2020年8月14日金曜日

われ、弱くとも ♪主の食卓をかこみ

 

われ、弱くとも      (お試しサンプル品⑪ 21-81番)

 ♪主の食卓を囲み   

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。先週の「パン屑さえ」。今日の讃美歌、そして来週の「救いの君なる主イエスの」とつづけて聖晩餐の讃美歌を取り扱おうとしています。今日は賛美歌21-81番、『主の食卓を囲み』です。 まず、くりかえしの部分を見てください。「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように。マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように」。歌詞の右下に小さな文字で聖書箇所が記されています。暗号みたいに短く縮めた言い方で、Ⅰコリ、黙などと書いています。こういう書き方にもだんだんと見慣れていきますから安心しててください。コリント手紙(1)16:22とヨハネ黙示録22:20、聖書を開いて読んでみましょう。まずコリント手紙(1)16:22「マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」。そしてヨハネ黙示録22:20;「『然り、わたしはすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください」。このマラナ・タは主イエスの生まれ育った土地の独特な方言です。特に福音書の中で主イエスの言葉遣いをそのまま記録している所が何箇所もありました(マルコ5:41,14:36参照)。マラナ・タは「主よ、来てください」という祈りであり、願いでした。しかも繰り返しの歌詞は、「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように。マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように」。主イエスが来てくださいますようにではなく、主のみ国がと。救い主イエスはただ手ぶらで来るのではなく、来て、ただ何もなさらないのでもなく、神の国を携えて、神の国を引き連れて来てくださるのでした。神の国は、神さまが王さまである国です。そこで神さまが王として力をふるって、存分に生きて働いてくださるその領域、その現場です。主イエスの最初の宣教の言葉を覚えています。「時は満ち、神の国は近づいた。だから、悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15参照)。なぜ時が満ちたのか、どうして、どんなふうにして神の国が近づいてきたのか。神ご自身である救い主イエスが地上に降り立ち、神の国を述べ伝え、神さまの働きをこの地上で現実のものとしてくださったからです。ついにとうとう救い主イエスが神の国を携えて、私たちの世界に降り立った。だからこそ180度グルリと向きを変えてこの方へと向き直り、主イエスの福音を信じることができる。パンと杯を受け取りながら、「主イエスよ来てください。あなたのお働きを私たちの生活の只中に実現させてください」と願い求め、「確かに来てくださっている、神さまが生きて働いておられる」と魂に刻んでいます。歌の生命は、この繰り返しの言葉にあると思えます。「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように。マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように」と何度も何度も呼びかけ、祈り求めつづけている。呼びかけながら、その中身を1節、2節、3節と具体的に味わいつづけています。

 1節。「主の食卓を囲み、いのちのパンをいただき、救いの杯を飲み、主にあって我らはひとつ」。聖晩餐のパンと杯のことです。それは生命のパンだし、救いを与え、約束し、魂に刻ませる杯である。このパンと杯にあずかりながら、主イエスに結ばれ、主イエスの中に沈め入れられて私たちは1つのものとされつづける、と歌っています。その通りです。聖晩餐のとき、私たちの教会ではコリント手紙(1)11:23以下を毎回読み上げています;「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

 とくに後半の27節以下は、いつ聞いてもあまりに厳しくて、ぼく自身、身が縮む思いがします。ずいぶん前のことです。クリスチャンの1人の友だちは、あるときからずっと何年も何年も聖晩餐のパンと杯を受けられなくなりました。心が痛んで苦しくて、どうしてもパンと杯に手を伸ばせなくなったのです。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。ああ本当だ、あまりにふさわしくない自分だ、とうていパンと杯に値しない自分だと。この27節以下はあまりに危険な言葉です。ただ一方的に機械的に読み上げつづけるばかりなら、「ふさわしくない自分だ」と心を痛めたあの彼のように、次々とクリスチャンたちをつまずかせてゆくでしょう。じゃあ、27節以下は読まなければいいのか。いいえ、そうではないと思います。パンと杯の度毎に、毎回毎回、難題を突きつけられます。「ふさわしくないままでパンと杯を飲み食いする者は主の体と血に対して罪を犯すことになる。主の体のことを弁えずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」(コリント手紙(1)11:27-29)。弁えとは何でしょうか。自分のどこをどう確かめてみるのか、パンと杯に対するふさわしさとは何か。まず第一に、それは罪人に対する神さまの憐れみの取り扱いなのです。ただただ恵みによってしか、それに預かることができません。だからです。自分はふさわしい、十分に値すると思っている者こそ、ふさわしくない。自分自身のふさわしくなさを知ることこそ、神さまの御前での最善のふさわしさです。けれど、それはとても難しい。むしろ私たちは、神さまの憐れみ深さをよくよく知り、その寛大さと慈しみ深さとによくよく目を凝らすべきです。この一週間も、自分自身があまりに自己中心で身勝手で、度々心を頑固にしてきたことを思い起こすことができますか。ふさわしくないあなたです。だからこそ、そのあなたを神のゆるしのもとに据え置くために、救い主の十字架の死と復活が必要でした。ふさわしくない、値しないあなたを迎え入れるためにこそ、恵みのうちに生きさせるためにこそ、主イエスはその体を引き裂き、尊い血を流し尽くしてくださいました。ふさわしくない私だと分かるなら、ぜひパンと杯を受け取りなさい。あまりよく分からないなら、弁えも自分は全然足りないと知るなら、やがてはっきりと分からせていただくためにこそ、パンと杯をぜひ受け取りなさい。つまり、どちらにしても主イエスを信じて生きていきたいあなたならば、今日ここで、ぜひ受け取りなさい。パンと杯を差し出されて、困ったような、息苦しくて居心地が悪いような気がするクリスチャンたちがいます。「こんな私なんかがパンと杯をいただいていいのかしら。だって私はそんなに熱心でも誠実でもなかったし、神さまを信じる心もいい加減で、恵みを受け取るに値しないし、ふさわしくない気がする」と。おめでとう。やっと、とうとう分かったのですね。ふさわしくない値しない自分であると。それは良かった。知るべき残り半分は、どんな神さまなのかということです。とても気前がいい神さまなので、私たち人間のやり方とはまったく違うアベコベな取り扱いをなさるのです。貧しくて小さくて、とてもふつつかでいたらなくて、わきまえも足りない。そういうあなただからこそ、パンと杯をあげよう。ただただ恵みによって、救い主イエスの救いの御業を受け取りなさい。ぜひ、受け取ってもらいたい。恵みの場所からこぼれ落ちてしまいそうな、とても危なっかしいあなたなので、だからぜひパンと杯を受け取りなさい。そんなあなたでさえ、主イエスを信じて毎日毎日を心強く生き抜いてゆくために。まとめましょう――

