2020年8月26日水曜日

われ、弱くとも ♪おどり出る姿で

 われ、弱くとも13        (お試しサンプル品 賛美歌21-290)

 ♪ おどり出る姿で 

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21-290番、こども讃美歌81番『踊り出る姿で』です。この歌は、いつのまにか硬く強ばってしまった私たちの心を、やわらかく解きほぐしてくれるかもしれません。澄ま~した真面目な顔をして、お行儀よくして、ただただ静かに落ち着いているのが神さまを信じる態度かと誤解していました。そういうときもあり、まったくそうじゃないときもあったのか。まず、繰り返しの部分を見てください。「踊れ輪になって、リードする主と共に。福音の喜びへと招かれた者は皆」。喜ぶこと、歌うこと、踊ること。それらは古くから神さまからの恵みを味わう手段や道具とされました。「踊れ、踊れ」と誘われ、命じられています。じゃあ、誰が踊るようにと促されているのか。「福音の喜びへと招かれたである者ならば、その皆、その全員が」と。それはもともとあふれるような喜びだったのです。体中を熱い血が駆け巡るような、わあっと叫び出したくなるような、居てもたってもいられないような。じゃあ試しに、最後にこの歌をごいっしょに歌うとき、ただ歌うだけじゃなく、歌いながら、いっしょに踊ってみましょうか。思い切って。どうです? 人前で踊りなんか踊ったことがないって人もいるでしょう。でも夜中だし、そばに誰も見ていない。しかも人様の前でばかり生きている私たちじゃありません。誰が見ていようがいまいが、誰が聞いていようがいまいが、神さまの御前で、神さまに向かって生きている私たちです。へんてこりんなタコ踊りイカ踊りみたいになったっていい。自由に思いのままに踊ってみましょう。だって、私たちはそういうふうに招かれていました。ねえ、福音の喜びへと招かれた私たちです。あふれるような喜びを何度も何度も味わってきた私たちです。体中を熱い血が駆け巡るような、わあっと叫び出したくなるような、居てもたってもいられないような福音の喜びを。救われた者たちの格別な感謝と信頼と希望を。じゃあ本当に約束ですよ、最後に踊ってみること。

 さて、その福音の喜びへの招きが、1節から5節まででやや駆け足に思い起こされます。1節、「踊り出る姿で主イエスは、神がすべて造られた日も、飼い葉桶に生まれた夜も、喜びを告げた」。最初のクリスマスの夜と、世界創造の7日間。あのクリスマスの夜、飼い葉桶の中の赤ちゃんを見て、羊飼いと羊たちが喜びにあふれました。小屋に居合わせた馬や家畜たちも、マリアとヨセフも。そして東の国から来た占星術の博士たちも。世界創造の7日間、それを喜び祝ったのは神さまご自身です。「見て良しとされた。見て良しとされた。見て良しとされた。そして6日目に、神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。よし、とてもいい。ああ良かった、とても嬉しい。神さまは、その喜びを決してお忘れになりません。だからこそご自分で造り、喜んだものたちを、この世界を1つ1つの生命を決して見捨てることも見離すこともなさらない。しかも、その世界創造の喜びの1つ1つ「光あれ」「水の中に大空あれ。水と水をわけよ」も、「見て良しとされた。見て良しとされた。見て良しとされた」「見よ、それは極めて良かった」も、どれも皆主イエスの喜びであるというのです。聖書は証言します;「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。……言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1:1以下)

 歌の2節と3節は、救い主イエスのお働きの始まりです。まず2節。片田舎の湖のほとりで漁師たちを弟子としたこと。「ついて来なさい」と招かれて、彼らは主イエスに従いました。私たちもそうです。「ついて来なさい」と招かれて、彼らも私たちも主イエスに従いました。3節。「きよい安息日に主イエスは歩けない人立ち上がらせ、律法やぶると責められても、御心に生きた」。主イエスはおりおりに人里離れた寂しい場所に退き、弟子たちからも距離を置いて、ただ独りで祈りました。御父の御心に従って生きるためには、そのように祈りつづける必要がありました。「父とわたしは1つである」と仰り、また「父から命じられたこと以外、私は一切なにもしない」(ヨハネ5:19,17:22参照)とまで仰いました。ゲッセマネの園で主イエスは「この苦い杯を取りのけてください。しかし私の願い通りではなく、あなたの御心のままになさってください」と祈りました。御心に生きるとはこのことです。十字架の前の晩ばかりでなく、主イエスはずっとそのように祈りつづけておられたことが分かります。私たちも同じく御父に信頼を寄せ、そのように生きることができます。どんなことでも願っていいのです。「~してください。~はしないでください。~と、~と、~と」と山ほど並べ立ててもいいでしょう。そして必ずこう付け加えます、「しかし私の願いどおりではなく、あなたの御心に叶うことが成し遂げられますように」と。

 歌の4節は主イエスの十字架の死と葬りです。「暗い雲が光を閉ざし、神の御子が釘づけられて、悪が力を振るう中も御業は進んだ」。まったくその通りでした。「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトに問われたとき、「それは、あなたが言っていることです」と主イエスは答えました。さまざまな訴えがなされつづけました。けれど何も答えないので、ピラトは不思議に思いました。何かを答えることによってではなく、何かを行ってみせることによってでもなく、ここからは、ご自身の死と葬りと復活によって主はお答えになるのです。人々はますます激しく「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び立てました。ローマ帝国の兵士たちは主イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶせ、「ユダヤ人の王、万歳」とあざけり笑い、葦の棒でその頭を叩き、つばを吐きかけ、ひざまずいて拝んでみせました。通りかかった人々は頭をふりながらイエスを罵って言いました。「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。祭司長や立法学者たちもイエスを侮辱しました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。暗い雲が光を閉ざし、神の御子が釘づけられて、悪が力を振るう中も御業は進んだ。神の独り子イエス・キリスト。その十字架の死と復活による救い。それは神さまから私たちへの愛の出来事だった、と聖書は語ります。「キリストは罪人たちのために、ただ1回苦しまれた。ただしい方が、ただしくない者たちのために苦しまれた。あなたがたを神のもとへ導くために」(ペトロ(1)3:18)。あの苦しみは罪人たちのためでした。罪人たちとは誰のことでしょうか? ただしい方がただしくない者たちのために苦しまれた。ただしくない者たちとは誰のことでしょう。あなたがたを神のもとへと導くために。あなたがたとは誰と誰と誰のことでしょうか? 主イエスはなんだそれはと小馬鹿にされ、あざけり笑われています。「十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えないのか。今すぐ、十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。この誘惑こそ、主イエスによる救いの出来事に対する最後の、最大の誘惑でした。けれど兄弟たち。私たちの主イエスは、『十字架から降りない』ことを決断なさいました。『自分で自分を救うことを決してしない』と腹をくくったのです。礼拝説教の中でも祈りの最中でも、普段のいつもの会話でも、「人間は罪深い。私たちの罪」と語られつづけて、そのとき、それを何か抽象的なことと思ってはなりません。ただの理屈や建前などと聞き流してはいけません。なぜなら兄弟姉妹たち、ずいぶん偉そうな、分かったふうな顔をしている私たちです。「罪深い私です。ふつつかで愚かな私です。主からの恵みに値しない私たちです」とスラスラ言いながら、その舌の根も乾かないうちに、軽々しく人を裁いている私たちです。「あの人はだらしない。自分勝手だ。この人はふつつかだ。この人はなんて愚かなんだろう。あの彼らはまったく値しない」と値踏みをし、冷ややかな批判を並べ立てる。「教会は罪人たちの集団にすぎない。ゆるされてなお罪深くありつづける罪人たち? なるほど確かに。私も罪深いが、けれどあの人の方が私の3倍も4倍も罪深い」と言うのでしょうか。「私にも勿論ふつつかな所やいたらない点もほんの少しはあるかも知れないが、だってほら、あの人の方が、私なんかより遥かにふつつかでいたらない」などと、いったいどうして言えるのでしょうか。あのとき人々は「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びたてていました。その憎しみの叫びはますます大きく、ますます激しくなっていきました。今日でもなお人々は、いいえこの私たち自身も、「私の体面。私の体裁や面子」と叫びたてつづけます。「私の働きと努力と甲斐性が私を救った。私の勤勉実直さと有能さと気立てのよさが、つまり、私は自分で自分自身を救った」などと。それで得意になったり、目の色を変えて怒ったりガッカリしたり。放っておけば四六時中、朝から晩までそんなことをソロバン勘定しつづけ、「面目が立った。倒れた。面子が保たれた。いいやこれでは面子丸つぶれだ」などと一喜一憂しつづけます。私の体面や体裁が保たれさえすれば幸せになれる、と思い込んで。もしそれを失ってしまえば私は惨めで情けない、と思い込まされて。けれども兄弟たち。神さまご自身が、その独り子を、十字架に引き渡したのだと聖書は告げます。あの時、神様ご自身の面子も体裁も丸つぶれでした。神さまご自身の品格も格式も尊厳も、すっかり泥にまみれていました。暗い雲がしばしば光をすっかり閉ざしました。あのときも、その後も何度も何度も何度も。悪が力を振るう中も御業は進んだ。しかも進みつづける、昨日も今日も明日も。

