2022年5月3日火曜日

5/1「目が開かれて」ルカ24:28-32

       みことば/2022,5,1(復活節第3主日の礼拝)  369

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:28-32               日本キリスト教会 上田教会

『目が開かれて』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。ルカ福音書 24:28-32

 

10:1 兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。2 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。4 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。5 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。6 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。7 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。    (ローマ手紙 10:1-10)


主イエスが十字架につけられて殺されてから3日後、そして墓から復活なさったその同じ日のことです。エルサレムから11kmほど離れたエリコという村へ向かって、2人の弟子たちは道を歩いていました。主イエスの十字架の死について、またその3日後、主の遺体を納めた墓が空になっていたことについて、彼らは道々語り合っていました。するとそこに主イエスご自身が近づいてきて、彼らと肩を並べていっしょに歩きだしました。けれどその2人の弟子たちの目はさえぎられていて、いっしょに歩いているその方が主イエスだとは分かりませんでした。かつて、主イエスはこう約束しておられました;「2人また3人が私の名によって集まるとき、そこに私もいるのである」(マタイ福音書18:20)。けれど、あの彼らも、それをなかなか受け止めることができませんでした。そこに主がおられるとは、なかなか気づくことができなかったのです。

25-27節「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか』」。「ああ。どうしてそんなに物分かりが悪いんだ。なぜ、聖書に書いてあることが信じられないのか。救い主の苦しみと死、そして栄光。必ずそうなるはずだったじゃないか。ちゃんと、そう書いてあるだろう」。ずいぶん強い口調で語りかけられています。こうして、参加者3名だけの、道を歩きながらの青空授業が始まりました。エリコの村に着くまでは、まだ3、4時間くらいは残されています。3、4時間。それくらいあれば、かなり丁寧に、腰を据えてじっくりと説き明かすことができます。メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そうじゃないのか。この問いかけは、彼ら2人だけではなく、すべてのクリスチャンの心を深く揺さぶります。「あなたはどういうふうに聖書を読んできたのか。これまで、どんな教えを受けてきたのか。何をどんなふうに腹に納めてきたのか」と主イエスは問い詰めておられます。その焦点は、救い主の死と復活にあります。なにしろ聖書は、そしてこの信仰は、救い主イエス・キリストを信じる信仰であったのです。罪人を救うために、救い主がこの世界に降って来られた。救い主の死と復活をもってでなければ、神さまは私たち罪人を救うことができなかったし、そうまでしてでもぜひ救いたいと願ってくださって、自分中心のかたくなさや傲慢、さまざまな恐れとこだわりという罪から救うと約束してくださった。その約束の通りだった。聖書は証言します、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だった。神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」(ピリピ手紙2:5-11)。そして主イエスは、その2人のために聖書の最初のページから始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれてあることを説き明かしてくださった(27)

28-29節。エマオに着いたとき、主はなおも先へ行こうとする様子でした。2人はしきりに願い求めました、「ぜひ泊まっていってください。もっと一緒にいてください」。主イエスは、しなければならない用事や約束がたくさんあって忙しいのでしょうか。あの2人の他にも、暗く沈んだ顔で語り合う信仰の旅人たちがあちらこちらに無数にいて、その彼ら1人1人とも旅路の道連れになってあげたい。だから、ここであまり手間取ってはいられないと。そうでしょうか。いいえ。先へ行こうとする素振りは、むしろ、目の前にいるその彼らのためでした。「ああ。そうですか」とあっさり手放すのか。それとも、「もっと一緒に。どうぞぜひ」としきりに願い求めるのかどうか。何か他のことに心引かれ、ソワソワしはじめ、何か他のことに目移りしはじめているのかどうかと。

こうした場面は、聖書の中にたくさんあります。罪人を憐れんで罪から救う神でありつづけ、主イエスはとても気前がよい方であるとしても、恵みの贈り物をいつもいつも無理に押しつけるわけではありません。求められもせず頼まれもしないのに、おせっかいに、ではありません。むしろ私たちが願い求めはじめることを、今か今かと、熱情の主なる神は待っておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ福音書11:9-10)。なぜなら、自分から本気になって求めるのでなければ、あなたは受け取ることができないからです。たとえすぐ目の前にあっても、探そうとしないならば、あなたは見つけ出すことができないからです。たとえ扉が大きく開かれていたとしても、それでもなおドアをコンコンとノックしてみるのでなければ、あなたはそこから入ることができません。だからです。だから、あなたを求めて止まない主は、あなたを探して止まない熱情の主は、促すのです。「あなたは求めなさい。あなたは探しなさい。その手に掴んだものを手放さないで、しっかりと握りしめていなさい。あなたは門を叩きなさい。そうすれば門は広々と開かれ、あなたはそこから神ご自身のお働きの中(=神の国)へ入ることができる。本当にそうだ」と。そこでようやく私たちは気づくでしょう。ずいぶん前から差し出され続け、扉はすでにすっかり開け放たれてあったと。そしてそのとき、驚きに満たされるでしょう。

30-31節「イエスはパンを取り、讃美の祈りをささげ、パンを裂いて渡した」。主のその姿は、私たちにとても馴染み深いものです。よくあるいつもの食事時の風景ということではなく、それは主イエスを信じて生きる者たちに、十字架前夜の最後の晩餐を思い起こさせます。主イエスがご自分の体を引き裂いて、私たちのために渡してくださったことのしるしのパンを。私たちの救いのために、ご自身の血を流し尽くしてくださったことを覚えさせるための杯の飲み物を。十字架前夜の、あの最後の食事の席(ルカ福音書22:14-,コリント手紙(1)11:23-)です。

パンを裂くその仕草を見て、彼らの目は開かれました。彼らのための神の恵みの現実に対してです。あの彼らのためにも確かにある神の出来事をはっきりと見るためにこそ、その目が開かれます。「これは、あなたがたのための」と高く掲げられたパンと杯を見て、それがこの私の手元にまで持ち運ばれ、「さあどうぞ」と差し出され、それを口に入れて味わうとき、私たちの目と心は開かれます。この私たちのためにも確かにある神の出来事をはっきりと見分けるためにこそ。

32節、「目が開け、イエスだと分かった」。兄弟姉妹たち。とてもとても物分かりの悪い私共です。たびたび、何度も繰り返して、私たちの心は鈍くされます。その、心の鈍い物分かりの悪い私共を、主は憐れんでくださるのです。なぜなら私たちはまるで飼う者のいない羊のように、羊飼いからも仲間の群れからも迷い出てしまった羊のように弱り果て、うちひしがれてしまうのですから(マタイ福音書9:36)。目が度々さえぎられる羊だから、それで、良い羊飼いであるイエス・キリスト(ヨハネ福音10:11-18を見失って弱り果てます。心を鈍くされ、惑わされてしまうから、だからこそ、それで私たちはうちひしがれてしまいます。その羊のためにも、そこにすぐ近くに、良い羊飼いであるイエス・キリストがちゃんといるのに。世話をされ、愛情を注がれ、大切に大切に養われつづけているのに。けれど目が開かれて、あの彼らは、ついに見るべきものを見ました。目を向けるべき相手に、ついに目を凝らしはじめました。良い羊飼いである主イエスご自身に。そしてこの世界に。周囲の人々や家族や兄弟姉妹たちや、いつも出会っている傍らにいる隣人たちに。そして自分自身の姿に。このすぐ後、大皿に載せられたパンが配られるとき、そして小さな杯が1つまた1つと配られ、手渡されていくとき、どうぞ、目を開けて見ていてください。あなたの両隣や、前や後ろの席に座っている人々の姿を。ひとかけらのパンをどんなふうに受け取り、どんなふうにその小さな杯を口に運ぶのかを。そのとき、そこで何が起こっているのかを。その彼らの姿や仕草を見るとき、もし主がそうしてくださるならば、この私たちの目も心も開かれるかも知れません。もし、神の憐れみを受け取ることができなければ、一生涯ずっと、その心の耳は虚しく塞がれたままでありつづけるかもしれません。恐ろしいことです。もし、私たちがぜひそうしていただきたいと望み、それを求めるなら。そして主が私たちの願いを聞き届けてくださるならば。それならば、この私たちも目が開かれて、ここにいる私共1人1人もまた、ついに見るべきものを見ることができるかも知れません。ぜひとも目を向けるべき相手に、ついに目を凝らすことができるかも知れません。主イエスご自身に。そしてこの世界の現実に。周囲の人々や大切な家族や兄弟姉妹たちや、いつも出会っている傍らにいる隣人たちの現実やその喜びと悲しみに。そして自分自身の姿に。私たちがどこから来たのか。どこにどう足を踏みしめて立っているのか。何のために生きているのか。やがてどこへと向かおうとしているのか。私共がいったい何者であるのか。主に仕える祭の中で、いつものこの1回1回の礼拝の只中で、わたしたちの目と心は開かれます。繰り返し繰り返し、開かれつづけます。《主が生きて働いておられる》《私たちのための主の死と復活。主イエスの死と復活に結び合わされて、私たちも古い罪の自分と死に別れて新しい生命に生きる》という現実に。しかも救い主イエスは、私たちと共におられつづけたのでした。ずいぶん前から、いいえ、そもそもの初めから。ほんの片時も離れずにです。私たちが気づいているときにも、そうでなくても。心が燃えているときにも、そうでなくても。道々話していたとき、主イエスの福音を説き明かされたとき、月曜日の夕暮れにも、火曜日の早朝にも。そして、ただ独りで立っていたあの薄暗い台所にも。だから見なさい。見なさい。そこに、主がおられます。私たちの旅路の道連れになってくださろうとして。すっかり準備万端で。

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     金田聖治
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