2015年12月28日月曜日

12/27こども説教「神さまを信じられないという病気」ルカ1:5-25

 12/27 こども説教 ルカ1:5-25
  『神さまを信じられないという病気』

1:13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。18 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。                (ルカ1:13-18)

 このザカリヤとエリサベツという年寄り夫婦は、やがてもうすぐ洗礼者ヨハネの父さん母さんになります。大切な働きをするその赤ちゃんが生まれるための準備を、とくに親たちのために、神さまを本気で信じて生きるお父さんお母さんになるための準備を 神さまご自身がなさいます。6-7節を見てください。「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた」。ふたりとも神のみまえに正しい人で、主の戒めと定めとをみな落度なく行っていた、といいます。けれど、その正しさには足りない所がありました。また、主の戒めと定めとをみな落度なく行っていたとしても、それでも、神さまを信じて幸いに生きて死ぬためにはまだまだ十分ではなかったのです。ザカリヤは祭司でした。神殿で神さまに仕える働きをしていたとき、主の御使いが現れて言いました。13節「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」。で、18節。ザカリヤは御使いに返事をします「どうしてそんな事が私に分かるでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」。どうして分かるでしょう、と質問しているわけではありません。いいえ分かるはずがないじゃないか、と口答えして、御使いの言葉を跳ね除けようとしています。「だって、私はもうすっかりおじいさんだし、妻もおばあさんになってしまったんだから、そんなことがあるわけがない。決して信じられない」と()
 はじめに御使いは、「恐れるな」と言いました。そして、「あなたの祈りが聞き入れられた」と。するとザカリヤは、「いいや信じられない」と跳ね除けようとしました。ここが大事な点です。他の誰でもなくこの自分自身がずっと信じて祈っていたはずの大事な祈りを、どうして信じられなかったんでしょうね? 「神さま、私たち夫婦に子供を贈り与えてください」という祈りです。もし仮に、ずっと祈っていたのなら信じたはずです。つまり、その大事な祈りを最初のうちしばらくは祈っていましたが、そのうちに止めてしまいました。手を変え品を変え、次々と新しい別の祈りを祈っていたのかも知れません。誰でもそうですが、祈ることを止めてしまった後では、『願いをかなえていただけることも、神さまが生きて働いておられることも』、まったく信じられなくなりました。神さまが信じられなくなれば、その途端に、手当たりしだいに何でもかんでも恐ろしくなりました。これが、ことの真相です。20節を見てください。「信じなかったから、あなたは口がきけなくなる。物が言えなくなる」と御使いから言われ、その通りにされました。いいえ これは罰ではありません。『神さまを信じられないという病気』を治してあげるための、少~し苦い薬です。やがて赤ちゃんが生まれたとき、お父さんのザカリヤはもう一度、神さまを信じることができるようになります。口を開いたら、神さまへの信頼と感謝を本気で語ることができるようになります。願っている大事な1つの祈りを、同じく本気で30年でも40年でもずっと祈りつづけて、ずっと信じて待ち望みつづけて、神さまからよい贈り物を受け取りつづけて、それでようやく 嬉しく安心して生きることもできるようになります。ね、素敵でしょう。もし願うなら、この私たちだって、ザカリヤやマリアやアブラハム、サラ夫婦たちと同じことをしていただけます。神さまを本気で信じるあなたや私に、神さまこそが、ならせてくださいます。

      【割愛した部分の補足】
        ()『なかなか信じられない信仰者たち』;それは案外に多かった。ほかにもアブラハム、サラ夫婦、イサク、リベカ夫婦、士師ギデオン、イエスの母マリア、弟子のトマス、息子の病気を癒していただいた父親(創世記17:17-19,18:10-15,26:1-11,士師記6:15-40,ルカ福音書1:26-38,ヨハネ福音書20:24-29,マルコ福音書9:21-24)。金持ちの青年が主イエスを信じられずに立ち去っていった直後に見当違いなことを言い張るペテロに、「人間にはできないが、神にはできる」(マタイ福音書19:23-26)と主イエスが答弁なさいました。これが、この一連の難問に対する聖書からの唯一の答えです。これらの、なかなか信じられなかった人々に対しても、神さまご自身が苦い薬を与えて、信じる者へと新しく造り替えてくださいました。もちろん、疑い深い私たち自身も同じく取り扱っていただけます。







 ◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま。
あなたの御国がこの地上で、私たちが生きる生活の只中で実現し、着々と形作られ、あなたの御心こそが私たちの日々の暮らしや1つ1つの働きを通しましても成し遂げられていきますように。あなたにこそ全幅の信頼を寄せ、聴き従って生きる私たちであらせてください。さらにまた、あなたの御心を行うために立てられた、責任あるすべての者たちを正しく導いてください。国家とすべての政治家と官僚職員を、また裁判所裁判官と検察官と警察職員たちを正しく導いてください。社会福祉と医療と教育に携わるすべての職員たちと、子供の父親母親たちの働きを健全に保ってください。すべてのキリスト教会とクリスチャン一人一人をあなたのご委託とご命令にかなって働く忠実なしもべとなさせてください。主よ、私たちを憐れんでください。
  心細く暮らすすべての貧しい人々のために祈ります。心と体に痛みをもつ人々のために祈ります。あなたからの慰めと癒しをお与えください。その家族と友人たちを、あなたの慈しみの御手をもって心強くお支えください。また私たち自身の手と心をも、その彼らに向かって差し伸べさせてください。私たちを、主よどうか憐れんでください。主なる神さま、この私たちを世のための光、地上のための塩としてください。
そのためまず、私たち自身の祈りと生活とを整えさせてください。ただ口で祈るだけでなく心でも祈り、毎日の生活や行いや普段の在り方としても、祈るように生きることができますように。礼拝の中でも外でも、一人で祈る時にも仲間たちの間でも、その1つ1つの祈りをただ人間たちに向かってではなく、ただ人間たちに聴かせようとしてでもなく、あなたにこそ向けさせてください。ですから、願いが確かにかなえられたと分かるまで、同じ一つの大切な願いを30年でも40年でも同じひたむきさで願い求めつづける私共にならせてください。あなたに向かう祈りがそうでありますように、朝も昼も晩も、誰とどこにいても、自分自身や周囲の人間たちの心にかなうことなどではなく ただただあなたご自身の御心にかなうことをこそ願って生きる私たちとならせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。



