2017年10月31日火曜日

10/29こども説教「いなくなった弟を」ルカ15:11-24

 10/29 こども説教 ルカ15:11-24
 『いなくなった弟を』

15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。・・・・・・18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。         (ルカ福音書 15:11-24

  たとえ話ですから、何が何をたとえているのかをはっきりと知っておきましょう。お父さんは、神さまのことです。弟と兄、2人の息子は、私たち人間です。今日は、その弟のこと。その弟は、お父さんの家でお父さんといっしょに暮らしているのが嫌になって、どこかずっと遠くへ出かけていきました。しばらくして、弟が財産も何もかも無くして、お腹もペコペコに空かせて、くたびれはてて、ボロボロの汚い格好になって帰ってきました。「あ。いなくなっていた息子が帰ってきた」とお父さんは、すぐに見つけました。息子はすっかり別の人のように変わり果てていたのに、ずっと遠く離れているうちから。どうしてでしょう。だって、今日帰ってくるか明日かと、毎日毎日、とても心配して待っていたからです。いなくなった日から、ずっと案じていたからです。心配で可哀想で、仕方がなかったからです。ずっと想いつづけていたからです。走り寄って抱きしめて、チューってキスをしてあげて、大喜びでしもべたちに言いました。「早く早く、一番良い着物を持ってきてこの子に着せなさい。息子のしるしの指輪もはめてやりなさい。裸足じゃ可愛そうだ、はきものも履かせてやりなさい。子牛をほふって、この子が帰ってきたお祝いパーティの用意をしなさい。皆で喜んで楽しもうじゃないか、急いで急いで。ほらほら早く。だって、この息子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに、とうとう見つかったのだから。ああ、嬉しい嬉しい嬉しい」。


      【補足/父は息子のお詫びの言葉を少しも聞いていない。なぜ?】

       よくよく目を懲らして見つめるべきは、父親の姿とその心です。もし、「ああ、こういう神さまだったのか。こういうふうに私たち人間を思い、このように取り扱ってくださるのか」と手応えを掴めるなら、このたとえ話を呼んだ甲斐がありました。息子は豚小屋で困窮し、「父の家に帰ろう。帰りたい」と思い返しました。道々、お詫びの言葉を考えました。18-19節、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と。けれど父は、その息子の詫びの言葉をろくに聞いていません。取り乱して、嬉しくて嬉しくて、それどころではないからです。ずっと遠く離れたところに息子の姿を発見したその瞬間から、父親は喜びにあふれています。なぜ、こんなにも嬉しいのか。24節、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」です。死んでしまったかのようだった、いなくなっていた一人の息子のために、この父親(=神さま)は深く心を痛め、嘆き、悲しみつづけていたからです。兄に対しても弟に対しても、どの息子や娘たちに対しても、これほど愛して、とても大切に思いつづけていました。そのことを、私たちも決して二度と忘れてはなりません。この父親の子供たちでありつづけるためには。父親の喜びにあずかりつづけるためには。「この自分のためにも、他の子供らのためにも、このように喜んだり悲しんだり心を痛めたりしてくださる神。親である神」と心に深く刻んでいる。それが、キリストの教会であり、一個のクリスチャンであることの中身です。そうであるなら、いなくなったり見つかったり、死んだり生き返ったりしつづける兄弟姉妹たちのために、この父親と一緒になって、深く悲しみ嘆いたり、心を痛めたり、大喜びに喜んだりもできるからです。