2020年1月20日月曜日

1/19「傲慢と不寛容と」ルカ9:49-56


                   みことば/2020,1,19(主日礼拝)  250
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:49-56                 日本キリスト教会 上田教会
『傲慢と不寛容と』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:49 するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。51 さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、52 自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、53 村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。54 弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。55 イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。      (ルカ福音書 9:49-56)

(1)まず49-50節。ついつい思い上がって頑固になり、了見が狭くなってしまうことについて、主イエスがあの彼らと私たちに警告を与えておられます。弟子の一人が主イエスにこう言いました、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。働きを止めさせられたその人がどういう人物なのか、またどうして彼らの仲間に加わらずに別の行動を取っているのかなど、私たちには分かりません。けれど、この人が悪霊を追い払って、苦しんでいた人を助け、良いことをしているのは誰にでも分かります。しかも、それを主イエスの名によってしているのだということも。「主イエスの名によって」;つまり、主イエスを信じる信仰によって、主イエスにこそ信頼し、依り頼んで、主イエスからの助けと支えにすがりながらその働きをしているのです。見知らぬその一人の人物も、この私たちも。主イエスの弟子の一人は言います、「その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。主イエスが直ちに答えたその言葉にはとても驚かされます。「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。とても断固としており、はっきりした言い方であるからです。
 「わたしたちの仲間でないので、やめさせた」。その人が語っていることやっていることが良いことなのか悪いことなのか、人を助けることなのか困らせていることなのか、神の国の福音のその道理にかなったことなのかどうか。神の御心にかなった神さまに喜んでいただけると思えるやり方と内容なのか、それとも神を侮り、神を嘆かせ悲しませる反逆の行ないなのか。いいえ、そんなこととは何の関係もなく、ただただ自分たちの仲間なのかどうかが問われづけます。この国でも。世界中のあちこちで、大昔から、今もこれからも、そうしたことが大きな判断基準とされ、他の人たちと同じであることが求められ続けます。キリストのものであるはずのキリスト教会でも、多くの人々が、キリスト教会の歴史のほとんどすべての時期に、この同じ間違いを先祖と私たちは繰り返してきました。
 (2)51-56節。報告されているもう一つの出来事です。主イエスとその弟子たちの一行がサマリヤ人の村へ入り、そこからさらにエルサレムの都へと向かおうとしていました。ところが村人たちがその一行を歓迎しようとしなかった。どんな歓迎やおもてなしを弟子たちが期待していたのかは書いてありません。ただ、弟子たちが思い描いていたようには歓迎ももてなしもしてくれなかった。54-55節、「弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、『主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか』。イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった」。サマリヤ人の村の人々をではなく、ご自分の弟子たちをです。
 