   
  【祈りつつ日々を生きるための土台】

116 なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。
答 祈りは神が私たちからお求めになる感謝の最も重要な部分であり、
  また、神はその恵みと聖霊とを、心からのうめきをもって絶えずこれを請い求め、これに対して感謝する者たちにだけ贈り与えることにしておられるからです。

117 神に喜ばれ、聞き入れられる祈りであるためには、何が必要ですか。
答え 第一に、私たちがみ言葉のうちにご自身を私たちにあらわしてくださった、唯一のまことの神に向かってだけ、彼が私たちに求めるようにお命じになったすべてのものを心から請い求めることです。(145:18-20,ヨハネ4:22-24,ローマ8:26-27,ヤコブ1:5,ヨハネ(1)5:14-15)
  次に、私たちが自分自身の困窮と悲惨とを深く悟って、神の尊厳の前にへりくだることです。(歴代誌下7:14,2:11,34:18,62:8,イザヤ66:2)
  第三に、私たちが、神はみ言葉のうちに私たちに約束してくださったように、私たちがそれに値しないにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、私たちの祈りを確かに聞き入れようとしていてくださるという揺るぎない確信をもつことです。(ダニエル9:17-19,マタイ7:8,ヨハネ14:13-14,16:23,ローマ10:13,ヤコブ1:6)              (「ハイデルベルグ信仰問答」1563年)


12/27「御国を来らせてください」マタイ6:

                               みことば/2015,12,27(主日礼拝)  39
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:5-10                 日本キリスト教会 上田教会
『御国を来らせてください』~祈り.3

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 (マタイ福音書 6:5-10)



