と心を塞いで目を見えなくし、大事なことを見失わせつづけます。しかも信仰を持たない人たちや他宗教の人々を批判しているのではなく、まずなにより、「主イエスの弟子である私たちに向けて」、その警告が語りかけられていることを受け止めなければなりません20節を参照)(1)例えば主イエスがご自身の十字架の死と復活を予告なさったとき、弟子のペテロは、主イエスをわきへ引き寄せ、いさめはじめました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません(あっては困るし、とても不都合なので、止めてください)」と。そして手厳しく叱られました、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と。そして弟子たちに向けて主イエスはおっしゃいました、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」主イエスを後ろへ引き下がらせ、自分自身とまわりの人々を思い煩いつづける。そのあまりに、神を思う暇がほんの少しもなくなってしまう。どんな神なのか、どういう救いと恵みなのかもすっかり分からなくなってしまう。それこそが、私たちの目の中にある大きな大きな丸太です。「自分が自分が自分が」と自分の自己主張を抱え持ちすぎている私たちに、もし私に付いてきたいと願うならば、その邪魔な「自分」を捨てなさいとおっしゃいます。「自分のやり方、自分の考え、自分の気持ち」そして「自分の命」、いつの間にか大切になりすぎてしまったそれらが私たちの目の中にある丸太です。それでは、差し出されている新しい自分と、新しい生命がちっとも見えない。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」と主イエスは、私たちを招きつづけます。
(2)例えば5つのパンと2匹の魚で多くの人々が養われ満たされたことが、弟子たちにはどういうことなのかさっぱり分かりませんでした。その数時間後に、風と波にこぎ悩む小舟の上の弟子たちのところまで主イエスが湖の上を歩いて来られたとき、弟子たちはそれは幽霊だと思い、驚いたり恐れたりしました。自分の貧しく小さな頭で理解し、納得できることしか受け止めようとしません。「それっぽっちの魚とパンでは大勢の人々に食べさせ、満ちたらせることなどとうてい無理だ。できるはずがない」と思い、「湖の上を歩いて来ただと? そんな馬鹿なことがあるものか。学校で理科の時間に教わったことと違うじゃないか」。じゃあ、あなたはどんな神だと思っていましたか? パンと魚のことと、主イエスが湖の上を歩いてきてくださったこと、それらは同じ一つの出来事でした。神が私たちのためにもちゃんと生きて働いておられますことです。ちっとも分からなかったし、信じることもできなかったのは、それは、「弟子たちの心が鈍くなっていたせいだ」(マルコ福音書6:52と聖書は報告する。聖書から、私たちは何を習い覚えてきたでしょう。つまらない一般常識と世間で習い覚えてきてしまった道理にがんじがらめに縛られて、いつの間にか、なんでもできる神を信じることができなくなっていました。それが、彼らとこの私たちのための、目の中にある大きな大きな丸太です。
(3)例えば十字架について殺される前の晩に、ゲッセマネの園で主イエスが必死に祈りつづけていたとき、3人の弟子たちは思い煩いと疲れのために眠くて眠くて仕方がなかった。その弟子たちを気づかって主イエスが様子を見に戻ってくる度毎にやはり弟子たちは眠っていた。「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。まだ眠っているのか、眠っているのか眠っているのか」。思い煩いと疲れ、さまざまな心配事、恐れと不安。それらが目の中の大きな丸太です。
(4)例えばエマオ村への道を歩いていた二人の弟子は、目が見えなくされたり、また見えるようにされたり、見えなくなったりと繰り返しつづけます。この私たちもそうです。エマオ村への道中で道連れになったかたが救い主イエスだとは分かりませんでした。「目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」と聖書は報告します。イエスが死んでしまったと落胆し、絶望しつづける弟子たちに、主イエスが語りかけます、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。この発言のポイントは、「すべての事を信じられない者たち」です。つまり、「そのうちの何割かは信じられる。これど、これとこれとこれは嫌だ。無理だ」と自分で決めつけて、選り好みして信じる者たち。「私なりに信じています」「私にわかる範囲で、無理なく、ほどほどに信じています」などと言う人々のことです。それはその人の頑固さであり、神よりも自分のほうが正しいと思い込んでいる心の鈍さと愚かさです。それでは、救い主イエスの死と復活についても信じられるはずがないではないか。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを説きあかされました。村に着き、一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった」と聖書は報告します。「取りなさい。私の体である」「皆、この杯から飲みなさい」と告げられ、パンと杯を受け取るとき、そして礼拝の中で救い主イエスが説き明かされ、描き出される度毎に、目の中の大きな大きな丸太が取り除かれて、私たちの目と心が開かれますように。神ご自身が確かに生きて働いておられますことと、神の御前に据え置かれた私たち自身の毎日の生活の現実を、御心にかなってはっきりと見て取り、受け止め、そのように生きはじめる新しい自分がそこから始まりつづけますように。主イエスは語りかけます、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか」と。救い主イエスについて聖書にかかれてあることは、必ずことごとく成し遂げられます。こう証言されています。「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」(ヨハネ福音書9:39-41,マタイ福音書16:21-,マルコ福音書6:52,14:32-42,使徒9:3-18,ルカ福音書24:13-32。この私たちこそが、これらの事の証人です。