2015年12月14日月曜日

12/13こども説教「確実なものを」ルカ1:1-4

 12/13 こども版 ルカ福音書 1:1-4
『確実なものを』      

1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
(ルカ福音書 1:1-4

  1節。「私たちの間に成就された出来事」と聖書は報告しはじめます。それは、イエス・キリストについての出来事です。キリスト教の信仰は、誰かが自分の頭の中で考えついたことではなく、本当に起こった出来事の上に積み上げられてきました。それを私たちは見落としてはなりません。福音伝道者たちは、この神さまの出来事を人々に告げることをこそ自分の第一の役割としました。その目で見たこと、耳で聞いたこと、伝えられたことを、彼らは忠実に語りつづけました。神の独り子が地上に降ってこられ、私たちのために生き、私たちのために死んで葬られ、私たちのために墓から復活してくださったこと。彼ら弟子たちが見ている目の前で天に上っていかれたこと。また、そのとき、白い服を着た御使いたちが弟子たちに語りかけました。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒行伝1:11)
  4節「すでにお聞きになっていることが確実であることを、これによって十分に知っていただきたい」。すでによくよく聞き重ねてきたはずの教えが確実なものであることを、ローマ帝国の役人テオピロも子供たちも、大人である私たち自身も、ちゃんと十分に分かりたい。「頭ではなんとなくは分かりますが」なんていつまでも言い続けているばかりでなく、心でも、普段のいつもの暮らしぶりや人との付き合い方や腹の思いによっても()よくよく分かりたい。しかもなお、神さまの現実が私たちの只中で実現したのです。例えばピリピ手紙2:5-11は、本当には何を証言していたのか。救い主イエスは「十字架の死に至るまで父なる神さまに従順だった」とはっきりと告げていました。固執せず、自分を無にし、へりくだって、最後の最後まで御父に素直に従いとおしたと。4040夜さまよった荒れ野でも悪魔の誘惑をすべて退け、十字架の上でも「降りてこい。救い主なら自分で自分を救ってみろ」とバカにされても笑われても、そこから降りないでくださった。罪人を救うために、自分を自分で救わないことを断固として選び取って。その前夜、ゲッセマネの園では、いったい何が起こったでしょう。「けれど私の願いではなく、あなたの御心にかなうことを」(マタイ福音書26:39,27:40-42参照)と、どこまでも御父に素直に従い抜いてくださった。その救い主イエスが殺され葬られ、三日目に墓から復活なさった。それで、だからこそ確かに、「この私たち一人一人もまた頑固で自分勝手な古い自分と死に別れて、新しい生命に生きる。必ずそうなる」と約束されています(ローマ手紙6:1-16参照)。死んで復活なさった救い主イエスが語りかけます。「私は平安を残し、私の平安をあなたがたに与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。また、おじけるな」「安らかであれ」(ヨハネ福音書14:27, 20:19,21)と。



◎とりなしの祈り

  世界とその中に満ちるすべてのものを造り、持ち運び、救い主イエス・キリストのご人格と御業をもって世を治めつづけておられます父、子、聖霊なる神さま。人々と生命あるすべてのものたちのあらゆる欠乏と困窮のために祈ります。どうか地上にあなたの御旨を行い、すべてあなたによって造られたものたちの中に救いの力を現してください。あなたの御心を行うために立てられた、責任あるすべての者たちを正しく導いてください。国家と政府与党とすべての政治家と官僚職員を、地方行政団体の職員とその首長たちを、また裁判所裁判官と検察官と警察職員と、社会福祉と医療に携わるすべての職員たちと、子供の父親母親たちを、そしてすべてのキリスト教会とクリスチャン一人一人をあなたの御心にかなって善い働きができるように強く導きつづけてください。どうか主よ、私たちを憐れんでください。
  私たち自身と身近な人々のためにも祈ります。さまざまな人々が共存する地域社会の中に、互いの人権と自由が重んじられ、福祉と労りの心が増し加えられていきますように。国籍、民族、文化、宗教、習慣が少しずつ異なっていてもなおそれらを互いに敬い合い、助け合うことができますように。主よ、私たちを憐れんでください。
  心と体に痛みをもつ人々のために祈ります。あなたからの慰めと癒しをお与えください。片隅に押しのけられ、心細く生きる人々をあなたが顧みておられますことを、私たちも知らされております。苦しみと悩みの中にあってもなお希望と勇気をもって耐えることができますように。また、それらの人々を支えて共に生きる家族と友人たちを、あなたの慈しみの御手をもって心強くお支えください。私たちを、主よ、どうか憐れんでください。
 ですから主よ、今こそ救い主イエスの光を照り返して、私たち自身を世のための光、この地上のための塩としてください。自分自身の小さく狭い世界に閉じこもることを私たちに止めさせて、この私たち自身を丘の上に建てられた町としてください。燭台の上に、私たちを据え置いてください。主イエスの明るく輝く光を照り返して、家の中のすべてのものを照らし出させ、この国とこの世界と私たち自身の暮らしの隅々にさえ、主イエスの福音の光を強く照らし出させてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