どう祈るかという問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。それは生き方と腹の据え方についての問いであり、祈りと信仰をもってこの私という一個の人間が、毎日の具体的な生活をどう生きることができるかという問いです。例えばあの夫と私が、あの息子や娘たちとこの私が、職場の同僚たちと私が、近所に住むあの人たちとこの私がどんなふうにして一緒に生きてゆくことができるのかという問いであったのです。いろいろな悩みや恐れやこだわりを抱えた、弱さや危うさを深く抱え持った私という人間が、どうやって心安く晴れ晴れとして日々を生きて生涯をまっとうすることができるのかという問いです。今までにはなかった新しい祈りが差し出され、まったく新しい生き方が、ここで私たちに差し出されています。「神さま。あなたの御名をあがめさせてください。あなたの御国をこの私の所へも来たらせてください」。心を鎮めて、目を凝らしましょう。
 聖書の神を信じる人々は、なにより神さまの御前に深く慎む人々でした。その慎みによって、直接にあからさまに神のことを言ったり指し示したりすることを差し控えて、しばしば遠回しな言い方をしました。ここでもそうです。「神の名前があがめられますように」。それは直ちに、ただ名前だけではなく、神ご自身が尊ばれ、信頼され、深く感謝されますように。他の誰彼がみんながという以前に、なによりまずこの私こそが神さまに信頼し、願い求め、感謝することもできますように、という願いです。「神の国が来ますように」。神の国、天の国。国が確かに国であり、神の王国が確かに名実共に神ご自身の王国である。その理由も実体も、まったくひたすらに国の王様にかかっています。王様がそこにいて、ただ形だけ名前だけいるのではなくて、そこで力を存分に発揮してご自身の領土を治めている。そこに住む住民一人一人の生活の全領域を、王様ご自身が心強く治めていてくださる。だから、王国はその王の王国となるのです。その領土に住む1人の住民の安全も幸いも、希望も慰めも支えも、すっかり全面的に、その国王の両肩にかかっている。――それが神の国の中身であり、実態です。神ご自身が尊ばれ、神こそが信頼され、感謝される。神ご自身が生きて働いてくださり、ご自身の恵みの出来事を持ち運んでいてくださる。そのことを「ぜひ何としても」と渇望して願い求めている者たちは、つまり、「今はあまりそうではない」と気づいています。あまりそうではない現実に心を痛め、「どうしてそうなんだろうか」と思い悩んでもいるのです。彼らは気づきはじめています。神ではない別のものが尊ばれ、別のものがあがめられたり恐れられたりしている。神ではない別のものが信頼され誉めたたえられたりしている。別のものが、まるで王様やボスのように大手を振ってのし歩いている世界に、この世界に、この私は生きていると。その只中で、私もまた神ではないモノ共に虚しく引きづられ、言いなりにされ、しばしば、この私自身さえもが目を眩まされ、心を深く惑わされている。なんということかと。
 クリスチャンのすべての生活とすべての領域は、つまり朝から晩まで、どこで何をしていても誰と一緒にいるときにも、『神中心の生活。神中心の腹の据え方』であり、それを願い求めて生きる悪戦苦闘です。その積み重ねです。それを願い求めながら、同時に他方で、そうではない在り方と腹の据え方が他でもない自分自身の中に色濃く残っていることに気づいてゆくことです。『自分中心。人間中心』の在り方と腹の据え方が、他でもないこの私の中にもある。こんなにも大きく、こんなにも根深くと。わたしがどう思い、どう考え、また周囲の人々がどう思い、どう考えるだろうかとどこまでもこだわり、どこまでも引きずられていきそうになる危うさに気づいて、それと戦い、それと格闘しつづけ、『神中心の腹の据え方』を少しずつ少しずつ取り戻してゆくことです。なんとかして、何としてでも。『悔い改める』という聖書独特の言葉もまた、ただ反省したり悪かったと思うことではありません。自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いつづけることから解き放たれて、その眼差しも思いもあり方も180度グルリと神へと向き直ることでした。なぜなら、「私たちがどう思い、どう考えるか」とそればかりを思い、そればかりにこだわりつづけるのは、淋しい生き方であるからです。「周囲の人々が私をどう思うだろう、どう見られているだろうか」と顔色をうかがい、引きずられ、言いなりにされてゆく生き方は、とても心細い。あまりに惨めです。誉められたといっては喜び、けなされたといっては悲しみ悔しがり、受け入れられたといっては喜び、退けられたといっては嘆き、一喜一憂し、恐れつづけます。それでは、いつまでたっても淋しく惨めで、心の休まるときがない。サタンよ退け。私の心を深く支配しガンジガラメに縛りつけるサタンよ、引き下がれ。だって、この私は神のことを少しも思わず、人間のことばかりクヨクヨクヨクヨと朝から晩まで思い煩いつづけているではないか。私のサタンよ、退け(マタイ16:23参照)
  「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と主イエスは宣べ伝えました(マルコ1:15)。それが始まりです。神の独り子がこの世界にくだって来られ、救いの出来事を成し遂げてくださった。その方は私たちの救いのために死んで復活し、今、私たちのために生きて働いていてくださる。それこそが、時が満ちたことと神の国が近づいたことの具体的な中身です。それで、だからこそ、私たちも神へと心も普段の在り方も180度、グルリと向け返すことができる。私たちもまた主イエスの福音を信じて、福音の只中を生きることができる。
 例えばアブラハムの息子ヤコブもまた、神を『私の神』とする時が来たことに気づきました。あのヤコブにも神の国が近づきました(創世記28:10-)。「見よ。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで、あなたを決して見捨てない」。それが、ヤコブのための福音です。約束を果たすのは、ヤコブではなく主なる神です。ヤコブが神を見捨てないのではなく、神こそがヤコブを見捨てないと断固としておっしゃるのです。どこへ行っても、誰と何をしていても何もしていなくたって、なにしろ神さまご自身こそが。彼自身が彼を守るのではなく、主こそが彼を守ってくださいます。彼自身が彼を連れ帰るのではなく、主なる神こそが彼をきっと連れ帰ってくださる。その恵みの約束を、主ご自身が彼のために成し遂げてくださる。主ご自身が彼を決して見捨てることも見離すこともなさらない。それが、主が共にいることの中身であり、主が主であってくださることの中身です。「見よ。見なさい」と神さまが私たちに呼びかけておられます。「あの人やこの人たちが私と共にいてくれる。だから安心」とか、逆に「あの人やこの人たちがそこにいて目を光らせている。だから肩身が狭い。恐れ多い」などと。「誰も私と共にいてくれない。誰も私を顧みてくれない。だから淋しい。心細い」などと。神さまが呆れています;「え、何を言っている。どこを見ている。私が一緒にいるじゃないか。あなたはそれでは不足か。まだ足りないのか」と。キョロキョロソワソワと見回してばかりいないで、この私をこそ見なさいと。あの彼は、そこでようやく受けとめたのです。「はい。どうぞよろしくお願いします」と。あの彼もまた、まるで初めてのように気づいたのです。「まことに神がここにおられるのに、私は知らなかった。今は知った。どうぞ、これからは、私の神となってください」(創世記28:16,20-21参照)と願い求めました。願い求めながら生きることを、あの彼も、し始めました。こうして、1人のクリスチャンが誕生しました。

