2017年10月31日火曜日

10/29こども説教「いなくなった弟を」ルカ15:11-24

 10/29 こども説教 ルカ15:11-24
 『いなくなった弟を』

15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。・・・・・・18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。         (ルカ福音書 15:11-24

  たとえ話ですから、何が何をたとえているのかをはっきりと知っておきましょう。お父さんは、神さまのことです。弟と兄、2人の息子は、私たち人間です。今日は、その弟のこと。その弟は、お父さんの家でお父さんといっしょに暮らしているのが嫌になって、どこかずっと遠くへ出かけていきました。しばらくして、弟が財産も何もかも無くして、お腹もペコペコに空かせて、くたびれはてて、ボロボロの汚い格好になって帰ってきました。「あ。いなくなっていた息子が帰ってきた」とお父さんは、すぐに見つけました。息子はすっかり別の人のように変わり果てていたのに、ずっと遠く離れているうちから。どうしてでしょう。だって、今日帰ってくるか明日かと、毎日毎日、とても心配して待っていたからです。いなくなった日から、ずっと案じていたからです。心配で可哀想で、仕方がなかったからです。ずっと想いつづけていたからです。走り寄って抱きしめて、チューってキスをしてあげて、大喜びでしもべたちに言いました。「早く早く、一番良い着物を持ってきてこの子に着せなさい。息子のしるしの指輪もはめてやりなさい。裸足じゃ可愛そうだ、はきものも履かせてやりなさい。子牛をほふって、この子が帰ってきたお祝いパーティの用意をしなさい。皆で喜んで楽しもうじゃないか、急いで急いで。ほらほら早く。だって、この息子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに、とうとう見つかったのだから。ああ、嬉しい嬉しい嬉しい」。


      【補足/父は息子のお詫びの言葉を少しも聞いていない。なぜ?】

       よくよく目を懲らして見つめるべきは、父親の姿とその心です。もし、「ああ、こういう神さまだったのか。こういうふうに私たち人間を思い、このように取り扱ってくださるのか」と手応えを掴めるなら、このたとえ話を呼んだ甲斐がありました。息子は豚小屋で困窮し、「父の家に帰ろう。帰りたい」と思い返しました。道々、お詫びの言葉を考えました。18-19節、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と。けれど父は、その息子の詫びの言葉をろくに聞いていません。取り乱して、嬉しくて嬉しくて、それどころではないからです。ずっと遠く離れたところに息子の姿を発見したその瞬間から、父親は喜びにあふれています。なぜ、こんなにも嬉しいのか。24節、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」です。死んでしまったかのようだった、いなくなっていた一人の息子のために、この父親(=神さま)は深く心を痛め、嘆き、悲しみつづけていたからです。兄に対しても弟に対しても、どの息子や娘たちに対しても、これほど愛して、とても大切に思いつづけていました。そのことを、私たちも決して二度と忘れてはなりません。この父親の子供たちでありつづけるためには。父親の喜びにあずかりつづけるためには。「この自分のためにも、他の子供らのためにも、このように喜んだり悲しんだり心を痛めたりしてくださる神。親である神」と心に深く刻んでいる。それが、キリストの教会であり、一個のクリスチャンであることの中身です。そうであるなら、いなくなったり見つかったり、死んだり生き返ったりしつづける兄弟姉妹たちのために、この父親と一緒になって、深く悲しみ嘆いたり、心を痛めたり、大喜びに喜んだりもできるからです。

10/29「後で考え直して」マタイ21:28-32

 ◎としなしの祈り
  イエス・キリストの父なる神さま。
  日本人でも外国人でも、どんな文化や民族や国籍の者であっても、すべての子供が慈しまれ、励まされ、自分の人格とあり方を認められて育つことができますように。そのようにして、自分を好きになり、生きてゆく一日一日を喜び、感謝し、そのようにしてだんだんと隣人を思いやることをも学び取り、正直で公平な心優しい人間にだんだんと育ってゆくことができるようにお守りください。親と周囲の大人たちが、そのように子供と若者たちを慈しみ、励まし、広い心で接し、思いやりをもって育て、心優しく付き合ってゆくことができますように。この世界が生きるに値する素敵な世界であることを、どうかすべての子供と若者たちが習い覚えてゆくことができますように(『子供は習い覚えてゆく』ドロシー・L・ノルテ参照)。ですからすべての大人たちの心を励まし、大人として親としての務めを健全に精一杯に果たし、また、そのことを喜び楽しむこともできるように支えてくださいますように。貧しく心細く暮らす人々が、世界中に、またこの日本にも、大勢います。押しのけられ、ないがしろに扱われつづける多くの人々がいます。大人たちもそうであり、長く生きて生きた先輩の方々の多くもそうです。ですから、この私たち自身も、自分を好きになり他者を思いやる、正直で公正な心優しい人間へとだんだんと育ってゆくことができますように。互いに慈しみ合い、励まし支え合い、互いに広い暖かな心で付き合ってゆく私たちとならせてくだっさい。神さまから、そのように慈しみ深く愛され養われつづけてきた私たちですから、家族や友人たちに対しても、子供や若者たちに対しても年配の方々に対しても、自分たちとは少し違う文化や習慣をもつ他の国の人々に対しても慈しみ深くあることができますように。
 主なる神さま、どうか私たちを憐れんでください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

  

       みことば/2017,10,29(主日,宗教改革記念礼拝)  134
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:28-32               日本キリスト教会 上田教会
『後で考え直して』

 +【特別付録/みことば号外】およそ500年も前の宗教改革とは何か?

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
21:28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。31 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。                                       (マタイ福音書 21:28-32)



  どんな神さまなのかをぜひ知りたいと初めの頃に思いました。どんな救いなのか、神を信じてどういうふうに生きて死ぬことができるのか。自分はいったい何者なのか、どこから来て、どこにどう足を踏みしめて立つことができ、どこへと向かおうとしているのか。生きる意味は何なのかを知りたくて、それで私たちは今日もここにいます。
 
