2018年3月27日火曜日

3/25こども説教「何の権威か?」ルカ20:1-8


 3/25 こども説教 ルカ20:1-8
 『何の権威か?』

     20:1 ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、2 イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。3 そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。4 ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。5 彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。6 しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。7 それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた。8 イエスはこれに対して言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。               (ルカ福音書 20:1-8

 小さな子供と大きな大人と、その両方の方々のために話します。
主イエスは神殿で、毎日毎日、神の国の福音を宣べ伝えていました。祭司長や律法学者たちが近寄ってきて、主イエスに質問しました。「何の権威によってしているのか。だれから、そうする権威を与えられたのか」と。とても良い大切な質問ですね。主イエスは、彼らがよく知っている一人の伝道者について、同じことを問い返しました。「洗礼者ヨハネの場合はどうだろう。彼の行ったこと、語ったことは、神から与えられた権威によってだったのか。それとも、ただ人間たちからの権威なのか、どっちだ?」と。どう答えても都合が悪かったので、答えたくありませんでした。あの祭司長と律法学者たちと民の長老たちは、主イエスやその働き人についても自分たち自身についても、神ご自身から遣わされた者なのか、それともただ人間たちの間でだけそこそこの評判と信頼を受けていただけなのかが、いつの間にか、すっかり分からなくなりました。どこから来た、何の権威なのか? それは、とても困ったとき、苦しむときにいったい誰に助けを求めることができるのかという、いつもの根本問題です。「神さまが私の味方だ」(詩27,ローマ手紙8:31-39参照)ということが信じられなくなったので、祭司長と律法学者たちと民の長老たちは、そのおかげで、ただただ人間たちを恐れ、まわりの人間たちの顔色を窺いつづけています。ああ、かわいそうに。もちろん主イエスは父なる神から遣わされ、またご自身が神である救い主です。いいえ、それだけでなく 私たちクリスチャン一人一人もまた、神から遣わされ、神の権威によって立っている、神ご自身に仕えて働く働き人たちです。「天に主人がおられる」とよくよく習い覚え、しかも「天と地の一切の権威を授けられた主イエス」(コロサイ4:1,マタイ28:18から遣わされた私たちです。だから、人間に過ぎないどんな権威を恐れる必要もなく、ただただ神さまの御心に従って生きることを願って、毎日毎日を晴れ晴れと暮らすことができます。


3/25「私の思いのままに、ではなく」マタイ26:36-46


          みことば/2018,3,25(受難節第6主日の礼拝)  155
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:36-46               日本キリスト教会 上田教会
『私の思い通り、ではなく』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


26:36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。                                  (マタイ福音書 26:36-46) 