 長い長い時が流れました。『神ご自身が尊ばれ、信頼される。神ご自身が生きて働いていてくださり、ご自身のその恵みの出来事を、ご自身で持ち運んで、きっと必ず成し遂げてくださる』。その信頼と確信のもとに、今日でも、1人のクリスチャンが誕生します。心をさまよわせていた1人のクリスチャンが、ついに『私は一個のクリスチャンである』という恵みの場所へと立ち返ります。今日でも、同じ一つの確信のもとに、それは起こります。起こりつづけます。例えば、とても臆病で気の小さい人がいました。傷つきやすい、いつもビクビクオドオドしていた人がいました。夫の前でも親の前でも、子供たちの前でも、職場の同僚たちの前でも、「こんなことを言ったら何と思われるだろう」と彼女はためらいます。「聞いてもらえないかもしれない。馬鹿にされ、冷たくあしらわれ、はねのけられるかも知れない。相手の自尊心を傷つけ、互いに嫌な思いをするかも知れない」などと思い巡らせます。それで長い間ずっと、人の顔色をうかがいながら他人の言いなりにされてきました。例えば、「私が。私が」と長い間、我を張って生きてきた頑固な人がいました。私は私のしたいことをする。したくないことはしない。思い通りにできれば気分がいい。したくないことをさせられれば気分が悪い。けれどクリスチャンである彼は、あるいは彼女は、その一方でもう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。そうだった。私の考えや思いや立場を重んじるよりも、なにしろ神さまをこそ尊ぶ私である。私に信頼し誰彼に聞き従うよりも、なにしろ神さまに信頼し、感謝し、神さまにこそ聞き従うはずの私である。わたしを第一とし、あのことこのことを主とするよりも、なにしろ神さまを主とする私である。例えば、親子の場合。職場の同僚同士。上司と部下の間。友だち同士の場合。教会の話し合いや会議の席でもまったく同じです。それをするかしないか。言うか言わないか。私はどうしたいのか。あの人たちはどう思うだろうか。けれど、その時にも、クリスチャンである私たちは別のことを心に留めています。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。「御名と御国をこそ」という願いと、その一つの話題、その一つの判断とは無縁ではありません。むしろ、いよいよそこで「御名と御国をこそ」というその願いが、私たちのための現実となっていきます。ついに、願い求めるその人は、「それはいけない。間違っている」と言い始めます。「そんなふうにしてはいけない」と言いはじめます。あるいは、「私が間違っていました。ゆるしてください」と。また、喉元まで出かかった言葉、思いと言葉と行いをかろうじて飲み込みます。
 なぜでしょうか。もう一つのことを心に留めているからです。「神の御名を、私たちにもあがめさせてください。神ご自身の御国を、ここへも来させてください」という祈りが、かろうじて危ういところで、その人たちをクリスチャンでありつづけさせます。目の前のその強い大きな人を尊んだり恐れたりする2倍も3倍も、神さまご自身をこそ尊ぶ彼らであるからです。その人に信頼し従うよりも、自分の考えややり方に従わせようとするよりも、神さまにこそ信頼し、感謝し、聞き従いたい。その願いのほうが、ほんのちょっと大きい。なぜなら兄弟たち。この私にもあなたにも天に主人がおられます。あの人もこの人もわたしの主人ではなく、夫も上司も私の主人ではなく、私自身さえももはや私の主人ではなく、主人のしもべたちにすぎなかったからです。しもべである私が立つも倒れるも、すべて一切その主人にかかっています。その一人の人はクリスチャンです。しかも天の主人は、しもべである私たちを立たせることがお出来になります。倒れてもつまずいても、何度でも何度でも、きっと必ず立ち上がらせてくださいます(コロサイ4:1,ローマ14:4)。私や誰彼がよい気持ちでいることよりも、天の主人に喜ばれることのほうが、私にはもっと大切です。あの人この人に誉められ認められることも大切ですが、それより「善かつ忠なるしもべよ」と天の主人に誉められる(マタイ25:21)ことのほうが、私にはもうちょっと大切です。なにしろ天に主人がいてくださり、私たちはそのしもべとされているのですから。正直言って、わたしはあまり善良でも忠実でもありません。かなり大目に見ていただきながら、かなり忍耐され辛抱していただきながら、なお、しもべとされています。強く賢い私のためにも、主こそが私よりもっと強く賢くあってくださる。取り柄もなく、格別に何かの役に立つわけでもない乏しい私のためにも、あるいはよく働く私のためにも、何しろ主なる神こそが生きて働いていてくださる。私は晴れ晴れとして膝を屈めます。臆病で気の弱い、卑屈でいじけた私のためにも、この主人こそが強く大きくあってくださる。この主人こそが豊かであってくださる。この私たちは、そこでようやく楽~ゥに、晴れ晴れとして顔をあげることができます。聖書の神さまを信じることのできる者たちは幸いです。


2015年12月23日水曜日

12/20「恐れるな!」ルカ2:1-20

                         みことば/2015,12,20(クリスマス礼拝)  38
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:1-20               日本キリスト教会 上田教会
『恐れるな!』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。・・・・・・6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。(ルカ福音書 2:1-20)


