2019年9月15日日曜日

9/15「あかりを燭台の上に置く」ルカ8:16-18


                      みことば/2019,9,15(主日礼拝)  232
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:16-18                      日本キリスト教会 上田教会
『あかりを燭台の上に置く』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
8:16 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。      (ルカ福音書 8:16-18)

 16-18節、「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。《神からの光。神のものである光》のことを思い巡らせましょう。「あなたがたはこの世界と周囲のものすべてと自分自身を明るく照らし出すための世の光である」(マタイ5:15参照)と、救い主イエスを信じて生きるクリスチャンはかつて語りかけられたからです。山の上にある町は隠れることがない。そして旅人は、遥か遠くから山の上のその町の姿を見て、そこに辿り着くことを目指して歩んできます。また、燭台の上に置かれたともし火が家中を明るく照らし出すように、1人のクリスチャンもまた、ともし火をともして、家中を明るく照らし出す。そのためにこそ、この私たち一人一人もそこに置かれていると。
  けれども、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。あなたがたの良い行いを見て、人々が天の父をあがめるようにしなさし」などと言われて、その途端に、私たちはうろたえてモジモジしはじめます。この言葉を聞くクリスチャンの多くは、もしかしたら7割、8割近くの人々がまったく見当外れなことを思い浮かべ、この信仰の中身をひどく誤解してしまうかも知れません。「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を」などと言われて、それは私たち自身の光だと思ったでしょうか。いいえ、そうではありません。「あなたがたの天の父をあがめるようになるためです」(マタイ5:15参照)と、かつて語られたからです。光を輝かせることが出来る」理由も、その目的も、私たち自身も周囲にいる他の人々も天におられます父なる神をあがめるようになるためにです。神にこそ信頼を寄せ、聴き従い、幸いも助けも、必要な良いものすべて一切も神から受け取り、神を喜び、神に心底から感謝して生きるようになるために。
心を鎮めて、よくよく考えてみましょう。・・・・・・その人の笑顔がどんなに素敵でも、その人の祈りがどんなにきちんと整っていて、厳かで格調高くて堂々としていて美しくても、けれど、その笑顔やその祈りを聞いた人々は、はたして本当に、天の御父をあがめるようになるのでしょうか? 天におられます父なる神さまに感謝し、天の父によくよく信頼を寄せ、天の父をこそ喜び、そこに自分自身のための確かな希望と幸いを天の御父のみもとに見出して生きるようになるでしょうか。――そうかも知れません。あるいは、もしかしたら、ただただその人をあがめ、その人自身を誉めたたえたり、うらやましがったりしつづけるばかりかも知れません。私たちが周囲や世界や自分自身を明るく照らし出すはずの、その私たちの光は、私たち自身の光ではありません。私たちの体の中のどこかに眠っていたものではなく、私たちが努力して育てたり、せっせと磨き上げてきたものでもありません。私たちのものでさえありません。神さまが私たちの土地にまいてくださった、御言葉の種からの光です。私たちの土地にまかれた御言葉の種は光を放って、あかるく輝きます。だからこそ、救い主イエスの福音を聞いて信じたすべてのクリスチャンは、とくに注意にして、語られている中身を聞き分けなければなりません。注意深く、賢く、そのあかりを用いなければなりません。
 「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである」。あかりは、神からのあかりです。それは、神を信じて生きるための福音の知識であり、それによってどのように毎日の暮らしを御心にかなって生きることができるかという教えです。それらは、ふさわしく適切に用いられねばなりません。だから、神から教えられ、授けられたせっかくの信仰の知識と知恵を、何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしないのです。むしろ燭台の上に置いて、はいって来る人たちにその光がはっきりと見えるようにします。そこではじめて、神を信じて生きるための知識と知恵は生きて働き始め、役に立ちます。
 私たちが受け取って確かに持っている福音の知識は、それを具体的に用いるためのものです。私たちの毎日毎日の暮らしの中で、その人の生きざまやものの考え方、ふるまい、心の思いや態度として生きて働きつづけます。救い主イエスは仰いました、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。……わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」(ヨハネ福音書12:35-46。福音の知識が光である理由の一つは、それが私たちにはっきりした生き方を指し示すからです。その新しい生き方が出来る理由と土台をもはっきりしと教えられているからです。こう戒められます、「しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである。子供たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが父を知ったからである」(ヨハネ手紙(1)2:8-14
「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。どのように聞くのかに注意しなさい、と勧められています。聞いた福音の御言葉がその人の生活を建て上げてゆくための確かな土台となるように聞くことです。そうであれば風が吹き、地面が激しく揺らぎ、川の水があふれて大きな波がうち寄せても、その家はびくともしません。けれどもし、生活の確かな土台となるように聴くことができなければ、持っていると思っていた福音の知識も信仰の確信もすっかり取り上げられてしまうかも知れません。恐ろしいことですね。基本の聞き方があります。第一には、神のものである一つ一つの御言葉が真実であり、力をもって生きて働くことをはっきりと信じながら、神への信仰をもって聞くことです。聖書は証言します、「ある人々にとって聞いた御言は無益だった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結び付けられなかったからである」(へブル手紙4:2-7参照)と。第二には、それが神の言葉であると思い起こしつづけながら、敬意と畏れをもって聞かねばならないということです。それは、テサロニケ教会の人々の聞き方です。「あなたがたが私たちの説いた神の言葉を聞いたときに、それを人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れてくれた。しかも事実、それは神の言だった」(テサロニケ手紙(1)2:13と。とりわけ大事なことは、独りで聖書を読むときにも説教の御言を聞くときにも、神の祝福を求めて、その始めにも聞き終えたときにも、神に向かう祈り、神へと自分自身を向かわせる祈りをもって聞くことです。第三には、神の御言を聞いて、その御言に指し示され、促されるとおりに毎日毎日の暮らしを生きることです。「御言を聞いて、行う。その人々こそ、私の母であり兄弟である」(ルカ8:21と主イエスがはっきりと仰ったように。
 「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と主イエスはおっしゃいました。この世界も私たち自身も光を必要としているからです。また、この世界も私たちも、ただ自然な姿では、薄暗い弱々しい裸電球のようだったからです。「わたしは世の光である」と主イエスはおっしゃいました。聖書は、このイエス・キリストというお独りの方について証言しつづけます(イザヤ60:1-,ヨハネ1:9-11)。主イエスは、さらにおっしゃいます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」(ヨハネ8:12)と。また、「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と。つまり、私を通りさえすれば、誰でも天におられます父の御もとに行くことが出来る。私に聞きさえすれば誰でも、神について、またこの世界と自分自身についての真理を知ることができる。私から受け取りさえすれば、誰でも、格別な生き生きとした生命を生きることができる。この方は、そうおっしゃいました。私たちは信じました。そして、その通りだったのです。

