2021年12月27日月曜日

12/26「過ぎ越しの子羊」ルカ22:7-13

            みことば/2021,12,26(主日礼拝)  351

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:7-13               日本キリスト教会 上田教会

『過ぎ越しの小羊』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:7 さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、8 イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。9 彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。10 イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、11 その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。12 すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。13 弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。ルカ福音書 22:7-13

 

13:3 モーセは民に言った、「あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。主が強い手をもって、あなたがたをここから導き出されるからである。……6 七日のあいだ種入れぬパンを食べ、七日目には主に祭をしなければならない。7 種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない。8 その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。9 そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。10 それゆえ、あなたはこの定めを年々その期節に守らなければならない。……14 後になって、あなたの子が『これはどんな意味ですか』と問うならば、これに言わなければならない、『主が強い手をもって、われわれをエジプトから、奴隷の家から導き出された。15 そのときパロが、かたくなで、われわれを去らせなかったため、主はエジプトの国のういごを、人のういごも家畜のういごも、ことごとく殺された。それゆえ、初めて胎を開く男性のものはみな、主に犠牲としてささげるが、わたしの子供のうちのういごは、すべてあがなうのである』。             (出エジプト記 13:3-15)


7節、「さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭(じょこうさい。パン種(酵母)を取り除く祭り)の日がきたので」。救い主イエス・キリストの十字架の死と復活は、過越しの祭りと深い結びつきがあります。彼が十字架にかけられる前夜の最後の晩餐は、ユダヤの大きな祭りのその最中になされました。それは、まったく、過越しの小羊が殺される日でした。かつて、過越しの小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られ、それをしるしとしてエジプト全土を襲った大きな災いが神の民とされたイスラエルをよけて、通り過ぎていました。死ぬべき大きな災いを免れさせていただきました。そのように今度は、世界の罪を取り除く神の小羊である救い主イエスが十字架の上で殺されることによって、災いから救い出され、救い主イエスを信じる者たちは新しい生命に生きるものとされました。救い主イエスの十字架のあがないの死は、『第二の過越し』と呼ばれ、世々の教会によって覚えられつづけます。かつてエジプトで奴隷とされていた神の民を救うために小羊が殺されたように、救い主イエスの死と復活は世界中のすべての罪人を救うために成し遂げられました。神ご自身がこの救いの御業を計画し、用意し、ついにとうとう成し遂げてくださいました。

聖書は証言します、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ手紙2:5-11

8-12節、「イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。エルサレムの都に入るとき、ロバの子がつないであるから引いてきなさいと弟子にお命じになったときと、そっくり同じです。主イエスはなんでもよく御存知だからです。「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい」(ルカ19:30

13節、「弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした」。二階の広間には、すでに過越しの食事のための下ごしらえが整えられていました。そのうえで、弟子たちは食事の用意をしました。しきたりどおりに用意をするには、1500年以上もつづいてきた細々した取り決めがあります。それは、今も守られ続けます。おもなものは、ほふられた小羊の肉、ぶどう酒、苦菜、パン種(酵母菌)の入っていないパンです。この22章1節に、「さて、過越と言われている除酵祭(じょこうさい)が近づいた」とあります。家の中からパン種と、パン種を含む食品をすべて取り除き、パン種の入っていない膨らまないパンを食べて一週間を過ごします。それが、過越しの祭りの最初の部分で、除酵祭、「種入れぬパンの祭」などと呼ばれています。ユダヤ人先祖エジプト脱出の夜、種酵母を入れないパンをもって出たので、祭りの中で、その出来事をそのとおりに再現して味わいます。「七日のあいだ種入れぬパンを食べ、七日目には主に祭をしなければならない。種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない」(出エジプト13:6-7と命じられているからです。「少しのパン種が練り粉全体を膨らませ、全体に大きな影響を与える」。新約聖書の中にも、このパン種の伝統と意味が受け継がれて、悪い意味と良い意味と両方のしるしとして用いられます。まず、自分を誇ってしまい、他の人を悪く思ってしまう悪いパン種、「あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか」。また逆に、良いパン種もあります、神を信じて御心にかなって生きようとするパン種、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」(1コリント手紙 5:6-8,マタイ13:33と。

さて、過越しの祭り、そして聖晩餐のパンと杯にあずかるときの心得が語り継がれています、「いかなる世においても、誰でも自分自身がエジプトから脱出させていただいた者のように思わなければならない。その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これは私がエジプトから出るときに、主が私になされたことのためである。』と記されている。聖なる者にしてほむべきお方は、私たちの先祖を救われただけでなく、彼らと共に私たちをもお救いくださったのである。『われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地に入らせ、それをわれわれに賜った。』と記されている。

