2015年12月23日水曜日

12/20「恐れるな!」ルカ2:1-20

                         みことば/2015,12,20(クリスマス礼拝)  38
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:1-20               日本キリスト教会 上田教会
『恐れるな!』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。・・・・・・6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。(ルカ福音書 2:1-20)


今から2000年も前のことです。遠い外国の片田舎の家畜小屋のエサ箱の中に、1人の赤ちゃんが生まれました。クリスマスの季節だけじゃなく、私たちが生きる毎日の普通の生活の只中に、この方こそが格別な平和をもたらす。「この方こそが、私たちが幸いに生きるための王様になってくださった」と聖書は語りかけます。さて、それならこの嬉しい知らせを、誰が真っ先に耳にしたでしょう。
 8節をごらんください。それは羊飼いたち、そして羊たちです(*1)。羊のことは分かりにくいですね。だって、犬や猫を飼っている人はここにもたくさんいるでしょうけど、羊を飼っている人は少ない。北海道とか長野県とか、どこか遠くの牧場か動物園にでも行かなきゃ羊を見ることはできません。それでも他の動物と比べてみると、羊がどういう生き物なのかが少し分かります。生き物には、それぞれ自分の身を守って生き延びてゆくための武器や道具が与えられています。けれど羊には、熊のような強い腕もなく、するどい角や牙があるわけでもなく、逃げ足が速いわけでもなく、ウサギのように何でも聞き分ける良い耳があるわけでもありません。とても弱くて、あまりに無防備な生き物です。それで強い腕や角や牙や良い耳や速い足の代りに、羊には羊飼いがいてくれます。羊が安心して晴れ晴れとして生きてゆくためには、ただただ羊飼いが頼りです。さて、弱くて心細いのは羊ばかりではありませんでした。その世話をする羊飼い自身もしばしば疲れ果て、がっかりして落胆しました。羊たちに草を食べさせながら、山や谷をめぐって旅をするように生きる。不安定でとても心細い生活です。悪天候の日々があり、野の獣たちが羊を狙って襲いかかってきます。羊ドロボウも闇に紛れて忍び寄ります。羊飼いたちは羊を守って寝起きを共にして野宿をし、眠い目をこすりこすり夜通し番をして生きるのです。この私たちも、彼らの労苦や心細さを知っています。小さな子供たちも若者も、父さん母さん達も年配の人たちも、羊飼いたちとそっくりな毎日の暮らしを営んでいるからです。そう言えば、うちの羊たちも最初のうちは「ああ三度三度おいしい草と水をありがとう」と喜んでいたのに、この頃は舌が肥えちゃって「またいつもの固くてスジ張って黄ばんで萎びた草かヨオ。たまには新鮮で甘くて、シャキシャキ歯ごたえのある草が食べたいなあ。それで、食後のデザートは?」などとぜいたくを言ったり、ブツブツ不平不満をつぶやきます。困ったものです。危険な旅をしつづけて野宿をするようにして、夜通し寝ずの番をするように、私たちは家庭を守り、家族や自分自身を養って生きてゆきます。
 主の御使いは「恐れるな」(*2)と告げました。恐れつづけてきた彼らでしたし、恐れるべきことが山ほどありました。「恐れるな」;それは、『恐れないあなたとしてあげよう。最初のクリスマスの夜に家畜小屋のエサ箱の中に生まれた1人の赤ちゃんによって。あの小さな、裸の赤ちゃんによって、恐れないあなたとしてあげよう』という招きです。神さまからの約束と招き。この約束を、私たちは信じたのです。10-12節。すべての民に与えられる大きな喜び。すべての民とは誰と誰と誰のことでしょう。どの民族とどの民族のことでしょう。いいえ、ただ人間様ばかりではなく鳥も魚も動物も小さな虫も、神さまによって造られたすべての生き物という意味です。大きな喜びというのは、けれどどれくらい大きいのでしょう。ほんの一握りの何人かが喜ぶだけでは、その喜びは大きくはありません。片隅に押し退けられた人が淋しい惨めな思いをしているようでは、喜びは大きくはありません。置き去りにされた人たちが「どうせ私は」と下を向いているようでは、その喜びは安っぽすぎます。みんなのための喜び。しかもそれは、あなたのためにも用意されている、というのです。『神を知ること』は、もはやただユダヤ人だけの専売特許ではなくなり、すべての人々に差し出され、それまでは神を知ることもなかった人にも、すべての生き物たちにさえ明け渡されます。だからこそ礼拝案内の看板には、『誰でも自由にお入りください』といつも書き添えられています。教会の人々がそのように招いているというだけではなく、実は、神ご自身がそのように招いておられるのです。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひ、と招いておられます。なにかの条件や資格が必要なのでもなく、体裁を取り繕うこともいらず、そのままで来なさいと招きます。