 歌の5節、「重い墓石をもけやぶり、朝のひかり照り輝いて、踊りの主イエスはよみがえり、初穂となられた」。キリストの復活を話半分に聞き流しているクリスチャンもいるらしいです。そんな馬鹿なことがあるものか、生きてるうちが花なのさ死んだらそれでおしまいだと。そうでしょうか。いいえ違います。ちゃんとその先がある。聖書は証言します;「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。……キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。また、こうも告げられます、「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(コリント手紙(1)15:14-20,テサロニケ手紙(1)4:13-14)

 「踊れ」とわざわざ命じられているのは、心も体も寒さに強ばってしまいそうだからです。恐れて、萎縮して、小さく縮こまってしまいそうだからです。社会のルールやしきたりが私たちをガンジガラメに縛りつけます。儲かったとか、得をした利益があがったなどとお金のことしか考えない人々に囲まれて暮らしているからです。どれだけ働けるか、成果があがるか役に立つかどうかと、誰もが皆ソロバン勘定ばかりに心を奪われるからです。だからこそ踊れ、輪になってリードする主イエスと共に。福音の喜びと希望へと招かれ、招き入れられた者は皆。

2020年8月24日月曜日

8/23こども説教「お前たちは何者か」使徒19:11-20

 

 8/23 こども説教 使徒行伝19:11-20

 『お前たちは何者か』

 

19:11 神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされ た。12 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。13 そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。14 ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。15 すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。16 そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。17 このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた         (使徒行伝19:11-17

 

13-16節、「そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した」。似たようなことがいくつも報告されています。神さまの力を利用して、お金儲けをしようとしたり、悪いことをしようとしてひどい目にあったりなど。もちろん、そのとおりです。しかも、主イエスを信じる人々が苦しい困ったことに出会うとき、神さまはその人たちを憐れんで、助けてくださいます。「わたしはあなたがたに、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害を及ぼす者はまったくない」(ルカ福音書10:19,ローマ手紙8:31-34と主イエスが約束してくださったとおりです。お前たちは何者だと聞かれて、この私たちも、「主イエスの弟子です。神のあっわれみのおかげで、主イエスを信じるクリスチャンとしていただきました」と誰の前でも安心して答えることができます。たとえ悪霊たちが私たちを知らなくたって、神さまこそが私たちをよく知っていてくださるので、それで十分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8/23「神に信頼する」ルカ12:22-32

                  みことば/2020,8,23(主日礼拝)  281

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:22-32                        日本キリスト教会 上田教会

『神に信頼する』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:22 それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。23 命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。24 からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。25 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。26 そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。27 野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。28 きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。29 あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。30 これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。      (ルカ福音書 12:22-32)

 大勢の群衆がいっしょに聴いています。けれど特に、主イエスを信じて生き始めている弟子たちに向けて、主イエスが語りかけます。神に十分に信頼することについて。また神にこそ聴き従い、神から幸いを受け取りつづけて生きることについてです。まず24節、そして27-28節で、鳥たちや野の草花と見比べながら、私たち自身の幸いが説き明かされます。24節、「からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか」。そして27-28節、「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」。同じ121-7節でも、ほぼ同じようなことが語りかけられたばかりです。126-7節)「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」。とても難しい箇所です。しかも、信仰理解の根本の土台がここで問われています。解決しなければならない2つの問題があります、(1)鳥や草花よりも、私たち人間ははるかに優れているのかどうか。(2)仮に私たちが優れているとして、それならば「優れていて価値がある」ことが、神からより多くの好意や祝福を得、手厚く支えられ、多くの慈しみを受けて救われることの理由や根拠となるのかどうか。

(1)今日の箇所では(鳥と草花を例にあげて)「よく働いて何かの役に立ち、良いものを造り出している」かどうかが、優れていて価値があることの理由としてあげられています。カラスは種を撒くことも刈ることもしないし、納屋や倉を持っているわけでもない。けれど私たちは種を撒いたり、作物の世話をしたり、刈り取って収穫を納屋や倉に収めたりもする。カラスより、はるかに優れているじゃないかと。草花もまた紡ぎもせず、織もしない。けれど私たち人間は布を織ったり、さまざまな良いものを仕立てもする。それぞれ汗水流して労苦して、夜遅くまで精一杯に働きもする。だから少なくとも草花よりもカラスよりも、神さまからもっと良くしていただけるはずだと。――いかがでしょう。「主イエスご自身が仰っている言葉なので、このまま素直に受け取るべきだ」と考える人たちもたくさんいます。けれど私たちを導くために、主イエスもまた『人を見て法を説く』のです。話しかけている相手の性格や気質を考慮して、相手に応じて適切な言い方を用います。例えば自己主張とうぬぼれがとくに強かったペテロに対しては、わざと「この人たち(仲間の弟子たち)以上に私を愛するか」(ヨハネ福音書21:15と、ペテロがついつい拘ってしまう心の急所をついて問いかけました。また、そう問いかけるからと言って、彼らの愛情や誠実さの度合いを競争させようと願っているわけではないし、それを大事なことと見なしているわけではありません。むしろ、「ほかの弟子たち以上に」などと、そんな貧しい薄汚れた考え方をキッパリと投げ捨てさせ、自由で広々した慈しみ深い世界へ連れ出してあげたい。ここでも、働きや能力、仕事の実績などに応じて大きな良い報酬を与えるという考えは神ご自身にはまったくありません。神の思いとはあまりにかけ離れていて、むしろそれは私たち人間のいつもの考え方であり、社会や世の中の通常の慣わしです。聖書自身からこれまでよくよく習い覚えてきたとおりに、無償の愛とまったくの善意から、神はご自身が造ったすべての被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたすべてのもの)を区別なく、分け隔てなく尊び、慈しんでくださいます。だからこそ、命の尊さを悟る私たちでありたい。人間も他のすべての生き物も、白人だけでなく他のすべての有色人種もどの民族も、自国民も他国民も、男も女も子供もお年寄りも、さまざまな障害をもつ者も健常者も、分け隔ても区別もなくとても尊い。つまりは、自分たちに負けず劣らず、どの一つの小さな命もとても尊いと誰もが気づいている必要があります。

神さまのモノの考え方、神さまのその善悪や価値についての判断は、私たち人間の判断とまったく違っています。聖書は証言します、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ書55:8-9。この違いの前に深く慎み、へりくだりつづける私たちでありたい。