過越し祭の食事。家長である父親はパン種の入っていない薄いパンの皿を置く。食事の席に加わっている子供が尋ねる、『今晩は、どうしてほかの夜と違うの。いつもの晩は、膨らませてある普通のパンと薄いパンを僕たちは食べるのに、今晩は薄いパンだけだよ。いつもの晩は別の野菜を僕たちは食べるのに、今晩は苦菜(にがな)だよ』。父親が答える、『私たちはエジプトでファラオの奴隷だったのだ。私たちの神、主が、力強い御手と差し伸べた御腕をもって、私たちをそこから連れ出して下さった。もし、聖なる者にしてほむべきお方が、エジプトから私たちの先祖を連れ出して下さらなかったら、ご覧なさい、私たちも、私たちの子供も、そして私たちの子供の子供も、エジプトでファラオの奴隷でありつづけただろう。

それだから、私たちみんながたとえ賢い者であっても、私たちみんなが理解力に富んでいても、私たちみんなが経験豊かな年寄りでも、私たちみんなが律法に十分に通じていても、エジプト脱出について語るのは、私たちに課せられた掟なのだ。エジプト脱出について、くわしく語る者は誰でも賞賛に価するのだ。

【一同で、感謝を言い表す】

なんと多くの素晴らしい恵みを、遍在者(へんざいしゃ。どこにでも存在するお方)なるお方から私たちはいただいていることだろう。もし神がエジプトから私たちを導き出し、私たちに向かって海を分断して下さりながら、濡れないでその中を渡らせてくださらなかったとしても、

      ―—私たちは満足である。

もし濡れないで海の中を渡らせて下さりながら、40年間の砂漠生活において必要を満たして下さらなかったとしても、もし、マナをもって養って下さりながら、安息日を私たちにお与えにならなかったとしても、      ―—私たちは満足である。

もし、私たちをシナイ山まで導いて下さりながら、律法をお授けにならなかったとしても、     ―—私たちは満足である。

もし、私たちをイスラエルの地に入らせて下さりながら、なお神のお望みになる神殿の建築を私たちにお許しにならなかったとしても、    ―—私たちは満足である。

まして私たちは遍在者なるお方から、その二倍も三倍もの何と素晴らしい恵みをいただいていることだろう。それは、神がエジプトから私たちを導き出してくださり、海を私たちに向かって分断なさり、濡れずに私たちを渡らせて下さった。40年間の砂漠生活において私たちの必要を満たし、マナをもって養ってくださり、安息日をお与えになり、シナイ山に私たちを導き、律法をお授けくださった。さらに、カナンの地に入らせてくださり、私たちのあらゆる罪をあがなうために、お望みになる神殿の建設を私たちにおゆるしになられたからである」(『過越し祭のハガダー(式次第)』山本書店)。やがて、ついに、私たちをそのもろもろの罪から救い出すために救い主イエスを地上に生まれさせ、十字架の死と復活の御業をもって、その救いを成し遂げてくださいました。罪をゆるされた罪人として、この私たちをも、神への感謝と信頼のうちに日々を生きる者たちとしてくださったからです。

神の民とされた兄弟姉妹たちよ。だからこそ過越しの食事であり、最後の晩餐でもある食事の席で、救い主イエスは、「苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた」と仰り、パンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて仰った、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。杯も同じ様にして、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」(ルカ22:15-20と仰いました。

 

   《祈り》

救い主イエス・キリストの父なる神さま。

   あなたの独り子を世界と私たちの救いのためにこの世界に贈り与えてくださって、ありがとうございます。御子イエスを待ち望み、迎え入れ、この御子イエスを信じる   

信仰によって私たちをあなたの恵みの中に留めてください。

    貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか、一日ずつを生き延びてゆくための希望と支えが差し出されますように。

     主なる神さま。私たちの目を開いて、何が美しいことかを教えてください。私たちの心を開いて、何が本当かを教えてください。私たちの中に思いやり深く温かい良い心を呼び起こしてくださって、神さまに喜ばれる良いことを教え、それを選び取らせてください。あなたや周りの人たちを悲しなせ、苦しめるような、してはいけない悪いことが何なのかをよくよく教えてくださって、この私たちも、自分自身の悪い思いを投げ捨てつづけて生きることができますように。

   救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 



グリューネバルト「磔刑」