  ここで私たちがよくよく目を凝らすべきことは、主イエスご自身の祈りの格闘です。そして、その只中で弟子たちを深く顧みておられることです。十字架の上での主の言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)は、あの当時も今も、主を仰ぎ見る私たちの心を悩ませ続けます。主イエスご自身の認識と思いとは、十字架の上で、どんなふうだったのだろうかと。本当に、父なる神が救い主を見捨てたのか。救い主は、「あ。私は見捨てられた」と思ったのかどうか。そこまで苦しんだのなら苦しみは本物だったと言えるだろう、もしそうでないなら(つまり、やがて救われ復活するとはっきり分かっていたなら)、苦しみは眉唾、八百長試合のようではないか。――人々は、そんなことを言います。けれど兄弟たち。もし万一、自分自身が見捨てられてしまったと心底から絶望し、嘆いているとするならば、その哀れで惨めな救い主が、いったいどうして罪人の救いを確信し、「大丈夫ですよ」と約束さえできるのでしょう。十字架の上での苦しみはどの程度のものだったのか。御父への主イエスの信頼と服従は揺らいだのかどうか。このゲッセマネでの主の姿こそが、それらに対する強い光を投げかけます。
 あの十字架の出来事の前の夜、主イエスは苦しみ悶えながら、ただ独りで祈りの格闘をします。しかも、そこに主イエスお独りしかおられなかったのに、その姿がこんなに詳しく報告されていますね。「あの時こんなふうに私は祈っていた」と、主ご自身がその姿を弟子たちに伝えてくださったからです。ほら、こうするんだよ。あなたがたも、地面に体を投げ出して祈れ。格闘をするようにして本気で祈りなさいと。39節、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯を私から過ぎ去らせてください」。「この杯」。これは、あとほんの数時間後に迫った十字架の惨めで恐ろしい死を指し示します。弟子たちからも見捨てられ、罪人の1人として裁かれ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、十字架の上にその肉を裂き、その血を流しつくすこと。それは、神さまがわたしたち罪人を救ってくださるために、どうしても必要なことでした。神の独り子が、あの救い主イエスが、身悶えさえして苦しみ、深い痛みを覚えておられます。――どんな救い主を、どんな神を、思い描いていたでしょう。また、主イエスを信じるわたしたち自身をどういう者だと思っていたでしょうか。この祈りの格闘を細々と弟子たちに語り聞かせてくださったのは、私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの日々がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。重い病気にかからずケガもせず、自分のことをよくよく分かってくれる良い友だちにいつも囲まれていて、元気で嬉しくて。いいえ。そんな絵空事を夢見るわけではありません。私は願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神が生きて働いておられ、その神が真実にこの私の主であってくださることを。
 主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか過ぎ去らせてください。しかしわたしの思いのままにではなく、あなたの御心のままになさってください」。御心のままにとは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の愛情と信頼に辿り着くのです。私たちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、私たちの思いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、この私のためにさえ最善を願い、私たちにとって最良のものを備えていてくださる。私たちは知っています。父なる神さまの御心こそが私たちを幸いな道へと導き入れてくれる。きっと必ず、と。
 主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて冷たくなって死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、必死になって祈りつづけなさい。
  なぜなら、「なんて弱い私か」と私たちはガッカリするからです。「自分に少しも自信が持てない。小さく弱く、とても危うい私だ。壊れやすくて華奢なガラス細工のような私だ」と落胆するからです。もっと堅固で、もっと揺るぎない私だと思っていたのに。そして何かが起こり、地震や大津波や火山の突然の噴火や原子力発電所のとんでもない事故などが次々と起こり、自分自身や家族の病気、ケガ、非難や悪口、ふと耳に入った何気ない一言に、私たちは激しく揺さぶられ、オロオロし、思い知らされます。また、「どうしてあの人たちは」と周囲を見回して、たびたびガッカリしてしまいます。ずっと不思議に思っていました。「他の皆がつまづくとしても、けれど私こそは。私だけは」となぜあの人は、必死に言い張りたくなったのでしょう。「どうして、あの人たちは分かってくれないのか」とあんなにも心細くなってしまったのでしょう。「なぜ、あの人とこの人はちゃんとしないのか。だらしがない。ふつつかでいたらない」と、なぜトゲトゲしい気持ちになったのでしょう。「私がしたいこと。したくないこと。好きなこと嫌いなこと。私の考え方ややり方、私の気持ち。私は私は私は」「だって、あの人が私にこんなことを言ったから」などと、どうして彼らは、あまりに簡単に上がったり下がったり、喜んだかと思うと、惨めでたまらなくなったり、泣いたり笑ったり、安心したかと思うとすぐに心配でたまらなくなり、揺さぶられてオロオロしたりしつづけるのでしょうか。どうして朝から晩まで、人間のことばかり気に病み、人間のことばかり思い煩いつづけるのでしょうか(マタイ16:23参照)
  主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らのことが気がかりでならないからです。「私につながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができない。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」と主はおっしゃいました(ヨハネ15:4-5。それぞれの悩みと思い煩いの中に、私たちの目は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも慰めも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神の現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。どうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによってです。あの時、あの丘で、あの木の上にかけられたお独りの方によって、いったいどんなことが成し遂げられたでしょうか。この後に歌う讃美歌2941954年版)も、同じ1つのことを私たちの心に語りかけつづけました。「み恵み豊けき主の手に引かれて、この世の旅路を歩むぞ嬉しき」と自分自身に言い聞かせ言い聞かせ、そのようにして、私たちは目覚めます。何が嬉しいというのでしょう。また、何が足りなくて不十分だと嘆くのでしょうか。何がどうあったら、私たちは満ち足りて安らかで喜んでいられるのでしょう。私がやりたいことをし、やりたくないことをしないで済んでだから嬉しい、というのではありませんでした。私のことを皆が分かってくれて、皆が喜んで賛成してくれて、だから嬉しい、というのでもありませんでした。私がどれほど足腰丈夫で、どれほど働けて役に立てて、それで。あるいは、体も心も弱って皆様のお役に立てず、足手まといで、などということでもなく。「主の手に引かれて歩いている。その御手はとても恵み豊かだ。だから嬉しい」と歌っていました。目の付けどころがずいぶん違うのです。「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし(=ぜひ、安心して通り過ぎたいものだ)」と歌いながら、そのようにして、私たちは目覚めます。平らで歩きやすい道を親しい友人たちとワイワイガヤガヤ言いながら歩く日々もありました。またさびしい野っ原や、けわしい山道や、薄暗い谷間をこわごわビクビクしながら歩く日々も、やっぱり私たちにはありました。頼りにしていた家族や友達からはぐれて、ただ独りで歩かねばならないときもあったのです。そのとき、どうしましょう? どうしたらいいんですか。何がどうあったら、私たちは安らかになれたのでしょう。あの讃美歌294番は、いつもの私たちとはずいぶん違うことを思っています。だって、「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし」なんて言うんですから。ただただ、主の手にすがって、そこで安らかに歩みとおしたい。それが私の願いであり、希望なのだと。ああ。つまりこの歌のクリスチャンは、はっきりと目を覚ましていたのです。「あの人がこの人がその人が。私が私が私が」という疲れと思い煩いの眠りから、もうすっかり目を覚ましていました。目覚めて、そこで、生きて働いておられる神と出会っているのです。そこで神さまからの恵みと平和とゆるしを受け取っています。神さまこそが私の味方であってくださる。ああ、本当にそうだ。それならば、私はいったい何をおじ恐れようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで私たちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして御子イエス・キリストだけでなく、すべて必要な一切を贈り与えてくださらないことがあるだろうか。あるだろうか、あるだろうか(ローマ手紙8:31-32参照)