兄弟姉妹たち。神によって造られた私たちの在り方に対して、神は喜んだり悲しんだりなさいます。神のその価値判断は、律法にこそはっきりと示されています。私たちが神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶとき、御心にかなった生き方をしたいと願い、隣人に対して公正と憐みを行おうとするとき、それを喜んでくださる神です。そうではない在り方、神を憎み軽んじ、神に逆らおうとする在り方を、神は憎み、嘆きます。そうした最も価の少ない在り方や存在を「罪。罪人」と言い表してみましょう。驚くべきことには、神の御心からもっとも遠く、恵みと救いからとても離れている、救われるに価しないはずのその「罪人」をこそ救おうと、神は思い定めておられます。聖書はその救いの計画を私たちに打ち明けます、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(1テモテ手紙1:15と。その真理を知らされた主イエスの弟子の一人はへりくだらされ、低く身を屈めさせられて、直ちに、「この私こそが罪人の中の罪人、罪人の中の最たる者である」と告白しました。神のまったくの善意と愛を侮り、軽んじて踏みつけようとする罪人をこそ救うために、そのために救い主イエスがこの世界に遣わされました。どれだけ働き、役に立つか、どれほど優れているかなどとは何の関係もなしに、ただ愛し、ただ憐んで救う神です。「価なしに」「功績なしに」と聖書が何度も繰り返してきた救いの無条件は、こうして「神に逆らい、神の御心にはなはだしく背く罪人をこそ救う。罪人の中の罪人を、その最低最悪のロクデナシをさえ、ぜひなんとしても救いたい」という究極の憐みをこそ指し示しつづけます。

 (2)パリサイ人と律法学者たちのはなはだしい過ちと傲慢の歴史こそが、神の御心と、救いの根拠を私たちに教えます。長い間ずいぶん学び続けて、けれどパリサイ人と律法学者たちが理解することも受け取ることもできなかったことを、ついにとうとう私たちは理解し、受け取りました。『この自分こそが、価のなさと罪のもとにあるということ。自分には罪があるという自覚』です。しかも幸いなことに、神が憐みの神であり、罪人を憐れんで救うことも習い覚えさせられました。罪人を救うために、そのためにこそ救い主イエス・キリストがこの世界に降りて来られ、救いの御業を成し遂げてくださった。「何かができ、優れていて役に立つので良くしていただき、幸いを得て、救われる」のではなく、「ただ憐みを受け、恵みによって幸いを贈り与えられている」私たちです。救い主イエスを信じて、ただ恵みによって救われる自分であることもよく知らされています。神の民とされている根拠と中身は「神から贈り与えられた憐み」(1ペテロ手紙2:10,ルカ1:50,ローマ手紙9:16,11:31です。だからこそ、私たちに何かまさったところがあるのかと問いかけて、「絶対にない」とローマ手紙3:9-21は断言します。「まさったところ」とは、「神の御前での正しさであり、ふさわしさ」です。それらはない。なぜなら、私たちはことごとく「罪の下にあり」、「自分は罪人であるとはっきりと自覚している」からだと。

 先週の礼拝(ルカ福音書12:13-21で、「あらゆる貪欲に対してよく警戒しなさい」と命じられてたことは、なおまだ続いていました。傲慢は劣等感と淋しさから生み出されつづけます。むさぼりと貪欲は乏しさから、偽善は人への恐れと妬みからです。最初に見比べられていたカラスは種を撒くことも収穫を刈り取ることもなく、納屋や倉に財産を蓄えるわけでもない。それでもなおむさぼりや貪欲からは自由です。いったいどうしたわけでしょう。他方で、ずいぶん恵まれているはずの私たちは思い煩って、自分の寿命をわずかでも伸ばしたいと虚しく願ったり、さまざまな思い煩いに取りつかれて虚しく日々を過ごします。布を紡ぎもせず、着物を織ることもしない草花も同様でした。彼らもむさぼりや貪欲からもすっかり自由にされて、しかも素晴らしく着飾らせていただき、十分に装わせていただいている。他方で私たちはあくせくし、虚しく気を使いつづけている。この『思い煩いという病気』は、神に十分に信頼できないことから始まり、そこからどんどん症状が悪くなってゆくからです。神に十分に信頼できるためには、神が何でもできるおかたであることと、そのまったくの善意を知る必要があり、さらに「なにも求めない無償の、ただ恵みの愛と憐み」(「ジュネーブ信仰問答」問8-14を参照)が、主なる神さまから、この自分にも、注がれつづけていることを知る必要があります。親が子を愛するように、ただただ愛してくださっている。その憐みの愛を、救い主イエス・キリストによって知る必要があります。これこそが神への信頼の不可欠な土台であり、出発点です。価も功績もなしに、ただ恵みによって、キリスト・イエスによるあがないによって救われる出発点に、こうして私たちは立ち続けます。しかも、この同じ出発点で、「罪人を救うためにこの世界に来られた救い主イエス」と、「罪人である私」たちは、ついにとうとう出会うことができます。

 聖書の中で語られていることのすべてがすっかり分かるわけではありませんが、それでもなお、救い主イエスは私たちに救いへと至るただ一筋の道を指し示しています。救いの中身と根拠について、考えさせようとしています。スズメ1羽も、神の御前で忘れられていない。鳥も草花も、神の憐みを受け、十分な恵みにあずかります。それならば、この私たちも、ぜひそうでありたい。鳥も草花も私たちも神の憐みのもとに置かれてあり、救われるための根拠と土台は、ただただ「父の御心」です。30-31節、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。御国を下さること。神が王として生きて働き、その支配をご自身のものである世界全体に及ぼして、御力を発揮し、御心にかなうことを成し遂げつづける世界、そこが神の御国。その世界を私たちにくださるとは、そこに私たちを住まわせてくださるという約束です。「御国を求め」つづけて生きる者たちは、この自分が御心にかなって一日ずつを生きることを願います。それゆえ神に信頼し、聞き従い、救いとすべての幸いをただ神にこそ願い求め、神から受け取りつづけて生きることになります。

さて、ここで、「小さい群れよ、恐れるな」とわざわざ言い添えられています。ほどほどに大きく賢い者たちも、もちろん、そんなことで軽々しく安心してはいけません。なぜなら、その安心の土台として、ただただ神の憐みにこそ目を凝らしているからです。自分自身の小ささや大きさ、貧しさや豊かさは、すでに恐れを生み出したり安心を打ち消す不安材料ではありえません。なぜなら、神の御国を願い求めているからであり、神にこそまったく信頼を寄せているからです。「そうすれば、ほか一切はすべて添えて与えられる」ことも、とうとう理解し、受け止めているからです。もはや私たちは貪欲にむさぼる必要もなく、偽りの正しさを装う必要もなく、虚しく思い煩うことも過ぎ去りました。誰かを恐れることも、恐れさせることも過ぎ去りました。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」「神の国は、あなたがたの只中にある」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21

 

 






2020年8月21日金曜日

われ、弱くとも ♪いつくしみ深き

 

われ、弱くとも      (お試しサンプル品⑫ 讃美歌 312番)

 ♪ いつくしみ深き

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。1954年版讃美歌312番、賛美歌21493番、『いつくしみ深き』です。1954年版と賛美歌21、ほぼ同じです。よかった。150年も前から愛され、親しまれつづけてきた讃美歌ですね。びっくりです。それは素敵なメロディーとか言葉が美しいなどということを越えて、やっぱり「ああ、こういう救い主だし、こういう神さまだった」と私たちの心に刻ませるからだと思います。「慈しみ深き友なるイエス、慈しみ深き友なるイエス、慈しみ深き友なるイエス」と噛みしめ、噛みしめしています。本当に、このとおりの救い主ですね。