今から2000年も前のことです。遠い外国の片田舎の家畜小屋のエサ箱の中に、1人の赤ちゃんが生まれました。クリスマスの季節だけじゃなく、私たちが生きる毎日の普通の生活の只中に、この方こそが格別な平和をもたらす。「この方こそが、私たちが幸いに生きるための王様になってくださった」と聖書は語りかけます。さて、それならこの嬉しい知らせを、誰が真っ先に耳にしたでしょう。
 8節をごらんください。それは羊飼いたち、そして羊たちです(*1)。羊のことは分かりにくいですね。だって、犬や猫を飼っている人はここにもたくさんいるでしょうけど、羊を飼っている人は少ない。北海道とか長野県とか、どこか遠くの牧場か動物園にでも行かなきゃ羊を見ることはできません。それでも他の動物と比べてみると、羊がどういう生き物なのかが少し分かります。生き物には、それぞれ自分の身を守って生き延びてゆくための武器や道具が与えられています。けれど羊には、熊のような強い腕もなく、するどい角や牙があるわけでもなく、逃げ足が速いわけでもなく、ウサギのように何でも聞き分ける良い耳があるわけでもありません。とても弱くて、あまりに無防備な生き物です。それで強い腕や角や牙や良い耳や速い足の代りに、羊には羊飼いがいてくれます。羊が安心して晴れ晴れとして生きてゆくためには、ただただ羊飼いが頼りです。さて、弱くて心細いのは羊ばかりではありませんでした。その世話をする羊飼い自身もしばしば疲れ果て、がっかりして落胆しました。羊たちに草を食べさせながら、山や谷をめぐって旅をするように生きる。不安定でとても心細い生活です。悪天候の日々があり、野の獣たちが羊を狙って襲いかかってきます。羊ドロボウも闇に紛れて忍び寄ります。羊飼いたちは羊を守って寝起きを共にして野宿をし、眠い目をこすりこすり夜通し番をして生きるのです。この私たちも、彼らの労苦や心細さを知っています。小さな子供たちも若者も、父さん母さん達も年配の人たちも、羊飼いたちとそっくりな毎日の暮らしを営んでいるからです。そう言えば、うちの羊たちも最初のうちは「ああ三度三度おいしい草と水をありがとう」と喜んでいたのに、この頃は舌が肥えちゃって「またいつもの固くてスジ張って黄ばんで萎びた草かヨオ。たまには新鮮で甘くて、シャキシャキ歯ごたえのある草が食べたいなあ。それで、食後のデザートは?」などとぜいたくを言ったり、ブツブツ不平不満をつぶやきます。困ったものです。危険な旅をしつづけて野宿をするようにして、夜通し寝ずの番をするように、私たちは家庭を守り、家族や自分自身を養って生きてゆきます。
 主の御使いは「恐れるな」(*2)と告げました。恐れつづけてきた彼らでしたし、恐れるべきことが山ほどありました。「恐れるな」;それは、『恐れないあなたとしてあげよう。最初のクリスマスの夜に家畜小屋のエサ箱の中に生まれた1人の赤ちゃんによって。あの小さな、裸の赤ちゃんによって、恐れないあなたとしてあげよう』という招きです。神さまからの約束と招き。この約束を、私たちは信じたのです。10-12節。すべての民に与えられる大きな喜び。すべての民とは誰と誰と誰のことでしょう。どの民族とどの民族のことでしょう。いいえ、ただ人間様ばかりではなく鳥も魚も動物も小さな虫も、神さまによって造られたすべての生き物という意味です。大きな喜びというのは、けれどどれくらい大きいのでしょう。ほんの一握りの何人かが喜ぶだけでは、その喜びは大きくはありません。片隅に押し退けられた人が淋しい惨めな思いをしているようでは、喜びは大きくはありません。置き去りにされた人たちが「どうせ私は」と下を向いているようでは、その喜びは安っぽすぎます。みんなのための喜び。しかもそれは、あなたのためにも用意されている、というのです。『神を知ること』は、もはやただユダヤ人だけの専売特許ではなくなり、すべての人々に差し出され、それまでは神を知ることもなかった人にも、すべての生き物たちにさえ明け渡されます。だからこそ礼拝案内の看板には、『誰でも自由にお入りください』といつも書き添えられています。教会の人々がそのように招いているというだけではなく、実は、神ご自身がそのように招いておられるのです。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひ、と招いておられます。なにかの条件や資格が必要なのでもなく、体裁を取り繕うこともいらず、そのままで来なさいと招きます。
  14節。人間たちの讃美に先立って、まずおびただしい天の軍勢と御使いたちが歌います。「いと高きところでは、神に栄光があるように。地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と。神さまが大切に思われることと、この地上に平和があふれることとは、実は一つのことです。なぜなら兄弟たち、自分たちを遥かに越えた大きな豊かな存在を思うことの出来ない人は、しばしばとてもわがままになり、自分勝手に頑固になってしまいます。まるで自分が神さまや殿様にでもなったかのように乱暴に振舞ったり、意地悪になり、誰かを苦しめたり困らせたり、馬鹿にしたりしてしまいます。あるいは、心細く臆病な気持ちになって、「私はダメな人間だ。誰も私を愛してくれない。認めてくれない。助けてもくれない。私など、いてもいなくても同じか」と度々ガッカリしてしまいます。御使いたちは言いました、「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう」(12)と。それがあなたがたのための救い主であり、幸いな暮らしのためのしるしだというのです。今日は、この1人の赤ちゃんについて思い巡らせるための日です。神さまは、私たちのことが大好きです。あなたのこともとても大好きなのです。だから、どんどんどんどん近づいてきてくださった。
 思い浮かべてみてください。家畜小屋の粗末なエサ箱の中に寝かされた1人の赤ちゃんをごらんなさい。あの、最初のクリスマスの夜の人の格別な赤ちゃんを。弱い人が強い人を恐れるように、その弱い人は強い神をも恐れるのです。小さな人が大きく豊かな人の前で惨めさを味わうように、その小さな貧しい人は大きく豊かな神様の前でも、惨めに身をかがめるかも知れません。周りにいる強くて豊かで立派な人々によって打ち砕かれ、身を屈めさせられてきた人は、神の威厳やその力強さや栄光によっても、打ち砕かれてしまうかも知れません。「人様の前でも神さまの前でも恐れ多くて」などと、その人を怯えさせるかも知れません。そんなことがあってはなりません。だからこそこの救い主は、まず最初には、小さな人の赤ちゃんの姿で、ただ布切れ1枚にくるまれただけの裸の姿で来てくださいました。家畜小屋の惨めなエサ箱の中に、だからこそわざわざ身を置いてくださいました。裸の小さな赤ちゃんを見て、恐ろしくてビクビク震える人はいません。そのニッコリ笑ったり泣いたりスヤスヤ眠っている寝顔を見て、いじけたりすねたりする人はいませんね。やわらかい頬っぺたやその小さな指に思わずそっと触れてみたくなるかも知れません。もしそうしたいと願うならば、あなたもこの私も、この方を信じて生きることができます。どんなに貧しく淋しい人とも喜びを分かち合おうとし、一緒に生きようとし、そのあまりに救い主イエスは神である身分を捨て去りました。神であることの華やかな栄光も尊厳も力も、そんなものはもうどうでもいい、要らないと、ポイと投げ捨ててくださいました。ごらんください。それが、家畜小屋の粗末なエサ箱の中に寝かされた1人の赤ちゃんです。あなたを支えようとして。
 救い主イエス・キリストがこの地上に降りてきてくださいました。神ご自身の栄光が、いよいよ私たちの目の前に突きつけられました。神ご自身のものである栄光。それらは、あの最初のクリスマスの夜の出来事が起こる以前には、思いも浮かばないことでした。神の正しさや聖なること、それはあの家畜小屋のエサ箱の中にあったのです。神の慈しみ深さ、神の知恵と賢さ、それはあの家畜小屋のエサ箱の中にあったのです。人の罪人を晴れ晴れとした救いの中へと導き入れることができるほどの、神の正しさです。神さまからも一緒に生きるはずの人々からもはぐれ、戻るに戻れないと呻いていた人の小さな人を、神の恵みとゆるしのもとへと再び連れ戻すことができるほどの、神の聖なること。神の慈しみ深さ。私たち人間のちっぽけな知恵や賢さを軽々と飛び越えていく神の賢さと知恵だったのです。それはまず最初には、あの家畜小屋のエサ箱の中にありました。やがて30数年後に、この同じ独りのお方が十字架について殺され、葬られ、墓から復活してくださったことで、はっきりと差し出されました。地上の何者に対しても恐れることも怖じけることもない私たちとならせていただくための、決定的な祝福と幸いが。今なお多くの人々にとって、最も恐ろしい相手は人間であるらしいです。神さまを信じているはずのクリスチャンの中にさえ、たかだか人間に過ぎない者共を恐れ、その顔色を窺って生きる者たちが大勢いるらしいのです。もしかしたらあなたも、周りの人々が恐ろしくて恐ろしくて仕方がなくなりますか? 恥かしながら、ぼくもそうです。それで度々、神さまのことがすっかり分からなくなります。家族や親戚や同じ地域に住む人々の目や耳や、彼らからの評価も気にかかります。当たらず障らず、できるだけ穏便にと願います。だからこそ全世界のための救い主であられます主イエスは仰います、「あなたがたも、いらぬ心配はせず、安心していなさい。こんなにも念には念を入れて話してあげたのは、そのためなのだから。確かに、この世では苦難と悲しみが山ほどある。しかし、元気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのだ」 (ヨハネ16:33リビングバイブル訳)と。しかも だからこそ救い主は死んで復活し、その復活の新しい生命を差し出しつづけておられるではありませんか。世界中のすべての被造物のために、この私たちのためにも。ああ、そうだったのか 救い主イエス・キリストは死んで葬られ、墓からよみがえってくださった。新しい生命を差し出してくださった。だからこの私も古い罪の自分と死に別れて、自分勝手で頑固で臆病な自分を葬り去っていただいて、そこでやっと神さまの御前で新しく生きはじめるはずの私だった。すっかり忘れていた。今、やっと思い出した。ああ、そうだったのか。
   
