2016年3月31日木曜日

3/27「心を騒がせるな」ヨハネ14:1-3

                            みことば/2016,3,27(復活節第1主日の礼拝)  52
◎礼拝説教 ヨハネ福音書 14:1-3                       日本キリスト教会 上田教会
『心を騒がせるな』
+(付録)聖書研究 『私たちはふつつかなしもべです。すべき事をしたに過ぎません』


  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。      (ヨハネ福音書 14:1-3)


1-3節。救い主イエスが十字架につけられて殺されてしまう、その前の晩のことです。「十字架につけられ、殺され、墓に葬られ、その三日目に墓からよみがえることになっている」と主イエスはご自分の弟子たちに繰り返し繰り返し、あらかじめ知らせていました。けれど、弟子たちはそれが本当のことなのか、またどういうことなのかを、なかなか理解することも受け入れることも出来ませんでした。本当に主イエスが殺され、どこかへいなくなってしまうとするなら、その後、自分たちはどうしたらいいのか。いったい何を頼りや支えとして、何にすがって生きてゆけるのかと。いよいよその時が迫って、弟子たちの心は騒ぎ立ち、激しく揺さぶられています。その弟子たちのうろたえぶりと、心細さ、惨めさ、あまりの恐れを思いやって、主イエスは彼らに語りかけます。「あなたがたは心を騒がせないがよい。ビックリしたり怖がったり心細がったりしないで安心していることが、あなたにも出来るから」と。心を騒がせたり激しく揺さぶられたりしないためには、あなたがたは父なる神を信じ、そしてこの私をも信じなさい。よくよく信じなさいと。
  しかも、この私たちも彼らと同じです。強がって見せても、誰でも本当はとても心細かったのです。恐ろしいことや心配事が山ほどあって、次々とあって、あの彼らのようにたびたび激しくうろたえながら、心を騒がせ、激しく揺さぶられながら、私たちも暮らしています。小さな子供たちもそうです。中学生高校生、大学生も、世の中で働きはじめた若者たちもそうです。子供を育てている若いお父さんお母さんたちも、そればかりではなく、ずいぶん長く生きてきたはずの年配の方々も実は、子供たちや若い者たちに負けず劣らず、それぞれの心細さを抱えて毎日毎日の暮らしを生きています。
  「父なる神を信じ、そしてこの私を信じなさい。よくよく信じなさい」と主イエスは、すでにちゃんと十分に信じているはずのその弟子たちに、わざわざ念を押しています。そうする必要があるからです。信じているはずの信仰は、けれど紛れてしまいやすいからです。例えばガリラヤの湖の上で小舟に乗っていて、弟子たちがアタフタオロオロした時がありました。それも2回も(マタイ8:23-27,14:22-。主イエスが小舟の片隅で眠り込んでおられたときと、そこに主イエスがおらず弟子たちだけで小舟に乗り、大波や風にあおられて舟が沈んでしまいそうになったとき。1回目、主イエスが風と湖を叱りつけると風も波も鎮まりました。「この方はどういう方なのだろう。風も湖も従わせてしまうとは」と弟子たちはとても驚きました。2回目、主イエスは水の上を歩いて弟子たちのところに来てくださいました。弟子の一人ペテロは「自分も同じように水の上を歩かせてください」と願い、「来なさい」と命じられ、歩き始めました。最初の一歩二歩くらいは、なんとか水の上を歩けました。けれどすぐに、ザブーン、ザブーンと打ち寄せる大波や強い風が怖くなり、それが気になって気になって、するとブクブクブクと沈みはじめて、危うく溺れかけました。「主よ、お助けください」とペテロは叫びました。主イエスは彼を助けて、舟に乗せ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と仰いました。だいたい皆、これくらいのものです。信じていないわけではない。けれど全然足りないし、薄すぎる。すぐに、ザブーン、ザブーンと打ち寄せる大波や強い風が怖くなり、それが気になって気になって、するとブクブクブクと沈みはじめて、危うく溺れかける。大波が打ち寄せても、強い風が吹いても、いいえ 大波がザブーン、ザブーンと打ち寄せれば打ち寄せるほど。風がビュービューと吹き付ければ吹き付けるほど、それだけますます主イエスにこそ目を凝らさねばなりませんでした。例えば神の民とされたイスラエルの歴史も、気もそぞろなこのペテロとだいたい同じでした。信じていないわけではない。けれどその信仰は全然足りないし、薄すぎる。その証拠に、そよ風がほんの少しそよそよ吹いて、ほんのちょっと波がチャプチャプ、パシャパシャと小舟を揺らしただけで、その途端すぐ他のアレコレが気にかかって気にかかって、するとブクブクブクと沈みかける。助けてもらって、舟に乗せていただく。また心が騒いでブクブク沈みかけて、その繰り返しです。「風も湖も従わせてしまうとは、この方はどういう方なのだろう」と驚きながら、何度も何度も驚きを味わいながら、主イエスがどういう方なのかがなかなかピンと来ない。預言者たちは口を酸っぱくして、同じことを語りかけつづけました。「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」(イザヤ書7:4,30:15-16,出エジプト記14:13-14,116:7もし、『私もあの彼らと似たようなものだ。信仰がないわけじゃないが足りなすぎるし薄すぎる』と気づくなら、「神さま。どうか私の信仰を増し加えてください」と願い求めることができます。「神さまによって救われ、力を得たい。格別な安らぎと確かさを私も受け取りたい」と、もし願うなら、その願いはきっと必ずかなえていただけます。