 さて先週読み味わいました讃美歌191番、「いとも尊き主はくだりて」の2節で「望みも1つ、業も1つ、1つの御糧ともに受けて、ひとりの神を拝み頼む」と歌っていました。それこそがキリスト教会と1人1人のクリスチャンが踏みしめて立っている土台です。ひとりの神を拝み頼んでいる私たちである。その中身と心は、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神、1つ思いになって働く3つの神さまを拝み頼んでいるという心です。三位一体なんて難しい言葉をわざわざ使わなくたっていい。なにしろ聖書自身がこの3つの神さまを証言しています。前にも話しましたが、ぼくに教えてくれた先生は、「縦並びに並んでいる神さまだよ、金田君。先頭に父なる神さま、次その後ろに子なる神イエス・キリスト、その後ろに聖霊なる神さま。主イエスも聖霊なる神さまもとても謙遜な、へりくだった低い心をもっておられる神さまで、自分が自分がとは仰らない。主イエスは、『父は父は』ともっぱら父のことを指し示す。『父から命じられたことだけを私はする』とまで仰る。聖霊なる神さまも、『主イエスは、主イエスは』と主イエスがどういうお方なのか、何を教え、何を成し遂げてくださったのかを教え、私たちに主イエスを信じる信仰を与えてくださる。父なる神さまもまた主イエスを指し示して、『これは私の心にかなう者。これに聞きなさい』と」。このように思いを合わせ、1つ心になって働く神さまです。ですから、この312番によって、私たちがもし救い主イエスの心がよく分かり、受け止め、このお方に全幅の信頼を寄せることができるとするなら、私たちは直ちにこの1つ思いになって働かれる3つの神さまの心を分かり、受け止め、この3つの神さまに全幅の信頼を寄せることができるということになります。聖書は証言しました;「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」、また主イエスご自身が仰います;「あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今からあなたがたは父を知る。いや、すでに父を見ている。私を見た者は父を見たのだ」(ヨハネ福音書1:17-18,14:7-9)

  それでもやっぱり、「主イエスは親しみやすくて好きだけど、旧約聖書の父なる神はなんだか気難しくて怒りっぽくて近づきがたい」と言う人たちがいます。でもせっかく主イエスを好きになり、信頼を寄せはじめたのなら、「私を見た者は父を見た。私を知っているなら、父を知っていることになる」と約束してくださったこのイエスさまの言葉にも信頼しましょう。主イエスだって、けっこう厳しいことを折り折りに仰った。父なる神は昔は気難しくて怒りっぽかったけど、今は角がとれて丸くなり、優しくなった? いいえ、まさか。最初から十分に慈しみ深かったのです。主イエスが太鼓判を押すように、また聖書自身が証言するように。もし旧約時代の神さまの心が頑固に見えたのなら、それは神を信じる人間たちの心や在り方のせいでしょう。彼らの了見の狭さや頑固さを、神ご自身の頑固さだと誤解したかもしれません。預言者ヨナの物語を読んだことがありますか。神を信じて生きる私たち皆を代表して、あの彼こそ飛びっきりに心が頑固で、了見が狭くて、意固地で分からず屋でした。「悪の都ニネベに出かけていって神の怒りと裁きを告げよ」と命じられたのにヨナは逃げました。捕まって、嫌々渋々ニネベに着いて、裁きと滅びを告げて回りました。貧しい人々から王に至るまで都の人々皆が悔い改め、神さまは彼らをゆるしてやりました。ここでようやくヨナの本心が暴かれました。4:1です、「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。『ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです』。主は言われた。『お前は怒るが、それは正しいことか』。……最後の最後に主は言われました。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから』。ニネベの都を惜しむ理由に、ぼくは耳を疑い、ギョッとして目を見張りました。本当にそう書いてあります。「反省したし、ちゃんとした人々だから」ではなくて、「右も左も弁えない人たちなので、それで惜しまずにいられない」。なんてことだろう、こういう神さまだったのかとつくづく嬉しかった。僕もニネベの人たちと同じだ。右も左も弁えないのに、滅びるままに捨て置くことなどできないと生命を惜しんでいただいたと分かりました。長々と紹介してしまいました。だって、父なる神さまの慈しみ深さが誤解されたままだとあまりに残念なので。

 さて、慈しみ深き友なるイエス。友だちだとはっきりと約束してくださったのは、ヨハネ福音書15:12以下です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。こう語られたことを僕はもう二度と決して忘れたくない。もちろん主人に従う僕だし、一生涯ず~っと、主イエスという先生に教わりつづける弟子なんだけど、でもその上であなたも僕も友だちにしてもらっちゃったんですよ。書いてあったとおりに、主イエスの友だちにしていただいてる理由と中身は3つです。(1)愛してもらっているし、友だちである私たちのために主イエスはご自分の命を捨ててくださったこと。(2)友だちなので、主イエスの命じる命令を私たちも行うし、行うことができるということ。(3)単なる僕ではなく友だちだという理由は、父から聞いたことを主イエスはすべてすっかり私たちに教えてくださっていること。このヨハネ福音書15章の後半部分は、「友だちだ」という言い方と少し噛み合わない、矛盾する中身を含んでいます。選んだし、任命した、私が命じることをあなたがたは行いなさいという命令。つまり、主イエスから委ねられ、任されている、なすべき仕事があるということです。へええ、クリスチャンってそういうものなんだ。主人に従う僕だし、主イエスという先生に教わりつづける弟子であり、その上で格別な友だちにもしていただいた。さらに、担うべき役割があり仕事を任せられている。12節と17節、読み上げたはじめと終わりに、「互いに愛し合いなさい」と命じられています。これが、選ばれ任命された仕事の中身です。不思議だし、とても面白いですね。こんな仕事、聞いたことがない。会社や職場の仕事や役割なんかとはだいぶん違う。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。はい、分かりました。よろしくお願いします、精一杯に務めさせていただきます。

 歌の1節の中に、1つだけ古い言葉が混じっていました。「などかは下ろさぬ、負える重荷を」。背負っている重荷をいったいどうして下ろさないんだね。はいはい、しばらくぶりでまた出てきました。例の、質問しているようでいて全然質問じゃない。その心は、「背負っている重荷を下ろせばいいじゃないか。なんでいつまでも大事そうに背負っているんだ。やめときなさい。さあ、降ろしなさい」という心です。マタイ福音書11章の末尾で、主イエス自身が勧めていました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。重荷をおろしなさいと勧めておきながら、その代わりに私の荷物を背負いなさい。その荷物はとても軽いし、そのおかげで楽~ゥに休むこともできるから。うまいこと言って騙してこき使おうとしていると思いますか。タチの悪いサギ師のペテンみたいに聞こえますか。矛盾しているし、つじつま合わないんですけれど本当のことです。ぼくも、そうしてもらった1人です。疲れはてていたし、どうしていいか分かりませんでした。背負いきれない重い荷物を背負っていました。主イエスのもとにきました。休ませていただきました。それは他のどこにもない、格別な安らぎでした。主イエスの荷物は軽くて軽くて安らかでした。うまく説明できませんけれど、本当でした。

 さて2節、3節。信頼していた友人に裏切られることはあります。家族や親兄弟からも見放される、それもあります。自分で自分にすっかり失望して、「なんてダメな自分なんだろうか」とガッカリすることもあります。多い昔に、はっきりと約束されました;「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8)。その通りで、ず~っとそうです。主イエスが十字架前夜、ゲッセマネの園で逮捕されたとき。、弟子たち皆が主イエスを見捨てて、散り散りバラバラに逃げ去りました。けれど主イエスご自身は、その弟子たちを見捨てることも見放すこともなさいませんでした。大祭司の中庭で、ペトロの挫折を主イエスは見ていました。「ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ福音書22:60-61)。どんな気持ちでペトロを見つめていたのか、私たち1人1人を主イエスがどう見つめてくださっているのかも、そこには書いてありません。書いていないけど、書いてある。しかも後から、それが誰の目にもはっきりと分かる時が来ます。私たちも、よくよく知っています。「慈しみ深き友なるイエスは我らの弱きを知りて憐れむ」。だからこそ、私たちは信じています。信頼を寄せ、このお独りの方の言葉に、朝も昼も晩も耳を傾けつづけます。幸いなときにも、思い煩いに飲み込まれてしまいそうな心細い日々にも。

 

 

2020年8月18日火曜日

8/16「あらゆる貪欲」ルカ12:13-21

 

                       みことば/2020,8,16(主日礼拝)  280

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:13-21                   日本キリスト教会 上田教会

『あらゆる貪欲』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。                  (ルカ福音書 12:13-21)

                                               

30:7 わたしは二つのことをあなたに求めます、

わたしの死なないうちに、これをかなえてください。

   8 うそ、偽りをわたしから遠ざけ、

貧しくもなく、また富みもせず、

ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。

   9 飽き足りて、あなたを知らないといい、

「主とはだれか」と言うことのないため、

また貧しくて盗みをし、

わたしの神の名を汚すことのないためです。(箴言30:7-9)

