2019年9月22日日曜日

9/22「神のもとにある家族」ルカ8:19-21


                      みことば/2019,9,22(主日礼拝)  233
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:19-21                    日本キリスト教会 上田教会

『神のもとにある家族』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
8:19 さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。20 それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。21 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。(ルカ福音書 8:19-21)


 主イエスがなお群衆に向かって語りかけておられるとき、その母と兄弟たちが何か話したいことがあって待ち構えていました。そこである人が、「あなたの母上と兄上がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」。主イエスは、取り次いだその人と弟子たちと大勢の群衆に向かって、こう答えます。21節、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
  だいぶん前のことです。ある人が70歳くらいの年頃になって、やっとようやく洗礼を受けました。その人の息子はずっと前からクリスチャンでした。洗礼を受けたそのお父さんは、とても喜んで、ずっと前からクリスチャンである息子にこう言いました。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある」と。今までの関係や付き合いとはちょっと違う新しい家族が、ここに誕生したのです。その格別な驚きと幸いを、ここにいる私たちも知っています。
  ここにいるこの私たちを見て、喜びに溢れて、主はこうおっしゃるのです;「これが私の兄弟、姉妹、また母である」と。私の大切な家族であり、ついにこれこそ私の骨の骨、私の肉の肉であると(創世記2:23)。神の憐れみのもとにある1つの家族とされ、主イエスの兄弟とされた私たちです。それは主が、私たちを格別になにより大切に思っていてくださるということです。あまりに大切に思ってくださるので、この主は、終りの日に打ち明けられるはずの秘密をすでにあらかじめ私たちに知らせてくださっています。主イエスはおっしゃいます;「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれなかったことは、わたしにしてくれなかったことである」。主の弟子パウロも、この同じことを言われました。彼のあの回心のときです。そのころパウロはクリスチャンをいじめたり苦しめたり、ひどく辛い思いをさせたり、追い払ったり、殺したりしていました。主イエスがその彼に呼びかけました。「サウロ、サウ、ロなぜ私を迫害するのか」。「あなたはどなたですか」とパウロは問いかけました。すると、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(マタイ25:40,45,使徒9:4-5)。イエスを迫害しているだって? 彼にもまったく身に覚えがありませんでした。ただクリスチャンたちを迫害していたのです。ただクリスチャンたちをいじめたり、苦しめたり悩ませたりしていただけだったのです。ところが主イエスは、「その1つ1つは、この私にしたことだ」とおっしゃいます。あなたは私を迫害し、この私自身を悩ませ苦しめていると。主イエスを信じる1人の人が苦しむとき、悩むとき、痛みを覚えて泣いたり呻いたりするとき、救い主イエスは、「それは私の苦しみだ。私自身の悩みであり痛みであり、そこでこの私自身が泣いたり呻いたりしている」。主イエスの兄弟とされ、互いに家族とされているとはこのことです。
