2018年2月19日月曜日

2/18「主イエスの葬りのために」マタイ26:1-13

          みことば/2018,2,18(受難節、第1主日) No.150
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:1-13                日本キリスト教会 上田教会
『主イエスの葬りのために』

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。2 「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。・・・・・・6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、7 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。8 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。9 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。10 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。11 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。13 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。                 (マタイ福音書 26:-13)

  なによりまず、救い主イエスが弟子たちに、ご自身の死を心に留めさせようとしておられるのかと目を凝らしましょう。2節、「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子(=主イエスご自身)は十字架につけられるために引き渡される」。過越祭が近づいていることばかりではなく、主イエスの十字架の死についても、弟子たちはよく知らされていました。エルサレムのみyタコへ向かう旅の間にも、何度も何度もそれを予告なさり、都に入って、その十字架の死の直前にもこのように予告しつづけています。しかも、この言葉は、直前の25章と深く堅く結びついています。つまり、花婿である主イエスの到着を待つ花嫁たちのたとえ話、主人から財産を預かったしもべたち、そして世界の終わりのときに来られる王であり裁き主であられる主イエス。このお独りの裁き主イエスの前に、私たちは立つことになります。それらの言葉や有様が弟子たちの心に鮮やかに残っている間に、それにつづけて直ちに、主イエスはご自身の十字架の苦しみと無残な死について語りはじめます。主イエスは唯一絶対の王様としてこの世界をご自身の支配下に収める前に、まず一人の罪人として身を屈め、ご自分を虚しいものとし、バカにされ、唾を吐きかけられて辱められ、苦しみ、死なねばなりません。
  6-13節。主イエスと弟子たちは、重い皮膚病にかかっているシモンの家にいました。ひとりの女性が高価な香油が入れてある壺をもって入ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭にその香油を注ぎかけました。すると弟子たちは、これを見て、とても腹を立てて言いました。8-9節、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。主イエスは弟子たちに語りかけました。10-13節、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。この一人の女性は、ただただ主イエスを尊び、主イエスに深く感謝をしています。「主イエスからとても良いことをしていただいた。ああ本当に嬉しい」と大喜びに喜んでいて、その喜びと感謝こそが彼女にこれをさせています。その感謝のしるしに、とても高価であるらしい香油を主イエスの頭に注ぎかけました。彼女としては、その献げものはとても高価だとか、高すぎる献げものだとか、もったいないなどとはまったく思ってもいません。なにしろ、自分が献げたその献げもののその千倍も万倍も良い贈り物を主イエスからいただいたことをよく覚えているからです。すると、「ムダ遣いだ。ああ、もったいない、もったいない」などと腹を立てて騒ぎ立てているこの弟子たちとはずいぶん違うことを心に思っているのですね。「こんなムダ遣いを」8節)と弟子たちは呆れて、腹を立てています。もっと良い、もっともっと役に立つ使い道が他にいくらでもあるだろうにと。なんということでしょう。主イエスは直ちに、彼らの心の狭さを、了見の貧しさを、自分ではよくよく分かったつもりの冷え冷えとした心を叱りつけます。「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ」。さらにこう予告なさいます、「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と。
 さて、11節で「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と主イエスは仰いました。やがてほんの数日後に十字架に付けられて殺され、葬られるからです。今しばらくの間、あの彼らと離れるときが来ます。けれど、その続きがありました。葬られたままで終わりではなく、その後、三日目に墓からよみがえると。弟子たちが見ている前で天に昇っていかれます(使徒1:6-11参照)が、しかもなお、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。ですから、今では、主イエスはその約束のとおりに私たちといつも一緒にいてくださっています。このことを、片時も忘れてはなりません。
  それならば、天と地の一切の権威を授けられた主イエスがいつも共にいてくださるのならば、この私たちは、朝昼晩と、毎日毎日をどのように働いたり休んだりして暮らすことができるでしょうか? 心が鈍くされたあの弟子たちのように、「ムダ遣いだ。ああ、もったいない、もったいない」などと見当はずれに腹を立てたり、虚しく騒ぎ立てたりしないでいることができます。あの一人の女性のように、ただただ主イエスをこそ尊び、主イエスに深く感謝をして暮らすことができます。「主イエスからとても良いことをしていただいた。ああ本当に嬉しい」と大喜びに喜んで、その喜びと感謝によって、ますますキリストに信頼し、聴き従い、キリストに願い求めて良い贈り物を受け取りつづけ、キリストに感謝することができます。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えることをキッパリと止めることもできます。何をするにも、誰に向かってするにも、人に対してではなく、主に対してするように。例えば年老いた親の世話をし、家族のために心を砕き、職場でも道を歩いていてもどこで誰と何をしていても、そこでそのようにして、私たちも主であるキリストにこそ仕えて生きることができます。
  あの女性のした感謝の献げものが記念として語られつづけるように、救い主イエスご自身がしてくださった救いの御業こそが、私たちの魂にますます深々と刻まれはじめます。主イエスを覚え、「イエスこそが主である。私たちを救いうるお方はこのお独りの方以外にはない」と魂に刻みつづけるための一回一回の礼拝が私たちを招きつづけるからです。「これは私の体である。私の血による新しい契約である」と聖晩餐のパンと杯が私たちを憐れみの食卓へと招くからです。「主イエスを覚えつづけるための記念としてこのように行いなさい」と命じられているからです。私たち一人一人も、この女性のようにされてゆくでしょう。あるいは、神殿で、わずかな額の献げものをささげた貧しい未亡人(マルコ12:41-44のような私たちとされてゆくでしょう。神こそが、してくださいます。