 まず13-15節です。主イエスは神の国の福音を語りつづけていました。どんな神なのか。神を信じてどのように生きることができるのかと。その大切な話をさえぎって、主イエスに語りかける者がいました。「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。主イエスは彼と、周囲の人々に向かっておっしゃいました。「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか。あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。救い主イエスはあの彼と私たちの心の中を見抜いて、警告をお与えになります。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい」と。欲が深すぎるのがあなたの難点だ。その貪欲こそがあなた自身を損ない、貧しく惨めにしている。「ああ、預金通帳の残高や、家や土地などの財産のことか」などと早合点してはなりません。それらは、貪欲の中身のごく一部分に過ぎません。富や財産、良い評判、社会的地位など、この世界のさまざまなものについ執着しすぎてしまう私たちです。それで、その虚しい執着の分だけ、心が鈍くされてしまいやすいからです。どんな神であられるのか。どういう私たちなのか。神から、どういう祝福と幸いを受け取っているのか。信仰をもってどのように生きることができるのか、それらすべてがすっかり分からなくなってしまうかも知れません。親から受け取るはずの自分の分け前、財産が増えるか減るかと気にかかってしかたがない彼です。けれど、その分だけ、神から一日分ずつの必要な糧をただ恵みによって贈り与えられて生きている自分であることはすっかり忘れています。すでに十分に豊かにされていることも、神への信頼も感謝も、すっかり忘れています。また、あの彼も私たち一人一人も裸でこの世界に生まれてきたのであり、やがて何一つも持たず、手ぶらで、裸で、この世界を去ってゆくものたちだということも、もちろんすっかり忘れてしまっています。さまざまな貪欲と、むさぼりの心が、私たちの目と心をくらまし、大切なことをわからなくさせています。だから彼も私たちも、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい」と命じられています。

 16-21節。そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。この金持ちの愚かさは、どこにあるのでしょう。どこがどう愚かだというのでしょう。自分が所有する畑が豊作でした。収穫したたくさんの作物をしまっておく場所が必要です。金持ちは思案しました。ああ、そうだ。大きな倉を建てて、そこに穀物や財産を皆しまっておこう。――ここまでは大丈夫なような気がします。格別に愚かだと思える点は見当たりません。金持ちは自分に語りかけます、「さあ、これから先、何年も生きてゆくための十分な蓄えができた。一休みして、安心して、食べたり飲んだりして楽しもう」。さあ困りました。蓄えをしておくことが悪いというのでしょうか。一休みすることがマズかったのでしょうか。食べたり飲んだりして楽しむことが愚かだと言うのでしょうか。まさか、楽しんではいけないとでも神さまは仰るのでしょうか。しかも、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる」。あんまりではありませんか。なんて意地の悪いことを仰る神でしょう。そもそも、21節、「自分のために宝を積んで、神に対して富む」とは、どういうことなのでしょうか。いつ、どんなふうにこの私たちは、神さまの御前で、豊かになったり貧しくなったり、賢くなったり愚かになってしまったりするのでしょうか。

 私たちは、主なる神さまが意地悪ではないことをよく知っています。神を信じて生きてきて、これまでの神との親しい付き合いの中でよくよく知らされています。冷酷な、きびしいだけの神ではありません。不公平な神でもなく、間違った不当なことをなさる神でもない。「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる」。恵み深い神、あわれみあり、怒ること遅く、いつくしみ豊かで、災いを思い返される神です(ヨナ書4:2,出エジプト記34:6,86:5,15。愛して止まない彼や私たちの生命をわざわざ取り上げたくはない。もちろんです。もし万一、仕方なしに私たちの生命を取り上げるとしても、今夜と言わず、2年後か3年後か、ずっと何十年も後のことにしてあげたいと思ってくださるはずの神です。「愚かな者よ、お前の命を取り上げる。それも今夜ただちに」と、わざわざそう告げねばならなかった理由があり、決して見過ごしにしてはならない事情があります。そうまで告げられなければ、あの彼も私たち自身も、目を覚ますことが出来ず、貪欲という手ごわい罠から決して救い出されないからです。

 「長い年分の食糧がたくさんたくわえてある」。神が、あの彼を憐れんで、ただ恵みによって倉にあふれるほどの食料を蓄えてくださいました。神がそれをなさった。もし、この一点を忘れるなら、あふれるほどの食料も財産も富も、さまざまな良いものも、皆すべて一切が彼と私たち自身のための災いとなるでしょう。とても大きな、はなはだしい災いとなるでしょう。

 「さあ安心せよ。食え、飲め、楽しめ」。神の憐みと慈しみのもとに留まっているのならば、神に対して安心していることができます。神を喜び、神にこそ感謝して、そのように飲み食いし、そのように喜び楽しむなら、私たちは幸いです。それなら、すっかり安心していてよいのです。そうであるなら、満ち足りるほど、たっぷりと楽しんでよいのです。けれどそうではなく、もし、いつの間にか神を抜きにして、神をそっちのけにして、自分たちの力と手の働きでこの富を築いたなどと思いあがってしまったならば、彼も私たち一人一人も、必ずきっと滅ぼされてしまうほかないでしょう。なぜ愚かなのか。なぜ貧しいのか。その目の前の豊かさや幸いやさまざまな富と財産のあまりに主なる神を忘れてしまう愚かさです。この世界のためにも私たちのためにも生きて働いておられる、その神を忘れてしまう貧しさです(申命記8:11-20を参照)

 

             ◇

 

 預言者ヨナのことを思い起こしましょう。預言者ヨナがニネベの町に遣わされ、町を行き巡りながら、「あの40日をへたなら、この町は滅びる」と呼ばわりました。するととても悪くて邪悪で、神を神とも思わないはずの王も人々も皆、悔い改めて、それぞれ悪い行いを離れました。「あるいは、もしかしたら神が憐れんでゆるしてくださるかも知れない」(ヨナ書3:9と思ったからです。神は彼らをゆるしてやりました。あのとき、預言者ヨナは別のことで2回つづけて怒って、それぞれ「お前は怒るがそれは正しいことか」と神から叱られていました。ヨナが最初に腹を立てたのは、ニネベの人々を神がゆるしてあげたこと。せっかく滅びを預言したのに人々が救われたので面子(メンツ=面目、体面。世間に対する体裁を意味する)が台無しにされたと怒った。2回目には心地よく涼んでいた木の木陰が奪われて、またヨナは怒った。神が二度も同じことを質問する、「あなたの怒るのは良いことであろうか」と。ああ、この自分も同じことをしつづけている、と気づかされます。私たちはそれぞれに豊かで、多くの『とうごまの木』を持っている。住む家があり、居場所があり、家族があり、心強く慰め深い友人たちがあり、わずかの財産も有り、折々の楽しみがあり、健康があり、一日ずつ生きるための生命が贈り与えられてある。私たちはそれらを愛し、喜び、惜しむ。けれど、ヨナが神から指摘されているように、面子やプライドや体裁、社会的な良い評判も含めて、そのすべて一切は神からの恵みの贈り物です。

 「愚かな者よ、お前の生命を取りあげる。それも今夜ただちに」と告げられるなら、私たちはなんと答えようか。「はい、わかりました。ありがとうございました」と私たちは感謝にあふれるだろうか。それとも、「いいえダメです。何の権利があって、そんなことをするのですか。誰に断り、いったい誰の許可を受けたのですか。絶対に渡しません。私の命は私だけのもの」と反論したくなるかも知れません。「まだまだ足りません。あと20年か、3040年したら考えてみても良いですが、今はダメです」と答えたくなるかも知れない。主なる神さまに対して、この私たちは、何と答えることができるでしょう。この件についての、神を信じて生きるものとしての賢さは、箴言30:7-9に言い尽くされます。「わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」。豊かさの中にも貧しさの中にも、それぞれ主に背く記念が潜んでいた。満ち足りて主を忘れるばかりでなく、貧しく身を屈めさせられながら、そこで主を忘れる危険がひそんでいました。あの金持ちがそうだったように。自分が正しく賢いつもりでいるときにも自分自身の愚かさを痛感させられるときにも、主を忘れ、主に背こうとしている自分がいます。預言者ヨナがそうだったように。神の民イスラエルが戒められていたように。この私たち自身も、普段のごく普通の生活の中で、主をわすれてしまう危険に直面します。

