2017年10月24日火曜日

10/22こども説教「一枚の銀貨を」ルカ15:8-10

 10/22 こども説教 ルカ15:8-10
  『一枚の銀貨を』

15:8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。         (ルカ福音書15:8-10

  ケンちゃん。10の銀貨をもっていた女の人がその中の1枚をなくしてしまいました。すると、家中ひっくりかえして夜どおし捜しつづけ、見つけたら大喜びに喜ぶというのです。あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいとエンエン泣いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。ただ財布から落ちて、コロコロころがって、タンスとタンスのすきまかテーブルのしたか本や古しんぶんのページのあいだかどこかにまぎれこみました。自分がどこかにいなくなった、とも知りませんでした。放っておけば100年でも200年でもそのままいなくなったままでしょう。見つけだされて主人の手にもどっても、たとえ持ち主が大喜びに喜んだとしても、けれど銀貨は、うれしくも何ともない。持ち主の手にもどったことに気づきもしないでしょう。それでもなお、「大きな喜びが天にある。神の天使たちのあいだに喜びがある」7,10節)その一人の迷い出てしまった10円玉か5円玉のようなかわいそうなかわいそうな罪人を思って、神さまが、「どんなに心細く、おそろしくて、みじめだろうか。かわいそうだ、かわいそうだ」と。だからこそ立ち帰ってきたその一人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさとひと組でした。とてもとても心配して悲しんでいた分だけ、それだけとても大喜びに喜んでいます。うわおっ。

    【補足/神は喜んでくださる】
あの羊飼い。そして銀貨をなくした女のひと、そして息子がいなくなってしまった父さん。それらはみな、神さまのことです。すると、「銀貨10をもっている女」と言いましたけど、ほんとうには、10枚しかもっていない貧乏な女のひとが、その1枚がなかったらご飯を食べるにも困るほどで、だから必死に捜し回る、ということではありません。むしろこの女はビックリするほどの大金持ちで、財布のなかにはありあまるほどのたくさんのお金がウジャウジャはいっています。神さまなんですから。その1枚が見つからなかったら毎日毎日の暮らしに困る、というわけでもありません。困る困らない、都合がいい都合がわるいという話でもありません。連れ戻された羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけだされた銀貨がそれを何とも思わなくたって、なにしろ羊飼いは嬉しい。なにしろ銀貨の持ち主は嬉しい。なにしろ、あの父親はとてもとても嬉しい。