2018年3月5日月曜日

3/4「まさか、私では?」マタイ26:20-25

               みことば/2018,3,4(受難節第3主日の礼拝)  152
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:20-25                 日本キリスト教会 上田教会
『まさか、私のこと?』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。22 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。23 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。25 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
                                                  (マタイ福音書 26:20-25)
                                               


 救い主イエスは十字架にかけられ、あざけり笑われ、はずかしめられ、惨めに殺されなければなりませんでした。今日も、このことをお話しましょう。「どうしてだろう。何のことだろうか」と、あの弟子たちは考えつづけました。私たちも考え巡らせつづけます。だってね、イエスさまは神さまなんですよ。神さまが、自分で自分の命をあんな惨めでひどい仕方で差し出さなければならなかった。しかも、「私はぜひそうしたい」と心から願って、決心して、自分から進んで十字架についてくださったのですから。もし良い人間や正しい優秀な人間や心の優しい人間たちを救って神の国に入れてあげるのなら、それは簡単でした。しかも、もしそうであるなら、誰かに「良かったねえ」と声をかけられても、救われたその人たちは「別にィ。だって、自分の努力や気立ての良さで救われた。むしろ自分で自分を救った」などと知らんぷりです。でも神さまは、そういう人たちではなく、とてもとても悪い人や弱々しい人や、ちっぽけでフラフラしてて、なんだかパッとしない人たちをさえもぜひ救ってあげたかったのです。うぬぼれたりいじけたり拗ねたり尻込みしたりしてしまう人や、意地悪で自分勝手な人たちも、ちゃんと救ってあげたかったのです。え、誰のことを言っているのでしょう? 「だれか他の人たちのことだろう」と、あのユダも、あのペトロも思っていました。私はまあまあ良い普通の人間だ。しかも、主イエスといっしょに食事の席につき、同じ鉢から食べ物を食べ、いっしょに祈り、主イエスの話を聞きつづけている。ただ話を聞いているだけじゃなく、教会と皆のために骨惜しみをせず精一杯に立ち働いてもいる。役割も責任も、ほかの人以上にちゃんと果たしている。だから当然、ごくごく自然に神の国に入れてもらえるだろうなどと。だから、エルサレムの都に来る旅の途中で、「わたしは罪人を救うために十字架にかけられて殺されて、墓に葬られて、その3日目に復活しなければならない。そうすることに、そもそもの最初から決めてある」(マタイ16:21-28,17:22-23,20:17-19参照)と主イエスが何度も何度も仰っていましたけれど、正直言って、あまりピンと来ませんでした。
  それでも、その恐ろしい十字架の出来事がすぐ近くに迫って来ていることは、弟子たちも薄々気づいていました。エルサレムの都に入ってからは、自分たちを見るときの周りの人たちの様子や目つきも、これまでとはだいぶん違ってきていました。もうすぐ恐ろしいことが起こる。それは、何度も言われてきたあのことかと。21節です。食事の席で、弟子たち皆の前で、主イエスは仰いました。「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」。心が、とても痛くなりました。だって、それまでは、「神さまがそんなにまでして救おうとなさっているひどい罪人って、誰か他の、どうしようもないクズ共のことだろう」と他人事のような気分だったのですから。あなたは、どう思っていましたか? あなたは?「まさか私。私のことですか?」と弟子たちは口々に、代わる代わる言い始めました(22)25節。イエスを裏切ろうとしていたユダも「先生、まさか私ではないでしょう」。主イエスは「いや、あなただ」。食事の間にユダは、気まずそうな顔をして、そっと離れていきました。