2018年3月19日月曜日

3/18日本キリスト教会人権委員会資料

よりよくご覧いただくためには文章をクリックしてください。











3/18こども説教「盗賊の巣にした」ルカ19:45-48


 3/18 こども説教 ルカ19:45-48
 『盗賊の巣にした』

19:45 それから宮にはいり、商売 人たちを追い出しはじめて、46 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、48 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。 (ルカ福音書 19:45-48)

  神殿の境内で、そこから商売人たちを追い払った。主イエスがエルサレムの都に入ってまず最初になさったのは、このことです。そのころ、商売人たちはそこで神さまへの献げものにするためのハトや家畜などの生き物たちを売ったり、またイスラエルの古いお金を献げものにすることが決められていたのでそのための両替をする商売人たちが境内で商売をしていました。しかも、主イエスの追い払い方はとても乱暴でした。モノを売るテーブルやイスなどをひっくり返したり、放り投げたりして。しかもモノを売っている商売人たちばかりでなく、彼らから品物を買っている人たちまでも皆、境内から追い払って(マタイ21:12参照)。パリサイ人たちはカンカンに腹を立てていました。それなのに、民衆はみな熱心に主イエスの言葉に耳を傾けていました。このあと、毎日毎日です。46節、「わたしの家は祈りの家であるべきだと聖書に書いていあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。それはいったいどういうことだろう。この方は、いったい何を知らせようとしているのだろうかと。神さまのものであるはずの祈りの家が、神さまの御心に反して、神さまの御心を台無しにして好き勝手に使われている。もちろんすべてのキリスト教会が神さまのものである祈りの家です。いいえ それだけではなく、神を信じて生きるクリスチャン一人一人も、神さまのものである祈りの家とされて、神さまがその中に住んでくださる神殿とされているのです(コリント(1)3:16-17,6:15-20,ハイデルベルグ信仰問答 問1「生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということです」参照)私たちのことです。教会の建物を盗賊の巣にしてはいけないだけではなく、一人一人の体も毎日の暮らしも盗賊の巣にしてはいけません。あなたも私も神さまの祈りの家とされて、私たち一人一人はもう自分自身のものではなく神さまのものとされているからです。胸に手を当てて、「どういうことだろうか? どういうふうに毎日を暮らしていこうか」とよくよく考えてみましょうか。







3/18「私は決してつまずかない」マタイ26:30-35


           みことば/2018,3,18(待降節第5主日の礼拝)  154
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:30-35              日本キリスト教会 上田教会
『私は決してつまずかない』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。33 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。34 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。35 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。                                                  (マタイ福音書 26:30-35)


  30-35節。彼らは讃美の歌を歌い、オリーブ山へ出かけて行きました。とても大切なことが告げ知らされました。聖書に書かれているとおり、『羊飼いである主イエスが打たれ、その羊飼いによって養われている羊である彼らの群れは散らされる』と。けれどペテロも他の弟子たちも皆、「いいえ、私は決してつまずきません。あなたを知らないなどとは決して申しません」などと言い逆らい、自分自身の強さと、この自分がどんなにしっかりしているかなどと言い張りつづけるばかり。そうやって、弟子たち皆が主イエスの言葉を聞き捨てにし、聞き流しつづけます。まるで、主イエスご自身が打たれようが、殺されようが、それとは何の関係もなしに、この自分自身こそは堅くしっかりと立ち続けることができると言わんばかりに。