だからこそ、「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」と心から願っています。私の手の中のパン。それは、ただ恵みによって、私のために神が定め、神が贈り与えてくださったものです。その恵みと憐れみのパンをもって、神こそが私を養い支えてくださる。神こそが私と私の家族を担い、持ち運びつづけてくださる。だからこそ、贈り与えられた恵みのパンを喜ぶ喜びの一つ一つをもって、私たちは神へと向かいます。ありがとうございます。よろしくお願いいたしますと。「助けてください。支えてください。どうか、養い通してください」と、私たちは神へと向かいます。その信頼と、喜びと感謝こそが私たちのための賢さです。その願い求め、待ち望むまなざしこそが、私たちのための豊かさです。しかも、いつでもどこでも神の御前である。神の御前で、神に向かって、神の恵みと憐れみの真っ只中に、そこに生きる者たちとされました。だから、この私たちは心強い。だからこそ満たされて、心底から喜び祝うことができます。

 

 

 

 

 

 

8/16こども説教「多くの人々が主の言を聴いた」使徒19:8-10

 

 8/16 こども説教 使徒行伝19:8-10

 『多くの人々が主の言を聴いた』

 

19:8 それから、パウロは会堂に はいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。9 ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。10 それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。 (使徒行伝19:8-10

 

 その会堂で三カ月、別の場所で2年間、主イエスの弟子たちは主イエスから教えられたとおりに神の国の福音を宣べ伝えつづけます。よく耳を傾けて聞き、信じる人たちもおり、けれど別の人たちは、心をかたくなにしつづけるばかりで少しも信じようとしません。それは、今も同じです。けれど、主の言を聞く人々がいつづけるので、1人また1人と信じる人々が起こされつづけます。神さまが、語りつづける主の弟子たちを励ましつづけていることと、神ご自身が聞いている人々の聞く耳と心を開いて信じることができるようにしてくださっているからです。もう2000年以上もの間、同じことがずっと続いています。少し前に、「この町には私の民が大勢いる」(使徒18:10と打ち明けてくださったように、どの町にもどの町にも、あらかじめ神ご自身によって神の民とされている人々が大勢いつづけるからです。その人々を神さまは大切に思っておられ、御目を留められ、御耳を傾けつづけています。その人々を励まし、慰めたいと、神が心から願いつづけておられます。だからこそ、その一人一人のためにも、神はご自身のものである働き人たちを働かせ、励まし、力づけつづけておられるからです。

 

 

2020年8月14日金曜日

われ、弱くとも ♪主の食卓をかこみ

 

われ、弱くとも      (お試しサンプル品⑪ 21-81番)

 ♪主の食卓を囲み   

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。先週の「パン屑さえ」。今日の讃美歌、そして来週の「救いの君なる主イエスの」とつづけて聖晩餐の讃美歌を取り扱おうとしています。今日は賛美歌21-81番、『主の食卓を囲み』です。 まず、くりかえしの部分を見てください。「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように。マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように」。歌詞の右下に小さな文字で聖書箇所が記されています。暗号みたいに短く縮めた言い方で、Ⅰコリ、黙などと書いています。こういう書き方にもだんだんと見慣れていきますから安心しててください。コリント手紙(1)16:22とヨハネ黙示録22:20、聖書を開いて読んでみましょう。まずコリント手紙(1)16:22「マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」。そしてヨハネ黙示録22:20;「『然り、わたしはすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください」。このマラナ・タは主イエスの生まれ育った土地の独特な方言です。特に福音書の中で主イエスの言葉遣いをそのまま記録している所が何箇所もありました(マルコ5:41,14:36参照)。マラナ・タは「主よ、来てください」という祈りであり、願いでした。しかも繰り返しの歌詞は、「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように。マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように」。主イエスが来てくださいますようにではなく、主のみ国がと。救い主イエスはただ手ぶらで来るのではなく、来て、ただ何もなさらないのでもなく、神の国を携えて、神の国を引き連れて来てくださるのでした。神の国は、神さまが王さまである国です。そこで神さまが王として力をふるって、存分に生きて働いてくださるその領域、その現場です。主イエスの最初の宣教の言葉を覚えています。「時は満ち、神の国は近づいた。だから、悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15参照)。なぜ時が満ちたのか、どうして、どんなふうにして神の国が近づいてきたのか。神ご自身である救い主イエスが地上に降り立ち、神の国を述べ伝え、神さまの働きをこの地上で現実のものとしてくださったからです。ついにとうとう救い主イエスが神の国を携えて、私たちの世界に降り立った。だからこそ180度グルリと向きを変えてこの方へと向き直り、主イエスの福音を信じることができる。パンと杯を受け取りながら、「主イエスよ来てください。あなたのお働きを私たちの生活の只中に実現させてください」と願い求め、「確かに来てくださっている、神さまが生きて働いておられる」と魂に刻んでいます。歌の生命は、この繰り返しの言葉にあると思えます。「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように。マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように」と何度も何度も呼びかけ、祈り求めつづけている。呼びかけながら、その中身を1節、2節、3節と具体的に味わいつづけています。

 1節。「主の食卓を囲み、いのちのパンをいただき、救いの杯を飲み、主にあって我らはひとつ」。聖晩餐のパンと杯のことです。それは生命のパンだし、救いを与え、約束し、魂に刻ませる杯である。このパンと杯にあずかりながら、主イエスに結ばれ、主イエスの中に沈め入れられて私たちは1つのものとされつづける、と歌っています。その通りです。聖晩餐のとき、私たちの教会ではコリント手紙(1)11:23以下を毎回読み上げています;「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

 とくに後半の27節以下は、いつ聞いてもあまりに厳しくて、ぼく自身、身が縮む思いがします。ずいぶん前のことです。クリスチャンの1人の友だちは、あるときからずっと何年も何年も聖晩餐のパンと杯を受けられなくなりました。心が痛んで苦しくて、どうしてもパンと杯に手を伸ばせなくなったのです。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。ああ本当だ、あまりにふさわしくない自分だ、とうていパンと杯に値しない自分だと。この27節以下はあまりに危険な言葉です。ただ一方的に機械的に読み上げつづけるばかりなら、「ふさわしくない自分だ」と心を痛めたあの彼のように、次々とクリスチャンたちをつまずかせてゆくでしょう。じゃあ、27節以下は読まなければいいのか。いいえ、そうではないと思います。パンと杯の度毎に、毎回毎回、難題を突きつけられます。「ふさわしくないままでパンと杯を飲み食いする者は主の体と血に対して罪を犯すことになる。主の体のことを弁えずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」(コリント手紙(1)11:27-29)。弁えとは何でしょうか。自分のどこをどう確かめてみるのか、パンと杯に対するふさわしさとは何か。まず第一に、それは罪人に対する神さまの憐れみの取り扱いなのです。ただただ恵みによってしか、それに預かることができません。だからです。自分はふさわしい、十分に値すると思っている者こそ、ふさわしくない。自分自身のふさわしくなさを知ることこそ、神さまの御前での最善のふさわしさです。けれど、それはとても難しい。むしろ私たちは、神さまの憐れみ深さをよくよく知り、その寛大さと慈しみ深さとによくよく目を凝らすべきです。この一週間も、自分自身があまりに自己中心で身勝手で、度々心を頑固にしてきたことを思い起こすことができますか。ふさわしくないあなたです。だからこそ、そのあなたを神のゆるしのもとに据え置くために、救い主の十字架の死と復活が必要でした。ふさわしくない、値しないあなたを迎え入れるためにこそ、恵みのうちに生きさせるためにこそ、主イエスはその体を引き裂き、尊い血を流し尽くしてくださいました。ふさわしくない私だと分かるなら、ぜひパンと杯を受け取りなさい。あまりよく分からないなら、弁えも自分は全然足りないと知るなら、やがてはっきりと分からせていただくためにこそ、パンと杯をぜひ受け取りなさい。つまり、どちらにしても主イエスを信じて生きていきたいあなたならば、今日ここで、ぜひ受け取りなさい。パンと杯を差し出されて、困ったような、息苦しくて居心地が悪いような気がするクリスチャンたちがいます。「こんな私なんかがパンと杯をいただいていいのかしら。だって私はそんなに熱心でも誠実でもなかったし、神さまを信じる心もいい加減で、恵みを受け取るに値しないし、ふさわしくない気がする」と。おめでとう。やっと、とうとう分かったのですね。ふさわしくない値しない自分であると。それは良かった。知るべき残り半分は、どんな神さまなのかということです。とても気前がいい神さまなので、私たち人間のやり方とはまったく違うアベコベな取り扱いをなさるのです。貧しくて小さくて、とてもふつつかでいたらなくて、わきまえも足りない。そういうあなただからこそ、パンと杯をあげよう。ただただ恵みによって、救い主イエスの救いの御業を受け取りなさい。ぜひ、受け取ってもらいたい。恵みの場所からこぼれ落ちてしまいそうな、とても危なっかしいあなたなので、だからぜひパンと杯を受け取りなさい。そんなあなたでさえ、主イエスを信じて毎日毎日を心強く生き抜いてゆくために。まとめましょう――