 イエスさまが仰った一言を聞き、嫌な顔をして出ていくユダの姿を見た弟子たちの何人かは、ほっと安心して胸を撫で下ろしたかも知れませんね。「ああ良かった。あいつが犯人だったのか。前からおかしいと思ってたんだ。そうか、やっぱりなあ」って。そしてまた、今までどおりに思い始めました。「罪人を救う。ゆるされる必要のある罪人? だれか他の人たちのことだろう。だって私は良い人間だし、ちゃんとやっているし、人に意地悪をしたこともないし警察に捕まったこともない。案外親切だし、だからまるで当たり前のように、ごく普通に簡単に神の国に入れてもらえるだろう」と。主イエスの弟子たちのことをクリスチャンと言うのでしたね。今でも、そのクリスチャンたちの中のかなり沢山の人たちは、あの食事の席の弟子たちのように、自分は正しい人間だとうっかり思い込んで他人を見下しながら勘違いをし続けています。神殿で「感謝します、感謝します」と澄ました顔をして祈っていた、あのとても悪いパリサイ人のように(ルカ18:9-14参照)。いつもの礼拝の中で、「主イエスの十字架の死と復活」、また「彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって私たちは癒された」(イザヤ53:4-5)と何度も何度も聞いていても、なんだか他人事みたいで、あんまりピンと来ません。罪人を救うだって。ふうん、別にィと。
 初めてこの箇所を読んだとき、いきなり頭をぶん殴られたようでした。教会に来はじめたばかりの若い頃でした。この牧師はいったいどんな説教をするのか聞いてやろう、と思っていました。小さな評論家にでもなったような、どこか生意気で偉そうな気分でした。その伝道者に対してだけでなく、なにより神さまに対してとても失礼で、思い上がった気分で。けれど突然に、「わたしを裏切る者がこの中に」と主イエスが弟子たちの前で仰いました。そこで初めて心が痛み、「まさか、私のことでは」(22)と。ご存知でしょうか。主に従い切れず、つまずいたのは、ユダだけではありません。あのペトロと弟子たちばかりではありません。どんな時代においても、どんな社会にあっても、大人も子供たちも誰でも、「まさか、それは私のことでは」と疑い、「他の誰のことでもなく、まさしく自分のことだ」と気づかねばなりません。いつの間にか分かったような偉そうな気分になっていたこの自分自身も、嫌々渋々と、まな板の上に載せられます。それが、この箇所を読むためのクリスチャンの出発点であるでしょう。なぜなら救い主イエス・キリストは、2000年前のあの弟子たちを救われただけではなく、彼らとともに、今ここにいる私たち一人一人をも救い出してくださるからです。
  救い主イエスの十字架の出来事は、『第2の過越』と大切に呼び慣わされてきました。およそ3500年ほど前にエジプトでなされた1回目の過越があり、ここに第2回目の過越しがなされていると。過越の祭りに集う者たちの根本の心得が、ずっと昔から今日に至るまで教えられつづけています;「いかなる世においても、誰でも自分自身がエジプトから神さまによって連れ出していただいた者のように思わなければならない」と。ですから、この祭りに集う私たちも自分の子供たちにこう告げなければなりません。『エジプトから出るときに、主が私たちにしてくださったことのために、こうして私たちは主の祭りを祝っている。聖なる者にして誉むべきお方は、私たちの先祖を救い出されただけでなく、彼らとともに私たちをもお救いくださったんだよ。私たちをそこから導き出し、かつて私たちの先祖に誓われた地に入らせ、そこを私たちに贈り与えてくださった』(「過越祭のハガダー」山本書店,p24と。
 信仰教育のことです。ある人々は言います、「子供たち本人の自由だ。押しつけたり、無理強いしてはならない」等と。たしかに一理あるかのように見えます。けれど例えば、自分の大切な子供たちが喜ばしく生きてゆけるために、どんな親でもその子のために善かれと願って、精一杯に『教育』を手渡します。差し出しつづけます。たとえ迷惑そうな嫌な顔をされても、はいどうぞと。茶碗と箸の持ち方を教えるようにしてです。「なんでも好き放題ではない。して良いことと悪いこともある。あなたはちゃんと弁えなさい」と本気になって自分の子供たちを諭しもします。もちろん強制は出来ない。けれど、自由だ自由だ自己責任だ本人の意思だなどと放ったらかしにもしない。やがていつか自分で判断して選び取ることができるようにと、その日に備えて、茶碗や箸のもち方や道路の渡り方や挨拶の仕方などと共に、神を信じて生きるための信仰の判断材料をも精一杯に差し出します。だって、その子が愛おしいので。とてもとても大切に思っていますので。なにしろ、私たちはその子供たちの親ですから。「親の背中を見て子供は育つ。だから私は無理矢理に押しつけたりしないで、自然にごく普通に、背中を見せていますから」などと言う親のいます。ふうん。でもまさか、いつもいつも背中だけ見せているわけじゃないでしょうね。それじゃあ淋しすぎる。背中といっしょにお腹も見せて、横顔も正面を向いた真剣な顔も見せて、口から出る言葉でも何気ない態度や仕草をもってでも、自分が何をどう思って毎日暮らしているのかを、精一杯に見せてやりたい。この自分自身の良い所も悪い所も、長所も欠点も強さも弱さも。素敵な良い所も、また恥ずかしい情けない姿も。そうやって子供たちは育っていくでしょう。