  33-35節、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。ペテロは自分自身の主への愛情と決意とをぜひ主イエスに分かっていただこうとして、自分の心を精一杯に伝えようとしています。それでもなお、この彼もやはり、神さまを信じる代わりに 自分自身を信じすぎています。その浅はかで愚かな自信過剰が、ほんの数時間後にはすっかり暴かれてしまいます26:69-75参照)。「いいえ、私は決してつまずきません。あなたを知らないなどとは決して申しません」。ペテロも私たち一人一人も、約束できないはずのことを軽々しく約束してしまいます。「大丈夫、大丈夫」などと、太鼓判を押せないはずのところで簡単に太鼓判を押してしまいます。僕自身もそうですが、ほとんどの者たちは、『自分自身が一体何者であるのか、どれほどの者であるのか』を、胸に手を当てて、つくづくと確かめてみたことなどないからです。
 主イエスの口から何が語りかけられていたのかを、あの彼らは誰一人も、ほんの少しも気づいていません。羊飼いである救い主と、このお独りの方によって養われ、支えられ、守られてこそ生きてゆくことができる羊たちのことが語られていました。救い主が打たれようが殺されようが、もし、それでもなお自分自身こそは堅くしっかりして立ち続けると思い込んでいたとするなら、その彼らはもう『羊飼いに養われる羊たち』ではありません。救い主イエスとは何の関係もなく、自分で自分の始末をつけつづけて生きて死ぬ者たちになってしまいます27:4参照)。何をどう信じてきたのか。主イエスを信じて生きることが、いつの間にか、中身のない、ただただ形ばかりの虚しい絵空事に成り下がろうとしています。
  ――旧約聖書の時代から、ずいぶん長い間、彼らは羊飼いと羊の群れの暮らしぶりを眺めて、それらをとても身近に感じ、自分自身のこととして受け止めて暮らしてきました。羊飼いのような神さまだ。その羊飼いに養われる一匹一匹の羊のような私たちではないかと。羊は弱い生き物です。身を守るための武器や道具を何一つも持っていません。ウサギのように危険を聞き分ける良い耳を持っているわけではなく、カメのような堅い甲羅に包まれているわけでもなく、強い獣たちのような牙や角や太い腕を持っているわけでもなく、逃げ去るための速い足を持っているわけでもない。何もありません。しかも羊は目がとても悪くて、目の前の、いま食べている草しか見えません。ムシャムシャモグモグ草を食べているうちに、たびたび迷子になってしまいます。獣たちに襲われ、羊泥棒にも狙われ、心安く生きてゆくためには、ただただこの自分の世話をし、養い守ってくれる羊飼いだけが頼りです。例えば詩篇23篇は、神によって養われつづけて生きる羊たちの幸いを歌っていました、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」。冷たくておいしい水のほとりに寝そべり、豊かな青草が生い茂る牧草地で満ちたりるほどに草をムシャムシャ食べているから、だから、それで何不自由なく幸いで快適だなどと言っているわけではありませんでした。快適ないこいの水辺も、豊かな緑の牧草地も、せいぜい2週間に一回か数ヶ月に一回です。喉をカラカラに渇かせ、腹を空かせて、獣たちにつけ狙われながら、死の陰の谷間、また死の陰の谷間、ようやくくぐり抜けたと思ったら、また次の死の陰の谷間。心細さとひもじさ、恐れの連続の日々です。それでもなお良い羊飼いである神さまが群れの只中を歩み、先頭を行き、群れの最後尾を守って道を共に進んでくださる。それこそが羊たちにとっての幸いの中身でありつづけます。私たちのための恵みと慈しみを携えて、主なる神さまこそが私たちと共に旅路を歩んでくださっている。なんという幸いか、なんという恵みか。
  「主われを愛す」という子供の讃美歌1954年版 461番)を、私たちも覚えています。やがてこの私たち一人一人も足腰立たなくなり、目も耳も記憶力も体力気力も、およそすべての力を失うときが来るとしても。何もかもすっかり忘れ、分からなくなったとしても、自分の枕元にこの歌さえあれば、十分に幸いに生きて、やがて安らかに死ぬこともできるだろうと。まず歌の1節。「主は私を愛してくださっている。その主は、こんな私のためにさえ十分に強くあってくださる。だからたとえ私が弱くても、乏しくても愚かであるとしてもなお、恐ることも心細さもない。私の主イエス、私の主イエス、私の主イエス・キリスト、このお独りの方こそが私を愛してくださっている」。厳しく過酷な世界に私たちは暮らしています。子供たちも若者たちも、お父さんお母さんたちも長く生きてきた年配の方々も、それぞれに乏しさや恐れを抱えて生きています。強がって見せても、誰でも皆、本当はとても心細いのです。不安材料は山ほどあります。けれど、キリストの教会と私たちクリスチャンの1人1人にとりましては、安心できる材料はただ1つ。「主は私を愛してくださっているし、その主は、こんな私のためにさえ十分に強くあってくださる。だから私は」という、このただ一点の真実です。歌の2節3節を読み味わいましょう。「私の罪のため、救い主イエスは栄光も尊厳も力も捨て去って、天から降って来られ十字架についてくださった。苦しみを受け、殺され、葬られ、その三日目に墓から復活し、その復活した姿を弟子たちに見せ、天に昇っていかれ、今も生きて働きつづけ、やがて再び来てくださる」「神の国の門を開いて、主イエスは私を招いておられる。希望に溢れ、ワクワクしながら、昇っていこうではないか」。2節で「十字架についた」と告げられ、私たちはそこで直ちに主イエスの救いの御業の全体に目を凝らしましょう。だって、ただ十字架につけられ死んで葬られただけならば、そこからはどんな力も希望も喜びも、出てくるわけがないからです。もし本当にそうなら、それは救い主でも何でもなく、信じて生きるに値しないからです。そこに果たして、受け取るに値する生命があるのかないのか。彼らがまるで生まれて初めてのようにして喜びにあふれたのは、復活の主イエスと再び出会ったときでした。『主イエスが殺され、葬られただけではなく、その三日後に確かに復活なさった。この主に率いられて私たちも新しい生命に生きることになる』と信じることができるまでは、それまでは、私たちも同じく恐れと悩みの中に閉じ込められつづけます。これが、主イエスを信じる信仰の決定的な分かれ道でありつづけます。3節で、「神の国の門を開いて主イエスが私を招いておられる」と歌いました。さてそれでは、この私たちが神の国に迎え入れられるのはいつでしょうか。死んだ後、やがて終わりの日に? その通り。それが1つの正しい答えです。もう1つの正しい答えは、もうすでに神の国に入れられ、昨日も今日も明日もずっと神の国で暮らしつづけている。福音宣教の初めに、主イエスはなんと仰ったでしょう。「時は満ち、神の国は近づいた。だから思いも在り方も180度グルリと神へと向き直って、福音を信じなさい。信じて生きることをしはじめなさい」(マルコ福音書1:15参照)。すると、歌の4節はとても大事です。「私のボスであるイエスよ、私の腹の思いも行いも口から出る1つ1つの言葉も清くしてくださって、こんな私にさえ、どうか善い働きをさせてください」。あなたも私も、善い働きをしながら生きる者とされていきます。ところで、善い働きって何でしょうか。大きな働きとかじゃなく、皆から誉められたり尊敬されるような立派な働きってことでもなく、善い働き。例えば、子供たちを精一杯に育て愛するお父さんお母さんの善い働きです。年老いた親の介護をし、下の世話をし食事の支度をし風呂に入れてあげ、長く伸びてしまった爪を切ってあげるような善い働きです。会社でも、地域社会でもどこでも、誰に認めてもらえなくても誉めてもらえなくたって、とっても平凡で地味で見栄えもあんまし良くないかも知れないけれど、その人の身の程に応じた、けれど精一杯の善い働きがある。神さまを愛し、隣人を自分自身のように愛し尊びたいと願いつつ働く善い働きです。神さまの御心にかなって生きていこうと悪戦苦闘する善い働きです。それが、この私にもあなたにも必ずきっとできる、と太鼓判を押されています。弱く乏しいながらも、なお主ご自身の強さと慈しみ深さにすがりながら善い働きをする。その福音の場所に留まりつづけることは至難の業です。「私は。私は。私は」というあまりに人間中心の在り方やモノの見方が、『主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも』という神さまへの信頼を押しのけつづけるからです。
  幸いと恵みの中身を、いつの間にかあの彼らはすっかり履き違えていました。主の言葉に耳を傾けようともせず、「私は、私は。私は」と当てにならないものを当てにし、羊飼いであられる救い主に信頼して聴き従って生きることを忘れ果て、投げ捨ててしまっていました。ペテロだけではなく、他の弟子たち皆も同じように言い張りつづけました。まるで何かの病気にかかったかのように。なんということでしょう。せっかく主を信じて生きることをし始めていたのに、とても残念なことです。私たち自身も、たびたび同じようになってしまいます。けれどもし、彼らとこの私たち一人一人も、羊飼いである救い主と、このお独りの方によって養われ、支えられ、守られてこそ生きてゆく羊たちであると思い起こすことができるなら、もしそうであるならば、とても良い羊飼いであられる救い主イエスにすがって、すがりつづけて、そのように生きることができます。主イエスは、本当にはこう仰いました。31-32節、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。羊飼が打たれ、羊の群れが散らされる。けれど主によって養われる羊たちよ、そこで終わりではなかったのです。しかし主イエスはよみがえってから、弟子たちより先にガリラヤへ行き、そこで弟子たちと再び出会うことに決めてありました。あの彼らもこの私たちも、今度こそ本当に『良い羊飼いと羊たちの群れ』として生きることを新しくし始めるために。