神の御言を聞いて、それを神の御言として受け止め、心に刻み、そこに立って生きる人たちこそがクリスチャンです。その人は、「悔い改めて神へと立ち返りなさい」と呼ばわる神の御声を聴きました。そのとおりに従いました。悪いことをするのを止め、良いことをしようと努力し始めました。肉の思いに支配された古い罪の自分を脱ぎ捨てて、なんとかしてぜひ
朝も昼も晩も神の御前に生きる新しい自分を着たいと願い始めました。「救い主イエスを信じて、その信仰によって義とされる」という神の招きを信じ、その御言に従い始めました。その人は自分自身の正しさや能力や甲斐性を誇りとし、それに頼る生き方を投げ捨てて、救い主の助けと支えなしには生きてゆけない自分であるとついにとうとう認めはじめました。「十字架につけられたキリストこそが自分のただ一つの希望である」と受け止め、「キリストを知る知識の絶大な力に比べたら、他すべて一切は塵芥にすぎない。本当にそうだ」と気づきはじめました。その人は、「私が聖であるように、あなたがたも聖でありなさい」(レビ記19:1と命じる神の御声を聴いて、その命令に従いはじめました。自分の肉の思いに言いなりにされないように、なんとかしてそれに打ち勝とうと奮闘し、神の御霊に従って生きることをしはじめました。行く手を阻んで取り囲む罪の重荷を投げ捨て、投げ捨てしながら生きることをしはじめました。「神の御言を聞いて、それを行う」ことはとても大変でした。誰にとってもそうです。世の思い煩い、肉の思い、悪魔の誘惑は絶え間なくその人を攻め立てつづけます。その人たちはいつも苦しみ、呻き、身もだえしています。「自分の十字架を負って」と命じられ、けれどその十字架はとても重く、神の国へと至る道は険しく、また狭い道でありつづけます。その人たちは絶えず叫び呼ばわりました、「ああ。私はなんという惨めな人間なのだろう。誰が、この死ぬべき体から私を救ってくれるだろう」。そして、私を救うことが出来るのはただただ私たちの救い主イエス・キリストお独りだと確信し、神に感謝をし、信頼を寄せ、ますます聞き従って生きることをしつづけます(ローマ手紙7:24-25
 例えばクリスチャンである1人の母親は、子供の頃からずっと何だか自分に自信が持てないでいました。あまりに臆病でオドオドビクビクしていて気が小さい自分が嫌いでした。子供たちは、そういうお母さんを、傍らで何年も何年もずっと眺めてきました。溜め息をつくお母さんの傍らで、子供たちも溜め息をつきました。「なんだ。だらしがないなあ。クリスチャンのくせに、お母さんたらなんだか意固地で、けっこう自分勝手で、しかも度々いじけたりひがんだり、しょぼくれたり、人目を気にしてばかりいたり右往左往しているじゃないか。もっとしっかりして、もっと堂々と晴れ晴れとしてくれたらいいのに。もっと素直に、もっともっと伸び伸び暮してくれればいいのに」と。けれども、その子供たちもいつの間にか大人になって、生きてゆくことが案外に手強いと気づきはじめます。それぞれの悩みや課題に直面させられ、自分自身の弱さやふつつかさや身勝手さをつくづくと思い知らされ、それぞれの悪戦苦闘を背負うようになって、ある日、不意に気づきます。「そうか。そうだったのか」と。薄暗く黄ばんだ、小さな裸電球のような人だ。たいしたことのない人だ。この人もそうだが、そう言うこの私自身だってやっぱり同じじゃないか。その薄暗さと心細さと悩みの只中で、けれど、この1人の小さな貧しい人は、格別な明るい光を見つけ出した。一途に目を凝らして、精一杯に生きている。心がねじ曲がる度毎に、その光によって正され、新しく向きを変えさせられ、いじけて縮みあがる度毎に顔を上げさせられ、背筋をピンと伸ばさせていただいている。その光にすがり、その光によってかろうじて支えられ、励まされて、この人は生きてきたのか。この人を明るく照らし出す格別な光が確かにあって、だからこそ、こんな危うい人であっても、格別な幸いと祝福を受け取ってきたのか。受け取り続けてきたのか。
そうか。だからこそ、この人はクリスチャンでありつづけているのかと。