  主イエスは、律法学者や祭司長たちの見せかけだけの仮面をはぎとります。主イエスは、容赦なく仰います、31-32節、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」と。神を礼拝する作法やしきたりや整った美しい祈りの言葉なども自分たちこそはよく心得ており、神の律法を守ることについても自分たちこそは熱心で誠実だと自分自身では思い込んでいましたし、周囲の人々からもそういう彼らであると見なしてもらいたいと望んでいました。あの彼らは。けれど主イエスは、「それはちょうど『今日、ぶどう園へ行って働いてくれ』と父親から頼まれ、『おとうさん、参ります』と答えたのに行かなかったあの息子とそっくり同じじゃないか」と仰います。
 ここで、二人の息子のあり方が見比べられています。たとえ話です。父親は神さま。兄と弟は私たち人間のそれぞれの在り方を鏡のように写し出しています。兄は、『今日、ぶどう園へ行って働いてくれ』と父親から頼まれ、『おとうさん、参ります』と答えたのに行かなかった。弟は、父親から同じように言われ、『いやです』と答えましたが、あとから心を変えて出かけた。二人の兄弟の違うところは何でしょう。「ぶどう園へ行って働いてくれ」と父親から頼まれ、行かなかった者と、後からでも出かけていった者との違いです。弟は、出かけて行ったとだけ報告されて、そのぶどう園で真面目に精一杯によく働いたのか、いい加減にサボりながら休み休み働いたのかどうか、喜んで働いたかブツブツ言いながら嫌々渋々働いたかなどとも問いただされません。ただ「行ったのか」、それとも「行かなかったのか」とだけ問われています。あのもう一つのぶどう園のたとえ話と、とてもよく似ています。そっくり同じです。奇妙なぶどう園の主人が1日1デナリの約束で、朝から夕方まで、「私のぶどう園に来てみなさい。ほら、あなたも、あなたもあなたも」と労働者たちを自分のぶどう園に招きつづけるたとえ話(マタイ20:1-16。それとこれは、まったく同じ一つの心だったからです。あの夕方。賃金を受け取る時に、ぶどう園で働いていた労働者たちの中には、プンプン怒って腹を立てて、文句を言っている人たちがいます。「この最後の者たちは1時間しか働かなかった。それに比べて私たちは、まる一日暑い中を汗ドロドロになって我慢して働いた。それなのに同じ扱いをするのか。どういうつもりだ」。ある人は、この夕方の支払いの場面を読んでこう思いました。「支払いの順序が逆にされたのは、朝早くから先に招かれた労働者たちにとって、とても良かった」と。もし、そうでなかったら、先に招かれた労働者たちは、ほかの人たちがどういう支払いをどんなふうに受け取るか、その支払いの本当の意味も、本当の喜びも知らないまま、ただ当たり前のように受け取って帰ってしまったことだろう。例えば、もし時給860円、よく働いた者には歩合をつける、有能な者は部長、課長、係長に取り立てる、として雇われたなら、どうでしょう。もし、そのぶどう園で賢く力強い者が重んじられ、愚かで弱々しい者たちが軽んじられるならば。もし、かたくなで貧しい者が退けられるならば。もし、才能ある優秀な人材が、その才能と優秀さのままに取り立てられてゆきならば。それなら私たちは直ちに神を誤解し、神の民とされた自分自身をはなはだしく見誤ることになるでしょう。私は優秀で大きな人材だ、と誤解してしまうでしょう。私の信仰深さによって、私の誠実さ、私の熱心と努力によって、私はふさわしく取り立てられてこのぶどう園の労働者とされたと、すっかり勘違いしてしまうことでしょう。それでは困ります。とてもとても困るのです。神の恵み深さが分からなくなり、『憐れみを受けて、だからこそ、こんな私さえここにいる』と知らないなら、この恵みの場所は私共にとって無益です。何の意味もありません。現実の信仰生活で、この私たちもよく似た場面や出来事に直面しつづけます。精一杯に働いたり献げたりしながら、けれどなんだか満たされない。正直なところ、喜びも感謝もちっとも湧いてこない。物寂しくて、腹立たしくて、虚しくて。誰かに文句を言ったり、グチをこぼしたり、顔をしかめて「チェッ」と舌打ちしたくなります。腹を立てて喰ってかかろうとしていたあの時、妬んだり拗ねたりイジケたりしていたとき、強情になっていたあの時、あの彼らは、滅びの道へと転がり落ちてしまいそうな危うい分かれ道に立っていました。私たち一人一人もそうです。
神のぶどう園の労働者たちよ。本当は、1デナリ以上の、その千倍も万倍も素敵なものが贈り与えられるはずでした。喜びと感謝がです。ふさわしい代価。賃金。不当なことはしていない? 神さまの正しい尺度、計り、道理にかなった正当で適切で、ふさわしい御判断? いいえ、とんでもない。神さまご自身の尺度と計りは、私たちがずっと習い覚えてきた合理的で理性的な一般常識から見れば、ものすごく歪んで理不尽に見えます。ですからここでも、ただただ呆れ果てて驚くばかりです。夕方5時ギリギリで駆け込んできた雇い人にも、たとえその人が指一本も動かす暇さえなくたって、義しくかつ過分に()1デナリです。私たちの目からは、ありえないほど奇妙な、腰を抜かして驚くほどのその尺度と計りは、「罪人のゆるし」「ただただ憐れみ」という名の尺度です。支払いの列の後ろに並ばせられて、この人たちがすぐにプンプン怒ったりしないで待っていたら、とても嬉しい光景を見ることができたでしょう。夕方雇われた人たちが支払いを貰った時の、そのビックリ驚いた、嬉しそうな不思議そうな顔つき。「え、本当にこんなに貰っていいんですか。わあ、すごい。だって、ぶどう園に着いたと思うと、もう支払いだという。ほとんど何も働いていないのに、約束された通りに本当に1デナリもくれるなんて。ありがとう。ありがとう」。その喜ぶ顔に、私たちは見覚えがあります。この主人と初めて出会って、「あなたも来てみなさい」と声をかけられた時の、この私の顔だ。豊かなぶどう園に連れて来られ、そこで働く人たちを目にし、園を見回し、見よう見真似で働きはじめた頃の、あの私の、喜びに溢れた顔だ。うっかり忘れていたが、この私もあなたも、そうやってここで働きはじめたのでした。夕方の支払いを待つまでもなく、「来てみなさい」と声をかけられた初めから、招き入れられて働きはじめたそもそもの最初から、たしかにこの私も喜びに溢れたのでした。そのように喜ぶ顔を次々と見続けて、とうとう自分の順番が来ました。「支払ってやりたい。さあ、義しく適切な賃金だ」。手渡されて、見ると、山ほどの有り余る豊かな贈り物です。なぜなら、山ほどの有り余る豊かな贈り物を贈り与えることこそが天の父親の望みでありつづけるからです。山ほどの有り余る豊かな贈り物を贈り与えたい。だから、私のぶどう園にぜひとも来てもらいたい。
 天の御父の望みは、ただそれだけでした。律法学者や祭司長たちも、「ふたりの兄弟のうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」と問われて、「あとの者です」と答えています。そのとおり。「行って働いてくれ」と言いながら、けれど父親の本当の望みは、真面目に働いたかどうか、どの程度の成果や実績をあげ、どれくらい役に立ったかなどということとは何の関係もなく、ただただその子供たちが「ぶどう園に行く」ことだったのです。これはたとえ話であり、ぶどう園の持ち主である父親は神のことです。ぶどう園は、神の国であり、神が王さまとして支配し、力を発揮しておられる領域。そこに行くことは、王である神のお働きの只中に生きて、そのご支配とお働きに従って暮らしてゆくことです。子供たちは、私たちです。さて、『父の望み通りにしたのはぶどう園に出かけて行った子供である』とあの彼らも気づきました。私たちにも分かります。主イエスは彼らと私たちにこう仰います、31-32節、「イエスは言われた、『よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった』」。「ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いた」と主イエスは言います。洗礼者ヨハネは、神に仕える忠実な働き人たちの一人です。ですから主イエスは、洗礼者ヨハネが宣べ伝え、教えたことは、『父』である神ご自身が『息子たち娘たち』に宣べ伝え、教えたことであると見なしておられます。そのとおりです。なぜなら、預言者は語れと主から命じられたことを命じられるままに語る者たちだからです。それらの教えの一つ一つは、天から雨や雪が降るように、「主の口から出る主の言葉である」(イザヤ書55:10-11と神ご自身によって約束されています。だからこそ、地を潤して物を生えさせ、芽を出させるように、「主の望み、喜ぶところのことをなし、主が命じ送った事を必ずきっと果たす」と太鼓判を押されています。それこそが今日でも、これからも、すべての伝道者の働きのための心強い確かな支えであり、保証でありつづけます。さて、洗礼者ヨハネが先祖のところに来て義の道を説いたように、今日に至るまで主なる神に仕えるおびただしい数の伝道者たちが遣わされてきて生命と平安に至る神ご自身の義の道を説きつづけています。信じない者たちがおり、信じる者たちがいます。神のぶどう園に行く者と、行かない者とがあるようにです。神を信じ、神の国に入れていただくことは、つまり、そのぶどう園に行くことです。
 もう少しはっきりと語りましょう。神ご自身が来られ、おびただしい数の預言者や伝道者たちの口を用いて、神ご自身の義の道を説きつづけています。その一人一人は自分の主体性と判断と考えによってではなく、そんなものとは何の関係もなしに、ただただ神が語れと命じる言葉を命じられるままに語ります。そうでなければ困ります。だからこそ、彼らは『自分の腹の思いに仕える自分のための働き人』などではなくて、ただただ『主に仕える働き人』であり、だからこそそれらの言葉には、「主の口から出る主の言葉である。主の望み、喜ぶところのことをなし、主が命じ送った事を必ずきっと果たす」と約束された通りに、神ご自身の権威と保証が必要なだけ十分に宿りつづけました。
 「神の義の道」についても、すでに私たちは十分に知らされています。「しかし今や、神の義が、立派な良い行いを私たちがどれだけしたかしなかったかとは関係なしに、しかも聖書によって証言されて現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別も区別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、だから私たちは、価なしに、ただ神の恵みにより、ただただキリスト・イエスによるあがないによってだけ義とされる。・・・・・・こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこに私たちの誇りがあるのか。どこにも全くない。ほんのひとかけらもない。なんの法則によってか。良い行いをどれだけしたかしなかったか、信仰深いかそうではないかなどということとはまったく何の関係もなしに、『ただただ主イエスをこそ信じる』という信仰の法則によってである」(ローマ手紙3:21-28参照)「どこに私たちの誇りがあるのか。どこにも全くない。ほんのひとかけらもない」とわざわざ念を押されるのは、『神の義の道』と『自分自身の義の道』とがいつも互いに押し退けあっているからです。神の義を押しのけて、自分のふさわしさや正しさを言い張ろうとして、神ご自身をすっかり見失い、迷子になってしまう者たちが数多く居つづけるからです。聖書は証言します、「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:2-3。「私は正しい正しい」と言い張りつづけて、神の正しさを押し退けてしまっては、神を信じて生きてきたことすべてがすっかり水の泡になってしまうからです。
「神の義の道」とは、私たち人間がごく普通に思い浮かべるような『正しさ。当たり前』などとはずいぶん違っています。少しも正しくない、恵みに値しない罪人である私たちが、だからこそ神ご自身の正しさと憐れみ深さによってだけ救われ、生かされ、神の義を贈り与えられて生命と平安へと至る道であるからです。『サタンと自分の腹の思いに従って生きる』虚しい惨めな在り方を止めて、その代わりに、『神の御心に従順に従って生きる道』であるからです。人々から見下され、軽んじられ、押しのけられていた取税人や遊女は主の言葉を信じ、救い主イエスを信じました。それは親に信頼して聞き従おうとする小さな子供の心であり、小さな子供の姿でした。「けれども私の願いどおりではなく、あなたの御心のままに」と願う救い主イエスの中に、その従順の姿を私たちもはっきりと見ました。そこに、格別な幸いと安らかさがありました。後からでも、ずいぶん遅くなってからでも、それでも心を入れかえて神のぶどう園に出かけて行くことのできる人々は幸いです。手遅れになる前に、間に合ううちに辿り着くことのできる人々はとても幸いです。
「私のぶどう園に来てみなさい。さあ、あなたも。あなたも。あなたも」。来てみたのなら、もう二度と、はぐれてしまわないように、ガッシリとそこに腰を据え置きなさい。誰からイヤミを言われても、渋い顔をされたって、ぶどう園に居座ってあなたは二度と決してそこから離れちゃダメだよ。




【特別付録/みことば号外】
 およそ500年も前の宗教改革とは何か?

