2016年6月14日火曜日

6/12こども説教「神さまの心か、私の心か?」ルカ5:12-16

 6/12 こども説教 ルカ福音書 5:12-16
 『神さまの心か、私の心か?』

5:12 イエスがある町におられた 時、全身らい病になっている 人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。         
(ルカ福音書 5:12-16)

 体中の全部が重い皮膚病にかかって、とても困って苦しんでいる一人の人が、主イエスのところにやって来ました。ぜひ、この病気を治してもらいたいと願いつづけていたし、主イエスならきっと必ず治すことができると分かっていたからです。主イエスを見ると顔を地面に伏せて、願って言いました。12節です、「主よ、みこころでしたら、清めていただけるのですが」。出来るか出来ないか、ではありません。主イエスになら病気を治して自分の苦しみを取り除くことができる、と分かっていました。この病気を治してあげたいと、主イエスが願ってくださるかどうかなのです。願ってくださるなら、そうしていただきます。けれどもし、願ってくださらないなら、それなら治していただかなくてよいです。主イエスのお心に私は従います。「ぜひ治していただきたい」という私の心も、あなたのお心に従わせます。この人は、主イエスの御前に願い出ています。自分の心や願いや気持ちよりも、なにしろ主イエスの心や願いや気持ちのほうが大事だと、こっちに主イエスを従わせるのではなく、そっちに私の心を従わせますからと。
 主イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう。きよくなれ」と言われました。すると、重い皮膚病はすぐに彼の体の中からいなくなりました。主イエスに病気を治していただいたことを誰にも話さないように、と彼は口止めされました。ゴメンなさい、その理由はよく分かりません。実はこの箇所だけでなく、ぼくだけのことでもなく、聖書の中にはよく分かりにくい難しい箇所がいくつもあります(マタイ福音書8:1-4『重い皮膚病の人を』2016,5,29礼拝説教を参照のこと)。実はこの箇所だけではなく、金田にはよく分かりにくいというだけではなく、聖書の中にはよく分かりにくい難しい箇所がいくつもあるのです。14節で、「行って自分のからだを祭司に見せ、あなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」と指図なさった理由は分かります。その当時、重い皮膚病にかかった人は病気をうつして人に迷惑をかけないようにと、その病気が治るまで、家族からも誰からも離れて独りぼっちで暮らさなければならない約束でした。その扱いの責任者が祭司でした(レビ記 13-14章を参照)。それで、病気がすっかり治ってもう他の人たちと一緒に暮らしてもよくなったことを祭司に見せて証明してもらい、他の皆にも分かってもらう必要がありました。教えを聞いたり病気を治してもらおうと、たくさんの人々が主イエスのもとに集まってきました。それなのに、主イエスはさびしい所に引き下がって、独りで天の御父に向かって祈りました15-16節)。祈ってなんかいないで、その分だけ、たくさんの人の病気を治してあげたり、たくさんいろいろと教えてあげたほうがいいんじゃないですか。どうして、そうしないで主イエスは寂しい所に引き下がって天の御父に祈ったのでしょう? 祈りは、こちらから相手に願いや考えを伝えるだけではなくて、お互い同士のやりとりです。つまり、天の御父の御心を教えていただいて、それを聞き分けることでもあります。そうか。あの病気で困っていた人と同じことを、ここでも、主イエスは御父に向かってしています。たくさんの人の病気を治してあげようか。あちこちで、たくさんいろいろと教えて回ろうかどうしようか。いいえ 人々やこの自分の心や願いや気持ちよりも、なにしろ天の御父の心や願いや気持ちのほうを、その千倍も万倍も大事にしています(*)。「私や他の誰彼の願いどおりではなく、父よ、あなたの御心にかなうことをこそ、私に選び取らせてください」と。ゲッセマネの園でもそうでした。主イエスは、同じ一つの心で祈りつづけておられます。


        【割愛した部分の補足】
         (*)救い主イエスは、「わたしをこの世界に遣わされた天の御父の御旨をこそ行う。そのために遣わされたのだから」とご自分の働きをきびしく限定しつづける(ヨハネ福音書4:34,5:30,6:37-40)。だからこそ御父の御心を聞き分けるためにこそ、折々に祈りつづけた(ルカ6:12,9:18,28他)。「わたしの思いではなく、御心が成るように」(ルカ22:42)という御父への信頼と従順を願い求める格闘は、ゲッセマネでの一晩限りの祈りではなくエルサレムの都を目指す公けの地上の生涯を貫いてなされつづけた。連続する、同じ一つの長い長い祈りだった。だからこそ 主イエスの弟子とされたすべてのクリスチャンは、この主に導かれて、「わたしの思いではなく、御心が成るように」と願い求め、その願いを着々とかなえられつつ生きることとなる。うわおっ!!  ここに、私たちのための格別な幸いがあります。



 ◎とりなしの祈り
 主なる神さま。あなたはよくご存知ですけれども、この国は、今と将来への希望をもちにくい、不平等で、格差が広がっていく一方の、とても悪い国になっています。ますます悪くなっていくように思えます。大人である私たちの責任です。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせてください。外国人を憎み、軽蔑して押しのけようとする人々の身勝手で邪な行動は広がりつづけ、少しも収まろうとしていません。彼らの間違ったとても悪い活動を、国家も、私たち国民一人一人も、決して野放しにしないでいられますように。もし見て見ぬふりをするなら、私たちも悪い人々の共犯者です。
神さま。貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。ほんのひと握りの人々が裕福で快適な生活をむさぼっている傍らで、経済的に追い詰められ、貧しく困窮しつづける多くの人々が取り残されつづけます。経済的に貧しい親に育てられた子供たちは貧しいままで、十分な教育を受ける希望をさえ諦めさせられています。毎日の三度三度の食事にも困る子供たちが数多くいます。まったく申し訳ないことです。年老いた人々にも子供にも若い者たちにも、生き抜いてゆくための手がかりと、喜びと、確かな希望とを見出させてください。自分自身と身の回りのことばかりを思うのではなく、その彼らの喜びと悲しみを、私たち自身の喜びと悲しみとさせてください。すべての子供と親たちが、共に暮らしている幸いを喜び噛みしめながら、毎日の暮らしを健やかに建てあげてゆくことができますように。

  主なる神さま。私たちを今こそ地の塩、世の光として用いてください。この世界のはなはだしい不平等と差別と悪に対して、私たちを見張りの塔として働かせてください。この世のあり方と妥協せず、心を新たにされ造りかえられ、何が神さまの御心にかなったことなのか、何が善であり悪であるのかを弁え知りつつ生きることを(ローマ手紙 12:1-2を参照)、私たちに願い求めさせつづけてください。主イエスのお名前によって祈ります。  アーメン