2015年12月28日月曜日

12/27こども説教「神さまを信じられないという病気」ルカ1:5-25

 12/27 こども説教 ルカ1:5-25
  『神さまを信じられないという病気』

1:13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。18 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。                (ルカ1:13-18)

 このザカリヤとエリサベツという年寄り夫婦は、やがてもうすぐ洗礼者ヨハネの父さん母さんになります。大切な働きをするその赤ちゃんが生まれるための準備を、とくに親たちのために、神さまを本気で信じて生きるお父さんお母さんになるための準備を 神さまご自身がなさいます。6-7節を見てください。「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた」。ふたりとも神のみまえに正しい人で、主の戒めと定めとをみな落度なく行っていた、といいます。けれど、その正しさには足りない所がありました。また、主の戒めと定めとをみな落度なく行っていたとしても、それでも、神さまを信じて幸いに生きて死ぬためにはまだまだ十分ではなかったのです。ザカリヤは祭司でした。神殿で神さまに仕える働きをしていたとき、主の御使いが現れて言いました。13節「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」。で、18節。ザカリヤは御使いに返事をします「どうしてそんな事が私に分かるでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」。どうして分かるでしょう、と質問しているわけではありません。いいえ分かるはずがないじゃないか、と口答えして、御使いの言葉を跳ね除けようとしています。「だって、私はもうすっかりおじいさんだし、妻もおばあさんになってしまったんだから、そんなことがあるわけがない。決して信じられない」と()
 はじめに御使いは、「恐れるな」と言いました。そして、「あなたの祈りが聞き入れられた」と。するとザカリヤは、「いいや信じられない」と跳ね除けようとしました。ここが大事な点です。他の誰でもなくこの自分自身がずっと信じて祈っていたはずの大事な祈りを、どうして信じられなかったんでしょうね? 「神さま、私たち夫婦に子供を贈り与えてください」という祈りです。もし仮に、ずっと祈っていたのなら信じたはずです。つまり、その大事な祈りを最初のうちしばらくは祈っていましたが、そのうちに止めてしまいました。手を変え品を変え、次々と新しい別の祈りを祈っていたのかも知れません。誰でもそうですが、祈ることを止めてしまった後では、『願いをかなえていただけることも、神さまが生きて働いておられることも』、まったく信じられなくなりました。神さまが信じられなくなれば、その途端に、手当たりしだいに何でもかんでも恐ろしくなりました。これが、ことの真相です。20節を見てください。「信じなかったから、あなたは口がきけなくなる。物が言えなくなる」と御使いから言われ、その通りにされました。いいえ これは罰ではありません。『神さまを信じられないという病気』を治してあげるための、少~し苦い薬です。やがて赤ちゃんが生まれたとき、お父さんのザカリヤはもう一度、神さまを信じることができるようになります。口を開いたら、神さまへの信頼と感謝を本気で語ることができるようになります。願っている大事な1つの祈りを、同じく本気で30年でも40年でもずっと祈りつづけて、ずっと信じて待ち望みつづけて、神さまからよい贈り物を受け取りつづけて、それでようやく 嬉しく安心して生きることもできるようになります。ね、素敵でしょう。もし願うなら、この私たちだって、ザカリヤやマリアやアブラハム、サラ夫婦たちと同じことをしていただけます。神さまを本気で信じるあなたや私に、神さまこそが、ならせてくださいます。

      【割愛した部分の補足】
        ()『なかなか信じられない信仰者たち』;それは案外に多かった。ほかにもアブラハム、サラ夫婦、イサク、リベカ夫婦、士師ギデオン、イエスの母マリア、弟子のトマス、息子の病気を癒していただいた父親(創世記17:17-19,18:10-15,26:1-11,士師記6:15-40,ルカ福音書1:26-38,ヨハネ福音書20:24-29,マルコ福音書9:21-24)。金持ちの青年が主イエスを信じられずに立ち去っていった直後に見当違いなことを言い張るペテロに、「人間にはできないが、神にはできる」(マタイ福音書19:23-26)と主イエスが答弁なさいました。これが、この一連の難問に対する聖書からの唯一の答えです。これらの、なかなか信じられなかった人々に対しても、神さまご自身が苦い薬を与えて、信じる者へと新しく造り替えてくださいました。もちろん、疑い深い私たち自身も同じく取り扱っていただけます。







 ◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま。
あなたの御国がこの地上で、私たちが生きる生活の只中で実現し、着々と形作られ、あなたの御心こそが私たちの日々の暮らしや1つ1つの働きを通しましても成し遂げられていきますように。あなたにこそ全幅の信頼を寄せ、聴き従って生きる私たちであらせてください。さらにまた、あなたの御心を行うために立てられた、責任あるすべての者たちを正しく導いてください。国家とすべての政治家と官僚職員を、また裁判所裁判官と検察官と警察職員たちを正しく導いてください。社会福祉と医療と教育に携わるすべての職員たちと、子供の父親母親たちの働きを健全に保ってください。すべてのキリスト教会とクリスチャン一人一人をあなたのご委託とご命令にかなって働く忠実なしもべとなさせてください。主よ、私たちを憐れんでください。
  心細く暮らすすべての貧しい人々のために祈ります。心と体に痛みをもつ人々のために祈ります。あなたからの慰めと癒しをお与えください。その家族と友人たちを、あなたの慈しみの御手をもって心強くお支えください。また私たち自身の手と心をも、その彼らに向かって差し伸べさせてください。私たちを、主よどうか憐れんでください。主なる神さま、この私たちを世のための光、地上のための塩としてください。
そのためまず、私たち自身の祈りと生活とを整えさせてください。ただ口で祈るだけでなく心でも祈り、毎日の生活や行いや普段の在り方としても、祈るように生きることができますように。礼拝の中でも外でも、一人で祈る時にも仲間たちの間でも、その1つ1つの祈りをただ人間たちに向かってではなく、ただ人間たちに聴かせようとしてでもなく、あなたにこそ向けさせてください。ですから、願いが確かにかなえられたと分かるまで、同じ一つの大切な願いを30年でも40年でも同じひたむきさで願い求めつづける私共にならせてください。あなたに向かう祈りがそうでありますように、朝も昼も晩も、誰とどこにいても、自分自身や周囲の人間たちの心にかなうことなどではなく ただただあなたご自身の御心にかなうことをこそ願って生きる私たちとならせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。



   
  【祈りつつ日々を生きるための土台】

116 なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。
答 祈りは神が私たちからお求めになる感謝の最も重要な部分であり、
  また、神はその恵みと聖霊とを、心からのうめきをもって絶えずこれを請い求め、これに対して感謝する者たちにだけ贈り与えることにしておられるからです。

117 神に喜ばれ、聞き入れられる祈りであるためには、何が必要ですか。
答え 第一に、私たちがみ言葉のうちにご自身を私たちにあらわしてくださった、唯一のまことの神に向かってだけ、彼が私たちに求めるようにお命じになったすべてのものを心から請い求めることです。(145:18-20,ヨハネ4:22-24,ローマ8:26-27,ヤコブ1:5,ヨハネ(1)5:14-15)
  次に、私たちが自分自身の困窮と悲惨とを深く悟って、神の尊厳の前にへりくだることです。(歴代誌下7:14,2:11,34:18,62:8,イザヤ66:2)
  第三に、私たちが、神はみ言葉のうちに私たちに約束してくださったように、私たちがそれに値しないにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、私たちの祈りを確かに聞き入れようとしていてくださるという揺るぎない確信をもつことです。(ダニエル9:17-19,マタイ7:8,ヨハネ14:13-14,16:23,ローマ10:13,ヤコブ1:6)              (「ハイデルベルグ信仰問答」1563年)