2020年8月24日月曜日

8/23「神に信頼する」ルカ12:22-32

                  みことば/2020,8,23(主日礼拝)  281

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:22-32                        日本キリスト教会 上田教会

『神に信頼する』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:22 それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。23 命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。24 からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。25 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。26 そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。27 野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。28 きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。29 あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。30 これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。      (ルカ福音書 12:22-32)

 大勢の群衆がいっしょに聴いています。けれど特に、主イエスを信じて生き始めている弟子たちに向けて、主イエスが語りかけます。神に十分に信頼することについて。また神にこそ聴き従い、神から幸いを受け取りつづけて生きることについてです。まず24節、そして27-28節で、鳥たちや野の草花と見比べながら、私たち自身の幸いが説き明かされます。24節、「からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか」。そして27-28節、「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」。同じ121-7節でも、ほぼ同じようなことが語りかけられたばかりです。126-7節)「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」。とても難しい箇所です。しかも、信仰理解の根本の土台がここで問われています。解決しなければならない2つの問題があります、(1)鳥や草花よりも、私たち人間ははるかに優れているのかどうか。(2)仮に私たちが優れているとして、それならば「優れていて価値がある」ことが、神からより多くの好意や祝福を得、手厚く支えられ、多くの慈しみを受けて救われることの理由や根拠となるのかどうか。

(1)今日の箇所では(鳥と草花を例にあげて)「よく働いて何かの役に立ち、良いものを造り出している」かどうかが、優れていて価値があることの理由としてあげられています。カラスは種を撒くことも刈ることもしないし、納屋や倉を持っているわけでもない。けれど私たちは種を撒いたり、作物の世話をしたり、刈り取って収穫を納屋や倉に収めたりもする。カラスより、はるかに優れているじゃないかと。草花もまた紡ぎもせず、織もしない。けれど私たち人間は布を織ったり、さまざまな良いものを仕立てもする。それぞれ汗水流して労苦して、夜遅くまで精一杯に働きもする。だから少なくとも草花よりもカラスよりも、神さまからもっと良くしていただけるはずだと。――いかがでしょう。「主イエスご自身が仰っている言葉なので、このまま素直に受け取るべきだ」と考える人たちもたくさんいます。けれど私たちを導くために、主イエスもまた『人を見て法を説く』のです。話しかけている相手の性格や気質を考慮して、相手に応じて適切な言い方を用います。例えば自己主張とうぬぼれがとくに強かったペテロに対しては、わざと「この人たち(仲間の弟子たち)以上に私を愛するか」(ヨハネ福音書21:15と、ペテロがついつい拘ってしまう心の急所をついて問いかけました。また、そう問いかけるからと言って、彼らの愛情や誠実さの度合いを競争させようと願っているわけではないし、それを大事なことと見なしているわけではありません。むしろ、「ほかの弟子たち以上に」などと、そんな貧しい薄汚れた考え方をキッパリと投げ捨てさせ、自由で広々した慈しみ深い世界へ連れ出してあげたい。ここでも、働きや能力、仕事の実績などに応じて大きな良い報酬を与えるという考えは神ご自身にはまったくありません。神の思いとはあまりにかけ離れていて、むしろそれは私たち人間のいつもの考え方であり、社会や世の中の通常の慣わしです。聖書自身からこれまでよくよく習い覚えてきたとおりに、無償の愛とまったくの善意から、神はご自身が造ったすべての被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたすべてのもの)を区別なく、分け隔てなく尊び、慈しんでくださいます。だからこそ、命の尊さを悟る私たちでありたい。人間も他のすべての生き物も、白人だけでなく他のすべての有色人種もどの民族も、自国民も他国民も、男も女も子供もお年寄りも、さまざまな障害をもつ者も健常者も、分け隔ても区別もなくとても尊い。つまりは、自分たちに負けず劣らず、どの一つの小さな命もとても尊いと誰もが気づいている必要があります。

神さまのモノの考え方、神さまのその善悪や価値についての判断は、私たち人間の判断とまったく違っています。聖書は証言します、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ書55:8-9。この違いの前に深く慎み、へりくだりつづける私たちでありたい。

兄弟姉妹たち。神によって造られた私たちの在り方に対して、神は喜んだり悲しんだりなさいます。神のその価値判断は、律法にこそはっきりと示されています。私たちが神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶとき、御心にかなった生き方をしたいと願い、隣人に対して公正と憐みを行おうとするとき、それを喜んでくださる神です。そうではない在り方、神を憎み軽んじ、神に逆らおうとする在り方を、神は憎み、嘆きます。そうした最も価の少ない在り方や存在を「罪。罪人」と言い表してみましょう。驚くべきことには、神の御心からもっとも遠く、恵みと救いからとても離れている、救われるに価しないはずのその「罪人」をこそ救おうと、神は思い定めておられます。聖書はその救いの計画を私たちに打ち明けます、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(1テモテ手紙1:15と。その真理を知らされた主イエスの弟子の一人はへりくだらされ、低く身を屈めさせられて、直ちに、「この私こそが罪人の中の罪人、罪人の中の最たる者である」と告白しました。神のまったくの善意と愛を侮り、軽んじて踏みつけようとする罪人をこそ救うために、そのために救い主イエスがこの世界に遣わされました。どれだけ働き、役に立つか、どれほど優れているかなどとは何の関係もなしに、ただ愛し、ただ憐んで救う神です。「価なしに」「功績なしに」と聖書が何度も繰り返してきた救いの無条件は、こうして「神に逆らい、神の御心にはなはだしく背く罪人をこそ救う。罪人の中の罪人を、その最低最悪のロクデナシをさえ、ぜひなんとしても救いたい」という究極の憐みをこそ指し示しつづけます。

 (2)パリサイ人と律法学者たちのはなはだしい過ちと傲慢の歴史こそが、神の御心と、救いの根拠を私たちに教えます。長い間ずいぶん学び続けて、けれどパリサイ人と律法学者たちが理解することも受け取ることもできなかったことを、ついにとうとう私たちは理解し、受け取りました。『この自分こそが、価のなさと罪のもとにあるということ。自分には罪があるという自覚』です。しかも幸いなことに、神が憐みの神であり、罪人を憐れんで救うことも習い覚えさせられました。罪人を救うために、そのためにこそ救い主イエス・キリストがこの世界に降りて来られ、救いの御業を成し遂げてくださった。「何かができ、優れていて役に立つので良くしていただき、幸いを得て、救われる」のではなく、「ただ憐みを受け、恵みによって幸いを贈り与えられている」私たちです。救い主イエスを信じて、ただ恵みによって救われる自分であることもよく知らされています。神の民とされている根拠と中身は「神から贈り与えられた憐み」(1ペテロ手紙2:10,ルカ1:50,ローマ手紙9:16,11:31です。だからこそ、私たちに何かまさったところがあるのかと問いかけて、「絶対にない」とローマ手紙3:9-21は断言します。「まさったところ」とは、「神の御前での正しさであり、ふさわしさ」です。それらはない。なぜなら、私たちはことごとく「罪の下にあり」、「自分は罪人であるとはっきりと自覚している」からだと。

 先週の礼拝(ルカ福音書12:13-21で、「あらゆる貪欲に対してよく警戒しなさい」と命じられてたことは、なおまだ続いていました。傲慢は劣等感と淋しさから生み出されつづけます。むさぼりと貪欲は乏しさから、偽善は人への恐れと妬みからです。最初に見比べられていたカラスは種を撒くことも収穫を刈り取ることもなく、納屋や倉に財産を蓄えるわけでもない。それでもなおむさぼりや貪欲からは自由です。いったいどうしたわけでしょう。他方で、ずいぶん恵まれているはずの私たちは思い煩って、自分の寿命をわずかでも伸ばしたいと虚しく願ったり、さまざまな思い煩いに取りつかれて虚しく日々を過ごします。布を紡ぎもせず、着物を織ることもしない草花も同様でした。彼らもむさぼりや貪欲からもすっかり自由にされて、しかも素晴らしく着飾らせていただき、十分に装わせていただいている。他方で私たちはあくせくし、虚しく気を使いつづけている。この『思い煩いという病気』は、神に十分に信頼できないことから始まり、そこからどんどん症状が悪くなってゆくからです。神に十分に信頼できるためには、神が何でもできるおかたであることと、そのまったくの善意を知る必要があり、さらに「なにも求めない無償の、ただ恵みの愛と憐み」(「ジュネーブ信仰問答」問8-14を参照)が、主なる神さまから、この自分にも、注がれつづけていることを知る必要があります。親が子を愛するように、ただただ愛してくださっている。その憐みの愛を、救い主イエス・キリストによって知る必要があります。これこそが神への信頼の不可欠な土台であり、出発点です。価も功績もなしに、ただ恵みによって、キリスト・イエスによるあがないによって救われる出発点に、こうして私たちは立ち続けます。しかも、この同じ出発点で、「罪人を救うためにこの世界に来られた救い主イエス」と、「罪人である私」たちは、ついにとうとう出会うことができます。

 聖書の中で語られていることのすべてがすっかり分かるわけではありませんが、それでもなお、救い主イエスは私たちに救いへと至るただ一筋の道を指し示しています。救いの中身と根拠について、考えさせようとしています。スズメ1羽も、神の御前で忘れられていない。鳥も草花も、神の憐みを受け、十分な恵みにあずかります。それならば、この私たちも、ぜひそうでありたい。鳥も草花も私たちも神の憐みのもとに置かれてあり、救われるための根拠と土台は、ただただ「父の御心」です。30-31節、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。御国を下さること。神が王として生きて働き、その支配をご自身のものである世界全体に及ぼして、御力を発揮し、御心にかなうことを成し遂げつづける世界、そこが神の御国。その世界を私たちにくださるとは、そこに私たちを住まわせてくださるという約束です。「御国を求め」つづけて生きる者たちは、この自分が御心にかなって一日ずつを生きることを願います。それゆえ神に信頼し、聞き従い、救いとすべての幸いをただ神にこそ願い求め、神から受け取りつづけて生きることになります。

さて、ここで、「小さい群れよ、恐れるな」とわざわざ言い添えられています。ほどほどに大きく賢い者たちも、もちろん、そんなことで軽々しく安心してはいけません。なぜなら、その安心の土台として、ただただ神の憐みにこそ目を凝らしているからです。自分自身の小ささや大きさ、貧しさや豊かさは、すでに恐れを生み出したり安心を打ち消す不安材料ではありえません。なぜなら、神の御国を願い求めているからであり、神にこそまったく信頼を寄せているからです。「そうすれば、ほか一切はすべて添えて与えられる」ことも、とうとう理解し、受け止めているからです。もはや私たちは貪欲にむさぼる必要もなく、偽りの正しさを装う必要もなく、虚しく思い煩うことも過ぎ去りました。誰かを恐れることも、恐れさせることも過ぎ去りました。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」「神の国は、あなたがたの只中にある」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21