           ◇

 20節です。見聞きしたことがすべて語られたとおりだったので、あの彼らは神をあがめ、讃美しながら帰っていきました。帰っていった。どこへでしょう。自分の家へ。自分のいつものあの働き場所へ。一緒に生きるべき人々の所へと。つまり、あの羊たちの所へ。「なんだ。帰ってしまったのか」と馬鹿にしてはいけません。見くびってはなりません。帰っていったそれぞれの場所で、そこでいよいよ神をたたえて生きるための悪戦苦闘がはじまります(*4)。ただお独りの主に仕えて生きるための、月曜から土曜日までの働きが。例えば、このすぐ後にご一緒に歌います讃美歌461番は「主われを愛す。主は強ければ」(讃美歌 461)と歌っています。「たとえ私が弱くても、貧しくても、私の主こそが、私のためにも強く豊かであってくださる。主が私を愛してくださっている。こんな私をさえ、とてもとても大切に思っていてくださる。だから、私は少しも恐れない。ビクともしない」と。それは、主への熱い期待であり、願いであり、主へのひたすらな信頼です。「この主の恵み深さの只中に、ここにこそ私は生きる」という信仰の決断です。ゆるされがたい多くの背きをゆるされ、受け入れがたいふつつかさを、身勝手さやかたくなさを、けれどなお受け入れていただいた私たちです。それで、だからこそ、こんな私たちさえここにいます。貧しさもいたらなさも、それはお互い様でした。恵みとゆるしのもとにある平和を積み上げ、築き上げていくための格闘が、今日ここから、いよいよ始まっていきます。「助けてください。どうか支えてください」と私たちは神へと呼ばわります。あの羊たちと共にです。神様に向けて「ありがとうございます」と感謝を噛みしめます。あの大切な羊たちと共に。山や谷を巡り歩く旅路は、まだなお続きます。