  一人のクリスチャンは、生涯ずっと、神に忠実でありつづけるでしょうか? 神を見失わず、神に一途に信頼を寄せ、聴き従って歩みとおすでしょうか。いいえ、決してそうではないと思えます。くりかえし神に背き、神の御心に反することをしつづけ、たびたび神を見失い、なお繰り返して神へと立ち戻りつづけました。「だから日毎の悔い改めである」と改革者の一人は気づきました。キリストの教会も、それとよく似た歩みを繰り返してきました。たびたび、はなはだしく腐敗し、ごく人間的な集団に成り下がり、うわべを取り繕うばかりで神を少しも思わなくなり、やがて立ち戻りました。立ち戻りつづけます。それが、私たち自身とキリスト教会の歴史です。
 そのころ教会は、『罪をゆるし、救いを約束する天国行き格安チケット』を銀行や第資本家たちの協力を得て大々的に販売していました。免罪符(めんざいふ)です。一人の修道士は、そこに信仰の大きな危機をひしひしと感じ取って、抗議文(=95箇条の論題)を教会の門に掲示しました。それが、当時の講義や問題提起のやり方でした。しかも、ちょうどそのころ活版印刷が発明されていました。安く簡単に印刷されたチラシやパンフレットが大量に出回る時代が始まっていたのです。一人の小さな抗議の声は、そのようにして遠くの町や村々にまですぐに届き、多くの人々がそれを共有しました。
 何に抗議したのか? どのようにして人が救われるのか、その救いの道筋こそが大問題でした。善い行ないや自分で積み重ねてきた功徳がその人自身を救うと考えられ、それは様々な形で銀行預金のように積み重ねられる、と人々は教えられていました。善を行えば救いの恵みが与えられ、悪いことをすれば地獄に落ちると。しかも、その前項や功徳は金に換算されて、簡単に手軽に売り買いさえできると。その一人の修道士は、『人間を救いうるものがあるとすれば、それは人間の善行や功徳ではなく、神の慈悲と憐れみ以外にはない』と気づきました。聖書に、はっきりとそう書いてあったからです。それこそが聖書の福音でした。旧約聖書の中にあり、救い主イエスが断固として告げ、預言者と使徒たちが明確に説き、長いあいだ見失われた後でふたたびアウグスティヌスが見出し、また他のものにまぎれ、片隅に追いやられ、埋もれて見失われつづけました。福音は、くりかえし再発見されつづけます。もちろん、その後も、『神の慈悲と憐れみ以外にはない』という福音の真理は見失われつづけ、再発見されつづけました。今日の私たちに至るまで。多分、これからもそうです。

  15171031日、教会の門に釘打ちされた一枚の抗議文。その95項目の主張の一つ一つはよくよく味わうに値します。そこから始まった大きな『福音の再発見』運動は、『聖書のみ。恵みのみ。信仰のみ』と旗印して掲げました。『聖書のみ』は、聖書以外の人間的な権威が幅を利かせていたからです。「聖書には書いていないが神から届けられた秘密の真理が他にいくつもある。例えば聖母マリアもまた天に昇り、父なる神の右に座しておられ、救い主イエスと共に私たちのために執り成している。聖なる弟子たちも、イエスやマリアさまと共にそれぞれ私たちと神の間に立って執り成してくださる」などと教会は主張しましたし、ローマ法王は教会と聖書の上に立つ絶対の権威だとされていたからです。いいえ、そうではないと。『恵みのみ。信仰のみ』は、「救われるのは善行と功徳による」と教える教会に対して、「ただ恵みによって。ただ、救い主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ」と。そのように、プロテスタント教会とは、抗議し、神の真理にしがみつこうとする者たちの教会でありつづけます。
  宗教改革記念日が何月何日だったかを、私たちは忘れてもいいでしょう。その一人の修道士の名まえを知らなくてもいいでしょう。95箇条の論題を暗記できなくてもいいでしょう。それまで聖書は意味の分からない難しい外国語で書かれて、念仏や呪いのように、ただただ読み上げられるばかりでした。ただ有り難がって聞き流すばかりでした。自分の言葉で印刷された聖書を彼らが初めて読んだとき、分かる言葉で聖書の言葉を聞いたとき、はじめにそれはわずか数十行の聖書の抜粋でしたが、それが聖書のどの箇所だったかを知らなくたって構いません。けれど、そのことのために命をかけた人々がおり、それで、私たちは今、自分の国の言葉で書かれた聖書をそれぞれ手にし、礼拝でも、自分の国の言葉で語られる礼拝説教を聞いています。その説教は、今でも、「ただ聖書によって。ただ恵みによって。ただ、救い主イエスを信じる信仰によって」と語りつづけ、わたしたちの教会の信仰告白は「神の恵みによるのでなければ、罪に死んでいる人間は誰も決して神の国に入ることはできない」「聖書は神の言葉であり」「神のこの救いの御業を信じる者は、キリストにあって義と認められ、何の功績もなしに無償で罪のゆるしを得、神の子とされる」と。
 ただ恵みによって。キリストにあって義と認められ、功績なしに無償で。だから私たちは、ふたたび神を見失ってしまわないために、ふたたび神の福音の真理を見失わないために、キリストの教会が教会であることと私たちがクリスチャンとされたことの他の別の理由を付け加えない。聖書によって証しされるイエス・キリストこそ、生と死において、私たちが信頼し、聴き従うべき、神の唯一の御言葉である。すぐれた説教者がどれほど感動的に生き生きと語っても、それが聖書に書いてある真理に無関係であり、あるいは反しているならば、私たちはそれに聞き従わない。経験を積み重ねた、影響力のある信仰者や大先生がいくら保証しても、太鼓判を押しても、それが聖書に書いてある真理から来たのでなければ、私たちは信頼しない。決して言いなりにされず、誰にも決して聞き従わない。それが、聖書によってイエス・キリストを証しするのでなければ。私たちのためのただしさ、私たちのための清さ、私たちのためのふさわしさは、ここにだけある。神の憐れみ、憐れみ、憐れみ。神の無条件の恵み、恵み、恵み(コリント手紙(1)1:23-31,ローマ手紙5:6-11,エペソ手紙2:8-10

  宗教改革の伝統に立つ私たちの兄弟教会は、その新しい信仰問答の中で、こう問いかける。「神に愛してもらうために、私たちは良い人間になる必要はないのですか?」そして、直ちに「ない」と答える。ただ恵みによったのだ。神が愛を『自由な贈り物』として贈り与えてくださった。その愛は、私たちが当然受けるに値するわけでもなく、自分で勝ち取ることもできなかった。たくさんの悪いことを今なお私がし続けているとしてもなお、それでも神は、そんな私をさえ愛してくださる。しかも、十分に愛してくださるので、こんな私たちさえも良いことをする良い人間にならせてくださる。私たちの側の決心や努力や心がけによってではなく、ただただ神ご自身の恵みによってだけ、きっと必ずそうしてくださる(『神のものであること』米国長老教会 こどものための信仰問答,ピリピ手紙1:6参照)

2017年10月24日火曜日

10/22こども説教「一枚の銀貨を」ルカ15:8-10

 10/22 こども説教 ルカ15:8-10
  『一枚の銀貨を』

15:8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。         (ルカ福音書15:8-10

  ケンちゃん。10の銀貨をもっていた女の人がその中の1枚をなくしてしまいました。すると、家中ひっくりかえして夜どおし捜しつづけ、見つけたら大喜びに喜ぶというのです。あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいとエンエン泣いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。ただ財布から落ちて、コロコロころがって、タンスとタンスのすきまかテーブルのしたか本や古しんぶんのページのあいだかどこかにまぎれこみました。自分がどこかにいなくなった、とも知りませんでした。放っておけば100年でも200年でもそのままいなくなったままでしょう。見つけだされて主人の手にもどっても、たとえ持ち主が大喜びに喜んだとしても、けれど銀貨は、うれしくも何ともない。持ち主の手にもどったことに気づきもしないでしょう。それでもなお、「大きな喜びが天にある。神の天使たちのあいだに喜びがある」7,10節)その一人の迷い出てしまった10円玉か5円玉のようなかわいそうなかわいそうな罪人を思って、神さまが、「どんなに心細く、おそろしくて、みじめだろうか。かわいそうだ、かわいそうだ」と。だからこそ立ち帰ってきたその一人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさとひと組でした。とてもとても心配して悲しんでいた分だけ、それだけとても大喜びに喜んでいます。うわおっ。

