2016年4月12日火曜日

4/10こども説教「石をパンに変えてくれたら」ルカ4:1-4

 4/10 こども説教 ルカ4:1-4
 『石をパンに変えてくれたら』

4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて ヨルダン川から帰り、2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。3 そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。 (ルカ福音書 4:1-4)

  いよいよここから、救い主イエスのお働きが始まります。荒野で悪魔から3つの誘惑を受け、それをすべて退けること。救い主としてその仕事を成し遂げるためには、まず、これが必要でした。荒野の3つの誘惑を、今日から3回に分けて読み味わっていきます。1-2節で、「イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を御霊に引き回されて~」と書いてあります。「聖霊。御霊」、聖霊なる神さまのこと。つまり、荒野を40日さまよって、お腹がすごく空いて疲れ果てていたことも、そこで悪魔から誘惑を受けたことも、それら全部が、神さまのご計画と導きのうちにありました。悪魔は誘いかけました、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。主イエスは答えました。「人はパンだけで生きるものではない」。父なる神さまは私たちに何が必要なのかをよく知っていてくださり、その必要なものの一つ一つを用意して、贈り与えてくださいます(マタイ6:11,31-,121:1)。私たちのための助けと備えは、この慈しみの神さまから来ます――悪魔の攻撃は、まず第一に、神さまへの信頼に向けられます。『神さまに信頼できない私たち』にさせたい。「何に聞き従い、誰に信頼したらいいだろう。いったい何を頼りとできるだろうか」と、悪魔はこの私たちにアタフタオロオロさせたいのです。神さまからの救いの約束もご命令も、「フン。どうせそんなこと」と話半分に聞き流してしまう私たちにさせたいのです。
 それに対して、主イエスも、主イエスだけではなくて 主の弟子とされている私たちも、いつも同じ立ち向かい方をします。「~と書いてある。~と言われている」4,8,12節)。悪魔の攻撃に抵抗して、『聖書にこう書いてある。聖書は、こう語っている』と断固としておっしゃいます。それこそが彼と私たちの唯一最善の武器であり、神の武具です。この私たちも、神さまを信じて生きはじめました。聖書を一人一冊ずつ持っています。聖書の言葉を聞き届けつづけ、聖書に書いてあることをいよいよ本気で信じて生き始めています。さて、「人はパンだけで生きるのではない」(ルカ4:4,申命記8:3)と、主イエスは石をパンに変えることを断りました。パンだけで生きるのではない。それはどういう意味でしょう? もちろん誰一人も、一切れのパンもなしに、仙人のように雲や霞を食べて生きられるわけではありません。私たちは現実には、主の口から恵みによって与えられる一つ一つの言葉によって、そしてまた同時に、主なる神さまが恵みによって与えてくださるパンや米やうどんやソバによっても、生きてきました()(ルカ11:3,出エジプト記16:1-,箴言30:7-9)。言葉だけではなく、パンも水も肉も、不足なく十二分に、神さまご自身から与えられてきました。これまでもそうでしたし、今もこれからもそうです。「本当にそうだなあ」って、実感できますか? 主の口から出る言葉と、主の御手から差し出されるパンと、その両方ともによって、私たちは生きる。それが、この箇所と申命記8:3-の真意です。