2018年3月13日火曜日

3/11こども説教「石さえ叫ぶ」ルカ19:36-40


 3/11 こども説教 ルカ19:36-40
 『石さえ叫ぶ』

     19: 37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。                       (ルカ福音書19:37-40

  子供のロバの背中に乗って主イエスがエルサレムの都に入っていかれるとき、「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」と大勢の人々が叫びました。ここでは「弟子たちが叫んだ」37節,マタイ21:9参照)と書いてありますが、実際には、叫んでいる者たちの誰が主イエスの弟子なのか、そうでないのかなどと見分けることもできないほど、ほとんどそこにいた誰も彼もが皆が叫び立てて、大騒ぎでした。だからこそパリサイ人たちは困り果てて、「先生、あなたの弟子たちをお叱りください」と苦情を言い立てました。40節の主イエスのお答えに目を向けてください、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。今日は、ここがいちばん大切です。もしこの人たちが黙れば、その代わりに石が叫び出す。本当のことでしょうか? それとも口からデマカセ? あなたは、主イエスのこの言葉を本気で信じることができますか? さて、「神を誉めたたえたり、神さまのために一生懸命に働く者たちがいなければ神さまが困るだろう」とうっかり勘違いして、歯を食いしばって、眉間にシワを寄せて、我慢して我慢して働いている真面目なクリスチャンもいるでしょう。いいえ それでは、神さまのお働きを邪魔して、神さまの足を引っ張りつづけています。分かりますか。ニッコリ喜んで、「ぜひ働きたい。どうか神さまのために働かせてもらいたい」と働くなら、そうしてもいい。けれど、『あなたが働かなくたって神さまはちっとも困らない』と、よくよく覚えていましょう。あなたも、生きて働かれる神を信じているのでしたね。しかも神さまは道端の石コロさえも叫ばせたり、働かせたりもできるのです(ルカ3:8,127:1-2参照)。神さまが第一に、先頭を切って、あなたのためにも働きつづけておられます。だから あなたは安心して、働いたり休んだりしていいのですよ。

     【補足/マルタ病】
     キリスト教会のため、家族のため、職場や地域のためと精一杯に働くことは良いことです。けれど度が過ぎると、私たちは心を病んでしまいます。心を貧しくさせられて、「私がこんなに精一杯に必死に働いているのに、あの夫は。子供たちは。あの彼らは」と恨みがましい淋しい気持ちになって、その人たちを悪く思ってしまいます。心を引き裂かれたあのマルタ姉さんのように、ぶどう園で朝早くから働いた労働者たちのように(ルカ10:36-42 を参照;「妹が私だけに仕事をさせているのに何とも思わないんですか。きびしく叱りつけてやってください」とマルタは口を尖らせます。「無くてならない大切な良いものは一つだけだ。主イエスの言葉をよくよく聞いて心に収めること。妹からもあなた自身からも、それを取り上げてはならないし、あなたも奪い取られてはならない」と主イエスはなだめます。また、マタイ20:10-16;「一日中、労苦と暑さを辛抱した私たちと、たった一時間しか働かなかった彼らと同じ扱いをするんですか。えこひいきだ。彼らの支払いを減らすか、私たちへの報酬を増やすか、どちらかにして」と長く働いた労働者たちが腹を立てて苦情を言い立てます。「わたしの気前のよさを妬むのか」と主人が問いかけます。あの彼らの腹立ちと淋しさと不平不満に、あなたも心当たりがありますか? 自分も同じだとき気づけるなら幸せです)。そのままでは、あなたのための神の恵みが丸つぶれです。危ない、危ない。すぐに手を休めて、「私を憐れんでください」と神さまに助けを求めましょう。


3/11「私の体、私の血である」マタイ26:26-30


 ◎とりなしの祈り  ~311日を覚える祈り~

 主なる神さま。あなたが恵み深く、憐れみあり、怒ること遅く、慈しみ豊かであられることを私たちは知らされ、また自分自身のこととして習い覚えさせられてきました。心から感謝をいたします。
  あの東日本震災と福島第一原子力発電所の恐ろしい事故から7年の年月が過ぎ去りました。311日だけではなく、いつもいつも、あの日から今日にいたるまで今なお続いている大きな苦難を思い起こさせてください。その苦難と痛みの只中に置き去りにされようとするおびただしい数の人々がいるからです。ほんのわずかな人々がぜいたくで快適な暮らしを楽しんでいる一方で、多くの人々が毎日の暮らしや食事にも困るような貧しさにあえいでいます。生きるための基本的な権利をその人たちが、また他のどの人々も奪い取られませんように、どうか助けてください。しかも私たちは、しばしば気づかないフリをしています。自分自身と家族のことばかりに目を向け、その人々の心細く惨めな暮らしに、その悩みと苦しみに、目も心も塞いでいます。自分自身のように隣人を愛し、思いやり、尊び、それゆえ貧しくされ、惨めにされ、身を屈めさせられたその隣人たちに慈しみの手を差し伸べる私たちとならせてください。私たちはしばしば思うべき限度を超えて思い上がり、あまりに傲慢にふるまいました。まるで自分自身が主人や王様であるかのように。神さま、申し訳ありません。神がお造りになった、神ご自身の世界であり、神さまのものである私たちの一日ずつの生命であることを、ですから、この私たちにも深く魂に刻ませてください。あなたに信頼と感謝を十分に寄せ、心を尽くし精神をつくし力をつくしてただあなたにこそ聴き従い、そのようにして互いに慎みあい、尊び合って生きることができますように。主よ、どうか私たちを憐れんでください。救い主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


         みことば/2018,3,11(受難節第4主日の礼拝)  153
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:26-30             日本キリスト教会 上田教会
『私の体、私の血である』
 
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。           (マタイ福音書 26:26-30)
                                               
 