    【補足/神は喜んでくださる】
あの羊飼い。そして銀貨をなくした女のひと、そして息子がいなくなってしまった父さん。それらはみな、神さまのことです。すると、「銀貨10をもっている女」と言いましたけど、ほんとうには、10枚しかもっていない貧乏な女のひとが、その1枚がなかったらご飯を食べるにも困るほどで、だから必死に捜し回る、ということではありません。むしろこの女はビックリするほどの大金持ちで、財布のなかにはありあまるほどのたくさんのお金がウジャウジャはいっています。神さまなんですから。その1枚が見つからなかったら毎日毎日の暮らしに困る、というわけでもありません。困る困らない、都合がいい都合がわるいという話でもありません。連れ戻された羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけだされた銀貨がそれを何とも思わなくたって、なにしろ羊飼いは嬉しい。なにしろ銀貨の持ち主は嬉しい。なにしろ、あの父親はとてもとても嬉しい。


10/22「何の権威なのか?」マタイ21:23-27

 ◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。
 衆議院選挙が行われます。18才以上のすべての大人たちが、自分自身のことばかりではなく、この国に対しても地域社会や隣人たちの生活に対しても大きな責任があることをはっきりと心に留めることができるように、私たちを目覚めさせてください。同時に、「選挙に行く気にもなれない」と絶望している人々の惨めさや心の虚しさを、この私たちにも自分自身のこととして感じ取らせてください。日本と私たち国民が誰に対しても力で押しのけたり、踏みつけにすることがないように、健全な正しい判断力と良心と、他者の人格と権利を重んじる心を私たちにも持たせてください。世界中の多くの人々が自分たちさえ良ければそれでいいと、心を狭くさせられようとしています。私たちもそうです。北朝鮮の国家、イスラム教徒、日本に住む外国人の方々に対して、また特定の人種や民族、少数の者たちを差別するヨコシマな心を抱いてしまわないように、自分たちとは違う価値観や文化をもつ人々を憎んだり軽蔑したり、むやみに排除しようとしませんように。寛大さと、へりくだった低い心とをどうか私たちに贈り与えてください。キリスト教会の建物ばかりではなく、洗礼を受けた初めの日からずっと、神を信じる私たち一人一人の心と体が『神の住む、神のものである祈りの家』とされつづけています。自分の気持ちやあり方ばかりを愛し重んじて、他の人たちを軽蔑したり憎んだり押しのけようとするとき、私たちは自分自身を強盗の巣にしています。心の中で誰かをバカと言い、陰口や悪口をささやく時、私たちは自分自身を強盗の巣にしています。自分さえ良ければそれでいいと、小さな弱い人々の苦しみや心細さに目をつぶるとき、またサタンや自分の腹の思いに囚われ、その言いなりにされつづけるとき、そのときこそ私たちは自分自身を強盗の巣にしています。そういう時がたびたびあります。とても恥ずかしく、申し訳のないことです。そのことを、いつも心に覚えていさせてください。あなたが生きて働いておられますことを、今こそ堅く信じさせてください。御心にかなった歩みをしようと、私たちにも願い求めさせつづけてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                        みことば/2017,10,22(主日礼拝)  133
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:23-27                日本キリスト教会 上田教会
『何の権威なのか?』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
21:23 イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。24 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。25 ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。26 しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。27 そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。                       (マタイ福音書 21:23-27) 



 救い主イエスが間もなく十字架にかけられて殺され、その三日目に復活なさろうとしています。その直前の一週間がはじまっています。日中は神殿の境内で人々に神の国の福音を教えつづけ、夜のあいだはエルサレムの都から出て、ベタニアの村で過ごしました。23-27節です。神殿に主イエスと弟子たちが入っていくと、祭司長たちや民の長老たちが来て、こう問いかけました。「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。主イエスは彼らに言われました、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスが言われました、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。
 何の権威によって、これらの事をするのか。だれが、そうする権威を授けたのか。とても良い質問です。主イエスの働きを邪魔して追い払うためにこれまで様々な悪巧みや策略をめぐらせつづけてきて上手くいかなかったので、指導者たち権威者たちは遠回しなやり方を試すことにしました。なんとかして神の国の福音を教えるのを主イエスに止めさせようとして、「何の権威があって、神殿で神さまのことを教えているのか。誰がそうする権威を授けたのか。許可証や免許証はあるのか」などと。彼らはもう、「本当のことなのか。デマカセなのか」などと教えそのものについては、主イエスと討論しようとはしません。そういう中身と本質については、これまで十分に論じ合ってきて、けれど、ちっとも上手くいかなかったからです。
  何の権威によって、これらの事をするのか。だれが、そうする権威を授けたのか。それは、神の国の福音を宣べ伝える職務に誰が主イエスを招いたのか。誰から、この《救い主》という職務を委託されたのかということです。大祭司であろうがユダヤ最高評議会であろうが、たかだか人間にすぎない者たちにそんな権威などありません。神ご自身が、その《救い主》という職務に選び、その職務にご自身で任命したのでなければ、救い主として神の国の福音を宣べ伝えることなどできないし、してはなりません。このイエス・キリストこそが、そのように救い主として選ばれ、職務に任命されたおかたです。「主なる神ご自身が誓われた。あなたこそは永遠に祭司である」(ヘブル手紙7:21,110:4と。
  重い皮膚病の人々や目や手足の不自由な人々が癒され、そのように多くの奇跡によって主イエスに神からの権威があると十分に証明され、それでもなお彼らは悪意あるよこしまな態度をとり、「この男はどこから来たのか。いったい何者なのか」などと問いかけます。まるで、これまで主イエスが語ったことや行ってきたことのすべてを何一つも見なかったし、聞かなかったかのように。救い主イエスが天から遣わされてきたのであり、神ご自身こそが救い主イエスをその職務に任命したのだと、十分すぎるほどの証拠が突きつけられ、それでもなお彼らは、「その権威は神からの正当な権威だろうか、違うんじゃないか」と異議申し立てをしたいのです。大祭司や祭司長、ユダヤ最高評議会議員からの承諾や賛成を得たのか、教会会議で正式に決議されたのかどうかなどと。まるで、神からの権威が大祭司や祭司長、ユダヤ最高評議会に独占的かつ絶対的に与えられているかのように。それは今日でもまったく同様です。もし仮に、キリスト教会の会議で正式に規則通りに選ばれた者たちや委員会であるとしても、それでもなお、もし神の御心に逆らってその者たちが立ち上がろうとするならば、その彼らはサタンの手下になりさがっており、よこしまな怪物になろうとしています。そのとき、その彼らの言いなりに従ってはなりません。牧師や長老であろうが大中会の議長・書記、常置委員会のおエライ人々であろうがどこの何様であろうとも、その人々が神の御心にかなうことをしているときにだけ彼らの言うことに聞き従って良い。そうでないときは、決して言いなりにされてはなりません。なぜなら、その権威者たちやご立派そうに見える大先生たちは、もちろん神の使いではなく、神の代理人でもありません。たかだか人間にすぎないからです。御心にかなう良いことをすることもあり、そうではなく、してはならない悪いことを次々としでかしてしまう場合もあるからです。「神に聞き従うよりも人間に聞き従うほうが正しいかどうか」(使徒4:19を、私たちクリスチャンは一人一人責任をもって判断しなければならないからです。しかも、私たちには精一杯に判断することができるからです。キリスト教会の歴史の中で、そうしたことは度々繰り返されてきました。彼らの問いかけに対して主イエスがなぜ「あなたがたもよくご存知のように、神からの権威である」と直接に答えなかったのか、ここまでくれば、よく分かります。すっかり明らかにされていることについて、彼らがなお恥じることもなく問いかけてきているからです。
  24-27節。「そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから』。そこで彼らは、『わたしたちにはわかりません』と答えた。すると、イエスが言われた、『わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい』」。洗礼者ヨハネのバプテスマはどこからきたのか。天からであったか、人からであったか。洗礼者ヨハネのことをここで主イエスがわざわざ持ち出したのは、彼ら祭司長たちや民の長老たちが神から遣わされた聖なる預言者たちを侮り、ないがしろに扱ってきたからです。その彼ら自身はどんな権威にも値しないことを示すだけではなく、彼ら自身が本当にはよく分かっていたはずの神の真理をないがしろにし、あなどってきたやり方を暴き、彼らのその答えによって彼ら自身に有罪宣告をし、その彼らがどんなによこしまで罪深いのかを自分ではっきりと悟らせるためにです。
  祭司長たちや民の長老たちとともに、それより何よりこの私たち自身こそが、自分の心によくよく留めなければなりません。なぜ、何のために、洗礼者ヨハネが神の御もとから遣わされてきたのか? 彼の役割と務めは何だったのか。とくに何について、あの彼は強く説き明かしつづけていたのか。彼は、救い主が来られる前に遣わされた、救い主を人々が迎え入れるための道備えをする、先駆けの使者でした。「主を迎えるための準備をあなたがたにさせる。私の役割はそれだ」(マラキ3:1,マタイ3:1-12と、洗礼者ヨハネは弁えていました。自分の指先で、彼は救い主イエスを指し示し、この方こそが神の独り子であると宣言しつづけていました。彼と共に、すべての伝道者たちは同じく自分の指先で救い主イエスを精一杯に指し示しつづけます。ただそれだけが、伝道者たちの務めと役割でありつづけるからです。救い主イエスを指し示すこと以外には、神に仕える福音伝道者たちは何一つもしてはならないからです。イエス・キリストの新しい権威が証明されねばならないなどと、何を根拠にして、律法の書記官や祭司長たちや民の長老たちが言い張ることができるでしょう。洗礼者ヨハネの宣教によって、すでに十二分に説き明かされ、すでにすっかり証明されてきたというのに。あの彼らは互に論じて言いました、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから』。そこで彼らは、『わたしたちにはわかりません』と答えました。神の御心よりも自分自身のよこしまな欲望を選び取って、そのとき彼らは、「何が真理なのか」を問うことを手放してしまいました。残念なことです。
 洗礼者ヨハネの洗礼は神からのものか、それともただ単に人間たちからのものなのか? では、兄弟姉妹たち。私たち自身が受けた洗礼は神からのものだったでしょうか。それともただ単に人間たちからのものであり、制度や形式的な儀式にすぎなかったのでしょうか? 問うまでもありません。神からのものです。水によって、人間たちの手を用いて授けられましたが、それだけでなくそこに聖霊と火が注がれたからです。だからこそ、そのときから、私たちは身も心ももはや自分自身のものではなく、神のものとされました。この信仰の本質と生命は『神によくよく信頼を寄せ、神の御心に聴き従って生きる』ことの中にあります。二つの選択肢がありました。『神によくよく信頼を寄せ、神の御心に聴き従って生きる』のか、それとも『サタンと自分の腹の思いに聴き従い、自分の腹の思いに奴隷のように支配されつづけ、死と滅びに至る』のかと。あのとき、この私たちも一つを選び取り、別の一つを投げ捨てたのです。聖書は証言します、「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ手紙6:1-11。「あなたがたは知らないのか。あなたがたは知らないのか、知らないのか」と耳元で語られつづけています。習い覚えて、よくよく知っているはずのことをすっかり忘れてしまうからです。あるいは、あの彼らのように神を侮って、せっかく授けられた神の恵みと祝福をたびたび投げ捨てようとしてしまうからです。思い起こしましょう。「わたしたちは、その死にあずかる洗礼によって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなる」と。「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように私たち自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である」と。そのとおりです。
  ですからこの私たちは、もう二度と決して罪と自分自身の腹の思いの奴隷となってはなりません。キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた天の御父は、私たちの内に宿っている御霊によって、私たちの死ぬべき体をも生かしてくださるからです(ローマ手紙 8:8-11。そのことを、この私たちもまたよくよく知っているからです。肉の思いに囚われ、自分の腹の思いの言いなりにされ、サタンと自分の腹の思いと肉に従って生きてきた日々は過ぎ去りつづけます。なぜなら、私たちはすでに肉の思いとあり方に留まっているのではなく、神の御霊のもとにこそ据え置かれつづけているからです。キリスト・イエスが私たちの罪のためにもこの世界に遣わされ、ご自分の肉において罪を抜歯、このわたしたちのをさえ罪から解き放ってくださったからです。解き放ちつづけてくださるからです。