  14節。人間たちの讃美に先立って、まずおびただしい天の軍勢と御使いたちが歌います。「いと高きところでは、神に栄光があるように。地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と。神さまが大切に思われることと、この地上に平和があふれることとは、実は一つのことです。なぜなら兄弟たち、自分たちを遥かに越えた大きな豊かな存在を思うことの出来ない人は、しばしばとてもわがままになり、自分勝手に頑固になってしまいます。まるで自分が神さまや殿様にでもなったかのように乱暴に振舞ったり、意地悪になり、誰かを苦しめたり困らせたり、馬鹿にしたりしてしまいます。あるいは、心細く臆病な気持ちになって、「私はダメな人間だ。誰も私を愛してくれない。認めてくれない。助けてもくれない。私など、いてもいなくても同じか」と度々ガッカリしてしまいます。御使いたちは言いました、「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう」(12)と。それがあなたがたのための救い主であり、幸いな暮らしのためのしるしだというのです。今日は、この1人の赤ちゃんについて思い巡らせるための日です。神さまは、私たちのことが大好きです。あなたのこともとても大好きなのです。だから、どんどんどんどん近づいてきてくださった。
 思い浮かべてみてください。家畜小屋の粗末なエサ箱の中に寝かされた1人の赤ちゃんをごらんなさい。あの、最初のクリスマスの夜の人の格別な赤ちゃんを。弱い人が強い人を恐れるように、その弱い人は強い神をも恐れるのです。小さな人が大きく豊かな人の前で惨めさを味わうように、その小さな貧しい人は大きく豊かな神様の前でも、惨めに身をかがめるかも知れません。周りにいる強くて豊かで立派な人々によって打ち砕かれ、身を屈めさせられてきた人は、神の威厳やその力強さや栄光によっても、打ち砕かれてしまうかも知れません。「人様の前でも神さまの前でも恐れ多くて」などと、その人を怯えさせるかも知れません。そんなことがあってはなりません。だからこそこの救い主は、まず最初には、小さな人の赤ちゃんの姿で、ただ布切れ1枚にくるまれただけの裸の姿で来てくださいました。家畜小屋の惨めなエサ箱の中に、だからこそわざわざ身を置いてくださいました。裸の小さな赤ちゃんを見て、恐ろしくてビクビク震える人はいません。そのニッコリ笑ったり泣いたりスヤスヤ眠っている寝顔を見て、いじけたりすねたりする人はいませんね。やわらかい頬っぺたやその小さな指に思わずそっと触れてみたくなるかも知れません。もしそうしたいと願うならば、あなたもこの私も、この方を信じて生きることができます。どんなに貧しく淋しい人とも喜びを分かち合おうとし、一緒に生きようとし、そのあまりに救い主イエスは神である身分を捨て去りました。神であることの華やかな栄光も尊厳も力も、そんなものはもうどうでもいい、要らないと、ポイと投げ捨ててくださいました。ごらんください。それが、家畜小屋の粗末なエサ箱の中に寝かされた1人の赤ちゃんです。あなたを支えようとして。
 救い主イエス・キリストがこの地上に降りてきてくださいました。神ご自身の栄光が、いよいよ私たちの目の前に突きつけられました。神ご自身のものである栄光。それらは、あの最初のクリスマスの夜の出来事が起こる以前には、思いも浮かばないことでした。神の正しさや聖なること、それはあの家畜小屋のエサ箱の中にあったのです。神の慈しみ深さ、神の知恵と賢さ、それはあの家畜小屋のエサ箱の中にあったのです。人の罪人を晴れ晴れとした救いの中へと導き入れることができるほどの、神の正しさです。神さまからも一緒に生きるはずの人々からもはぐれ、戻るに戻れないと呻いていた人の小さな人を、神の恵みとゆるしのもとへと再び連れ戻すことができるほどの、神の聖なること。神の慈しみ深さ。私たち人間のちっぽけな知恵や賢さを軽々と飛び越えていく神の賢さと知恵だったのです。それはまず最初には、あの家畜小屋のエサ箱の中にありました。やがて30数年後に、この同じ独りのお方が十字架について殺され、葬られ、墓から復活してくださったことで、はっきりと差し出されました。地上の何者に対しても恐れることも怖じけることもない私たちとならせていただくための、決定的な祝福と幸いが。今なお多くの人々にとって、最も恐ろしい相手は人間であるらしいです。神さまを信じているはずのクリスチャンの中にさえ、たかだか人間に過ぎない者共を恐れ、その顔色を窺って生きる者たちが大勢いるらしいのです。もしかしたらあなたも、周りの人々が恐ろしくて恐ろしくて仕方がなくなりますか? 恥かしながら、ぼくもそうです。それで度々、神さまのことがすっかり分からなくなります。家族や親戚や同じ地域に住む人々の目や耳や、彼らからの評価も気にかかります。当たらず障らず、できるだけ穏便にと願います。だからこそ全世界のための救い主であられます主イエスは仰います、「あなたがたも、いらぬ心配はせず、安心していなさい。こんなにも念には念を入れて話してあげたのは、そのためなのだから。確かに、この世では苦難と悲しみが山ほどある。しかし、元気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのだ」 (ヨハネ16:33リビングバイブル訳)と。しかも だからこそ救い主は死んで復活し、その復活の新しい生命を差し出しつづけておられるではありませんか。世界中のすべての被造物のために、この私たちのためにも。ああ、そうだったのか 救い主イエス・キリストは死んで葬られ、墓からよみがえってくださった。新しい生命を差し出してくださった。だからこの私も古い罪の自分と死に別れて、自分勝手で頑固で臆病な自分を葬り去っていただいて、そこでやっと神さまの御前で新しく生きはじめるはずの私だった。すっかり忘れていた。今、やっと思い出した。ああ、そうだったのか。
   