 この弟子たちの、いったい何がどう問題であるのか? 単なる道徳やごく一般的な倫理、あちこちに様々ある人間による人間のための人生訓のたぐいが語られているわけではありません。神を信じる信仰そのものと、その中身こそが、ここで問われています。あの彼らと、私たち一人一人に対して。どういう神をどのように信じているのか。神からどんな取り扱いを受けたのか。神を信じる自分たちはいったい何者なのか。信じて、どういう救いへ、どんな祝福と幸いへと導かれていくのか。神からどんな取り扱いを受けたのか、受け続けてゆくのか。———そうしたことを、すべてすっかり分からなくなっていることが大問題です。自分たちの仲間でないので、やめさせては、どうしていけないのか。自分たちと同じ言葉使い、考え方や感じ方、同じやり方、同じ作法であるようにと求め、そうでなければ軽々しく退けたり、やめさせたりしてよいのかどうか。あのサマリヤ人たちを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めては、どうしていけないのか。心を鎮め、ゆっくり落ち着いて思い巡らせているに値します。「あの人のああいう振る舞いを止めさせたい」「天から火を呼び寄せて、あんな彼らを焼き払ってやりたい」。たしかに、あの弟子たちはとても熱心です。けれど、『神がどういう神であるのかを知る信仰の知識』と彼らのその熱心さとははるか遠く離れていて、何の関係もなかったことこそが大問題です(ローマ手紙10:1-4参照)。「あなたがたの主であられる父なる神は、彼らよりも何倍も悪いあなた方に対して、そういう取り扱いはしなかった。あなた自身は、神さまから憐れんでいただいたのではなかったか」と、救い主イエスはお叱りになったでしょう。このことがすべてです。
 しかも、この二つの出来事の間に挟まれて、51節で、「イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」とはっきりと書いてあります。御父との約束通りに十字架につけられ、殺され、葬られ、その三日目に死人の中から立ち上がらされるために、そのことをぜひとも成し遂げようと、そのエルサレムの都へと御自分の心を一途に向けておられるではありませんか。
 それならば、世々のキリスト教会と私たちは、どんな神をどのように信じてきたでしょうか。どんな希望と支えが神さまから贈り与えられているでしょう。聖書と一回一回の礼拝から、主であられる神ご自身の口から出る神の言葉から(イザヤ書55:8-11参照)、この私たちは何を教えられて習い覚えてきたでしょう。例えば、ゴモラの町と人々の姿を見せられ、「さて、あのとても邪まで罪深い彼らをどう取り扱おうか」とアブラハムと私たちは問いかけられました。あの町に50人の正しい人々がいても、その少しの正しい者と悪い者たちとを一緒に滅ぼしてしまうのですか。正しい者が45人では、40人、30人、20人、10人ではどうでしょう。「そのわずかな正しい者のために滅ぼさない。その所のすべての者たちをゆるそう」と主は仰います。例えばニネベの都の人々と多くの家畜たちのことを神がどう思っておられるのかも、親しく打ち明けていただきました(創世記18:16-33,ヨナ書4:6-11。大洪水をへて、例えばノアと家族と生き残ったものたちすべては箱舟からでて、神への最初の1回の礼拝をささげ、そこで驚くべきことが語りかけられました。「人が心に思い図ることは幼いときから悪い。それでもなお、この度したように、もう二度とすべての生きた物を滅ぼさない。地を呪うことも打ち据えることもしない」(創世記8:21と。小さな子供の頃から今に至るまでずっと、ついつい悪いことを思い図ってしまう私たちです。それを百も承知のうえで、なお滅ぼさず、打ち据えず、見捨てることも見離すことも決してしない。そういう神であり、そのように憐み深く、あまりに寛大な取り扱いを受けつづけてきた私たちです。
 それでもなお主なる神さまとはずいぶん違うことを心に思い描きつづける私たちです。預言者イザヤの口を用いて、神ご自身がこう語りかけました、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:8-11「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と、なぜ主はお命じになるのか。主はすぐ近くにおられます。私たちから遠ざかったり、背を向けたり、ご自身の目も耳も塞いだりはなさいません。むしろこの私たちのほうが、自分自身の心を鈍くしてしまい、かたくなになり、主であられます神から遠ざかったり、背を向けたり、自分自身の目も耳も塞ぎつづけるからではありませんか。「尋ねよ。求めよ、門を叩け」とお命じになる神ご自身が私たちを尋ね求めて、私たちの魂の扉を静かにそっと叩きつづけるからではありませんか。叩きつづけて止まないからではありませんか。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」と、なぜ主はお命じになるのか。悪い道と行いにしがみつき続ける者に対してさえも、主は憐みを注ぎかけつづけます。けれど、どうしたわけか、その者たちには届きません。注がれる憐みを、この私たち自身が跳ねのけつづけるからです。主に立ち帰ろうとしない強情で頑固な者たちに対しても、神はゆるしを差し出し続けます。けれどそのゆるしは、どうしたわけか受け取り拒否されつづけます。その憐みもゆるしも、いつまでたっても彼らの手元に届かず、彼らは喜ぶことも感謝することもなく、ただ虚しく日々を送り続けます。だからこそ、なんとしても主に立ち帰らねばなりません。どうしたら、主の憐みのもとへと戻ってゆくことが出来るでしょうか。あの彼らは、そしてこの私たち自身は。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」と、なぜ主はお語りになるのか。なぜ主はわざわざ、とても分かりやすく、小さな子供に語りかけるようにして、かみ砕いて説明しておられるのか。この私たちにも、ぜひよくよく分かってもらいたいからです。この私たち一人一人のためにも、天からの雨や雪のように、主の口から出る主ご自身の言葉のひと粒ひと粒が降り注ぎつづけ、私たちの魂の地面を濡らし、たっぷりと潤しました。私たちの内にも、福音の言葉の種の芽を出させ、葉と茎を伸ばさせ、豊かな実を結ばせたいと願ったからです。そのように天からの雨や雪のように、あなたや私のためにも、絶え間なく止むことなく、膨大な量の神の言葉が降り注ぎつづけたからです。私たち自身の思いや計画、それぞれの願いとはずいぶん違っておられるご自身の思いを分かってもらいたいからです。
 「私たちの仲間ではないので」とついつい言い張りつづけるとき、主の弟子ヨハネも私たちも神さまご自身の御心を踏みにじっているからです。「私たちの意にそわない彼らのために天から炎を呼び寄せて彼らを焼き払ってしまいましょうか」と得意になって思い上がったとき、ヨハネもヤコブも私たちも、この自分たちこそが神の御心を押しのけ、自分の正しさを押し立てようとし、神の正しさと憐み深さに少しも従おうとしなかったからです。仲間ではないどころか自分自身こそが神に背き、神に敵対し、逆らいつづける最低最悪の罪人であり、その自分に対してさえ神の愛が示され、差し出され、受け取ってきたことをすっかり忘れ果てているではありませんか(ローマ手紙5:6-11参照)。それこそが、他の何にもまさって緊急事態であり、最優先の大問題です。「あなたがたの主であられる父なる神は、彼らよりも何倍も悪いあなた方に対して、そういう取り扱いはしなかった。そのあなたこそが、神から憐れんでいただいたのではなかったか」と、救い主イエスは心を痛め、彼らとこの私たちをお叱りになるでしょう。このことがすべてです。私たちが獲得してきた良いものすべてが神の恵みです。救いの約束はただただ恵みと憐みの上にだけ基礎を置き続けます。その恵みは、神ご自身からの価なしの慈悲であり、「滅びるままに捨て置くことはできない。ソドムとゴモラの人々のように、ニネベの弁えの無い人々よりもさらに何倍も何倍も悪いとしても」と、ただただ可哀そうに思っていただいたからでした。私たちはいったい何者でしょうか。いいえ、何者でもありません。神の御心にそわない者であるにもかかわらず憐れんでいただいた、恵みに値しない罪人同士です。聖書は証言します、「あの弟子たちも私たちすべても、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者としていただいた」(1ペテロ手紙2:10参照)。受けた憐みをたしかにこの手に握っており、それを二度と決して手放さず、目を凝らし、だからこそ神さまへの感謝と喜びにあふれている。いま現にそうであり、明日も明後日も朝も昼も晩も、ずっとそうでありたい。この私たちに対しても、他すべて生命ある者たちに対しても、これこそが神ご自身からの切実な願いでありつづけます。