2017年8月28日月曜日

8/27「三度目の受難告白」マタイ20:17-19

                           みことば/2017,8,27(主日礼拝)  126
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:17-19            日本キリスト教会 上田教会
『三度目の受難予告』
    ~クリスチャンとして幸いに生きて死ぬための6つの心得~

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
20:17 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、18 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、19 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう。              (マタイ福音書 20:17-19)
                                               


  主イエスと弟子たちは、エルサレムの都に向かって旅をしつづけています。エルサレムの都で、過越の祭を祝うために。十字架につけられ、殺され、葬られ、その三日目に復活して救いの御業を成し遂げるために。さて、恐ろしい十字架の死の出来事をほんの数週間後に控えながら、大勢の弟子たちの中から12人の弟子たちだけをひそかに身元に呼び寄せ、その彼らにだけ打ち明けます。18-19節、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。十字架にかけられ殺されることについて、旅路の途中で三度、最後の食事の席でさらにもう一度、そのことが予告されます。その四度の中の三度目の受難予告です(マタイ16:21-28,17:22-23,本箇所,26:27-35
  救い主イエスとその弟子たちの集団は、救い主イエスの死と復活が待ち構えるエルサレムの都へとしだいに近づいていきます。主イエスが生身の体をもって弟子たちの只中におられた間、主イエスがそこに一緒におられることが弟子たちをひとつに結び合わせていたように、やがて墓からよみがえった復活の主イエスが共におられることこそが主イエスの弟子たちの共同体を一つに結び合わせつづけます。主イエスは仰いました、「よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19-20と。その言葉をよく覚えていて、信じることができるなら、主イエスの弟子たちの集団は一つに結びついて共にいることができます。けれどもし忘れてしまったら、私共は直ちにバラバラに引き裂かれ、いがみ合ったり、分け隔てをし合ったりそれぞれ思い思いの道へと迷いだしてゆくほかないでしょう。どのキリスト教会でも、この上田教会でも。あれ以来ずっと、今ここにおいても、これから先も。
  弟子たちの共同体が思いを合わせて共にあることができるために、主イエスは念入りに準備をしていかれました。18章では、『主イエスの弟子である共同体』として共に生きるためのルールと心得が説かれていました。クリスチャンとして幸いに生きて死ぬための心得です。それを受けて1920章のたとえ話では、共同体の具体的な姿が「ぶどう園に労働者たちが招かれて~」などと、さらにくわしく描かれつづけました。主イエスの弟子たちの共同体であること。それは、ただ頭の中の小難しいだけの理屈ではなく、『神の国。天の国』に私たちが現に住んでいることであり、神さまのご支配と取り扱いの只中で暮らしていることと普段のいつもの暮らしとが深く結びつき合い、具体的に現実的に響きあってありつづけることです。主イエスの弟子たちの共同体の結びつきが健やかに保たれるには、二つのことが大切です、『神さまに感謝して喜ぶ生活であること』。『私共一人一人が身を低くして仕えるしもべであること』。悩みや苦しみが折々にあって、私たちの心を惑わせます。しかも私たち自身の内側にも、主イエスの弟子であることを見失わせる大きな手ごわい曲者(=くせもの=気をゆるすことのできない要注意人物。どろぼうなど挙動不審の怪しい者)が潜んでいます。自己中心の思いと、自惚れや心の頑固さです。それらが邪魔をして、主イエスの弟子であることも、その格別な幸いも祝福も恵みもすっかり分からなくなってしまいやすい。『救い主イエスが死んで墓からよみがえった』と繰り返し告げ知らされ、よくよく覚え、心に刻みつけているようにと堅く命じられつづけるのには、理由があります。「キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ローマ手紙6:4-8。私たちもまた新しい生命に生きることが、はっきりとした確かな現実となり、出来事となり、積み重なってゆく。それこそが神さまから私たちへの救いの約束そのものだからです。しかも、新しい生命に生きるとは、いままでと違う新しいやり方、新しいモノの考え方であり、普段のいつもの生活の中での福音の道理にかなった一つ一つの具体的な判断と心得です。「自分に対してガッカリすることは悪いことじゃない。心底から自分が嫌になって初めて、人は変われると思うから。自分に落胆することは成長につながる(そして、新しい生命に生きることに)」(TVドラマ『コードブルー。ドクターヘリ救急救命』第三シーズン、第6回)とある人が言いました。そのガッカリさせられる嫌な自分こそが古い罪の自分なのですから。
  ――例えば、ある一人のクリスチャンが神を信じて生きて、やがて神さまへの信仰と信頼に守られつづけながら死んでいきました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31と告げられたあの約束を彼も信じました。私自身の救い。そして、私の大切なかけがえのない家族の救いをと心から願い求めつづけて。けれどさまざまなことが起こって、その家族はその人の信仰を理解したり、分かって受け入れてあげたりすることがなかなかできず、その人の葬儀もまたキリスト教のやり方では行われませんでした。すると、どういうことになるでしょう? ①何も不都合はありません。なんの困ったこともありません。もちろん人生の締めくくりですし、自分が生きて死んだことを重んじて、それを大切に思って、そのような葬儀式を執り行ってもらいたいと私たちは願います。神さまをこそ信じて生きて死んだ、この私自身の人生なんだからと。他の誰のものでもないのだからと。また、残された家族が神さまと出会うための最後の良い機会になるかも知れないし、そうなってもらいたいとも願って。もちろんそうです。「私はこういう神さまを信じて、こうやって生きてきた。それは格別に幸いな人生なので、もし良かったらあなたもどうぞ」と精一杯に愛する連れ合いや、息子たち娘たちにも伝えてあげたい。祈り求めながら、あなたも私も精一杯にそのように努めてきました。それならば、最後は神さまにすっかり任せて、ゆだねることができます。「神さま。私自身のことも私の大切な家族のことも、どうぞよろしくお願いします。けれど私の願いどおりではなく、ただただあなたの御心のままになさってください」と。
