2018年3月13日火曜日

3/11「私の体、私の血である」マタイ26:26-30


 ◎とりなしの祈り  ~311日を覚える祈り~

 主なる神さま。あなたが恵み深く、憐れみあり、怒ること遅く、慈しみ豊かであられることを私たちは知らされ、また自分自身のこととして習い覚えさせられてきました。心から感謝をいたします。
  あの東日本震災と福島第一原子力発電所の恐ろしい事故から7年の年月が過ぎ去りました。311日だけではなく、いつもいつも、あの日から今日にいたるまで今なお続いている大きな苦難を思い起こさせてください。その苦難と痛みの只中に置き去りにされようとするおびただしい数の人々がいるからです。ほんのわずかな人々がぜいたくで快適な暮らしを楽しんでいる一方で、多くの人々が毎日の暮らしや食事にも困るような貧しさにあえいでいます。生きるための基本的な権利をその人たちが、また他のどの人々も奪い取られませんように、どうか助けてください。しかも私たちは、しばしば気づかないフリをしています。自分自身と家族のことばかりに目を向け、その人々の心細く惨めな暮らしに、その悩みと苦しみに、目も心も塞いでいます。自分自身のように隣人を愛し、思いやり、尊び、それゆえ貧しくされ、惨めにされ、身を屈めさせられたその隣人たちに慈しみの手を差し伸べる私たちとならせてください。私たちはしばしば思うべき限度を超えて思い上がり、あまりに傲慢にふるまいました。まるで自分自身が主人や王様であるかのように。神さま、申し訳ありません。神がお造りになった、神ご自身の世界であり、神さまのものである私たちの一日ずつの生命であることを、ですから、この私たちにも深く魂に刻ませてください。あなたに信頼と感謝を十分に寄せ、心を尽くし精神をつくし力をつくしてただあなたにこそ聴き従い、そのようにして互いに慎みあい、尊び合って生きることができますように。主よ、どうか私たちを憐れんでください。救い主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


         みことば/2018,3,11(受難節第4主日の礼拝)  153
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:26-30             日本キリスト教会 上田教会
『私の体、私の血である』
 
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。           (マタイ福音書 26:26-30)
                                               
 








