2022年8月1日月曜日

7/31「心をかたくなにしては」へブル3:7-13

           みことば/2022,7,31(主日礼拝)  382

◎礼拝説教 ヘブル手紙 3:7-13               日本キリスト教会 上田教会

『心をかたくなにしては』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:7 だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、8 荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、10 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。11 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。  ヘブル手紙 3:7-13


まず7-10節、「だから、聖霊が言っているように、『きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった」。聖書の言葉とその説き明かしと、そこで語っておられる聖霊なる神ご自身にこそよくよく聞き従いなさいと、私たちは励まされつづけます。「聖霊が言っているように」とは、(1)まず聖書は生身の人間たちの手の働きを用いて、神ご自身こそがその報告者たちに神の御心を知らせる働きをさせているのであり、そのようにして聖書全体が神の言葉であるということです。(2)次に、それを私たちが読むとき、またその説き明かしを聴くときにも、そこで神が生きて働き、私たちの耳と心を開いて、神の御声を聞き分け、神の御心を悟ることができるようにしてくださっているということです。そのようにして聖霊のお働きをとおして神の語りかけを聴きつづけている私たちなので、だから、私たちの心をかたくなにしてはいけないと戒められます。それぞれ自分ひとりで聖書を読むときにも、礼拝や諸集会のおりにも、「私の心と耳を開いて、あなたの御声を聞き分けられるようにさせてください」と私たちは祈り求めつづけます。実際に、私たちは誰もが生まれつきかたくなな石の心を持っており、母親のお腹の中にあるときからかたくなさと、神に背く悪い心を抱えて生きている者たちだからです(創世記8:21「人が心に思い図ることは幼い時から悪い」)。ですから、神の御声を聴きつづけながらなおその言葉を退け、背きつづけるのは、自分自身からの強情さのためであることを私たちはよく知らなければなりません。また、もし、神ご自身がその頑なで強情な心を打ち砕き、また私たちの心と耳を開いて下さるのでなければ、私たちは誰一人も決して、神の御声を心に受け止めることも、聴き従うこともできません。

「荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように」と、先祖たちの不信仰と、神に対する彼らのはなはだしい不従順とが指摘されています。エジプトで奴隷とされていた神の民がそこから連れ出されながら、なお荒野で40年もの間さまよい歩き続けなければならなかったのは、神に対する彼らの不信仰と不従順のためでした。彼らの子孫である私たちに、彼らの悪い手本のまねをしないようにと注意を促されます。実に先祖たちは、エジプトから連れ出されてほんの数か月目から神に対して不平不満をつぶやき、荒野を旅する40年の間、ほぼ一貫して、不信仰の中に留まり、神に背きつづけました。エジプト王の心を変えさせて神の民を自由に立ち去らせるために、神は10回もの災いがエジプト全土を襲うようにし、葦の海を真っ二つに引き裂いてその間を通って神の民が海を渡れるようにしてくださいました。その直後、「食べるパンと肉がない。エジプトで奴隷にされていた方がよほどましだった」と彼らは不平不満をつぶやいて神に敵対し、さらに「飲む水もなく喉が渇いた。ここで死なせるつもりか」と神に苦情を言い立てました。出エジプト記16章と17章に報告されている出来事です。荒野を旅する40年の期間が間もなく終わろうとする頃にさえ、彼らは、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」(民数記21:5と、指導者たちと神ご自身に向かって不平不満を訴えかけています。このように私たちの信仰の先祖たちは、40年の間ほぼ一貫して、不信仰の中に留まり、神に背きつづけました。なんということでしょうか。

「あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった」。聖霊なる神が、もし、今ここで、私たち自身の心に働きかけてくださるなら、「ああ。それは私のことだ。神に背きつづけ、不平不満をつぶやき、はなはだしい不信仰に陥りつづけている。それは、いつもの私自身の振る舞いと、口から出る言葉と、いつもの私の心ではないか」と私たちも自分自身のこととして気づくことができるかも知れません。「まさか。それは私のことでは?」と。多くの恵みを受け、神の力ある憐みの業にふれつづけながら、なお心を迷わせつづけ、神が生きて働いておられることも、神の憐れみの御心をも認めようとしない私たちです。

「四十年の間、神の業を見た。それに触れ、味わいつづけてなお、神を試みためした」と厳しく指摘されています。信じようとして、そのためのしるしを求めて神を試したのではなく、むしろ苛立ちながら神さまに信頼を寄せようとはしませんでした。神は何度も彼らを助け、この私たちを助け、支え、憐れんで養い、持ち運びつづけてくださったのに、していただいた良いことはすっかり忘れて、神には果たして力と権力があるのかとあざけって問いただしつづけたと。

「だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった」。彼らは神の道を知らなかったし、認めようとしなかった、と神ご自身が先祖と私たちを非難しておられます。それは、他でもなくこの私たち自身のことではありませんか。心が痛みます。罪と自分自身の肉の思いから離れて、神の憐れみの御心に従って新しく歩みはじめることについて、ローマ手紙6章と10章はもう少していねいに分かりやすく説明しています、「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。また、「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙6:8-11,10:1-3と。(1)まず、古い罪の自分と死に別れさせていただき、神の御前で神に向かって新しく生きる者とされた。神がそうしてくださったばかりでなく、私たち自身も、自分が受け取ってきたその恵みの現実をはっきりと認める必要があると警告されています。そうでなければ、その神の現実とお働きは無駄になってしまうからと。(2)つづいて、『神の義』と対立し、神に敵対して『自分自身の義。正しさ』がある。神の義・正しさは、救いに価しない罪人をゆるして救う憐みの正しさであり、けれど彼らが執着してしがみついているものはそれと相反する『自分自身の正しさ』であり、そのために神の義を知ろうとせず、認めることもできないままであると。彼らと私たちが陥りやすい心の頑なさと不信仰の中身は、このことです。

11節、「そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。奴隷にされていたエジプトの地を離れて、荒野の旅を経て、やがて辿り着くはずだったカナンの土地こそが約束されていた『神の安息の土地』です。「良い土地に導き入れる。そこで、あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い土地を賜ったことを感謝するであろう」(申命記8:7-10参照)と。その土地に入り、長くそこで暮らしつづけてきたはずでした。けれど驚くべきことに、このヘブル人への手紙の著者は、そして神ご自身こそが、「安息の土地に、まだ入っていない」と語りかけます。「そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。このとても重要な教えは4章に引き継がれて、はっきりと言い渡されます。「神の安息に入る約束がまだ存続している。そこにぜひ入るために、注意をし、そのために励もうではないか」(ヘブル手紙4:1参照)と。ヘブル手紙4:6-11、「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか」(これだけでも語られていることは十分に分かりますが、数回後に、もう少しくわしく説明します)

 

               ◇

 

12-13節、「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」と励まされました。さらに、念を押して、「『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」と促されます。その「今日」とは、もちろん遥かな昔のあの彼らのためばかりではなく、今日を生きるこの私たちのための『今日。この日』でもあります。神が私たちに語りかけるとき、いつでもそれは、その人自身のための「今日。この日」です。私たちそれぞれの心の戸を神が、コンコンコンコンとノックしておられます。「熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネ黙示録3:19-20

 


 








【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC