2017年10月31日火曜日

10/29「後で考え直して」マタイ21:28-32

 ◎としなしの祈り
  イエス・キリストの父なる神さま。
  日本人でも外国人でも、どんな文化や民族や国籍の者であっても、すべての子供が慈しまれ、励まされ、自分の人格とあり方を認められて育つことができますように。そのようにして、自分を好きになり、生きてゆく一日一日を喜び、感謝し、そのようにしてだんだんと隣人を思いやることをも学び取り、正直で公平な心優しい人間にだんだんと育ってゆくことができるようにお守りください。親と周囲の大人たちが、そのように子供と若者たちを慈しみ、励まし、広い心で接し、思いやりをもって育て、心優しく付き合ってゆくことができますように。この世界が生きるに値する素敵な世界であることを、どうかすべての子供と若者たちが習い覚えてゆくことができますように(『子供は習い覚えてゆく』ドロシー・L・ノルテ参照)。ですからすべての大人たちの心を励まし、大人として親としての務めを健全に精一杯に果たし、また、そのことを喜び楽しむこともできるように支えてくださいますように。貧しく心細く暮らす人々が、世界中に、またこの日本にも、大勢います。押しのけられ、ないがしろに扱われつづける多くの人々がいます。大人たちもそうであり、長く生きて生きた先輩の方々の多くもそうです。ですから、この私たち自身も、自分を好きになり他者を思いやる、正直で公正な心優しい人間へとだんだんと育ってゆくことができますように。互いに慈しみ合い、励まし支え合い、互いに広い暖かな心で付き合ってゆく私たちとならせてくだっさい。神さまから、そのように慈しみ深く愛され養われつづけてきた私たちですから、家族や友人たちに対しても、子供や若者たちに対しても年配の方々に対しても、自分たちとは少し違う文化や習慣をもつ他の国の人々に対しても慈しみ深くあることができますように。
 主なる神さま、どうか私たちを憐れんでください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

  

       みことば/2017,10,29(主日,宗教改革記念礼拝)  134
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:28-32               日本キリスト教会 上田教会
『後で考え直して』

 +【特別付録/みことば号外】およそ500年も前の宗教改革とは何か?

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
21:28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。31 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。                                       (マタイ福音書 21:28-32)



  どんな神さまなのかをぜひ知りたいと初めの頃に思いました。どんな救いなのか、神を信じてどういうふうに生きて死ぬことができるのか。自分はいったい何者なのか、どこから来て、どこにどう足を踏みしめて立つことができ、どこへと向かおうとしているのか。生きる意味は何なのかを知りたくて、それで私たちは今日もここにいます。
 
  主イエスは、律法学者や祭司長たちの見せかけだけの仮面をはぎとります。主イエスは、容赦なく仰います、31-32節、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」と。神を礼拝する作法やしきたりや整った美しい祈りの言葉なども自分たちこそはよく心得ており、神の律法を守ることについても自分たちこそは熱心で誠実だと自分自身では思い込んでいましたし、周囲の人々からもそういう彼らであると見なしてもらいたいと望んでいました。あの彼らは。けれど主イエスは、「それはちょうど『今日、ぶどう園へ行って働いてくれ』と父親から頼まれ、『おとうさん、参ります』と答えたのに行かなかったあの息子とそっくり同じじゃないか」と仰います。
 ここで、二人の息子のあり方が見比べられています。たとえ話です。父親は神さま。兄と弟は私たち人間のそれぞれの在り方を鏡のように写し出しています。兄は、『今日、ぶどう園へ行って働いてくれ』と父親から頼まれ、『おとうさん、参ります』と答えたのに行かなかった。弟は、父親から同じように言われ、『いやです』と答えましたが、あとから心を変えて出かけた。二人の兄弟の違うところは何でしょう。「ぶどう園へ行って働いてくれ」と父親から頼まれ、行かなかった者と、後からでも出かけていった者との違いです。弟は、出かけて行ったとだけ報告されて、そのぶどう園で真面目に精一杯によく働いたのか、いい加減にサボりながら休み休み働いたのかどうか、喜んで働いたかブツブツ言いながら嫌々渋々働いたかなどとも問いただされません。ただ「行ったのか」、それとも「行かなかったのか」とだけ問われています。あのもう一つのぶどう園のたとえ話と、とてもよく似ています。そっくり同じです。奇妙なぶどう園の主人が1日1デナリの約束で、朝から夕方まで、「私のぶどう園に来てみなさい。ほら、あなたも、あなたもあなたも」と労働者たちを自分のぶどう園に招きつづけるたとえ話(マタイ20:1-16。それとこれは、まったく同じ一つの心だったからです。あの夕方。賃金を受け取る時に、ぶどう園で働いていた労働者たちの中には、プンプン怒って腹を立てて、文句を言っている人たちがいます。「この最後の者たちは1時間しか働かなかった。それに比べて私たちは、まる一日暑い中を汗ドロドロになって我慢して働いた。それなのに同じ扱いをするのか。どういうつもりだ」。ある人は、この夕方の支払いの場面を読んでこう思いました。「支払いの順序が逆にされたのは、朝早くから先に招かれた労働者たちにとって、とても良かった」と。もし、そうでなかったら、先に招かれた労働者たちは、ほかの人たちがどういう支払いをどんなふうに受け取るか、その支払いの本当の意味も、本当の喜びも知らないまま、ただ当たり前のように受け取って帰ってしまったことだろう。例えば、もし時給860円、よく働いた者には歩合をつける、有能な者は部長、課長、係長に取り立てる、として雇われたなら、どうでしょう。もし、そのぶどう園で賢く力強い者が重んじられ、愚かで弱々しい者たちが軽んじられるならば。もし、かたくなで貧しい者が退けられるならば。もし、才能ある優秀な人材が、その才能と優秀さのままに取り立てられてゆきならば。それなら私たちは直ちに神を誤解し、神の民とされた自分自身をはなはだしく見誤ることになるでしょう。私は優秀で大きな人材だ、と誤解してしまうでしょう。私の信仰深さによって、私の誠実さ、私の熱心と努力によって、私はふさわしく取り立てられてこのぶどう園の労働者とされたと、すっかり勘違いしてしまうことでしょう。それでは困ります。とてもとても困るのです。神の恵み深さが分からなくなり、『憐れみを受けて、だからこそ、こんな私さえここにいる』と知らないなら、この恵みの場所は私共にとって無益です。何の意味もありません。現実の信仰生活で、この私たちもよく似た場面や出来事に直面しつづけます。精一杯に働いたり献げたりしながら、けれどなんだか満たされない。正直なところ、喜びも感謝もちっとも湧いてこない。物寂しくて、腹立たしくて、虚しくて。誰かに文句を言ったり、グチをこぼしたり、顔をしかめて「チェッ」と舌打ちしたくなります。腹を立てて喰ってかかろうとしていたあの時、妬んだり拗ねたりイジケたりしていたとき、強情になっていたあの時、あの彼らは、滅びの道へと転がり落ちてしまいそうな危うい分かれ道に立っていました。私たち一人一人もそうです。
神のぶどう園の労働者たちよ。本当は、1デナリ以上の、その千倍も万倍も素敵なものが贈り与えられるはずでした。喜びと感謝がです。ふさわしい代価。賃金。不当なことはしていない? 神さまの正しい尺度、計り、道理にかなった正当で適切で、ふさわしい御判断? いいえ、とんでもない。神さまご自身の尺度と計りは、私たちがずっと習い覚えてきた合理的で理性的な一般常識から見れば、ものすごく歪んで理不尽に見えます。ですからここでも、ただただ呆れ果てて驚くばかりです。夕方5時ギリギリで駆け込んできた雇い人にも、たとえその人が指一本も動かす暇さえなくたって、義しくかつ過分に()1デナリです。私たちの目からは、ありえないほど奇妙な、腰を抜かして驚くほどのその尺度と計りは、「罪人のゆるし」「ただただ憐れみ」という名の尺度です。支払いの列の後ろに並ばせられて、この人たちがすぐにプンプン怒ったりしないで待っていたら、とても嬉しい光景を見ることができたでしょう。夕方雇われた人たちが支払いを貰った時の、そのビックリ驚いた、嬉しそうな不思議そうな顔つき。「え、本当にこんなに貰っていいんですか。わあ、すごい。だって、ぶどう園に着いたと思うと、もう支払いだという。ほとんど何も働いていないのに、約束された通りに本当に1デナリもくれるなんて。ありがとう。ありがとう」。その喜ぶ顔に、私たちは見覚えがあります。この主人と初めて出会って、「あなたも来てみなさい」と声をかけられた時の、この私の顔だ。豊かなぶどう園に連れて来られ、そこで働く人たちを目にし、園を見回し、見よう見真似で働きはじめた頃の、あの私の、喜びに溢れた顔だ。うっかり忘れていたが、この私もあなたも、そうやってここで働きはじめたのでした。夕方の支払いを待つまでもなく、「来てみなさい」と声をかけられた初めから、招き入れられて働きはじめたそもそもの最初から、たしかにこの私も喜びに溢れたのでした。そのように喜ぶ顔を次々と見続けて、とうとう自分の順番が来ました。「支払ってやりたい。さあ、義しく適切な賃金だ」。手渡されて、見ると、山ほどの有り余る豊かな贈り物です。なぜなら、山ほどの有り余る豊かな贈り物を贈り与えることこそが天の父親の望みでありつづけるからです。山ほどの有り余る豊かな贈り物を贈り与えたい。だから、私のぶどう園にぜひとも来てもらいたい。