なにしろ私たちは子供の親です。「あなたがたの中で罪のない者が、まず、この女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ福音書8:7)と主イエスから告げられたとき、これを聞くと彼らは年寄りから始めて、1人また1人とその場から立ち去っていきました。「あっ、この私自身は」と気づくことが年長の者から始まって、若い世代へと手渡されていったのです。7080代の者たちが罪人である自分を痛感し、恥じ入り、その姿を見て、405060代の壮年の者たちも自分自身の身勝手さや了見の狭さを恥じることをし始めました。「じゃあ、あなたはどうなのか」という主イエスの問いかけは年下の者らへと次々に手渡され、若い父親たち母親たちへ、高校生中学生たちへ、さらに小さな子供たちの魂へと迫ってもいくでしょう。しかもその子供たちの目の前には、わたしたちクリスチャンである親がいます。主イエスのパンと杯の前に据え置かれた、ゆるされた罪人である父さん母さんが。

  さて、あの弟子たちと主イエスの食事の場面。とても残念でした。「なんだ、ユダのことだったのか。やっぱりなあ」と彼らが安心したとき、災いが過ぎ越していっただけでなく、そうやって神さまからの恵みも祝福も、その人たちの前をス~ッと素通りしていきました。
 自分独りで聖書のどこかのページを開いているとき、あるいはいつかの礼拝の帰り道で、「この箇所のこの言葉。いったい誰のことを言っているんだろう」と、不意に心に疑いが湧き起こります。淋しい道を通っていく馬車の中の、あのエチオピア人の宦官のように。「罪を犯したことのない人間がまず、この女に石を投げつけなさい」と語りかけられた群衆のように。あるいは食事の席の、あの弟子たちのようにして(使徒行伝8:34,ヨハネ福音書8:7,マタイ福音書26:22)「まさかこの私のこと?」と心を痛めたとき、そのときその1人の人は、救い主を信じるための入り口まで差し掛かっています。あと、ほんのもう1歩です。兄弟たち。「親切で良い人間だから」と、愛したり救ったりなさる神だろうと思っていましたか。「仕事のよくできる、役に立つ、世間様からの評判も良い人間だから」と神さまが自分を招いてくださったと思っていましたか。いいえ、とんでもありません。ずいぶん違う神さまです。あまりに気前の良い神さまだったのです。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される神でありつづけます(ヨナ4:2,出エジプト記34:6,86:5,15,ヨエル2:13-14,民数記14:18,ミカ7:18,エレミヤ26:13。何度も何度も何度も、思い直していただきつづけた私たちです。恵みと憐れみとを現にたしかに受け取り、ゆるされつづけてきた私たちです。それは他の誰のことでもなく、この私自身のことでした。ユダと他の弟子たちとは、またここにいる私たちもまた、ほぼ同罪です。同じく心を惑わせ、同じように何度も何度もこの福音の本質が神の憐れみにあることを見失いました。けれどなお主なる神さまは、私たちを見放すことも見捨てることもなさらなかった。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを、あなたがたのためにすると。憐れみを受け、ゆるされて、私たちはまるで何一つも罪を犯さなかったもののように取り扱われています(「わたしが罪を何一つも犯したことがないかのように」ハイデルベルグ信仰問答 問601563年)。その神のなさりように、ただただ驚くばかりです。ただただ、感謝があふれるばかりです。それは、この私のことであり、他でもない、あなた自身のことでした。だからこそ、「特にあなたがたに向かっては、はっきり言っておく」(21)と主イエスは仰ったのです。あの弟子たちと、ここにいるこの私たちに向かって。この私たちのためにさえも。なんということでしょう。意固地でひどく自分勝手な人たちも、救ってあげたい。よく気のつく働き者も、あまりそうではないうっかりした人も、同じく救ってあげたかったのです。心の優しい人も、なんとなくついつい意地悪をして人に冷たく当たってしまう人にも、分け隔てせず、同じように恵みを分け与えてあげたかったのです。ぜひ、なんとしてでも救ってあげたい。胸を張って晴々としている人たちだけでなく、「どうせボクなんか」「別にィ」とたそがれたりイジケたりしている人たちをも同じく、いいえむしろそのような人たちをこそ、ちゃんと救ってあげたい。顔を上げさせ、背筋をピンと張り、晴々として日々を生きさせてあげたい。主なる神さまはそういう神だったのです。私たちは、そのように取り扱われつづけています。ただ恵みによって。ただただ憐れみとゆるしによってこそ。
そうそう、あなたのこともね。あなたのことも。なにしろ、そのあなたをとても大切に思っている。だからこそ、あなたを救って神の子とするための、あの十字架の苦しみと死がありました。