2017年10月16日月曜日

10/15こども説教「一匹の羊を」ルカ15:1-7

 10/15 こども説教 ルカ15:1-7
 『一匹の羊を』

15: 4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。                     
(ルカ福音書15:3-7
                             
 ケンちゃん。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」と質問されています。99匹を野原にそのまま残してですよ。「もし自分がその羊飼いだったらどうするだろうかな?」と考えてみましょう。(挙手させる)「きっと同じようにする」という人は? 「いいや、私はそんなことはしない」という人は? もし捜すのに手間取ったりして、5、6時間か、一週間か10日間くらいも留守にする場合もあるでしょう。そしたら、野原にそのまま残してきた99匹の羊はどうなっているでしょうね。散り散りになって、ほとんどいなくなってしまうでしょう。大損害で、羊飼いの仕事をクビにされてしまうかも。それでも一匹の羊を捜して、大慌てでそのまま出かけ、見つけるまで、何日でも何ヶ月、何十年でも、ずっと諦めないで必死に捜しつづける。そんな人間はいません。
私たち人間のことではないんです。「ああ、この羊飼いは神さまのことを言っているのか」と気づくことが第一歩です。私たちはみんな、こういうふうに神さまからはぐれて迷子になりました。人間のことではないと言いましたが、よく似たことを一つ思い出しました。この中に、自分の子供が迷子になって慌てたり困ったことがある父さん母さんはいますか? 自分が迷子になって捜してもらった子供は? その人たちなら分かります。もし、自分の大切な息子や娘がある日、迷子になった。5、6日か、一週間くらい探してみて、みつからなかったら「じゃあ、しょうがないや残念だけど」とその子のことを諦めてしまいますか? いいえ。そんな親はめったにいません。何年でも何十年かけてでも、見つけ出すまで捜しつづけるでしょう。昼も夜も忘れず、この子のことを心配しつづけるでしょう。とても愛して、大事に思っているからです。子供の父さん母さんのような神さまです。神の子供たちとされている私たちです。「ああ、こういう神さまなんだなあ」と、よくよく覚えておきましょう。

     【補足/悔い改める】
7,10節『悔い改める』。この聖書独特の言葉の意味は、『神さまのほうへ、グルリと向き直る』ことです。ソワソワキョロキョロし、あっちへフラフラこっちへフラフラしていた者が、『神さまのほうへ、グルリと向き直る』こと。まっすぐに見据えて、そこで、『どんな神さまか。神さまがどんなふうに働いておられるのか。何を願って、どうしようとしておられるのか』と目を凝らしつつ生きること。ですからそれは第一に、神のあわれみと真実とを受け取ること。第二に、受け取ること。第三にも四にも五にも、がっちりと受け取り手放さずにいることです。1人の罪人が悔い改める。神様のほうへとグルリと向き直った。自分自身と人間のことばかり思い煩っていた1人の人が、ついにとうとう神を思いながら、神へと思いを凝らしながら生きることをし始めること。


10/15「いちじくの木のように」マタイ21:18-22

                 みことば/2017,10,15(主日礼拝)  132
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:18-22           日本キリスト教会 上田教会
『いちじくの木のように』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:18 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。19 そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。20 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。21 イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。22 また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。    (マタイ福音書 21:18-22)
                                               