1 ふさわしくない私。

2 とてもとても気前の良い神さま。

3 アベコベで、裏腹な取り扱い。

4 だからこそ恵み。まったくの恵み。以上。

 なぜ、パンと杯なのか? クリスチャンであるとは、どういう意味と中身なのか? 『主にあって我らは1つ』『主にあって我らは生きる』『主にあって我らは歩む』と歌っています。主にあって。それは、主イエスの福音に照らして判断し、選びとり、主の御心に従って生きるという中身です。神さまに従うにはどうしたらいいだろうかと、聖書を読みながら、何人かで語り合っていたことがありました。「主に従うか、自分の腹の思いに従うか、そのどちらかなんですね。両立はしないんですか。自分をすっかり捨てなきゃならないんなら、それはとても難しい」「すっかり、ではなくても良いです」「え?」「自分の思いよりも、主イエスが願うこと、喜んでくださることという判断や選択を、ほんの少し先立てるだけでいいです」「……ああ。それなら、なんとかなるかも知れない」神さまから要求されていたのは、そこまでです。ほんの少し先立て、少し優先させること。「すっかり捨てるなど出来ない。無理」とハードルを勝手にあげて、実際には、「したい。したくない。好き嫌い。気が進む、進まない。私の主人は私自身」などと自分の腹の思いにガンジガラメに縛られ、我を張り、どこまでも固執した私たちです。それで、『主にあって』も『我らは1つ』も有るはずがない。4人いれば4つ。50人いれば50、という自然の道理に屈服しつづける他ありません。平和も一致も、主イエスによって示された神の御心を先立て、私たち自身の欲求や願いを後ろに控えさせることによってだけ生みだされ、積み上げられていきます。それでもなお私や誰彼の思いを先立てるつもりか、あるいは? と私たちは問われます。問われつづけます。

 2節。「主の十字架を思い、主の復活をたたえ、主のみ国を待ち望み、主にあって我らは生きる」。3節。「主の呼びかけに応え、主のみ言葉に従い、愛の息吹に満たされ、主にあってわれらは歩む」。語りかけられていることを1つ1つ、本気になって考えてみます。主の十字架を思うこと。主の復活を喜びたたえること、そこに信頼と希望を託すこと。主のみ国を待ち望みながら日々を生きること。私たちに向かって語りかけつづける主の呼びかけに応えて生きること。主のみ言葉に従うこと。愛の息吹に満たされて、主にあって歩むこと。――どの程度、それができているのかと問われれば心細い気持ちになります。ああダメだ失格だ落第だなどと、いつものように嘆きはじめてしまいそうです。らくだが針の穴を通るよりも難しいなどと諦めてしまいたくなります。それなら、いったい誰が救われるのか。主イエスは仰っしゃいました。「当たり前だ。人間にできることではない。神にはできる。神にできないことは何一つない」(マルコ10:27参照)。あなたのためにも、この私のためにも神さまがそれらをぜひさせてくださろうとしています。そのための1人1冊ずつの聖書であり、讃美歌であり、傍らに座っている兄弟姉妹たちであり、聖晩餐のパンと杯です。主の十字架の死と復活をなかなか思うことのできない、主のみ言葉に背きつづける私たちだからこそ、なんとしてもパンと杯を受け取らねばなりません。できているからではなく、自分ではとても難しく、だから神さまにこそこの私のためにも恵みのみ業を成し遂げてしていただくために。神さまは、この私たちのためにも準備万端だそうです。祈りましょう。