  「私の願いどおりではなく、ただただあなたの御心のままに」。これこそが信仰の中心部分にある生命です。つまり私自身の生涯も、愛する連れ合いや息子たち娘たちが私の信仰を認めて重んじてくれるかどうかも、やがて信じるようになるのかどうかも。私の願いどおりに葬儀をキリスト教のやり方で行ってもらえるのかどうかも、精一杯の努力をし、その後で、すべて一切を神さまにこそ委ね、すっかり神さまにこそお任せする。大事に思い、心から願っていることのために精一杯に努力をする。その後は、「どうぞよろしく」とその結果を神さまにこそ、すっかり全部、委ねる。覚えておいてください。例えば、この私が死んだあと私の葬儀を無宗教のやり方や仏教式で行われても、葬儀も祈りも何もなく誰にも顧みられずに野ざらしにされたとしても、この私自身はまったく困りません。なぜ? 神さまの慈しみの御手の中に、私の救いも生命もすべてすっかり大切に握られているからです。救いを神さまから約束されている私たちだからです。クリスチャンにとって、自分の葬儀は自分のためではありません。どんな葬儀をしようがしまうが、そんなこととは関係なく、私の救いと生命と幸いの一切は天の父なる神さまの御心のままに取り扱われているからです。
 ③「クリスチャンなので、仏教や他の宗教や無宗教の葬儀には出席しないし、いっさい関わらない」とか、「私はお参りはしない」などと言う人もいます。家族や親兄弟や親しい友人が死んだとき、その葬儀に参列することは、「お参り」などではありません。参列するかどうかだけでなく、普段の生活の具体的・ごくごく個人的な事柄も含めて、すべて一切の判断は、好き嫌いやその時々の気分によるのではなく、ただただ習い覚えてきた福音に従っての判断ですとくに葬儀式の場合、参列するかどうかは、亡くなった故人をよく知っているのか、顔も見たことがなく親しく付き合ったこともないのかどうかは、まったく関係ありません。それは神を信じるクリスチャン全員が招かれている感謝のささげものですし、そこで神からの恵みと祝福を自分自身が受け取るための大切なときだったのです。そのように教えられてきましたね)。他の人々はともかくとして、少なくとも神を信じて生きる私たちクリスチャンにとっては。神さまのなさることに、気に入らなくても渋々でも「はい。分かりました」と従う。なぜなら 私やあなたがボスや主人なのではなく、私たちの主なる神さまこそがご主人さまであり、ただお独りの絶対的なボスなのですから。神にだけ聴き従うはずの私たちですから。主の弟子であり、召使である私たちです。その人の人生を尊び重んじ、その人が生きてきた歩みをしみじみと思い浮かべ、噛みしめる幸いを神ご自身によってゆるされています。
  ④反対に、どんどん参列するし、そこで命じられ勧められるままに何でもかんでもどんどんやってしまう。祭りの神輿も担ぐし、数珠も鳴らすし、線香もたくし、念仏もお経もいっしょになって唱えるし、白い紙飾りのついた棒や木の枝をシャラシャラシャラと振り回したりもする? いいえ、まさか、そんなことは決して出来ないでしょう。もし、あなたがクリスチャンならば。仏教や他の信仰をもつ人や無宗教の人の葬儀に出席するときにも、そこでお参りするわけでもなく、他の神々を拝むわけでもありません。「だって、その人たちに対して失礼に当たる。その人たちの信仰や作法や流儀を重んじて、彼らがするとおりに指図されるままに従うのが当然でしょう」と言うクリスチャンまでいます。「じゃあ、あなたが信じているはずの主なる神さまに対しては失礼じゃないんですか?」。もちろん、大変に失礼です。そのようにして、あなたの主なる神をはなはだしくあなどり、神をないがしろにしています。それで少しも心が痛まないのなら、あなたはどうかしています。あなたもご存知のとおり、神を信じるクリスチャンは神さまと結婚している関係です。主イエスが花婿であり、すべてのクリスチャンはその花嫁とされました(エペソ手紙5:23-32,ヨハネ福音書3:28-30,マタイ福音書9:15,25:1-13。「あなたはこのお方(=救い主イエス)をあなたの夫とすることを願いますか。この結婚(=クリスチャンとされること)が神の御心によることを確信しますか。妻としての道を尽くし、常にこの方を愛し、敬い、このお独りの方に対して堅く節操を守ることを誓いますか?」。洗礼を受けたとき、これらの問いかけに対して「はい」と私共は答えました。主イエスも私どものために「はい」と答えてくださいました。ですから、そういうわけで、主イエスは私共を慰め、助けて変わることなく、私共が健やかな時も病む時にも、私共の夫としての道を尽くして愛し抜いてくださるのです。主イエス・キリストとすでに結婚している身として、他の神々(=異性)とどのように付き合ったらいいでしょう。人間同士の場合とまったく同じです。結婚後も多少の付き合いはします。けれど、勧められ誘われるままにどこまでも、何をしても良いのかというと、そうではありません。決して踏み越えてはならない一線があります。このお独りの方に対して堅く節操を守るつもりがないなら、その家庭は直ちに崩れ去る。これが基本中の基本。
 ⑤そうそう、「仏教の葬儀に参加したとき、私は数珠を鳴らさないし、線香をたかないし、正面や右や左に敬礼したりしないし、柩や写真にお辞儀したりもしない」というクリスチャンもいます。それは結構ですが、それじゃあ、そこで何をするんですか。「いいえ、何もしない。私の神さまに失礼に当たるので」。なるほど、なかなか良い心がけです。それなら、もう一歩先に進んで、せっかく葬儀に参列しているなら、そこで、そのようにして、私たちの主なる神に向かってこそ祈ったらいい。そこで、柩や写真に向かってではなく、他の神々や仏に向かってでもなく、父、子、聖霊なる神に向かって感謝をささげ、願いを言い表し、祈り求めたらいいじゃないですか。その遺族の幸いと慰めを求めて。その人の生涯をさえ神さまが幸いで満たしてくださったことを感謝して。自分自身と家族もまた、主なる神の恵みと憐れみを注がれて幸いに生きることができますようにと。
  944ヶ月の生涯を生きて死んだあの彼もまた、十分に幸いに生きて死ぬことができました。もっとも祝福され、恵まれた人々の中の一人です。もしそうしたいと願うなら、私共も、そのように生きることができます。なぜ?「わたしのぶどう園に来なさい。そこで働きなさい。あなたも、あなたも」と招かれて、来てみたからです。すると、どこもかしこも寺も神社の境内でも、自分の家に居ても道を歩いていても、そこは天の主人のぶどう園の敷地内であり、天の門、神の家ではない場所などこの地上にほんの少しも残っていないからです。どのように生きることができるのか。500年前の信仰問答が、聖書に聞き従いながら、はっきりと答えています。「全信頼を神に置くこと。そのご意志に服従して、神に仕えて生きること。どんな困窮と悩みの中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中にこそ求めること。そして、すべての幸いはただただ神から出ることを心でも口でも認めること」(ジュネーブ信仰問答,問7。あなたとご家族にも、神さまからの恵みと憐れみと平和がありますように。ぜひ、そうでありつづけますように。