  まず18-20節。救い主イエスが間もなく十字架にかけられて殺され、その三日目に復活なさろうとしています。その直前の一週間がはじまっています。日中は神殿の境内で人々に神の国の福音を教えつづけ、夜のあいだはエルサレムの都から出て、ベタニアの村で過ごしました。朝早く都に入ってくるとき、主イエスは空腹をおぼえ、道のかたわらの一本のいちじくの木の傍らに近寄りました。けれど実がなっていなかった。その木に向かって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れました。――少し分かりにくい難しい箇所です。この出来事を、マタイとマルコ、二つの福音書が報告しています。何が、どう分かりにくいのか。主イエスは救い主であり、神です。なんでもよくよく分かっておられるはずのそのお方が、その木に実がなっているかどうかが分からなかったというのは奇妙なことです。腹が減っていたからといって、どうして、たかだか木に対してこんなに腹を立てたり、トゲトゲしい荒っぽい口調で呪ったりなどなさるのか。私たち、ごく普通の人間なら、度々つまらないことでカンシャクを起こしたり八つ当たりをしたり、本当はどうでもいいようなささいなことでカンカンに腹を立てて怒鳴ったりなどもするでしょう。けれど主イエスは救い主であり、神であられます。もし本当に、こんなことで腹を立てたとするなら、あまりに幼稚で子供っぽいし、バカバカしい怒りようです。例えば別のときに、多分おなかが空いておられるはずだと弟子たちが食べ物をお持ちしたとき、「わたしにはあなたがたの知らない別の食べ物がある。わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と涼しい顔をして仰ったかたです。また例えば、4040夜のあいだ荒野をさまよって、腹が減って腹が減って疲れ果てたはてに、このお方はサタンの誘惑を退けてみせてくださったではありませんか(ヨハネ福音書4:34,マタイ福音書4:1-11。ね? ですから、腹が減って腹が減って、ついつい子供のように、いつもの私たちのように、カンシャクを起こしたわけではありません。
 旧約聖書以来、預言者たちが『たとえ』を用いて神の御心を伝えるやり方は2種類あります。そのまま言葉でたとえて語る場合と、動作や身振りや立ち居振る舞いによってそれらをたとえ話のように用いて語る場合と。この出来事全体が、たとえ話のようにして大事なことを伝えようとしています。呪われたいちじくの木は、エルサレムの都とそこに住む神の民イスラエルとをたとえています。それを目に見えるはっきりした姿で示すために、このように『ある人がいちじくの木に実を捜しにして見当たらず、腹を立てて、木を呪った』という光景をご自分で演じてみせました。このように実のならないいちじくの木のような先祖と私たちのために、神が悲しんだり、嘆いたり、とても腹を立てたりなさると。
  例えば主イエスは、別の時に、こういうたとえ話を語っておられました。ぶどう園の主人が自分のぶどう園で、いちじくの木に実がなっていないかどうかを何年も何年も探しに来て、やがて腹を立てて「木を切ってしまえ」と園丁に命じた。「いいえ、ご主人様。もう一年待ってください。私が木のまわりを掘って、肥料をやってみます。手入れをし、世話をしてみますから」と。なかなか実のならないいちじくの木は、神を信じて生きる先祖と私たちです。ぶどう園の主人は父なる神。「いいえ、もう一年待ってください。私が木のまわりを掘って、肥料をやってみます。手入れをし、世話をしてみますから」ととりなしている園丁は、救い主イエスご自身です。あのたとえ話の中で、いちじくの木を植えた、あのぶどう園の主人は神さまです。広々としたぶどう園は、私たちが生きるこの世界です。あわれみ深い主なる神は、その広大なぶどう園に生きるたくさんの人々のために、いちじくの木を植えておきました。格別に甘くておいしい実を、彼らみんなに食べさせてあげるために。彼らみんなを慰め、元気づけ、彼らに喜びと力を与えてあげるために。おじいさんやおばあさんにも、お父さんやお母さんにも小さな子供たちにも、毎日いろんなことがあって、悩みや困ったことや辛いこともあって、その中で、それぞれ精一杯に生きています。そういういろいろな人たちの只中に、広い広いぶどう園のあちこちに一本また一本と、いちじくの木が植えられています。この私たちのことです。甘くておいしい実を結ぶはずのいちじくの木は、すべてのキリストの教会であり、一人一人のクリスチャンです。この私たちが一本一本のいちじくの木です。ぶどう園の主人である神さまは、楽しみにして畑を見てまわります、「甘くておいしい実がなれば、ここで生きている人たちを喜ばせてあげられる。うれしい元気な気持ちをみんなに分けてあげられる。まだかな、どうだろう?」。『もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しにきているのに、それなのに見つけたためしがない。だから切り倒してしまえ。なぜ土地をふさがせておくのか』。どうしましょう? 実がならないなら、こんな木は切り倒してしまいましょうか。臆病で意固地でひがみっぽくて、自分勝手で、すぐにプンプン怒ったり恨んだりすねたりしてしまうこんな木は、切り倒してしまいましょうか。ところが、木の世話をするお独りの方が、とてもやさしい園丁がいました。主人といちじくの木の間に立って、1人の園丁が答えます、『今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、栄養のある力のつく肥料をやってみますから。水を朝も夕方もちゃんとかけてやります。悪い虫がつかないように、いつも手入れをしてやりますから。カラスが来たら追い払い、イバラが生えたらすぐに抜いてやりますから。大事に大事に、私が育てます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。お願いです』。この心優しい園丁は、いったい誰のことだろう? ぶどう園といちじくの木の世話をしているこの園丁こそ、私たちの主イエス・キリストです。この方がどんなふうにぶどう園といちじくの木の一本一本を世話してきたのかを、私たちはよく知っています。教会学校の小さな子供たちも、このことを教わってきました。じゃあ、質問。さらに一年たって、実がならなかったら、そのとき、救い主イエスはどうなさるでしょう。これまで、どうして来られたでしょう。何とおっしゃるでしょう。「だめでした。じゃあ約束ですから、切り倒しましょう」? 確かに、そう書いてあって、そう仰ったけれど、本当にそうでしたか? ここにいるいちじくの木たちは、皆、3~4年以内に甘くておいしい良い実を実らせた木ですか? ・・・・・・いいえ、そうではありませんでした。だって、いちじくの木はかなり手強くて頑固で強情だったのです。そう簡単には実を結びませんでした。むしろ手に負えず、箸にも棒にも引っかからず、「あれはダメだよ。いくら世話しても、待っても、無駄だって」と周りのみんながあきれました。『さあ一年たったぞ』と主人も言います。まだ実を結んでいません。その気配も、ほんの小さな兆しさえも見えません。いよいよ切り倒してしまいましょうか。『待ってください。今年もこのままにしておいてください。木の周りをもっと掘って、肥料をやってみます。そうすれば来年は』。やがてその格別に良い園丁は、実のならないその木を切り倒してしまう代わりに、自分自身の体を切り倒していちじくの木の根元に自分を肥料として埋めてくださいました。甘くて良い実がなるようにと願って。きっと必ずそうさせてあげようと決断し、選び取って。救い主イエス・キリストこそが教会の土台であり、私たちクリスチャンが生きてゆくための土台であるとは、このことです。あなたの足元にもこの私の足元にも、自分で自分を切り倒してくださった救い主イエスが埋められています。だから良い実を結ぶことができます。だから、ここもキリストの教会であり、私たちもまたクリスチャンです。神ご自身の同じ一つの心が現されています。いよいよエルサレムの都の近くにきて、それが見えたとき、救い主イエスは神の都エルサレムのために、先祖と私たちのために泣いて言われました、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら。しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」(ルカ13:6-9,19:41-44。神ご自身の同じ一つの心が現されています。神のおとずれの時を知らず、平和をもたらす道を知らない先祖と私たちのための神の悲しみと嘆きの涙です。その同じ一つの心を現そうとして、ここで救い主イエスが木を呪ってみせています。先祖と、この私たち一人一人のために。
  21-22節。「イエスは答えて言われた、『よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう』」。信じて疑わないならば、そのとおりになる。信じて求めるものは、みな与えられる。つまり、神を信じる信仰が足りない、と私たちは語りかけられています。神を信じる信仰とは、『なかなか実を結ぼうとしないそのいちじくの木は、この私自身のことだ。ああ、本当にそうだ』と気づいて、心を痛める信仰です。悔い改めて、神へと立ち返ろうとする信仰です。その信仰こそが、山を動かすどころか、自分自身の心と、口から出るいつもの言葉と、いつもの普段の暮らしの中での自分自身のあり方、自分自身のいつもの普段のモノの考え方とを大きく動かします。神を信じて生きてゆくとは、このことです。信じて疑わないならば、そのとおりになる。信じて求めるものは、すべて全部すっかり、与えられる。そのとおりです。

            ◇

たしかに、持って生まれた性分はなかなか変えることが難しいでしょう。短気な人は短気で、怒りっぽい人は怒りっぽくて、偏屈で意固地な人はずっと偏屈で意固地であるとしても。生涯ずっと同じ性分を抱えたままであるとしても、それでもなお、その性分の言いなりにされ、その性分と腹の思いの奴隷とされて、その虚しいものにただ従って生きるしかないのか。いいえ、決してそうではありません。『神の御心に従って、神の御心に服従して生きる』のか、それとも『サタンと自分の腹の思いに従って、やがて死と滅びへと行き着くのか』と問い詰められて、私たちは選び取ったからです。神を信じて生きることを決心したあの洗礼のときに。肉の思いに従って生きることを私たちはポイと投げ捨てたのですし、一日また一日と、投げ捨てつづけるからです。聖書は証言します;「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ローマ手紙8:1-11参照)。もし、キリストがあなたがたの内におられ、キリストの霊をあなたがたがもっているなら。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、と問われています。胸に手を当てて、静かに息を吸って吐いてみるなら、ちゃんと分かります。救い主イエス・キリストが、この私の内におられ、キリストの霊をこの私も、ここに、ちゃんともっていると。そうか。そうであるなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた天の御父は、私たちの内に宿っている御霊によって、この私の死ぬべきからだと魂をも、きっと必ず生かしてくださる。