1 ふさわしくない私。

2 とてもとても気前の良い神さま。

3 アベコベで、裏腹な取り扱い。

4 だからこそ恵み。まったくの恵み。以上。

 なぜ、パンと杯なのか? クリスチャンであるとは、どういう意味と中身なのか? 『主にあって我らは1つ』『主にあって我らは生きる』『主にあって我らは歩む』と歌っています。主にあって。それは、主イエスの福音に照らして判断し、選びとり、主の御心に従って生きるという中身です。神さまに従うにはどうしたらいいだろうかと、聖書を読みながら、何人かで語り合っていたことがありました。「主に従うか、自分の腹の思いに従うか、そのどちらかなんですね。両立はしないんですか。自分をすっかり捨てなきゃならないんなら、それはとても難しい」「すっかり、ではなくても良いです」「え?」「自分の思いよりも、主イエスが願うこと、喜んでくださることという判断や選択を、ほんの少し先立てるだけでいいです」「……ああ。それなら、なんとかなるかも知れない」神さまから要求されていたのは、そこまでです。ほんの少し先立て、少し優先させること。「すっかり捨てるなど出来ない。無理」とハードルを勝手にあげて、実際には、「したい。したくない。好き嫌い。気が進む、進まない。私の主人は私自身」などと自分の腹の思いにガンジガラメに縛られ、我を張り、どこまでも固執した私たちです。それで、『主にあって』も『我らは1つ』も有るはずがない。4人いれば4つ。50人いれば50、という自然の道理に屈服しつづける他ありません。平和も一致も、主イエスによって示された神の御心を先立て、私たち自身の欲求や願いを後ろに控えさせることによってだけ生みだされ、積み上げられていきます。それでもなお私や誰彼の思いを先立てるつもりか、あるいは? と私たちは問われます。問われつづけます。

 2節。「主の十字架を思い、主の復活をたたえ、主のみ国を待ち望み、主にあって我らは生きる」。3節。「主の呼びかけに応え、主のみ言葉に従い、愛の息吹に満たされ、主にあってわれらは歩む」。語りかけられていることを1つ1つ、本気になって考えてみます。主の十字架を思うこと。主の復活を喜びたたえること、そこに信頼と希望を託すこと。主のみ国を待ち望みながら日々を生きること。私たちに向かって語りかけつづける主の呼びかけに応えて生きること。主のみ言葉に従うこと。愛の息吹に満たされて、主にあって歩むこと。――どの程度、それができているのかと問われれば心細い気持ちになります。ああダメだ失格だ落第だなどと、いつものように嘆きはじめてしまいそうです。らくだが針の穴を通るよりも難しいなどと諦めてしまいたくなります。それなら、いったい誰が救われるのか。主イエスは仰っしゃいました。「当たり前だ。人間にできることではない。神にはできる。神にできないことは何一つない」(マルコ10:27参照)。あなたのためにも、この私のためにも神さまがそれらをぜひさせてくださろうとしています。そのための1人1冊ずつの聖書であり、讃美歌であり、傍らに座っている兄弟姉妹たちであり、聖晩餐のパンと杯です。主の十字架の死と復活をなかなか思うことのできない、主のみ言葉に背きつづける私たちだからこそ、なんとしてもパンと杯を受け取らねばなりません。できているからではなく、自分ではとても難しく、だから神さまにこそこの私のためにも恵みのみ業を成し遂げてしていただくために。神さまは、この私たちのためにも準備万端だそうです。祈りましょう。

 

2020年8月10日月曜日

8/9こども説教「救い主イエスを信じさせる洗礼」使徒19:1-7

 

 8/9 こども説教 使徒行伝 19:1-7

 『救い主イエスを信じさせる洗礼』

 

19:1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。7 その人たちはみんなで十二人ほどであった。       (使徒行伝 19:1-7

 

先週、アポロに対して起きた出来事18:24-26を参照のこと)と、ここである弟子たちに対して起きた出来事とはとても良く似ていて、一組です。アポロという名前の新しい伝道者は、神について知るべきことのほとんどすべてを知っていました。けれど大事な1つのことが欠けていました。この弟子たちもそうです。プリスキラとアクラ夫婦がアポロにその足りなかったことを伝えてあげたように、ここではパウロが彼らに同じことをしてあげました。2-5節、「彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた」。洗礼者ヨハネは悔改めのバプテスマを授けました。それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、救い主イエスを信じるように人々に勧めた。救い主イエスを信じる信仰です。授けられる聖霊は、そのことのために私たちの体の中で働きつづけてくださいます(*)。今日でも洗礼者ヨハネの洗礼を大切に受け止めながら、「父と子と聖霊の御名によって洗礼が授けられます」。それは、罪のゆるしを得させるために悔い改めを命じる洗礼。救い主イエスを信じさせる洗礼です(使徒2:36-39参照)

 

 

 

       (*)『補足/洗礼』

       洗礼者ヨハネが洗礼の秘儀を説明しています。ヨハネとともにすべての伝道者は「水」によって洗礼を授け、やがてそれに加えて救い主イエスご自身が「聖霊と火」によって洗礼を授けてくださると。私たちそれぞれが授けられた洗礼は、この両方の中身です。「水によって」、さらに「聖霊と火によって」十分な洗礼が授けられました。そのとき、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授ける」と告げられました。つまり、父・子・聖霊なる神ご自身がその人に洗礼を授け、聖霊をその人のうちに宿らせてくださいました。その聖霊こそが、主イエスを信じさせ、救いの御業を理解させ、その人を導いて神の御心にかなって生きることをさせつづけます。

  ルカ福音書3:16,ローマ手紙6:1-19,8:1-11,1コリント手紙12:3

 

8/9「いのちの道」詩篇16:5-11

 

            みことば/2020,8,9(召天者記念礼拝)  279

◎礼拝説教 詩篇 16:5-11                               日本キリスト教会 上田教会

『いのちの道』

 

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

16:5 主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。

あなたはわたしの分け前を守られる。

6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。

まことにわたしは良い嗣業を得た。

   7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。

夜はまた、わたしの心がわたしを教える。

   8 わたしは常に主をわたしの前に置く。

主がわたしの右にいますゆえ、

わたしは動かされることはない。

   9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。

わたしの身もまた安らかである。

  10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、

あなたの聖者に墓を見させられないからである。

  11 あなたはいのちの道をわたしに示される。

あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、

あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。  

                     (詩篇 16:5-11

                                               

8:31 もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

                                      (ローマ手紙 8:31-32)

 

 5-6節、「主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」。「嗣業(しぎょう)」とは、親や先祖から受け継いだ、家、土地や田畑、財産などのことです。それらを踏まえたうえで、なにしろ神さまご自身こそが神からの良い贈り物であり、私たちのための格別な財産です。「杯の中に受けるべきもの」と言い表し、杯の中の飲み物のように私の体と生命を養ってくれるものである。また、「あなたは私の分け前を守られる」と言い、そのように分け与えられた良いものを神ご自身が私のために守ってくださると告白し、自分自身と家族の幸いを神に感謝し、神を喜んでいます。これが、私たちの信仰の中身です。神さまから様々な祝福と幸いを受け取っているとしても、その幸いの一番の中身は神さまとの深く堅い結びつきであり、神さまが御自分自身を私たちに贈り与えてくださったことこそが、私たちのための最大の祝福であると。聖書は、この同じ一つの幸いを何度も何度も言い表し、私たちの心に刻ませます。例えば、「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう」。また、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか(詩27:1,ローマ手紙8:31-32。神が私たちの救いと幸いのために御自分自身を贈り与えてくださった。そのことは、神の独り子であられる救い主イエスの出来事に集中します。救い主イエスが十字架にかかって死なれ、その三日目に死人の中からよみがえってくださったことです。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。御子イエス・キリストと共に、必要なすべて一切を私たちに必ずきっと贈り与えてくださる。そのことをはっきりと知らされ、信じて、よくよく習い覚えさせられている私たちです。私たちの希望の中身は、ここにあります。

 7-9節、「わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである」。「私は動かされることはない」と、神を信じて生きてきたこの人は言います。動かされない。びくともしない。うぬぼれて、自分を過信しているのではありません。現実の厳しさを知らないのでもありません。この人は、神を信じて生きることの勘所をすでに手にしているのです。たしかに弱い私であり、危うい私である。手ごわく厳しい現実が次々と私の前に立ちふさがります。たとえそうであるとしても、それでもなお、この私は動かされない。つまり、たびたび揺さぶられるとしても、なお決して揺らいだままでは終わらないと言っているのです。それは、この人が見出し、受け取ってきた根本の土台にこそかかっています。(1)「私は主をほめまつる」;主をたたえ、讃美の歌を歌うことの真の意味は、《神さまの恵みと支えを受け取る》ことです。「さあどうぞ」と差し出され、「ありがとうございます」と受け取った良いモノに目を凝らし、味わい、自分の魂に刻み込もうとすること。それこそが主をたたえ、讃美の歌を歌うことの本質です。兄弟姉妹たち。神を喜ぶことや神に感謝することを忘れてしまった1人の淋しい人を思い浮かべてみてください。その人の足元には、いくつもの高価な贈り物が乱雑に放り捨てられ、けれどただ虚しく踏みつけられ、ちっとも顧みられません。「これ、本当に貰っていいんですか。わあ、嬉しい。ありがとう」と喜ぶ中で、その贈り物はその人のものとなります。(2)「夜はまた、わたしの心がわたしを教える」。主によって励まされ、主から諭しを受け取る大事な嬉しい出来事は、《夜》に起こります。それは夜にこそふさわしい。夜ごと夜ごとに。なぜなら日中、私たちはそれぞれとても忙しく、騒がしく、気もそぞろであり、バタバタと立ち働いています。もし誰かが励まそうとしても諭そうとしても、聞く耳を持ちません。夕暮れになり、夜になってようやく、私たちはそこで立ち止まり、鎮まって身を横たえ、耳を澄ませはじめます。夜、それは神さまからの恵みと祝福を受け取るべき時であり、豊かな収穫の時でもあります。若くて健康で生命にあふれ、忙しくバタバタ立ち働いている私たちはいま、《昼。日中の時》を過ごしています。やがて年を取り、体も心も衰え弱り、いくつかの病気を抱えるようになり、「そう無理もできないなあ」としみじみ思い、そこでようやく私たちは耳を澄ませはじめます。それは、私たちの《夜の時間》です。ついにとうとう私たちは神さまからの励ましを聞き分け、神さまからの諭しを受け取りはじめます。(3)「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ」;長年連れ添って、けれどいつの間にか心が互いに離れてしまった夫婦のように、「一緒にいる。一緒にいる」と言いながら、知らん顔をして互いにそっぽを向いているようならば、それは少しも共にいることになりません。向き合って、この人は何を考えているんだろうか、どういう人だろうかと言葉や心を交わしはじめて、そこでその2人はいっしょにいることをしはじめます。耳を澄まし、主からの諭しを受け取りはじめた私たちは、そこでようやく、生まれて初めてのようにして、主をいつでも自分の前に置き、主と向き合って生きる者とされます。主を自分の前に置き、主と向き合って生きる者とされて、そこでようやく主からの祝福と恵みと平安とを受け取る私たちです。このように願い求めます。「主が私たちを祝福し、あなたや私を守られるように。主がみ顔をもって私たちを照し、私たちを恵まれるように。主がみ顔を私たちに向け、それだけでなくこの私たち自身も自分の顔も心も神ご自身へと向け返し、そこで主なる神さまからの平安を贈り与えられますように」(民数記6:24-26参照)と。さて、「右」はすべての権能と力をもつ者の場所です。「救い主イエスが父なる神の右に座っておられる」と教えられてきました。父なる神から天地万物にかかわるすべて一切の権能を託されて、王としての職務を担って、父の右の座に座っておられます(マタイ11:27「すべてのことは父から私に任せられています」、同28:12「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を(御父から)授けられた」)。そのように、主こそが私の主であり王であられるかたとして傍らにいつづけてくださる。顔と顔を合わせるように相対し、向き合って初めて、そこでようやく主なる神さまと共にいることになります。

 10-11節。私たちそれぞれに、厳しく煮詰まった崖っぷちの日々があります。途方に暮れ、どんな解決策も見出せないように思える日々があります。今にも陰府に落ちようとする、自分自身の墓穴をまじまじと覗き込んでいるように思える日々が。ここで、「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」と、この人は深い信頼のうちに言い表しています。神さまへの信仰をもっていてもいなくても、私たちは誰でも病気にかかり、転んで怪我をし、やがていつの間にか年老いて、弱り衰え、それぞれの順番で死んでいきます。例外はありません。今まで簡単にできていたことが1つ、また1つと出来なくなり、衰えてゆく日々が来ることを。そのうえで、それでもなお、「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう」と晴れ晴れとして胸を張っています。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」と心は喜びにあふれます。ただ、信仰をもって生きる人間として私たちが知っていますことは、たとえ私たちが死んだ後でも、主なる神は、その私たちを忘れ去ることなく、私たちをそのまま放り捨てたままにすることは決してありえないことです。私たちの主であってくださる神は、再び私たちに新しい生命をもたらし、ご自身と共に喜ばしく生きさせてくださいます。この世界を造られた神がそれ以前から私たちを救いへと選び入れておられ、やがて終わりの日に死の川波を乗り越え、救い主イエスによる審判をへて、神の永遠の御国へと迎え入れられることになっている私たちです。そこで永遠に神さまと共に生きることになっている私たちです。これがいのちの道であり、私たちのための希望です。だからこそ彼らも私たちも、「主なる神さまの御顔を仰いで」満ち足ります。彼らも私たちも、「神の右の御手から」永遠の喜びを受け取ります。ご覧ください。死んでよみがえってくださった救い主イエスの御顔は、私たちのそれぞれの痛みと弱さと破れを知っていてくださる顔です。私たちをゆるし、憐れみの眼差しを惜しみなく注ぎかけてくださる顔です。厳しく責め立てられ、非難され、打ち叩かれるときに、私の右側に、そう弁護人の場所に立ってくださるのは、この方です。「主は右におられます」。この私に対しても、この世界に対しても、主であり、真実な王であってくださる方がおられます。ですから、今日ここに集まったこの私たちも、足を踏みしめて心強く立ちます。苦しみと悩み、痛みの只中にあっても、そこで喜びを見出します。私たちは支えられ、満たされます。なぜなら主なる神さまが、私たちを顧みつづけてくださいますので。