  主イエスの発言に、もう少し注意して目を向けましょう。21節、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。主イエスこそ、とびきりの年長の格別な兄です。そして、この地上には《父》はいません。天の誰よりも高い場所に誰よりも大きな権威と力をもって、父である神がおられるからです。その家族は、父の権威とお働きのもとにこそ据え置かれているからです。それがこの新しい家族構成です。とびきり年長の格別な兄が、お独りだけいる。この地上には父はいない。すると他大勢はみな、弟たち妹たちです。この家族構成を、いつも弁えておきましょう。年をとってからクリスチャンになった、そして息子とともに喜び祝ったあの1人のお父さんは、他のどこにもない、まったく新しいこの家族構成にこそ驚き、息子と共に喜び祝ったのです。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある」と。あのお父さんは、それまで長く生きてきた中で、ある独特な人間関係と序列の中に首までどっぷり浸かって暮していました。例えば、妻には「家の主人の言うことが聞けないのか。誰に養ってもらっていると思っているんだ。馬鹿者、口答えするんじゃない」などと頭を押さえつけていたかもしれません。例えば息子や娘には、「オレ様が親だ。飯を食わせてもらっている子供の分際で、何を生意気な。だれのおかげで大きくなったと思っている」などと、ついつい思い上がって愚かになり、権威と力を振りかざしたかもしれません。あの彼にも私たちにも、それは大いにありえます。
 けれど、あのお父さんはついに知ったのです。新しいルールと、新しい家族構成の中に飛び込んでみました。それは、素晴らしかった。今までは知らなかった新しい世界が目の前に突然に開けました。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある。この道何十年の熟練者でも古参でも兄貴分でもなく、ともどもに末っ子の、未熟で小さい弟妹同士である」と。
  僕にとって今日の箇所で一番難しく思えたのは、21節「神の御言葉を聞いて行う者」です。ぼくが小学生だったら、「神の御言って、どういう言葉さ?」「行うって、いったい何をどうしなさいっていうの? どれくらい行えばいいんだろう」と質問するでしょうね。神の御言は、聖書の言葉であり、また礼拝や諸集会で説き明かされる言葉でもあります。聞いた福音の御言葉がその人の生活を建て上げてゆくための確かな土台となるように聞く必要があります。もし、そうであれば風が吹き、地面が激しく揺らぎ、川の水があふれて大きな波がうち寄せても、その家はびくともしません。基本の聞き方があります。先週も申し上げましたが、第一には、神のものである一つ一つの御言葉が真実であり、力をもって生きて働くことをはっきりと信じながら、神への信仰をもって聞くことです。聖書は証言します、「ある人々にとって聞いた御言は無益だった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結び付けられなかったからである」と。第二には、それが神の言葉であると思い起こしつづけながら、敬意と畏れをもって聞かねばならないということです。それは、テサロニケ教会の人々の聞き方です。「あなたがたが私たちの説いた神の言葉を聞いたときに、それを人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れてくれた。しかも事実、それは神の言だった」と。とりわけ大事なことは、独りで聖書を読むときにも説教の御言を聞くときにも、神の祝福を求めて、その始めにも聞き終えたときにも、祈りをもって聞くことです。第三には、神の御言を聞いて、その御言に指し示され、促されるとおりに毎日毎日の暮らしを生きることです。「その人々こそ、私の母であり兄弟である」(へブル手紙4:2-7参照, テサロニケ手紙(1)2:13,ルカ8:21と主イエスがはっきりと仰ったように。
難しいのは、この「行う」という小さな言葉です。神の御言を聞いて、神の御言として受け止め、心に刻み、そこに立って生きる人たちこそがクリスチャンです。例えばその人は、「悔い改めて神へと立ち返りなさい」と呼ばわる神の御声を聴きました。そのとおりに従いました。悪いことをするのを止め、良いことをしようと努力し始めました。肉の思いに支配された古い罪の自分を脱ぎ捨てて、なんとかしてぜひ新しい自分を着たいと願い始めました。「救い主イエスを信じて、その信仰によって義とされる」という神の招きを信じ、その御言に従い始めました。その人は自分自身の正しさや能力や甲斐性を誇りとし、それに頼る生き方を投げ捨てて、救い主の助けと支えなしには生きてゆけない自分であるとついにとうとう認めはじめました。「十字架につけられたキリストこそが自分のただ一つの希望である」と受け止め、「キリストを知る知識の絶大な力に比べたら、他すべて一切は塵芥にすぎない。本当にそうだ」と気づきはじめました。その人は、「私が聖であるように、あなたがたも聖でありなさい」(レビ記19:1と命じる神の御声を聴いて、その命令に従いはじめました。自分の肉の思いに言いなりにされないように打ち勝とうと奮闘し、神の御霊に従って生きることをしはじめました。行く手を阻んで取り囲む罪の重荷を投げ捨て、投げ捨てしながら生きることをしはじめました。「神の御言を聞いて、それを行う」ことはとても大変でした。誰にとってもそうです。世の思い煩い、肉の思い、悪魔の誘惑は絶え間なくその人を攻め立てつづけます。その人たちはいつも苦しみ、呻き、身もだえしています。「自分の十字架を負って」と命じられ、けれどその十字架はとても重く、神の国へと至る道は険しく、また狭い道でありつづけます。その人たちは絶えず叫び呼ばわりました、「ああ。私はなんという惨めな人間なのだろう。誰が、この死ぬべき体から私を救ってくれるだろう」。そして、それはただただ私たちの救い主イエス・キリストお独りだと確信し、神に感謝をし、信頼を寄せ、ますます聞き従って生きることをしつづけます(ローマ手紙7:24-25。例えば、何か嬉しいことがあったとき、誰かが親切にしてくれたとき、その人に感謝するだけでなく、そこで《これは天の父の御心によった。私を慈しみ、大切に思ってくださって、天の父がこんな喜びを与えてくださった》と分かっていましょう。そのとき、あなたは父の御心を行っています。
クリスチャンである父さん母さんの生きざまを見て育ってゆく子供たちは、ある日、不意に気づきます。「そうか。そうだったのか」と。薄暗く黄ばんだ、小さな裸電球のような人だ。たいしたことのない人だ。この人もそうだが、そう言うこの私自身だってやっぱり同じじゃないか。誰もが皆、たいしたことのない、つまらない小さな小さな者たち同士だったじゃないか。ご立派そうに、とても偉そうに見える大先生たちも、モーセもアブラハムもダビデも洗礼者ヨハネさえも。誰もが皆、救われるに値しない罪人であり、神からのゆるしと憐れみなしに生きることのできる大きくて立派な良い人間など一人もいないと、よくよく習い覚えてきたはずじゃないか。その薄暗さと心細さと悩みの只中で、けれど、この1人の小さな小さな貧しい人は、格別な明るい光を見つけ出した。その光に一途に目を凝らして、精一杯に生きている。心がねじ曲がる度毎に、その光によって正され、新しく向きを変えさせられ、いじけて縮みあがる度毎に顔を上げさせられ、背筋をピンと伸ばさせていただいている。その光にすがり、その光によってかろうじて支えられ、励まされて、この人は生きてきたのか。この人を明るく照らし出す格別な光が確かにあって、だからこそ、こんな危うい人であっても、格別な幸いと祝福を受け取ってきたのか。受け取り続けてきたのか。
 苦しみや悩みがあり、心が晴れないウツウツとした日々に、けれどなお天の父があなたを思い、あなたを慰め、力づけたいと願ってくださっていることを思い起こしましょう。そして「主よ、私を助けてください」と願い求めましょう。求めているものを、天の父に打ち明けましょう。見栄えの良い願いばかりでなくていいのです。人に知られたくない恥ずかしいものも、汚いものも、人からは「なんだ。そんなこと」と思われるかもしれない些細な事柄も、この天の父に打ち明けることができると分かっていましょう。あなたは御心を行っています。なにしろ主イエスが、天の父の御心をすっかり私たちに示してくださいました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと。この最も小さい者の一人にしてくれなかったことは、わたしにしてくれなかったことである」と主はおっしゃったのです。私たちが自分の周囲にいる人々に何事かをしたり、しなかったり、何気なく何かを言ったり言わなかったりする度毎に、私たちはしょっちゅう釘をさされます。「ちょっと待て。分かっているのか。本当にそれをしていいのか。言ってしまっていいのか。言わずに知らんぷりしておいて、それでもいいのか。キリストはその兄弟のために死んでくださった」(ローマ14:15)と。「ああ、そうだった」と申し訳なく思い、心に痛みを覚えたそのとき、父がご自身の御心を、あなたのために行ってくださっている真っ最中です。知らされた天の父の御心が、ある時には私たちをきびしく叱りつけます。その同じ御心が私たちを慰め、きわどいところで支え、足を一歩踏み出すための格別な勇気を与えます。天の父の御心のもとに据え置かれた私たちです。それは私たちが思っていたよりも、はるかに大きく、広々とした心だったのです。あまりに気前がよ
く、寛大で、そこではどんなに小さな人も、無力な人も貧しく惨めな者も、誰に遠慮をすることもなく恥じることもなく、晴れ晴れとして息をつくことができるほどに。だからこそ私たちは進むことも出来、留まることもできます。惜しげもなくすっかり捨て去ることも出来、決して離すまいとがっちりと抱え込むこともできます。天の父の御心のもとにあるからです。ご覧なさい。ここに主イエスの兄弟とされ、姉妹とされた者たちがいます。天の父の憐れみとゆるしのもとに据え置かれて、今や私たちは、互いに弟たち妹たち同士です。なんと幸いなことでしょう。