           ◇

 20節です。見聞きしたことがすべて語られたとおりだったので、あの彼らは神をあがめ、讃美しながら帰っていきました。帰っていった。どこへでしょう。自分の家へ。自分のいつものあの働き場所へ。一緒に生きるべき人々の所へと。つまり、あの羊たちの所へ。「なんだ。帰ってしまったのか」と馬鹿にしてはいけません。見くびってはなりません。帰っていったそれぞれの場所で、そこでいよいよ神をたたえて生きるための悪戦苦闘がはじまります(*4)。ただお独りの主に仕えて生きるための、月曜から土曜日までの働きが。例えば、このすぐ後にご一緒に歌います讃美歌461番は「主われを愛す。主は強ければ」(讃美歌 461)と歌っています。「たとえ私が弱くても、貧しくても、私の主こそが、私のためにも強く豊かであってくださる。主が私を愛してくださっている。こんな私をさえ、とてもとても大切に思っていてくださる。だから、私は少しも恐れない。ビクともしない」と。それは、主への熱い期待であり、願いであり、主へのひたすらな信頼です。「この主の恵み深さの只中に、ここにこそ私は生きる」という信仰の決断です。ゆるされがたい多くの背きをゆるされ、受け入れがたいふつつかさを、身勝手さやかたくなさを、けれどなお受け入れていただいた私たちです。それで、だからこそ、こんな私たちさえここにいます。貧しさもいたらなさも、それはお互い様でした。恵みとゆるしのもとにある平和を積み上げ、築き上げていくための格闘が、今日ここから、いよいよ始まっていきます。「助けてください。どうか支えてください」と私たちは神へと呼ばわります。あの羊たちと共にです。神様に向けて「ありがとうございます」と感謝を噛みしめます。あの大切な羊たちと共に。山や谷を巡り歩く旅路は、まだなお続きます。