  あの未亡人もこの女性も、他の誰にもまして豊かであり、必要なものを不足なく不自由なく、たっぷりと与えられていました。「本当にそうだ」と、それをはっきりと実感することもできました。もちろん、ここにいる私たち一人一人もまったくそうです。さらにそのうえ、あの未亡人もあの女性も、自分が持っているものすべてがどこから来たのか、いったい誰から与えられたのかを知っていました。天におられます神さまから贈り物のようにして与えられた、と知っていました。カインとアベルの献げもの(創世記4:1-から始まって黙示録に至るまで、さまざまな献げものが神の御前に差し出されつづけます。その中で、《ふさわしい献げものとは何なのか。またいったい誰が価値ある献げものを差し出すのか》と人々は思い巡らせ、《私の献げものを、どうか神さまが喜んでくださいますように》と願い求めました。私たち人間から神さまへと、献げものは差し出されつづけました(イザヤ1:11-17,50:7-23,アモス5:21-22)。そこでは、その奉仕と献げものの場所では、いつもいつも、それらの奉仕や献げものと共に差し出されるはずの心やその人々の在り方こそが問われました。つまり、「打ち砕かれ、神へと立ち返る心」(詩51:17が。神さまの御前に丸裸にされ、ひれ伏す魂が。主なる神さまは、私たち人間の内面にある心をこそ差し出してもらいたいと望んでおられます。神さまは、動物の肉を食べるわけではなく、ヤギの生き血をすするわけでもありません。私たち人間に面倒をみてもらったり、私たち人間に世話され、養ってもらわなければ腹がペコペコに減ったり喉が渇くような神ではありません。ただ、神を神として仰ぐ信仰を、また神さまへのひたすらな信頼と感謝をこそ差し出してもらいたい(51:12-14)。ぜひ、そうしてもらいたい。それは、けれども、とても難しい要求でした。
  やがて、人間から神さまへと差し出される献げものは、神さまから私たち人間へと差し出される献げものに、道を明け渡すことになりました。つまり、神ご自身の体と魂を、神さまが私たちのために、すっかり献げ尽くしてくださったただ1回の出来事の中へと覆い尽くされ、すっかり飲み込まれてしまったのです。神の独り子である主イエスの十字架の犠牲に。「世界と私たちすべてを罪から救う神の小羊」(創世記22:13-,ヨハネ1:36と、この方は呼ばれました。なにしろ、あの十字架の決定的な出来事がありました。それ以来、もっとも重要な献げものは、私たち人間が神さまへと差し出すのではなく、神さまこそが、ご自身を私たちへと差し出したもの。差し出しつづけておられるもの。神さまが受け取るのではなく、私たちが受け取る。イエス・キリストというお独りの方の人格と体とを通して。ある人は、ついにとうとう、自分の悪と罪深さをさえ、神さまへと差し出しはじめました。「神さま。罪人の私を憐れんでください。助けてください」と。精一杯に、心を込めて、喜びにあふれて働いたときばかりでなく、ある人は、ついにとうとう、そうではない自分自身を差し出しはじめました。