         【割愛した内容の補足】
          (*1)『羊と羊飼い』;羊と羊飼いの暮らしは、この神さまを信じて生きる人々にとってごく身近な、親しみ深い職業であり、暮らしでした。家族や親族や隣近所の友人たちの多くが羊飼いという職業につき、その暮らしぶりを身近に目撃しつづけていました。その中で彼らは神さまを思ったのです。『羊飼いのような神であり、その羊飼いに養われる一匹一匹の羊のような私たちである』と。詩12:1-,100:1-3,イザヤ書40:10-11,53:6,エゼキエル書34:1-31,ルカ福音書15:1-7,ヨハネ福音書10:1-18,ペテロ手紙(1)2:22-25,
          (*2)「恐れるな」;聖書は一貫して「恐れるな。恐れるな」と人々を励ましつづける。つまり、恐れつづけた神の民であり、恐れるべきことがいつも次々とあった。また、神ではない様々なモノを恐れないためには、神さまに十二分に信頼を寄せ、聴き従う必要もあった。
(*3)「しかしマリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」(19);イエスが12歳のときの迷子事件の折にも、やはり同様に、「両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。・・・・・・母はこれらの事をみな心に留めていた」。そのときは、よくは分からない。けれど心に留めて思いめぐらしつづける人々は、やがてその意味を受け取ることになる。
(*4)「帰っていった」(20);主イエスと出会って彼を信じるようになる人々は二種類ありつづけます。イエスの旅路に直接に同行する弟子たちと、現地や故郷に残される弟子たちと。後者では例えば東方から来た博士たち、この羊飼いたち、サマリヤの女性、ゲラサの墓場の男、娘を癒していただいた会堂長と家族、部下を癒してただいた百卒長、シリア・フェニキアの女性、牢獄の看守と家族、エチオピア人の女王の宦官などなど(マタイ2;12,本箇所,ヨハネ4:28-42,マタイ同8:5-,8:28-34,9:18-,15:21-,使徒8:38-39,16:28-34)。彼らはそこで、いつもの生活の只中で主イエスを信じて生きる生活をはじめます。





礼拝は、毎週日曜日の午前 1015分からです。
聖書の学びと祈りの会は、毎週水曜日。
(毎月第1、3、5水曜は午前10時。第2、4水曜は午後2時から)
そのほかの集会にも、どうぞ自由にご参加ください。
また、「上田教会ホームページ」をどうぞご覧ください。

これからの礼拝予定です――
1227() マタイ福音書6:5-10『御国を来らせてください』 (祈り.3)





 ()    130
『自業自得、
ではない。』
好ましくない出来事にあうとき、「それは自分が行った悪い行いの報いであり、結果だ」などと教えられてきました。
けれど、「そうではない」と聖書は語りかけます。
そこに、まったく新しい生き方への招きがあります――
主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に
目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。」 (詩 130篇 1-5節)。


10()  マタイ福音書 6:5-10 『御心を』               (祈り.4)
    17()   6:5-10 『私たちの日毎の食物を』      (祈り.5)
  24()  同6:9-12 『私たちの負債を』           (祈り.6)
    31()  同6:9-15 『試練と悪から救い出してください』  (祈り.7) 

  

2015年12月14日月曜日

12/13こども説教「確実なものを」ルカ1:1-4

 12/13 こども版 ルカ福音書 1:1-4
『確実なものを』      

1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
(ルカ福音書 1:1-4

  1節。「私たちの間に成就された出来事」と聖書は報告しはじめます。それは、イエス・キリストについての出来事です。キリスト教の信仰は、誰かが自分の頭の中で考えついたことではなく、本当に起こった出来事の上に積み上げられてきました。それを私たちは見落としてはなりません。福音伝道者たちは、この神さまの出来事を人々に告げることをこそ自分の第一の役割としました。その目で見たこと、耳で聞いたこと、伝えられたことを、彼らは忠実に語りつづけました。神の独り子が地上に降ってこられ、私たちのために生き、私たちのために死んで葬られ、私たちのために墓から復活してくださったこと。彼ら弟子たちが見ている目の前で天に上っていかれたこと。また、そのとき、白い服を着た御使いたちが弟子たちに語りかけました。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒行伝1:11)
  4節「すでにお聞きになっていることが確実であることを、これによって十分に知っていただきたい」。すでによくよく聞き重ねてきたはずの教えが確実なものであることを、ローマ帝国の役人テオピロも子供たちも、大人である私たち自身も、ちゃんと十分に分かりたい。「頭ではなんとなくは分かりますが」なんていつまでも言い続けているばかりでなく、心でも、普段のいつもの暮らしぶりや人との付き合い方や腹の思いによっても()よくよく分かりたい。しかもなお、神さまの現実が私たちの只中で実現したのです。例えばピリピ手紙2:5-11は、本当には何を証言していたのか。救い主イエスは「十字架の死に至るまで父なる神さまに従順だった」とはっきりと告げていました。固執せず、自分を無にし、へりくだって、最後の最後まで御父に素直に従いとおしたと。4040夜さまよった荒れ野でも悪魔の誘惑をすべて退け、十字架の上でも「降りてこい。救い主なら自分で自分を救ってみろ」とバカにされても笑われても、そこから降りないでくださった。罪人を救うために、自分を自分で救わないことを断固として選び取って。その前夜、ゲッセマネの園では、いったい何が起こったでしょう。「けれど私の願いではなく、あなたの御心にかなうことを」(マタイ福音書26:39,27:40-42参照)と、どこまでも御父に素直に従い抜いてくださった。その救い主イエスが殺され葬られ、三日目に墓から復活なさった。それで、だからこそ確かに、「この私たち一人一人もまた頑固で自分勝手な古い自分と死に別れて、新しい生命に生きる。必ずそうなる」と約束されています(ローマ手紙6:1-16参照)。死んで復活なさった救い主イエスが語りかけます。「私は平安を残し、私の平安をあなたがたに与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。また、おじけるな」「安らかであれ」(ヨハネ福音書14:27, 20:19,21)と。