2017年10月10日火曜日

10/8こども説教「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く」ルカ15:1-7

 10/8 こども説教 ルカ15:1-7
 『いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く』

15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
(ルカ福音書 15:1-7

  ケンちゃん。とても良い羊飼いである救い主がやがて来てくださる、と約束されていました。その救い主を、みんなは待っていました。その羊飼いがどんなふうに良いかというと、100匹の羊を飼っていたとして、もし一匹の羊が迷子になったら、その一匹を捜し出すまでどこまでもどこまでも、いつまででも捜し歩き、ついにとうとう見つけ出して、羊といっしょに大喜びで帰ってきてくださる。羊の一匹一匹をとても大切に思っているからです。迷子になって、その可哀想な羊が崖の小道の先の先へまで迷い歩いて、ガラガラガラと谷底へ転がり落ちてしまうかも知れないからです。羊ドロボウに誘拐されてしまうかも知れないからです。恐ろしい獣にガブガブムシャムシャと食べられてしまうかも知れないからです。寂しくて恐ろしくて心細くて、その羊がエンエンエンエン泣いている様子が目に浮かぶからです。それで、なんとしてでも助け出して連れ戻してあげようとどこまでも捜し歩いてくださいます。助け出して連れ戻してあげるためには、良い羊飼いは自分の生命さえ投げ出してくださいます。「ああ、そうだった。この私もそうやって捜し出されて、とうとう連れ戻していただいた」と思い出せますか? 自分が迷子の羊の一匹だったと思い出せる羊は、だからとてもとても幸せです。ちっとも思い出せず、何だか他人事のようであまりピンと来ない羊は、いつまでもとても寂しくて惨めで、心細いままで、あまり幸せではありません。

     【補足/忘れっぽい羊たち】
ある人は正直なところ、自分が羊だなどとは思ってもいませんでした。大きな熊か、素敵なカモシカか何かもっと強い、もっと足の速い、もっと利口でたくましい生き物だと思っていました。また別の人は、「たしかに私は羊かも知れないが、それでも、あの迷子の1匹なんかじゃなくて99匹の中の1匹だ。迷子になるなんて迂闊すぎる」と、他人事のように冷ややかに眺めていました。・・・・そうでした。羊のもう一つの性質は、とても忘れっぽいこと。『喉元過ぐれば熱さを忘るる』と言いました。苦しいことや辛かったことを忘れてしまうだけではなく、嬉しかったことも驚いたことも、「ああ本当にそうだ。このことだ」と噛みしめたことも、ごく簡単に忘れて、つまらないような虚しいような、みじめな寂しい気持ちになってしまいました。あーあ。


10/8「強盗の巣にしている」マタイ21:12-17

 ◎とりなしの祈り                      108日(主日)

  救い主イエス・キリストの父なる神さま。自分自身を愛し尊ぶのと同じに、隣人を愛し尊ぶ私たちとならせてください。「自分に良い顔を見せ、親切にしたり愛してくれる人を愛したからといって、何の良いことをしたことになろうか。兄弟や親しい仲間たちにだけ挨拶をしたからといって何のよいことをしたことになろうか」と戒められている私たちです。ですから顔見知りや仲間や同じ信仰の同じ民族の者たちを気遣って思いやるだけではなく、自分たちとはほんの少し違う文化や価値観をもつ他の国籍や民族の人々に対しても、同じく気遣って思いやる私たちとならせてください。しかも、この国でも世界中でも、『自分たちと親しい仲間たちだけが良ければそれでいい』と自分勝手になる風潮が広がり、深くはびころうとしているからです。分け隔てをして他者を憎んだり、見下したり、邪魔者扱いして押しのけようとする悪い思いを、どうか、この国に住むすべての人々の心から、そしてもちろんこの私たち自身の心の中からも、すっかり取り除いてください。しかも私たちは、神さまにこそ従って生きるようにと召し出されたクリスチャンです。人間中心・自分中心のあり方からきっぱりと離れ去り、あなたへと私たちを向かわせてください。『サタンと自分の腹の思いに従って生きること』を止めて、その代わりに、『心と思いを尽くして神さまの御心にだけ聴き従って、神さまにこそ仕えて生きる私たち』とならせてください。それこそが最も幸いな祝福された生き方であると、私たちはすでにはっきりと知ってしまったからです。私たちの父なる神さま。人間の力にではなく、あなたご自身の力にこそ信頼し、人間の賢さにではなく、あなたご自身の知恵と賢さにこそ聞き従って生きる私たちであらせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




      みことば/2017,10,8(主日礼拝,伝道開始143周年記念)  131
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:12-17                    日本キリスト教会 上田教会
『強盗の巣にしている』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。17 それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。                             (マタイ福音書 21:12-17)
                                               

12-13節。主イエスは神殿に入り、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」とその境内で商売をしていた商人たちに言って、彼らを追い出しました。商人たちは、はるばる遠くから礼拝にきた人々のために神へ献げものとする生き物などを売って商売をしていました。主イエスはその露天商、両替商の台や椅子をひっくり返し、商人たちだけではなくお客たちまでもみな追い出してしまいます。今日のキリストの教会では、この箇所をどういうふうに説き明かしているでしょうか。なによりまず、主イエスのこのあまりに非常識・反社会的な乱暴狼藉。「イエス様って子供が大好きでいつも優しくて親切で、いつでも何があってもニコニコしていて」と教えられてきたかも知れません。もし万一こんな姿が世間様に知れたら、せっかくの良い評判がガタ落ちで、だれもキリスト教会に来なくなるかも知れません。さあ困りました。けれど、奇妙な反応がここで沸き起こっています。その騒ぎの中で、子供たちが「ダビデの子にホサナ」と口々に大喜びで叫んでいます。「ホサナ」とは、神に向かって「どうか救ってください」と祈り求めている言葉です。その願いを「ダビデの子に」向かって願い求めている。つまり預言者たちによって預言され、約束されていたとおりにダビデの子孫の中から救い主が起こされ、この世界に遣わされてきた。目の前にいるこのお方がその救い主である。主よ、救い主よ、どうか私たちを救ってくださいと。
しかも境内にいる子供たちが叫ぶなら、その親たちも多くの大人たちも同じように、主イエスの語る神の国の福音に熱心に耳を傾けていたでしょう。今日でもそうであるように、父さん母さんに教えられて、その子供たちは親が習い覚え、信じているとおりに習い覚えます。だからこそ多くの大人たちも子供らと一緒に呼ばわったでしょう、「主よ、救い主よ、どうか私たちを救ってください」。だからこそ祭司長たちや律法学者たちはカンカンに腹を立て、主イエスを激しく憎みながらも、けれど喜び迎える多くの人々を恐れて、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」などとひどく遠慮しながら遠回しに苦情を言う他、手出しも口出しもできません。だからこそ、イエスを殺したいとますます激しく憎み、「殺してしまおう。じゃあ、いつごろ具体的にどうやって」と密談し始めるほどです(ルカ19:47-48参照)。――もしかしたら、道理にかなって正しかったのは、あの彼らではなく乱暴狼藉を働いている主イエスのほうだったのかも。あのとき、主イエスは仰いました。「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。モノを売っている商売人たちばかりでなく、それを買っている、神を信じているはずの礼拝者たちまで境内から冷酷非道に追い払って。それでもなお人々は、「その通りだ。本当だ」と主イエスの発言と振る舞いを強く支持しました。祭司長たちや律法学者たちはハラワタを煮えくり返しました。「すべての者たちの祈りの家であるべき。それなのに、あなたたちは」と断固として告げ知らされて、ある人々は大喜びし、別の人々は心を痛めて恥じ入ったり、カンカンに怒ったり。奇妙なのは、テーブルやイスをひっくり返され追い払われた商売人たち当人ばかりでなく、祭司長たちや律法学者たちこそがすごく怒っている。なぜ? もしかしたら、その彼ら自身こそが祈りの家を強盗の巣にしてしまった腹黒い張本人たちだったのかも。「まさか。それはこの私のことでは?」と心を痛めて、ここで本気になって、私たちこそは我と我が身を振り返ってみましょう。あなたも、この私自身も。どんな救い主だと思っていましたか。主イエスは嬉しそうにニコニコしているときもあれば、それだけではなく心を痛めたり、嘆いたり、今回のようにカンカンに腹を立てて激しく怒ったりもなさいます。ただしい神であり、しかも憐れみ深い神でもあられるからです。それはちょうど、父さん母さんがわが子を愛するようにです。その子が親の言いつけをよく守り、お手伝いも喜んでするハキハキ明るい子であっても、あるいはあまりそうでなくても、ないしろ親は子を愛します。考えてみてください。もし仮に自分の子供が何をしても「いいよいいよ」とニコニコしている親がいるとしたら、その父さん母さんは多分もう、その子をあまり大切に思っていないでしょう。声を荒げたり、本気になって厳しく叱るべきときがあります。子を愛して止まない親のような神さま。いいえ、親である神さまです(ローマ手紙8:14-17,ガラテヤ手紙4:5-7,ルカ福音書11:11-13,申命記8:5)。しかも救い主イエスは、初めから終わりまで徹底して『神殿の主』でありつづけます。12歳の迷子事件のとき、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」。サマリア人の女性と井戸の傍らで語り合ったとき、「まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。神は霊である。だから、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない」と。エルサレムの都と神殿を見て嘆いて、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」(ルカ2:49,ヨハネ2:19-22,4:21-24)。そして今回、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」。すべての国の人のための祈りの家でなければならない。ただ国籍や民族という枠組ばかりでなく、どこに住んでいる、どんな生い立ち、境遇の人も。どんな能力や経歴の、どんな性分のどんな暮らしぶりの人であっても。今日では、黄色や赤や黒い肌の色の有色人種たちを見下して、世界中の多くの白人たちも得意がっていました。この国の多くの日本人たちも、同じようなよく似たことをしつづけています(*)。小さく身を屈めさせられた者たちの喘ぎ声や痛みや叫び声など耳に入りませんでした。そのようにして、祈りの家に住む私たちは度々繰り返して強盗や追い剥ぎに成り下がってしまいました。心が痛みます。エレミヤ書71-11節を、先ほどご一緒に読みました。「主からエレミヤに臨んだ言葉はこうである。「主の家の門に立ち、その所で、この言葉をのべて言え、主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる」。エレミヤの時代の神殿と人々、そして今日のキリスト教会と私たちクリスチャン。では、わたしたち自身の目にはどう見えるでしょう。預言者エレミヤはなんと言うでしょう。神ご自身は? 「わが民イスラエルの悪のために、わたしが聖所を破壊した。今のあなたがたも同じだ。わたしはあなたがたにしきりに語ったけれど聞かず、あなたがたを呼んだけれど、あなたがたは答えようとしなかった。わたしの家を、ついに盗賊の巣にしてしまったではないか」と。荘厳な音楽に導かれ、美しい言葉で祈り、教養あふれる耳障りのよい説教を聞き、設立250年だ300年だなどと教会の権威や伝統を誇り、わたしたちも今日「救われた」「慰められた。とても励まされ、勇気と喜びを与えられた」などと言い合うかも知れません。善良で清らかそうな顔をして、互いに「先生、先生」などと挨拶をし合うかも知れません。けれど、もし他方で互いに公正を行わず、家では家族を困らせたり殴ったり蹴ったりし、職場では部下やパートタイムの労働者たちに辛い思いをさせ、外国からの労働者と貧しい人々をしいたげ、そうやって神ではないモノたちと自分の腹の思いにばかり従っているならば。しかも、神殿を愛する主の熱情こそが、これ語らせています。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。だからこそ、いつも私たちの耳元にささやきかける声があります、「神に聞き従うよりも、周囲の誰彼や自分自身の腹の思いに聞き従う方が神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。いいや、ちゃんと十分に判断できるはずのあなたではないか。それなのに、あなたは何ということをしているのか」(マタイ21:13,24:2,ヨハネ2:19-22,ローマ手紙12:1-,コリント手紙(1)3:16-17,6:19-20,使徒4:19参照)
「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちにそれを起こすであろう」と救い主イエスご自身が確かに約束なさり、それを成し遂げてくださっています。ご自身が新しい祈りの家の土台となり、わたしたちを招きます。聖書は語りかけます、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげよ。心を新たにし、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知りなさい。いいや、そのように心得て弁え生きるあなたとならせてあげよう。この私こそが、そういうあなたとならせる」と。ご自分がお造りになったこの世界と私たちすべてを愛して止まない神さまは、やがてしばらくして、ご自分の祈りの家をまったく新しく建て直しました。古い建物を丸ごとすっかり取り壊して。ご自身の体と生命をもって、死と復活をもって。ビックリ仰天です。「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」と主イエスが仰ったのを聞きました。その新しい神殿とは、ご自分の体のことでした。死者の中から復活なさった救い主イエスこそが、新しい神殿の土台とされました。そのようにして1個のキリスト教会が建っており、夥しい数の祈りの家が新しく建てられつづけます。教会とその共同体がそうだというばかりでなく、今や、主イエスを信じて生きる1人1人のクリスチャン皆が、自分自身の体を神の神殿とされました。ああ、そのとおりです。キリスト・イエスにある生命の御霊に法則は、罪と死との法則から私たちを解放したし、日毎に解放しつづけます。この私たち自身の体も魂も、『強盗の巣』から『生命の御霊の宿る神殿』へと移し変えられつづけます。死ぬべきだった私たちの体は、神の御前で、神に向けて生かされつづけます。なぜなら私たちはキリストの御霊をもち、イエスを死人の中からよみがえらせた天の御父の御霊が私たちの内に現に確かに宿っているからです。そのことを、私たちも知らされています(ローマ8:1-11参照)。ついにとうとう私たちも、自分自身の腹の思いにではなく、神の御心にこそ服従して、神に聴き従って生きる者たちとされているからです。
神殿の主イエスよ、死から生命へと捕らえ移され、あなたの力とご支配の下に堅く据え置かれている私たちであることを、どうか私たちにはっきりと思い起こさせてください。死から死へと滅びの道を辿り続けることを直ちに止めさせ、あなたの生命へと立ち戻らせてください。朝も昼も晩も、立ち戻らせ、私たちにあなたからの新しい生命を得させつづけてください。