 十字架におかかりになる前の晩に、主イエスは弟子たちといっしょに特別な食事をしました。彼らは今までもずっと一緒にご飯を食べてきました。でも、この1回の食事は、今までのいつもの食事とはちょっと違います。格別においしいご馳走が出たってわけじゃない。パンと、ぶどうの実から作った飲み物だけの、ごくつつましい、あまりに質素な食事です。どうぞ思い浮かべてみてください。『もし、この礼拝の只中で聖晩餐が執行され、そのパンと杯にあずかる大人たちの姿を子供たちがその目で見ることができるなら』と。大人たちがどのようにそれを受け取り、口に入れ、味わうのかを見て、するとそばに座っている子供たちがモジモジし、やがて興味津々で、けれども周囲をはばかって小声で質問しはじめます。「ねえねえ、お母さん。この食事はなんだろう。いつもはマーガリンやジャムを塗ったパンを食べるのに、ご飯やうどんの時もあるのに、それなのに今日は何も塗らない、小さく切り分けたパンだね。みそ汁じゃなくて、今日は、その小さな杯だね。どんな味。どういう意味?」(出エジプト12:26参照)。そのとき親や教師たちは、子供たちの問いかけに何と答えましょう。何を、どう伝えてあげることができるでしょう。――これが、伝統的な信仰教育の発想でありつづけます。
  聖晩餐は主イエスの最後の晩餐を再現し、そのパンと杯とは主イエスの十字架の死をわたしたちの体と魂に深々と刻みつけます。主は仰いました、「取って食べよ、これはわたしのからだである。みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(26-28)。そのパンと杯のうちに、自分たちを『神のもの』とさせる根源の生命を私たちは見出します。「わたしは、あなたの罪を贖うために十字架を負ったのだ」。この言葉が聖餐式の中に込められます。小さな杯に注がれた赤い飲み物と、小さなひと切れのパン。それが自分の手元にまで差し出されるとき、十字架のゆるしが確実にこの自分にまで差し出され、届けられた。そのことを、確信してよいのです。29節をご覧ください。「あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。神の国が、神ご自身がご支配なさり、生きて働いてくださる神の現実が、差し迫って近づいています。そのことを私たちは覚えさせられます。また同時に、主イエスの心をもこの言葉は告げます。ぶどうの実から作ったものを、今、弟子たちと共に飲んでいる。やがて、御父の国で共に新たに飲むことになる。やがてと願ってくださった主は、『今、弟子たちと飲み食いする』ことをも心から願ってくださいました。そのときそこでの晩餐を願った主は、そのパンと杯が指し示す苦しみと死をも「ぜひそうしたい」と、同じく心から願ってくださいました(ルカ22:15ではさらに「この過越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」)。ゲッセマネの園で「この杯を過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈られたとき、十字架の苦しみと死という杯の苦さは、掛け値なく、まったく真実でした。しかもなお、そのご自身の苦しみと死を、主イエスは心から願っておられた。私たち罪人らの救いのために、ぜひそうしたいと。
 どうして、十字架にかかって殺されなければならなかったのでしょう。イエスさまを大嫌いな悪い人たちの悪だくみにあって、それで殺されてしまった。それはある。けれどそれだけじゃなく、多くの、そして様々な形と種類の悩みや弱さや乏しさや惨めさを背負った人たちを救うためだったのです。それが、神さまの救いの計画でした。その神さまの計画を、主イエスは弟子たちに何度も何度も話して聞かせてきましたが、弟子たちは何だかあまりピンときません。いつまでも他人事のようで、その、いわゆる『罪人たち』の中に、この自分自身も入っていることが分からなかったし、受け入れることもできませんでした。「罪人。それは誰が、別の人たちのことを言っているんだろう」などと思っていました。12人の弟子たちの1人ユダのことも考え巡らせねばなりません。食事の途中で、イスカリオテのユダは、いつのまにかこっそりと席を離れて抜け出していきました。「特にあなたがたに向かってははっきり言っておく。あなたがたのうちの1人が私を裏切ろうとしている」(21)と主イエスが仰ったからです。その場に居た誰も彼もが心を痛めて、「まさか私?」「私のことでしょうか」「お前だろう」「いいや、お前こそ」などと口々に言い出し、やがてユダが気まずそうに立ち去っていきました。皆はほっと安心して、「ああ良かった。やっぱりあいつだったのか」などと胸を撫で下ろしました。「なあんだ、ユダのことだったのか」と彼らが安心したとき、災いが過越していっただけでなく、そうやって神さまからの恵みも、その人たちの前をス~ッと通り過ぎていきました。あまりに気前の良い神さまだったのです。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される神でした(ヨナ4:2,出エジプト記34:6,86:5,15,ヨエル2:13-14,民数記14:18,ミカ7:18,エレミヤ26:13)。何度も何度も何度も、思い直していただきつづけた私たちです。恵みと憐れみとを現にたしかに受け取り、ゆるされつづけてきた私たちです。それは他の誰のことでもなく、この私自身のことでした。ユダと他の弟子たちとは、またここにいる私たち一人一人もまた、ほぼ同罪です。同じくつまずき、同じく心を惑わせ、同じように何度も何度も主に従い切れませんでした。ユダとなんの変りもない、50100歩の私たちです。イスカリオテのユダは思っていました。「罪人を憐れんでゆるし、救う? 誰か他の人たちのことだろう」と。だって私は、と。私はまあまあ良い、ごく普通の人間だ。しかも、主イエスといっしょに食事の席につき、同じ鉢から食べ物を食べ、いっしょに祈り、主イエスの話を聞きつづけている。ただ話を聞いているだけじゃなく、教会と皆のために骨惜しみをせず精一杯に立ち働いてもいる。役割も責任も、ほかの人以上にちゃんと果たしている。