 天の御父の望みは、ただそれだけでした。律法学者や祭司長たちも、「ふたりの兄弟のうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」と問われて、「あとの者です」と答えています。そのとおり。「行って働いてくれ」と言いながら、けれど父親の本当の望みは、真面目に働いたかどうか、どの程度の成果や実績をあげ、どれくらい役に立ったかなどということとは何の関係もなく、ただただその子供たちが「ぶどう園に行く」ことだったのです。これはたとえ話であり、ぶどう園の持ち主である父親は神のことです。ぶどう園は、神の国であり、神が王さまとして支配し、力を発揮しておられる領域。そこに行くことは、王である神のお働きの只中に生きて、そのご支配とお働きに従って暮らしてゆくことです。子供たちは、私たちです。さて、『父の望み通りにしたのはぶどう園に出かけて行った子供である』とあの彼らも気づきました。私たちにも分かります。主イエスは彼らと私たちにこう仰います、31-32節、「イエスは言われた、『よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった』」。「ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いた」と主イエスは言います。洗礼者ヨハネは、神に仕える忠実な働き人たちの一人です。ですから主イエスは、洗礼者ヨハネが宣べ伝え、教えたことは、『父』である神ご自身が『息子たち娘たち』に宣べ伝え、教えたことであると見なしておられます。そのとおりです。なぜなら、預言者は語れと主から命じられたことを命じられるままに語る者たちだからです。それらの教えの一つ一つは、天から雨や雪が降るように、「主の口から出る主の言葉である」(イザヤ書55:10-11と神ご自身によって約束されています。だからこそ、地を潤して物を生えさせ、芽を出させるように、「主の望み、喜ぶところのことをなし、主が命じ送った事を必ずきっと果たす」と太鼓判を押されています。それこそが今日でも、これからも、すべての伝道者の働きのための心強い確かな支えであり、保証でありつづけます。さて、洗礼者ヨハネが先祖のところに来て義の道を説いたように、今日に至るまで主なる神に仕えるおびただしい数の伝道者たちが遣わされてきて生命と平安に至る神ご自身の義の道を説きつづけています。信じない者たちがおり、信じる者たちがいます。神のぶどう園に行く者と、行かない者とがあるようにです。神を信じ、神の国に入れていただくことは、つまり、そのぶどう園に行くことです。
 もう少しはっきりと語りましょう。神ご自身が来られ、おびただしい数の預言者や伝道者たちの口を用いて、神ご自身の義の道を説きつづけています。その一人一人は自分の主体性と判断と考えによってではなく、そんなものとは何の関係もなしに、ただただ神が語れと命じる言葉を命じられるままに語ります。そうでなければ困ります。だからこそ、彼らは『自分の腹の思いに仕える自分のための働き人』などではなくて、ただただ『主に仕える働き人』であり、だからこそそれらの言葉には、「主の口から出る主の言葉である。主の望み、喜ぶところのことをなし、主が命じ送った事を必ずきっと果たす」と約束された通りに、神ご自身の権威と保証が必要なだけ十分に宿りつづけました。
 「神の義の道」についても、すでに私たちは十分に知らされています。「しかし今や、神の義が、立派な良い行いを私たちがどれだけしたかしなかったかとは関係なしに、しかも聖書によって証言されて現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別も区別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、だから私たちは、価なしに、ただ神の恵みにより、ただただキリスト・イエスによるあがないによってだけ義とされる。・・・・・・こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこに私たちの誇りがあるのか。どこにも全くない。ほんのひとかけらもない。なんの法則によってか。良い行いをどれだけしたかしなかったか、信仰深いかそうではないかなどということとはまったく何の関係もなしに、『ただただ主イエスをこそ信じる』という信仰の法則によってである」(ローマ手紙3:21-28参照)「どこに私たちの誇りがあるのか。どこにも全くない。ほんのひとかけらもない」とわざわざ念を押されるのは、『神の義の道』と『自分自身の義の道』とがいつも互いに押し退けあっているからです。神の義を押しのけて、自分のふさわしさや正しさを言い張ろうとして、神ご自身をすっかり見失い、迷子になってしまう者たちが数多く居つづけるからです。聖書は証言します、「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:2-3。「私は正しい正しい」と言い張りつづけて、神の正しさを押し退けてしまっては、神を信じて生きてきたことすべてがすっかり水の泡になってしまうからです。
「神の義の道」とは、私たち人間がごく普通に思い浮かべるような『正しさ。当たり前』などとはずいぶん違っています。少しも正しくない、恵みに値しない罪人である私たちが、だからこそ神ご自身の正しさと憐れみ深さによってだけ救われ、生かされ、神の義を贈り与えられて生命と平安へと至る道であるからです。『サタンと自分の腹の思いに従って生きる』虚しい惨めな在り方を止めて、その代わりに、『神の御心に従順に従って生きる道』であるからです。人々から見下され、軽んじられ、押しのけられていた取税人や遊女は主の言葉を信じ、救い主イエスを信じました。それは親に信頼して聞き従おうとする小さな子供の心であり、小さな子供の姿でした。「けれども私の願いどおりではなく、あなたの御心のままに」と願う救い主イエスの中に、その従順の姿を私たちもはっきりと見ました。そこに、格別な幸いと安らかさがありました。後からでも、ずいぶん遅くなってからでも、それでも心を入れかえて神のぶどう園に出かけて行くことのできる人々は幸いです。手遅れになる前に、間に合ううちに辿り着くことのできる人々はとても幸いです。
「私のぶどう園に来てみなさい。さあ、あなたも。あなたも。あなたも」。来てみたのなら、もう二度と、はぐれてしまわないように、ガッシリとそこに腰を据え置きなさい。誰からイヤミを言われても、渋い顔をされたって、ぶどう園に居座ってあなたは二度と決してそこから離れちゃダメだよ。