破れと欠けに満ちた愚かな自分を。苛立ったり、不平不満をつぶやきながら、嫌々渋々ながら働いた自分を。「神さま。私は人を悪く思いました。あなどったり、『私はこんなにやっている。それなのに』と裁いたり、軽蔑したり、憎んだりして。神さま、私は思い上がりました。『どうせ私は』と、卑屈にいじけました。意固地に偏屈になり、心を閉ざしました。人を困らせたり苦しめたり、傷つけたり、踏みつけにしたりしてしまいました。この私の冷淡さを、私の思いやりのなさを、どうかゆるしてください」と。ああ、兄弟たち。ご覧ください。ついにとうとう、その人も、最低最悪の罪人たちの仲間入りを果たしました。そこでようやく、その人も、《ゆるす神》と出会い、《神のゆるし》を自分のこととして受け取りはじめました(詩130:3-4。ゆるしは主のもとにあり、しかも、こんな私のためにさえ、格別なゆるしが用意されていました。喜びがあふれました。
賽銭箱の中に誰よりもたくさん入れた『貧しいもの』がどなただったのかを、今はもう、私たちは知っています。よくよく知っています。自分の持っているものを残らず、すべて一切を入れた方がどなたなのかを知っています。神であられることのその尊厳も、栄光も、力も身分さえ惜しげもなく捨て去り、ご自分を無になさって地上に降り立ち、泥にまみれ、ツバを吐きかけられ、軽蔑され、見捨てられ、ついに十字架の死にいたるまでご自分の魂を注ぎ出してくださった方(ピリピ2:6-11,イザヤ53:1-11を、私たちは知っています。私たちの主イエス・キリストを。あのお独りの方にとって、私たちを愛する愛の前では、私たちを惜しむ憐れみの前では、ご自身がそれまで持っておられた豊かさは無に等しかったのです。「そんなものはどうでもいい。いったい何ほどのものか。くだらん、つまらん」と、ポイと投げ捨てて見向きもしないほどに、それほどに無に等しかったのです。こんな私たちをさえ救い出して神の子としてくださるために、救い主イエス・キリストは貧しくなってくださいました。兄弟たち。ぜひご覧なさい。よくよく目を凝らしてください。その貧しさと惨めさは、あのお独りの方にとっては、神の独り子ナザレのイエスにとっては、何にもまして豊かだったのです。罪人を憐れみ、ゆるし、憐れみを受けた子供たちとして私共を迎え入れること、それこそが、何にもまして大きな大きな喜びでした。神の独り子イエス・キリスト。「子よ。お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部、お前のものだ」(ルカ15:31,コリント(1)3:21-22と仰います。私たちをご自分の富、ご自分の宝物として愛し、尊び、選び取ってくださいました。お前たちこそ私の宝の民(申命記7:6だ、と仰るのです。なんということでしょう。私たちが喜びと幸いのうちに生きて死ぬために、そのために、誰よりもたくさん献げてくださったのは、あの方だったのです。しかも兄弟たち。惨めな私たちのためにです。どうしようもない、こんな私たちのためにさえ。なんという幸い、なんという恵みでしょう。