 十字架におかかりになる前の晩に、主イエスは弟子たちといっしょに特別な食事をしました。彼らは今までもずっと一緒にご飯を食べてきました。でも、この1回の食事は、今までのいつもの食事とはちょっと違います。格別においしいご馳走が出たってわけじゃない。パンと、ぶどうの実から作った飲み物だけの、ごくつつましい、あまりに質素な食事です。どうぞ思い浮かべてみてください。『もし、この礼拝の只中で聖晩餐が執行され、そのパンと杯にあずかる大人たちの姿を子供たちがその目で見ることができるなら』と。大人たちがどのようにそれを受け取り、口に入れ、味わうのかを見て、するとそばに座っている子供たちがモジモジし、やがて興味津々で、けれども周囲をはばかって小声で質問しはじめます。「ねえねえ、お母さん。この食事はなんだろう。いつもはマーガリンやジャムを塗ったパンを食べるのに、ご飯やうどんの時もあるのに、それなのに今日は何も塗らない、小さく切り分けたパンだね。みそ汁じゃなくて、今日は、その小さな杯だね。どんな味。どういう意味?」(出エジプト12:26参照)。そのとき親や教師たちは、子供たちの問いかけに何と答えましょう。何を、どう伝えてあげることができるでしょう。――これが、伝統的な信仰教育の発想でありつづけます。
  聖晩餐は主イエスの最後の晩餐を再現し、そのパンと杯とは主イエスの十字架の死をわたしたちの体と魂に深々と刻みつけます。主は仰いました、「取って食べよ、これはわたしのからだである。みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(26-28)。そのパンと杯のうちに、自分たちを『神のもの』とさせる根源の生命を私たちは見出します。「わたしは、あなたの罪を贖うために十字架を負ったのだ」。この言葉が聖餐式の中に込められます。小さな杯に注がれた赤い飲み物と、小さなひと切れのパン。それが自分の手元にまで差し出されるとき、十字架のゆるしが確実にこの自分にまで差し出され、届けられた。そのことを、確信してよいのです。29節をご覧ください。「あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。神の国が、神ご自身がご支配なさり、生きて働いてくださる神の現実が、差し迫って近づいています。そのことを私たちは覚えさせられます。また同時に、主イエスの心をもこの言葉は告げます。ぶどうの実から作ったものを、今、弟子たちと共に飲んでいる。やがて、御父の国で共に新たに飲むことになる。やがてと願ってくださった主は、『今、弟子たちと飲み食いする』ことをも心から願ってくださいました。そのときそこでの晩餐を願った主は、そのパンと杯が指し示す苦しみと死をも「ぜひそうしたい」と、同じく心から願ってくださいました(ルカ22:15ではさらに「この過越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」)。ゲッセマネの園で「この杯を過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈られたとき、十字架の苦しみと死という杯の苦さは、掛け値なく、まったく真実でした。しかもなお、そのご自身の苦しみと死を、主イエスは心から願っておられた。私たち罪人らの救いのために、ぜひそうしたいと。
 どうして、十字架にかかって殺されなければならなかったのでしょう。イエスさまを大嫌いな悪い人たちの悪だくみにあって、それで殺されてしまった。それはある。けれどそれだけじゃなく、多くの、そして様々な形と種類の悩みや弱さや乏しさや惨めさを背負った人たちを救うためだったのです。それが、神さまの救いの計画でした。その神さまの計画を、主イエスは弟子たちに何度も何度も話して聞かせてきましたが、弟子たちは何だかあまりピンときません。いつまでも他人事のようで、その、いわゆる『罪人たち』の中に、この自分自身も入っていることが分からなかったし、受け入れることもできませんでした。「罪人。それは誰が、別の人たちのことを言っているんだろう」などと思っていました。12人の弟子たちの1人ユダのことも考え巡らせねばなりません。食事の途中で、イスカリオテのユダは、いつのまにかこっそりと席を離れて抜け出していきました。「特にあなたがたに向かってははっきり言っておく。あなたがたのうちの1人が私を裏切ろうとしている」(21)と主イエスが仰ったからです。その場に居た誰も彼もが心を痛めて、「まさか私?」「私のことでしょうか」「お前だろう」「いいや、お前こそ」などと口々に言い出し、やがてユダが気まずそうに立ち去っていきました。皆はほっと安心して、「ああ良かった。やっぱりあいつだったのか」などと胸を撫で下ろしました。「なあんだ、ユダのことだったのか」と彼らが安心したとき、災いが過越していっただけでなく、そうやって神さまからの恵みも、その人たちの前をス~ッと通り過ぎていきました。あまりに気前の良い神さまだったのです。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される神でした(ヨナ4:2,出エジプト記34:6,86:5,15,ヨエル2:13-14,民数記14:18,ミカ7:18,エレミヤ26:13)。何度も何度も何度も、思い直していただきつづけた私たちです。恵みと憐れみとを現にたしかに受け取り、ゆるされつづけてきた私たちです。それは他の誰のことでもなく、この私自身のことでした。ユダと他の弟子たちとは、またここにいる私たち一人一人もまた、ほぼ同罪です。同じくつまずき、同じく心を惑わせ、同じように何度も何度も主に従い切れませんでした。ユダとなんの変りもない、50100歩の私たちです。イスカリオテのユダは思っていました。「罪人を憐れんでゆるし、救う? 誰か他の人たちのことだろう」と。だって私は、と。私はまあまあ良い、ごく普通の人間だ。しかも、主イエスといっしょに食事の席につき、同じ鉢から食べ物を食べ、いっしょに祈り、主イエスの話を聞きつづけている。ただ話を聞いているだけじゃなく、教会と皆のために骨惜しみをせず精一杯に立ち働いてもいる。役割も責任も、ほかの人以上にちゃんと果たしている。