【特別付録/みことば号外】
 およそ500年も前の宗教改革とは何か?

  一人のクリスチャンは、生涯ずっと、神に忠実でありつづけるでしょうか? 神を見失わず、神に一途に信頼を寄せ、聴き従って歩みとおすでしょうか。いいえ、決してそうではないと思えます。くりかえし神に背き、神の御心に反することをしつづけ、たびたび神を見失い、なお繰り返して神へと立ち戻りつづけました。「だから日毎の悔い改めである」と改革者の一人は気づきました。キリストの教会も、それとよく似た歩みを繰り返してきました。たびたび、はなはだしく腐敗し、ごく人間的な集団に成り下がり、うわべを取り繕うばかりで神を少しも思わなくなり、やがて立ち戻りました。立ち戻りつづけます。それが、私たち自身とキリスト教会の歴史です。
 そのころ教会は、『罪をゆるし、救いを約束する天国行き格安チケット』を銀行や第資本家たちの協力を得て大々的に販売していました。免罪符(めんざいふ)です。一人の修道士は、そこに信仰の大きな危機をひしひしと感じ取って、抗議文(=95箇条の論題)を教会の門に掲示しました。それが、当時の講義や問題提起のやり方でした。しかも、ちょうどそのころ活版印刷が発明されていました。安く簡単に印刷されたチラシやパンフレットが大量に出回る時代が始まっていたのです。一人の小さな抗議の声は、そのようにして遠くの町や村々にまですぐに届き、多くの人々がそれを共有しました。
 何に抗議したのか? どのようにして人が救われるのか、その救いの道筋こそが大問題でした。善い行ないや自分で積み重ねてきた功徳がその人自身を救うと考えられ、それは様々な形で銀行預金のように積み重ねられる、と人々は教えられていました。善を行えば救いの恵みが与えられ、悪いことをすれば地獄に落ちると。しかも、その前項や功徳は金に換算されて、簡単に手軽に売り買いさえできると。その一人の修道士は、『人間を救いうるものがあるとすれば、それは人間の善行や功徳ではなく、神の慈悲と憐れみ以外にはない』と気づきました。聖書に、はっきりとそう書いてあったからです。それこそが聖書の福音でした。旧約聖書の中にあり、救い主イエスが断固として告げ、預言者と使徒たちが明確に説き、長いあいだ見失われた後でふたたびアウグスティヌスが見出し、また他のものにまぎれ、片隅に追いやられ、埋もれて見失われつづけました。福音は、くりかえし再発見されつづけます。もちろん、その後も、『神の慈悲と憐れみ以外にはない』という福音の真理は見失われつづけ、再発見されつづけました。今日の私たちに至るまで。多分、これからもそうです。