         【割愛した内容の補足】
          (*1)『羊と羊飼い』;羊と羊飼いの暮らしは、この神さまを信じて生きる人々にとってごく身近な、親しみ深い職業であり、暮らしでした。家族や親族や隣近所の友人たちの多くが羊飼いという職業につき、その暮らしぶりを身近に目撃しつづけていました。その中で彼らは神さまを思ったのです。『羊飼いのような神であり、その羊飼いに養われる一匹一匹の羊のような私たちである』と。詩12:1-,100:1-3,イザヤ書40:10-11,53:6,エゼキエル書34:1-31,ルカ福音書15:1-7,ヨハネ福音書10:1-18,ペテロ手紙(1)2:22-25,
          (*2)「恐れるな」;聖書は一貫して「恐れるな。恐れるな」と人々を励ましつづける。つまり、恐れつづけた神の民であり、恐れるべきことがいつも次々とあった。また、神ではない様々なモノを恐れないためには、神さまに十二分に信頼を寄せ、聴き従う必要もあった。
(*3)「しかしマリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」(19);イエスが12歳のときの迷子事件の折にも、やはり同様に、「両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。・・・・・・母はこれらの事をみな心に留めていた」。そのときは、よくは分からない。けれど心に留めて思いめぐらしつづける人々は、やがてその意味を受け取ることになる。
(*4)「帰っていった」(20);主イエスと出会って彼を信じるようになる人々は二種類ありつづけます。イエスの旅路に直接に同行する弟子たちと、現地や故郷に残される弟子たちと。後者では例えば東方から来た博士たち、この羊飼いたち、サマリヤの女性、ゲラサの墓場の男、娘を癒していただいた会堂長と家族、部下を癒してただいた百卒長、シリア・フェニキアの女性、牢獄の看守と家族、エチオピア人の女王の宦官などなど(マタイ2;12,本箇所,ヨハネ4:28-42,マタイ同8:5-,8:28-34,9:18-,15:21-,使徒8:38-39,16:28-34)。彼らはそこで、いつもの生活の只中で主イエスを信じて生きる生活をはじめます。





礼拝は、毎週日曜日の午前 1015分からです。
聖書の学びと祈りの会は、毎週水曜日。
(毎月第1、3、5水曜は午前10時。第2、4水曜は午後2時から)
そのほかの集会にも、どうぞ自由にご参加ください。
また、「上田教会ホームページ」をどうぞご覧ください。

これからの礼拝予定です――
1227() マタイ福音書6:5-10『御国を来らせてください』 (祈り.3)





 ()    130
『自業自得、
ではない。』
好ましくない出来事にあうとき、「それは自分が行った悪い行いの報いであり、結果だ」などと教えられてきました。
けれど、「そうではない」と聖書は語りかけます。
そこに、まったく新しい生き方への招きがあります――
主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に
目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。」 (詩 130篇 1-5節)。


10()  マタイ福音書 6:5-10 『御心を』               (祈り.4)
    17()   6:5-10 『私たちの日毎の食物を』      (祈り.5)
  24()  同6:9-12 『私たちの負債を』           (祈り.6)
    31()  同6:9-15 『試練と悪から救い出してください』  (祈り.7)