         【割愛した部分の補足】
   ~天からのパン、自分の力と手の働き、無くてならぬ食物、パンと小舟の共通点~

           (*)み言葉だけでなく、パンも他すべても、神さまから贈り与えられている。実は、このことが理解しづらいし、そうは思っていないクリスチャンたちも今では多いかも知れません。『主の祈り』の第四の願いは、「わたしたちの日毎の糧を今日も与えてください」です。日毎の糧には、霊的なものも物質的・日常的なものもすべて一切が含まれます。ごく高価な貴重なものから、ありふれているように見える、ごく普通のものまで。一日分ずつの生命も、家族も信頼できる仲間や友達も仕事も、毎月の食費、電気代ガス代も。神さまからただ恵みによって、私たちが生きてゆくために必要なそれら一切が贈り与えられている。そのことをうっかり忘れてしまうとき、わたしたちは欲張りになり、むさぼり、心がおごり高ぶりはじめて、神をも隣人をも軽んじはじめます。出エジプト記16章、申命記8:11-20、箴言30:7-9を参照(けれど、少し親切に丁寧に説明しましょう。(1)出エジプト記16章で『天からの恵みのパン』を贈り与えられたきっかけは、彼ら神の民が食べ物のことで不平不満をつぶやいたことでした。「腹へった、腹減った。こんなことならエジプトで奴隷にされていたほうがまだましだった。あそこでは、肉鍋や飽き足りるほどのパンを食べていたのに。ああ嫌だ。エジプトに帰りたい、帰りたい」と。しかもエジプトから脱出し、荒野の旅が始まって、まだほんの一ヶ月ちょっとです。主なる神さまは彼らをご自分の御前に呼び集めさせました。叱りつけるためではなく、罰するためでもなく、「天からの恵みのパンと天からの恵みの肉を食べさせる」と彼らに告げ知らせるために。主は仰いました、「お前たちのつぶやきを聞いた。夕には肉を、朝にはパンを食べて飽きさせる。そうして、わたしがあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう」(16:12)。いつも、こういう同じ一つのやり方です。また、そうでもしなければ、1000年たっても2000年たっても、彼らも私たちも主が主であられることを習い覚えることができないからです。私たち自身の心が頑固で、誰も彼もがとても心が鈍いからです。そのため16章の末尾、32-36節では「マナを一人分取り分けて壺に収めて保存せよ」と命じられました。覚えて心に刻んでおくための証拠物件です。その壺は神の民に代々受け継がれて、主を覚えておくための教育材料とされました。「わたしたちの日毎の糧を今日も~」という第四の願いこそが、今日の私たちのための『マナの壺』です。
(2)申命記8:11以下は、プライドの高い現代的な私たちにとっては特に耳痛い警告でしょう。先程、「食べて飽きさせる」と約束されていましたが、その豊かさと満足は、「心を高ぶらせて、そのあげくに主を忘れてしまう」信仰の危機と表裏一体でもあったのです。わたしたちは、この耳痛い警告を朝も昼も晩も読み返し、心によくよく刻まねばなりません。自分の力と手の働きでこの富を得た、と言ってはならない。思ってもならない。その途端に主を忘れ、他の神々に従い、仕え、拝みはじめ、この私たちは直ちに滅びるでしょうから。
(3)箴言30:7以下。これは説明不要。ただ、心を鎮めて、立ち止まり、語りかけられていることをよくよく味わいつづけましょう。貧しすぎるようにも、豊かすぎるようにもしないでください、と願い求めています。ただ、「なくてならぬ食物でわたしを養ってください」。この無くてならぬ食物こそ、主の口からのすべての言葉と、主の恵みの御手から贈り与えられる『日毎の糧』です。その両方が無ければ、「主とは誰か。知りません」と背を向け、あるいは盗みを働いて主の御名を汚すことになってしまう。「無くてならぬ食物」と言われて、すぐにルカ福音書10:36-42を思い起こしました。この食物のことをうっかり忘れていたために、マルタ姉さんは信仰の危機に直面していました。心が引き裂かれ、取り乱し、カンシャクを起こしかけていました。せっかくの働きが水の泡になってしまう寸前でした。働き者のマルタのためにも私たちのためにも、主イエスは仰います。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ10:41-42)。主の口から出るすべての言葉です。日毎の糧さえも 主の言葉に添えて与えられるでしょう。「マリアは良い方を選んだ。彼女から取り去ってはならない」。その通りです。では、マルタからは取り去っていいのか、私たちや他すべての主を待ち望む者たちからはどうか? 問うまでもないでしょう。無くてならぬ主の言葉を、あなたも他の誰も、取り去られてはならない。誰からも取り去ってはならない。「~を参照せよ」と掲げた(1)(2)(3)、少しでもお役に立てばいいのおですが。
          (4)例えば、マルコ福音書では『5000人に食べ物を与えた出来事』と『主イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところへ来た』出来事(6:30-4445-52)を連続して報告し、湖の事件のときに弟子たちがアタフタオロオロしつづけた理由をこう断言しています。「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである」52節)と。わずかのパンと魚で大勢の人々が満たされたことと、波風に悩まされる小舟の上の弟子たち。この二つはひと組の出来事であり、先の(1)(2)(3)とも深く響き合っています。天からのパンに関して悟るならば、ほかすべてが理解できたはずでした。もし、パンに関して悟れないならば、ほかすべてが分からないはずです。私たちが生きてゆくための毎日毎日の糧と手段と支えが、どこから、どのように、与えられつづけるのか? 天地を造った主なる神さまから、ただただ恵みによって贈り与えられてです。あなたにも、十分に分かりますか? これを、信じられますか? どうぞ、よい日々を。



 ◎とりなしの祈り

教会と全世界のかしらであられます主イエスの父なる神さま。独り子イエス・キリストを私たちに贈り与えてくださり、罪と悲惨の只中から私たちを救い出し、主イエスの復活の命にあずからせてくださいましたことを感謝いたします。
 主よ。身勝手で無責任で自分たちの目先の損得しか考えないのは、この国の政治家たちばかりではありません。彼らのせいばかりではなく、私たち自身に大きな責任があります。神さま、申し訳ありません。この国と私たち自身が深く悔い改めて、自衛隊員たちが無駄に人を殺したり殺されたりし始める前に、立憲主義にも民主主義にも反する戦争法をなんとかして廃止することができますように。また、日本中が人の住めない荒れ果てた不毛の土地になってしまう前に、取り返しのつかない事態になってしまう前に、すべての原子力発電所を止めて、新しく歩みはじめさせてください。手遅れになってしまう前に、どうかそうさせてください。米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちに、私たちも目と心を向けることができますように。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせてください。貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。年老いた人々にも子供にも若い者たちにも、どうか神さま、生きる喜びと確かな希望を見出させてください。

  主なる神さま。私たちを今こそ地の塩、世の光として用いてくださって、あなたの慈しみと憐れみ深さを証して生きるものたちとならせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン