2020年8月18日火曜日

8/16「あらゆる貪欲」ルカ12:13-21

 

                       みことば/2020,8,16(主日礼拝)  280

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:13-21                   日本キリスト教会 上田教会

『あらゆる貪欲』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。                  (ルカ福音書 12:13-21)

                                               

30:7 わたしは二つのことをあなたに求めます、

わたしの死なないうちに、これをかなえてください。

   8 うそ、偽りをわたしから遠ざけ、

貧しくもなく、また富みもせず、

ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。

   9 飽き足りて、あなたを知らないといい、

「主とはだれか」と言うことのないため、

また貧しくて盗みをし、

わたしの神の名を汚すことのないためです。(箴言30:7-9)

 まず13-15節です。主イエスは神の国の福音を語りつづけていました。どんな神なのか。神を信じてどのように生きることができるのかと。その大切な話をさえぎって、主イエスに語りかける者がいました。「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。主イエスは彼と、周囲の人々に向かっておっしゃいました。「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか。あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。救い主イエスはあの彼と私たちの心の中を見抜いて、警告をお与えになります。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい」と。欲が深すぎるのがあなたの難点だ。その貪欲こそがあなた自身を損ない、貧しく惨めにしている。「ああ、預金通帳の残高や、家や土地などの財産のことか」などと早合点してはなりません。それらは、貪欲の中身のごく一部分に過ぎません。富や財産、良い評判、社会的地位など、この世界のさまざまなものについ執着しすぎてしまう私たちです。それで、その虚しい執着の分だけ、心が鈍くされてしまいやすいからです。どんな神であられるのか。どういう私たちなのか。神から、どういう祝福と幸いを受け取っているのか。信仰をもってどのように生きることができるのか、それらすべてがすっかり分からなくなってしまうかも知れません。親から受け取るはずの自分の分け前、財産が増えるか減るかと気にかかってしかたがない彼です。けれど、その分だけ、神から一日分ずつの必要な糧をただ恵みによって贈り与えられて生きている自分であることはすっかり忘れています。すでに十分に豊かにされていることも、神への信頼も感謝も、すっかり忘れています。また、あの彼も私たち一人一人も裸でこの世界に生まれてきたのであり、やがて何一つも持たず、手ぶらで、裸で、この世界を去ってゆくものたちだということも、もちろんすっかり忘れてしまっています。さまざまな貪欲と、むさぼりの心が、私たちの目と心をくらまし、大切なことをわからなくさせています。だから彼も私たちも、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい」と命じられています。

 16-21節。そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。この金持ちの愚かさは、どこにあるのでしょう。どこがどう愚かだというのでしょう。自分が所有する畑が豊作でした。収穫したたくさんの作物をしまっておく場所が必要です。金持ちは思案しました。ああ、そうだ。大きな倉を建てて、そこに穀物や財産を皆しまっておこう。――ここまでは大丈夫なような気がします。格別に愚かだと思える点は見当たりません。金持ちは自分に語りかけます、「さあ、これから先、何年も生きてゆくための十分な蓄えができた。一休みして、安心して、食べたり飲んだりして楽しもう」。さあ困りました。蓄えをしておくことが悪いというのでしょうか。一休みすることがマズかったのでしょうか。食べたり飲んだりして楽しむことが愚かだと言うのでしょうか。まさか、楽しんではいけないとでも神さまは仰るのでしょうか。しかも、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる」。あんまりではありませんか。なんて意地の悪いことを仰る神でしょう。そもそも、21節、「自分のために宝を積んで、神に対して富む」とは、どういうことなのでしょうか。いつ、どんなふうにこの私たちは、神さまの御前で、豊かになったり貧しくなったり、賢くなったり愚かになってしまったりするのでしょうか。

 私たちは、主なる神さまが意地悪ではないことをよく知っています。神を信じて生きてきて、これまでの神との親しい付き合いの中でよくよく知らされています。冷酷な、きびしいだけの神ではありません。不公平な神でもなく、間違った不当なことをなさる神でもない。「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる」。恵み深い神、あわれみあり、怒ること遅く、いつくしみ豊かで、災いを思い返される神です(ヨナ書4:2,出エジプト記34:6,86:5,15。愛して止まない彼や私たちの生命をわざわざ取り上げたくはない。もちろんです。もし万一、仕方なしに私たちの生命を取り上げるとしても、今夜と言わず、2年後か3年後か、ずっと何十年も後のことにしてあげたいと思ってくださるはずの神です。「愚かな者よ、お前の命を取り上げる。それも今夜ただちに」と、わざわざそう告げねばならなかった理由があり、決して見過ごしにしてはならない事情があります。そうまで告げられなければ、あの彼も私たち自身も、目を覚ますことが出来ず、貪欲という手ごわい罠から決して救い出されないからです。

 「長い年分の食糧がたくさんたくわえてある」。神が、あの彼を憐れんで、ただ恵みによって倉にあふれるほどの食料を蓄えてくださいました。神がそれをなさった。もし、この一点を忘れるなら、あふれるほどの食料も財産も富も、さまざまな良いものも、皆すべて一切が彼と私たち自身のための災いとなるでしょう。とても大きな、はなはだしい災いとなるでしょう。

 「さあ安心せよ。食え、飲め、楽しめ」。神の憐みと慈しみのもとに留まっているのならば、神に対して安心していることができます。神を喜び、神にこそ感謝して、そのように飲み食いし、そのように喜び楽しむなら、私たちは幸いです。それなら、すっかり安心していてよいのです。そうであるなら、満ち足りるほど、たっぷりと楽しんでよいのです。けれどそうではなく、もし、いつの間にか神を抜きにして、神をそっちのけにして、自分たちの力と手の働きでこの富を築いたなどと思いあがってしまったならば、彼も私たち一人一人も、必ずきっと滅ぼされてしまうほかないでしょう。なぜ愚かなのか。なぜ貧しいのか。その目の前の豊かさや幸いやさまざまな富と財産のあまりに主なる神を忘れてしまう愚かさです。この世界のためにも私たちのためにも生きて働いておられる、その神を忘れてしまう貧しさです(申命記8:11-20を参照)

 

             ◇

 

 預言者ヨナのことを思い起こしましょう。預言者ヨナがニネベの町に遣わされ、町を行き巡りながら、「あの40日をへたなら、この町は滅びる」と呼ばわりました。するととても悪くて邪悪で、神を神とも思わないはずの王も人々も皆、悔い改めて、それぞれ悪い行いを離れました。「あるいは、もしかしたら神が憐れんでゆるしてくださるかも知れない」(ヨナ書3:9と思ったからです。神は彼らをゆるしてやりました。あのとき、預言者ヨナは別のことで2回つづけて怒って、それぞれ「お前は怒るがそれは正しいことか」と神から叱られていました。ヨナが最初に腹を立てたのは、ニネベの人々を神がゆるしてあげたこと。せっかく滅びを預言したのに人々が救われたので面子(メンツ=面目、体面。世間に対する体裁を意味する)が台無しにされたと怒った。2回目には心地よく涼んでいた木の木陰が奪われて、またヨナは怒った。神が二度も同じことを質問する、「あなたの怒るのは良いことであろうか」と。ああ、この自分も同じことをしつづけている、と気づかされます。私たちはそれぞれに豊かで、多くの『とうごまの木』を持っている。住む家があり、居場所があり、家族があり、心強く慰め深い友人たちがあり、わずかの財産も有り、折々の楽しみがあり、健康があり、一日ずつ生きるための生命が贈り与えられてある。私たちはそれらを愛し、喜び、惜しむ。けれど、ヨナが神から指摘されているように、面子やプライドや体裁、社会的な良い評判も含めて、そのすべて一切は神からの恵みの贈り物です。

 「愚かな者よ、お前の生命を取りあげる。それも今夜ただちに」と告げられるなら、私たちはなんと答えようか。「はい、わかりました。ありがとうございました」と私たちは感謝にあふれるだろうか。それとも、「いいえダメです。何の権利があって、そんなことをするのですか。誰に断り、いったい誰の許可を受けたのですか。絶対に渡しません。私の命は私だけのもの」と反論したくなるかも知れません。「まだまだ足りません。あと20年か、3040年したら考えてみても良いですが、今はダメです」と答えたくなるかも知れない。主なる神さまに対して、この私たちは、何と答えることができるでしょう。この件についての、神を信じて生きるものとしての賢さは、箴言30:7-9に言い尽くされます。「わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」。豊かさの中にも貧しさの中にも、それぞれ主に背く記念が潜んでいた。満ち足りて主を忘れるばかりでなく、貧しく身を屈めさせられながら、そこで主を忘れる危険がひそんでいました。あの金持ちがそうだったように。自分が正しく賢いつもりでいるときにも自分自身の愚かさを痛感させられるときにも、主を忘れ、主に背こうとしている自分がいます。預言者ヨナがそうだったように。神の民イスラエルが戒められていたように。この私たち自身も、普段のごく普通の生活の中で、主をわすれてしまう危険に直面します。

だからこそ、「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」と心から願っています。私の手の中のパン。それは、ただ恵みによって、私のために神が定め、神が贈り与えてくださったものです。その恵みと憐れみのパンをもって、神こそが私を養い支えてくださる。神こそが私と私の家族を担い、持ち運びつづけてくださる。だからこそ、贈り与えられた恵みのパンを喜ぶ喜びの一つ一つをもって、私たちは神へと向かいます。ありがとうございます。よろしくお願いいたしますと。「助けてください。支えてください。どうか、養い通してください」と、私たちは神へと向かいます。その信頼と、喜びと感謝こそが私たちのための賢さです。その願い求め、待ち望むまなざしこそが、私たちのための豊かさです。しかも、いつでもどこでも神の御前である。神の御前で、神に向かって、神の恵みと憐れみの真っ只中に、そこに生きる者たちとされました。だから、この私たちは心強い。だからこそ満たされて、心底から喜び祝うことができます。