だから当然、ごくごく自然に神の国に入れてもらえるだろうなどと思っていました。だから、エルサレムの都に来る旅の途中で、「わたしは罪人を救うために十字架にかけられて殺されて、墓に葬られて、その3日目に復活しなければならない」(マタイ16:21-28,17:22-23,20:17-19)と主イエスが何度も何度も仰っていましたけれど、正直言って、あまりピンと来ませんでした。なぜユダが滅ぼされ、なぜ、私たちが恵みと憐れみのうちに留め置かれたのでしょうか? 私たちには分かりませんし、他誰にも分かりません。ただ神さまだけがご存知です。恐ろしいことですけれど、また、こう考えることもできるでしょう。神がユダを滅ぼしたのではなく、ユダ自身が、自分で自分の始末をつけ(マタイ27:4参照)、自分で自分を攻め滅ぼしたのだと。どうしたわけか、いつの頃からか、あの彼はこの信仰の肝心要の中心点がすっかり分からなくなっていました。誰かから、何か間違ったことを教えられ、うっかり鵜呑みにしてしまったのかも知れません。とくに、救いと滅びについて。誰がどのようにして救われるのか。どのようにして、その救いからこぼれ落ちてゆくのか。また、神さまの憐れみについて。『救われるに値しない者たちが、けれどなお神さまの憐れみを受け、その憐れみによってこそ救われる』ということを。どうしたわけか、ある人々は、すっかり分からなくなりました。自分自身の祈りや信仰心で、自分の努力と甲斐性とで救われた。自分の誠実さと責任感と働きとで救われた。つまりは自分で自分を救ってきた、などとうぬぼれて。あるいは逆に、私の祈りや信仰心や働きは全然足りない。だから、神さまから愛してもらえず、救われるに値しないなどと。罪人であり、ゆるされて救われるほかない憐れな兄弟姉妹たち。もちろん私自身もまったく同じですが、このうぬぼれと卑屈は同じ穴のムジナです。だって自分自身やまわりにいる人間たちのことばかり考え、ウジウジと思い煩って、神さまのことをほんの少しも考えてはいない。だからこそついには、救い主に失望し、社会やその場その場の空気や家族や親しい仲間たちに失望し、あげくのはてには自分自身にさえ失望せざるをえませんでした。こんな私では、あんな彼らではと。イスカリオテのユダはついには自分で自分を見放し、自分を見捨ててしまいました。自分で自分の始末をしました(マタイ27:3-10,使徒1:18-19)。なんと痛ましいことでしょう。なんと惨めで虚しいことでしょう。けれどなお主ご自身は、私たちを見放すことも見捨てることもなさらなかった。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを、あなたがたのためにすると。聖書は証言します;「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう」(コリント手紙(1)4:3-5)。もちろんパウロも誰も彼もが皆、この私自身も、やましい所は山ほどあります。誰かから裁かれても、ちょっと批判されても陰口きかれても、簡単にへこたれてしまいます。他の誰も何も文句を言わなくたって、自分で自分にガッカリして呆れ返ってしまうことも度々です。もし口に出そうとするなら、互いに不平や不満を山ほど抱え、注文も要求も苦情も互いに山ほど突きつけ合いたくなりますね。それはそうです。けれど何回か深呼吸をして、心を鎮めましょう。私たちはクリスチャンです。ゆるされた罪人。ゆるされてなお、まだまだ罪深さと、ふつつかさいたらなさを山ほど抱える者同士だからです。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う取り扱いを受け続けている私たちだからです。そうでしたね。憐れみを受け、ゆるされて、私たちはまるで何一つも罪を犯さなかったもののように取り扱われています(ハイデルベルグ信仰問答,問601563)。その神のなさりように、ただただ驚くばかりです。ただただ、感謝があふれるばかりです。それは、この私のことであり、他でもない、あなた自身のことでした。だからこそ、「特にあなたがたに向かっては、はっきり言っておく」(21)と主イエスは仰ったのです。あの弟子たちと、ここにいるこの私たちに向かって。この私たちのためにさえも。なんということでしょう。それで、あの食事を用意しました。弟子たちにも、ここにいるこの私たちにもよくよく分かってもらおうとして、あのむごたらしい十字架の死を、天の父と救い主イエス・キリストは用意してくださいました。パンをちぎり分けながら、主イエスは「こうやってわたしの体も、十字架の上でちぎり分けられる。誰かから無理矢理にではなく、自分で自分の体をあなたに手渡す。だから取って食べなさい。このように私も私の体をあなたを救うために与える」「この杯の赤い飲み物のように、十字架の上で私の血も流される。あなたと神さまとの新しい契約として、わたしの命をあなたに与える。こうやって、わたしはあなたの救いを保証する。このわたしが太鼓判を押す」と。主イエスが十字架にかかって殺されてしまうその前の晩の食事です。しかも主イエスは、「わたしはぜひ十字架にかかって殺されたい」と心から願ってくださったのです。弟子たちといっしょにその食事をぜひにと願った主は、同じくまったく、『わたしたちを救うためにご自分で苦しみを受ける』ことをも心から願っておられました。ぜひ、私はそうしたいと。

              ◇

 最後に、もう1つ質問。『いったい誰がクリスチャンになって、そのパンと杯を貰えるのでしょう』。……誰でも皆です。もし、その人自身がぜひそうしたいと願うならば。へそまがりで怒りんぼうでカンシャク持ちの人も、意固地な人も、自分勝手でわがままな人も。臆病な人も、すぐにいじけたり僻んだりする心の弱い人たちも。こう語りかけられます。「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒2:38-39)。なぜ。どうしてですか? あなたを大切に思う救い主イエスが、「あなたを、なんとかして救ってあげたい」と心から願ってくださっておられるからです。そういう救い主であり、そういう神さまだからです。主イエスを信じるだけで、ただただ恵みによって救われるからです。