付録/ 国家や社会に対してもまた、
キリスト教会は「地の塩。世の光」と しての使命と責任を負う。
        ~基本的な在り方について~


 1.『アベ政治を許さない』チラシを教会正面から外し、牧師住居前に移動させ、また「牧師 金田聖治」とチラシに添え書きします。誤解も受けやすい、やや過激な文面でもあり、十分な協議や説明もないまま掲示していたことを反省し、お詫びをいたします。

 2.キリスト教会の使命と責任とは全世界に及び、生活のすべての領域と分野に関わります。それは、神さまのご性質と直結しています。天と地と世界のすべてをお造りになった神であり、イエス・キリストの救いの御業は「生命あるすべてのもの」に及ぶからです。また、教会の頭であられる主イエス・キリストは天地万物の上に立つ、王の王、主の主であられるからです(マタイ福音書11:27,28:18-20,コリント手紙(1)15:24-28)。それゆえ国家や社会に対しても、キリストのものである教会は(当然ながら、一人一人のクリスチャンもまた「地の塩。世の光」として福音の光を輝かせ、「上に立てられた公けの諸権威」が健全に務めを果たすように見張りの役割を担い、主のご委託に応え、御心にかなって主に仕えて働くようにと命じられています。
 よって例えば、日本キリスト教会は『安全保障関連法案採択に対する反対声明』を2015717日付けで大会議長名義で発表し、「わたしたち日本キリスト教会は、716日、安倍内閣が衆議院本会議において、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障法案の採択を強行し、可決に至らせたことに深く憂慮し、反対し、強く抗議するものであります。・・・・・・わたしたちはこの法案の廃案を要求いたします」と言い表しました。また、10月の定期大会でも、『私たちは沖縄県内の新基地建設に反対する』声明文を採択し、「私たちは沖縄を差別して踏みにじっている日本国政府に無意識に同調して、結果として差別に加担してきたことを、神の前に悔い改めざるをえない。沖縄の人々とともに、沖縄県内の新基地建設反対の声をあげ、政府にその計画の撤回を求める」と公けに言い表してきました。キリストの教会とはこのように立つ教会であり、私たちの日本キリスト教会もまた、主なる神さまとこの世界に対してこのような使命と責任を担って立つ教会の一つです。
  (* 『日本キリスト教会 教会員の生活』の「社会生活」の項目(2003年改訂版。p83-104参照)、および同書末尾「現代日本の状況における教会と国家に関する指針」(1987年、日本基督教会大会で採択)。「福音時報」201511月号、枝松博展牧師の文章。「キリスト新聞」2015125日付け、柴田智悦牧師の文章を参照のこと)
3.「政教分離」についての誤解。正しくは、これは個々人の「信教の自由」を守り、保障することとひと組の考え方です。とくに政治権力に対して、特定の宗教団体を援助、あるいは圧迫しないよう定めた原則です。日本国憲法第20条第1項、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。第2項、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式、又は行事に参加することを強制されない」。第3項、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」。かつて大日本帝国憲法下では、神社神道が国教並みの地位を与えられ、手厚く保護されていました。神社は、国家儀礼、国民道徳の源とされ、思想の統制が進められ、神社神道以外の宗教・宗派に対する迫害や抑圧、弾圧が行われていきました。政治権力が自分にとって都合の良い特定の宗教を利用して、国民を愛国主義・軍国主義へと煽っていったのです。その反省の上に立って、日本国憲法は、国家権力に対してそうした行為をきびしく禁じ、制限を加え、タガをはめています。これが、「政教分離」の基本精神です。

(日本キリスト教会 上田教会小会)