  15171031日、教会の門に釘打ちされた一枚の抗議文。その95項目の主張の一つ一つはよくよく味わうに値します。そこから始まった大きな『福音の再発見』運動は、『聖書のみ。恵みのみ。信仰のみ』と旗印して掲げました。『聖書のみ』は、聖書以外の人間的な権威が幅を利かせていたからです。「聖書には書いていないが神から届けられた秘密の真理が他にいくつもある。例えば聖母マリアもまた天に昇り、父なる神の右に座しておられ、救い主イエスと共に私たちのために執り成している。聖なる弟子たちも、イエスやマリアさまと共にそれぞれ私たちと神の間に立って執り成してくださる」などと教会は主張しましたし、ローマ法王は教会と聖書の上に立つ絶対の権威だとされていたからです。いいえ、そうではないと。『恵みのみ。信仰のみ』は、「救われるのは善行と功徳による」と教える教会に対して、「ただ恵みによって。ただ、救い主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ」と。そのように、プロテスタント教会とは、抗議し、神の真理にしがみつこうとする者たちの教会でありつづけます。
  宗教改革記念日が何月何日だったかを、私たちは忘れてもいいでしょう。その一人の修道士の名まえを知らなくてもいいでしょう。95箇条の論題を暗記できなくてもいいでしょう。それまで聖書は意味の分からない難しい外国語で書かれて、念仏や呪いのように、ただただ読み上げられるばかりでした。ただ有り難がって聞き流すばかりでした。自分の言葉で印刷された聖書を彼らが初めて読んだとき、分かる言葉で聖書の言葉を聞いたとき、はじめにそれはわずか数十行の聖書の抜粋でしたが、それが聖書のどの箇所だったかを知らなくたって構いません。けれど、そのことのために命をかけた人々がおり、それで、私たちは今、自分の国の言葉で書かれた聖書をそれぞれ手にし、礼拝でも、自分の国の言葉で語られる礼拝説教を聞いています。その説教は、今でも、「ただ聖書によって。ただ恵みによって。ただ、救い主イエスを信じる信仰によって」と語りつづけ、わたしたちの教会の信仰告白は「神の恵みによるのでなければ、罪に死んでいる人間は誰も決して神の国に入ることはできない」「聖書は神の言葉であり」「神のこの救いの御業を信じる者は、キリストにあって義と認められ、何の功績もなしに無償で罪のゆるしを得、神の子とされる」と。
 ただ恵みによって。キリストにあって義と認められ、功績なしに無償で。だから私たちは、ふたたび神を見失ってしまわないために、ふたたび神の福音の真理を見失わないために、キリストの教会が教会であることと私たちがクリスチャンとされたことの他の別の理由を付け加えない。聖書によって証しされるイエス・キリストこそ、生と死において、私たちが信頼し、聴き従うべき、神の唯一の御言葉である。すぐれた説教者がどれほど感動的に生き生きと語っても、それが聖書に書いてある真理に無関係であり、あるいは反しているならば、私たちはそれに聞き従わない。経験を積み重ねた、影響力のある信仰者や大先生がいくら保証しても、太鼓判を押しても、それが聖書に書いてある真理から来たのでなければ、私たちは信頼しない。決して言いなりにされず、誰にも決して聞き従わない。それが、聖書によってイエス・キリストを証しするのでなければ。私たちのためのただしさ、私たちのための清さ、私たちのためのふさわしさは、ここにだけある。神の憐れみ、憐れみ、憐れみ。神の無条件の恵み、恵み、恵み(コリント手紙(1)1:23-31,ローマ手紙5:6-11,エペソ手紙2:8-10

  宗教改革の伝統に立つ私たちの兄弟教会は、その新しい信仰問答の中で、こう問いかける。「神に愛してもらうために、私たちは良い人間になる必要はないのですか?」そして、直ちに「ない」と答える。ただ恵みによったのだ。神が愛を『自由な贈り物』として贈り与えてくださった。その愛は、私たちが当然受けるに値するわけでもなく、自分で勝ち取ることもできなかった。たくさんの悪いことを今なお私がし続けているとしてもなお、それでも神は、そんな私をさえ愛してくださる。しかも、十分に愛してくださるので、こんな私たちさえも良いことをする良い人間にならせてくださる。私たちの側の決心や努力や心がけによってではなく、ただただ神ご自身の恵みによってだけ、きっと必ずそうしてくださる(『神のものであること』米国長老教会 こどものための信仰問答,ピリピ手紙1:6参照)