だから当然、ごくごく自然に神の国に入れてもらえるだろうなどと思っていました。だから、エルサレムの都に来る旅の途中で、「わたしは罪人を救うために十字架にかけられて殺されて、墓に葬られて、その3日目に復活しなければならない」(マタイ16:21-28,17:22-23,20:17-19)と主イエスが何度も何度も仰っていましたけれど、正直言って、あまりピンと来ませんでした。なぜユダが滅ぼされ、なぜ、私たちが恵みと憐れみのうちに留め置かれたのでしょうか? 私たちには分かりませんし、他誰にも分かりません。ただ神さまだけがご存知です。恐ろしいことですけれど、また、こう考えることもできるでしょう。神がユダを滅ぼしたのではなく、ユダ自身が、自分で自分の始末をつけ(マタイ27:4参照)、自分で自分を攻め滅ぼしたのだと。どうしたわけか、いつの頃からか、あの彼はこの信仰の肝心要の中心点がすっかり分からなくなっていました。誰かから、何か間違ったことを教えられ、うっかり鵜呑みにしてしまったのかも知れません。とくに、救いと滅びについて。誰がどのようにして救われるのか。どのようにして、その救いからこぼれ落ちてゆくのか。また、神さまの憐れみについて。『救われるに値しない者たちが、けれどなお神さまの憐れみを受け、その憐れみによってこそ救われる』ということを。どうしたわけか、ある人々は、すっかり分からなくなりました。自分自身の祈りや信仰心で、自分の努力と甲斐性とで救われた。自分の誠実さと責任感と働きとで救われた。つまりは自分で自分を救ってきた、などとうぬぼれて。あるいは逆に、私の祈りや信仰心や働きは全然足りない。だから、神さまから愛してもらえず、救われるに値しないなどと。罪人であり、ゆるされて救われるほかない憐れな兄弟姉妹たち。もちろん私自身もまったく同じですが、このうぬぼれと卑屈は同じ穴のムジナです。だって自分自身やまわりにいる人間たちのことばかり考え、ウジウジと思い煩って、神さまのことをほんの少しも考えてはいない。だからこそついには、救い主に失望し、社会やその場その場の空気や家族や親しい仲間たちに失望し、あげくのはてには自分自身にさえ失望せざるをえませんでした。こんな私では、あんな彼らではと。イスカリオテのユダはついには自分で自分を見放し、自分を見捨ててしまいました。自分で自分の始末をしました(マタイ27:3-10,使徒1:18-19)。なんと痛ましいことでしょう。なんと惨めで虚しいことでしょう。けれどなお主ご自身は、私たちを見放すことも見捨てることもなさらなかった。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを、あなたがたのためにすると。聖書は証言します;「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう」(コリント手紙(1)4:3-5)。もちろんパウロも誰も彼もが皆、この私自身も、やましい所は山ほどあります。誰かから裁かれても、ちょっと批判されても陰口きかれても、簡単にへこたれてしまいます。他の誰も何も文句を言わなくたって、自分で自分にガッカリして呆れ返ってしまうことも度々です。もし口に出そうとするなら、互いに不平や不満を山ほど抱え、注文も要求も苦情も互いに山ほど突きつけ合いたくなりますね。それはそうです。けれど何回か深呼吸をして、心を鎮めましょう。私たちはクリスチャンです。ゆるされた罪人。ゆるされてなお、まだまだ罪深さと、ふつつかさいたらなさを山ほど抱える者同士だからです。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを受け続けている私たちだからです。そうでしたね。憐れみを受け、ゆるされて、私たちはまるで何一つも罪を犯さなかったもののように取り扱われています(ハイデルベルグ信仰問答,問601563)。その神のなさりように、ただただ驚くばかりです。ただただ、感謝があふれるばかりです。それは、この私のことであり、他でもない、あなた自身のことでした。だからこそ、「特にあなたがたに向かっては、はっきり言っておく」(21)と主イエスは仰ったのです。あの弟子たちと、ここにいるこの私たちに向かって。この私たちのためにさえも。なんということでしょう。それで、あの食事を用意しました。弟子たちにも、ここにいるこの私たちにもよくよく分かってもらおうとして、あのむごたらしい十字架の死を、天の父と救い主イエス・キリストは用意してくださいました。パンをちぎり分けながら、主イエスは「こうやってわたしの体も、十字架の上でちぎり分けられる。誰かから無理矢理にではなく、自分で自分の体をあなたに手渡す。だから取って食べなさい。このように私も私の体をあなたを救うために与える」「この杯の赤い飲み物のように、十字架の上で私の血も流される。あなたと神さまとの新しい契約として、わたしの命をあなたに与える。こうやって、わたしはあなたの救いを保証する。このわたしが太鼓判を押す」と。主イエスが十字架にかかって殺されてしまうその前の晩の食事です。しかも主イエスは、「わたしはぜひ十字架にかかって殺されたい」と心から願ってくださったのです。弟子たちといっしょにその食事をぜひにと願った主は、同じくまったく、『わたしたちを救うためにご自分で苦しみを受ける』ことをも心から願っておられました。ぜひ、私はそうしたいと。

              ◇

 最後に、もう1つ質問。『いったい誰がクリスチャンになって、そのパンと杯を貰えるのでしょう』。……誰でも皆です。もし、その人自身がぜひそうしたいと願うならば。へそまがりで怒りんぼうでカンシャク持ちの人も、意固地な人も、自分勝手でわがままな人も。臆病な人も、すぐにいじけたり僻んだりする心の弱い人たちも。こう語りかけられます。「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒2:38-39)。なぜ。どうしてですか? あなたを大切に思う救い主イエスが、「あなたを、なんとかして救ってあげたい」と心から願ってくださっておられるからです。そういう救い主であり、そういう神さまだからです。主イエスを信じるだけで、ただただ恵みによって救われるからです。