 【要点/6つの心得】
(1)私はこういう神さまを信じて、こうやって生きてきた。格別に幸いな人生なので、もし良かったら、あなたもどうぞ」と精一杯に愛する家族や友人たちにも伝えたい。その後で、神さまにすっかりゆだねる。
  (2)神さまのなさることに「はい。分かりました」と従う。「私の願いどおりではなく、ただただあなたの御心のままに」と。好き嫌いやその時々の気分によってでもなく、牧師や役員や有力な人々の意見に従うのでもなく、ただただ習い覚えてきたはずの福音の道理にこそ従って()、一つ一つを自分で判断し、選び取ることができる。
 (3)仏教や他の宗教や無宗教の葬儀に出席することがゆるされている。その相手と家族の人生と思いを重んじることができる。
  (4)クリスチャンは神さまと結婚している関係。主イエスが花婿であり、すべてのクリスチャンはその花嫁とされた。決して踏み越えてはならない一線がある。もし万一、このお独りの花婿イエス・キリスト対して堅く節操を守るつもりがないなら、その家庭は直ちに崩れ去る。
 (5)(仏式葬儀場でも、どこででも)そこで、私たちの主なる神に向かって祈る。その遺族の幸いと慰めを求めて。その人々の生涯をさえ神さまが幸いで満たしてくださったことを感謝して。自分自身と家族もまた、主なる神の恵みと憐れみを注がれて幸いに生きることができますようにと。
  (6)どこで何をしていても、そこは天の主人のぶどう園の敷地内であり、私には天に主人がおられると心得つづける。天の主人の御心にこそかなって生きるはずの私であると弁える。「全信頼を神に置くこと。そのご意志に服従して、神に仕えて生きること。どんな困窮と悩みの中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中にこそ求めること。そして、すべての幸いはただただ神から出ることを心でも口でも認めること」(ジュネーブ信仰問答,問71545