◎とりなしの祈り

  世界とその中に満ちるすべてのものを造り、持ち運び、救い主イエス・キリストのご人格と御業をもって世を治めつづけておられます父、子、聖霊なる神さま。人々と生命あるすべてのものたちのあらゆる欠乏と困窮のために祈ります。どうか地上にあなたの御旨を行い、すべてあなたによって造られたものたちの中に救いの力を現してください。あなたの御心を行うために立てられた、責任あるすべての者たちを正しく導いてください。国家と政府与党とすべての政治家と官僚職員を、地方行政団体の職員とその首長たちを、また裁判所裁判官と検察官と警察職員と、社会福祉と医療に携わるすべての職員たちと、子供の父親母親たちを、そしてすべてのキリスト教会とクリスチャン一人一人をあなたの御心にかなって善い働きができるように強く導きつづけてください。どうか主よ、私たちを憐れんでください。
  私たち自身と身近な人々のためにも祈ります。さまざまな人々が共存する地域社会の中に、互いの人権と自由が重んじられ、福祉と労りの心が増し加えられていきますように。国籍、民族、文化、宗教、習慣が少しずつ異なっていてもなおそれらを互いに敬い合い、助け合うことができますように。主よ、私たちを憐れんでください。
  心と体に痛みをもつ人々のために祈ります。あなたからの慰めと癒しをお与えください。片隅に押しのけられ、心細く生きる人々をあなたが顧みておられますことを、私たちも知らされております。苦しみと悩みの中にあってもなお希望と勇気をもって耐えることができますように。また、それらの人々を支えて共に生きる家族と友人たちを、あなたの慈しみの御手をもって心強くお支えください。私たちを、主よ、どうか憐れんでください。
 ですから主よ、今こそ救い主イエスの光を照り返して、私たち自身を世のための光、この地上のための塩としてください。自分自身の小さく狭い世界に閉じこもることを私たちに止めさせて、この私たち自身を丘の上に建てられた町としてください。燭台の上に、私たちを据え置いてください。主イエスの明るく輝く光を照り返して、家の中のすべてのものを照らし出させ、この国とこの世界と私たち自身の暮らしの隅々にさえ、主イエスの福音の光を強く照らし出させてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




付録/ 国家や社会に対してもまた、
キリスト教会は「地の塩。世の光」と しての使命と責任を負う。
        ~基本的な在り方について~


 1.『アベ政治を許さない』チラシを教会正面から外し、牧師住居前に移動させ、また「牧師 金田聖治」とチラシに添え書きします。誤解も受けやすい、やや過激な文面でもあり、十分な協議や説明もないまま掲示していたことを反省し、お詫びをいたします。

 2.キリスト教会の使命と責任とは全世界に及び、生活のすべての領域と分野に関わります。それは、神さまのご性質と直結しています。天と地と世界のすべてをお造りになった神であり、イエス・キリストの救いの御業は「生命あるすべてのもの」に及ぶからです。また、教会の頭であられる主イエス・キリストは天地万物の上に立つ、王の王、主の主であられるからです(マタイ福音書11:27,28:18-20,コリント手紙(1)15:24-28)。それゆえ国家や社会に対しても、キリストのものである教会は(当然ながら、一人一人のクリスチャンもまた「地の塩。世の光」として福音の光を輝かせ、「上に立てられた公けの諸権威」が健全に務めを果たすように見張りの役割を担い、主のご委託に応え、御心にかなって主に仕えて働くようにと命じられています。
 よって例えば、日本キリスト教会は『安全保障関連法案採択に対する反対声明』を2015717日付けで大会議長名義で発表し、「わたしたち日本キリスト教会は、716日、安倍内閣が衆議院本会議において、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障法案の採択を強行し、可決に至らせたことに深く憂慮し、反対し、強く抗議するものであります。・・・・・・わたしたちはこの法案の廃案を要求いたします」と言い表しました。また、10月の定期大会でも、『私たちは沖縄県内の新基地建設に反対する』声明文を採択し、「私たちは沖縄を差別して踏みにじっている日本国政府に無意識に同調して、結果として差別に加担してきたことを、神の前に悔い改めざるをえない。沖縄の人々とともに、沖縄県内の新基地建設反対の声をあげ、政府にその計画の撤回を求める」と公けに言い表してきました。キリストの教会とはこのように立つ教会であり、私たちの日本キリスト教会もまた、主なる神さまとこの世界に対してこのような使命と責任を担って立つ教会の一つです。
  (* 『日本キリスト教会 教会員の生活』の「社会生活」の項目(2003年改訂版。p83-104参照)、および同書末尾「現代日本の状況における教会と国家に関する指針」(1987年、日本基督教会大会で採択)。「福音時報」201511月号、枝松博展牧師の文章。「キリスト新聞」2015125日付け、柴田智悦牧師の文章を参照のこと)
3.「政教分離」についての誤解。正しくは、これは個々人の「信教の自由」を守り、保障することとひと組の考え方です。とくに政治権力に対して、特定の宗教団体を援助、あるいは圧迫しないよう定めた原則です。日本国憲法第20条第1項、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。第2項、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式、又は行事に参加することを強制されない」。第3項、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」。かつて大日本帝国憲法下では、神社神道が国教並みの地位を与えられ、手厚く保護されていました。神社は、国家儀礼、国民道徳の源とされ、思想の統制が進められ、神社神道以外の宗教・宗派に対する迫害や抑圧、弾圧が行われていきました。政治権力が自分にとって都合の良い特定の宗教を利用して、国民を愛国主義・軍国主義へと煽っていったのです。その反省の上に立って、日本国憲法は、国家権力に対してそうした行為をきびしく禁じ、制限を加え、タガをはめています。これが、「政教分離」の基本精神です。

(日本キリスト教会 上田教会小会)