(*)人種や様々な差別の風潮が世界中で広がり、またそれに対する抗議の反応も高まっている。米国空軍の士官学校内の掲示板に書かれた差別的メッセージに対して、士官・学校校長のシルヴェリア中将は「他者に敬意をもてない者はここから去れ」とスピーチ(2017929日)。【You Tube「他人を尊重できないなら出ていけ」 米空軍士官学校の校長】 で視聴できます。抜粋の翻訳文もありましたから、以下に添付します。どうぞ、見て聞いて読んでください――

「人種差別的な落書きがあったそうだ。 諸君。女たちも男たちも。わが空軍士官学校の予科過程で何者かが人種差別的な言葉をメッセージボードに書き込んだことについては聞き及んでいることと思う。聞いていなかった者には今から話す。もしきみが、このような言葉にはげしい怒りを感じるなら、きみは正しい。この手の行為は、予科では許されない。士官学校でも許されない。米国空軍でも許されない。きみたちは、はげしく怒らなくてはいけない。空軍の軍人としてだけなく、人間として。
ここではっきり言う。この不愉快な言葉、不愉快な考え方に対する、あるべき反応はただひとつ、それよりもよい考え方を持つことだ。そのために私はここにいるのだ。そのために今ここにみんなが集まっているのだ。窓の方を見てみなさい、みんな集まった、職員も、教員も、本部の人々も、空軍士官学校全体がここにいる。もうちょっとこっちに寄って。軍の指導者たちがここにいる。G准将、A准将、B大佐、ワシントンDCからK氏も来た。このためにみんな集まった。このために私たちはここにいる。私たちにはもっといい考え方がある。この中には、今回のことは自分には関係ないと思っている者もいるだろう。ここでは何も問題ないと思っているなら、私はもの知らずのアホウで、きみたちももの知らずのアホウだ。この問題について話し合うことはないと思っているなら、私たちはみんなアホウだ。シャーロッツビル、ファーガソン、NFLの抗議運動。この国で今起こっていることだ。その背景を考えないのは、ただのオンチだ。・・・・・・(中略) 私にはもっといい考え方がある。それは私たちの多様性だ。多様性の力だ。きみたち4000人の力だ。そしてここにいる職員たち、教員たち、関係者たちの力だ。多様性のあるグループとしてのわたしたちの力だ。私たちの一人一人がそこから出てきた、さまざまな階級、さまざまな土地、さまざまな人種、さまざまな経歴、性、性格、教育、そういった多様性の力が、いっしょくたに合わさって、私たちを強くする。くだらない思惑や不愉快な思想より、ずっといい考え方だ。そう思えばこれは好機じゃないか。5500人が、今、ここにいる。一組織として、いったい私たちは誰なのか、考えられる。これは私たちの組織である。誰ひとり、私たちから、この価値観を取り上げることはできない。誰ひとり、この価値観に反することを掲示板に書くことはできない。誰ひとり、それを私たちから取り上げることはできないのだ。きみたちはまだハッキリわかってないかもしれない。だから私は、今日のいちばん大切な部分をきみたちにゆだねることにする。人に対し、価値をみとめ尊敬をもって接することができない者は出ていきなさい。他のジェンダーの人を、男であろうと、女であろうと、価値をみとめ尊敬をもって接することができない者は出ていきなさい。人の品位をおとしめようとする者は出ていきなさい。人種の違う者、肌の色の違う者に価値をみとめ尊敬をもって接することができない者は出ていきなさい。
携帯を出して。まじめに言ってるんだよ、携帯を出して。いや、なけりゃいい、持っていれば出しなさいと言っておる。携帯でこれを録画してもらいたい。そしたらきみたちはそれを使える。私たちはみんなでこのモラルの勇気を共有できる。私たちみんな、この場にいるきみたち、窓際や窓の外にいる職員たち、教員たち、この中にいる私たち、みんな。これは私たちの組織だ。必要ならこの言葉を取っておきなさい。そしてそれを使いなさい。記憶にとどめ、分かち合い、それについて話し合いなさい。きみたちが、人に対して、価値をみとめ尊敬をもって接することができないのなら、その場合は、ここから出ていきなさい。(伊藤比呂美訳)