 さて2-3節、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。このことを、よく覚えておいてください。小さな子供も、このまえ、この飛びっきりに大切な問題を質問していました。「ねえねえ、お母さん。死んだらどうなるの。どこに行くの?」。その大切な子供にもぜひ教えておいてあげなくちゃ。これが答えです。しかも主イエスご自身からの答えですから、十分に信用できます。詳しく聞き分けましょう。「わたしの父の家」。主イエスにとっての父は、私たちにとっても父です。主イエスを信じる私たちは、イエスをとおして父の子供たちとしていただいたからです。だから、私たちの父の家です。そこは私たちにとっても自分の故郷であり、自分の実家であり、自分たちの家です。この父から決して忘れられることもなく、いつでも大歓迎で迎え入れられ、くつろいで安心してそこにいることが出来ます。自分たちの家なんですから。主イエスを信じて、ただそれだけで神の子供たちとしていただいた私たちです。ですから、神の子供たちのうちで最も弱々しい子供も、とても礼儀知らずな乱暴な子供も、神に背いてばかりいる不届きな子供も、つまりは最低最悪の、罪人の中の頭であり罪人中の罪人でさえ、その家から締め出されることがありません。「こんなつまらない、ちっぽけな私の居場所なんか無いかもしれない」などと誰も恐れたり怖じける必要もない。
  「あなたがたのために、場所を用意しに行く。行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎える。わたしのおる所にあなたがたもおらせる」と主イエスは仰る。ビックリです。主イエスが、父の家の中に私たち一人一人の場所を用意してくださる。主イエスが迎えに来てくださり、ご自身がおられる所に私たちをもおらせてくださる。なんと何から何まで、至れり尽くせりです。「彼のところに私たちが行くのを待っている」というのではなく、迎えに来てくださり、連れて行ってくださる。最初のクリスマスの夜、一回目に主イエスがこの世界に来てくださったとき、それは私たち罪人を神の子供たちとし、神さまと共に生きる新しい喜ばしい生命を贈り与えてくださるためでした。二回目に、やがて再び主イエスが来られるとき、それは主イエスを信じて生きる私たちにとって、一回目に負けず劣らずに慰め深い出来事となります。なぜなら天にある私たちの父の家、自分の故郷、自分の実家、自分たちの家に迎え入れていただく時となるのですから。では、これらのことについて何と言ったらよいでしょうか。神さまが私たちの味方です。いつ? もちろんいつでもです。生まれる前から、今までも今も、死んだあとでも。それならいったい誰が私たちを困らせたり、悪さをしたり、苦しめたりできるでしょう。誰が私たちを訴えたり、「こんな悪いことをした悪い人間だ」などと悪口を言ったりできるでしょう。誰にも何一つも手出しができません。なぜ? 神さまが私たちの味方ですから。御父がご自身の独り子イエスをさえ惜しまず死に渡し、墓に葬り、三日目によみがえらせてくださったからです。その御父が御子イエスと共にこの私たちをも新しい生命に生きさせてくださるからです。御子イエス・キリストを贈り与えてくださった父なる神さまが、御子イエスとともに、すべて何でも私たちに贈り与えてくださらないはずがないからです。キリスト・イエスは死んで、いいえ、ただ十字架につけられて死んだだけではなくて 葬られ、その三日目に墓からよみがえって、父なる神さまの右にある王様のイスに座り、世界全部、生き物たち全部とともにこの私たちのためにも、力を存分に働かせてくださるからです。だからもう私たちは今でははっきり信じています。はっきりと知っています。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他、神さまに造られたにすぎないどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示され、手渡された神の愛から、わたしたちを引き離すことは決してできないのだということを(ヘブル手紙11:13-16,ピリピ手紙3:20-21,ローマ手紙 8:31-39参照)
  これで私たちも今では、湖で溺れかけたペテロよりも安心です。風も波も従わせ、私たちの揺さぶられやすい危うい心をさえ鎮めることのできるただお独りの方を、主イエスを知っているし、そのお方をこそ本気で信じてもいるからです。『生きていても死んだ後でも、なにしろ主イエスが一緒にいてくださる。一緒にいるだけでなく、ちゃんと守って助けてくだる。どこからでも何があっても、だから大丈夫』と太鼓判を押されているからです。この私たちは主なる神さまのもとに立ち返って、そこで落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば、力を得る。力を得つづける。なぜ? 主なる神さまを喜び祝うことこそ私たちの力の源であり、力そのものであるからです(イザヤ30:15-17,マタイ28:18-20,ネヘミヤ記8:10を参照)。しかも、今ではとうとう、そのように生きて死ぬことを確信し、本気で願い求めてもいるからです。なんという恵み、なんという幸いでしょう。

★★★  礼拝予告 ★★★
3 『道、真理、生命』 
ヨハネ福音書 14:4-6
  10 『死んで、それで終わりではない』
       テサロニケ手紙(1) 4:13-5:10
 17 『明日も分からない生命?』
         コリント手紙(1) 15:17-33
 24  『無から有を呼び出す神』
ローマ手紙 4:17-25
1 『生きるにも死ぬにも』
ローマ手紙 14:4-9
   8 『私は動かされない』  16:7-11

 ◎とりなしの祈り

救い主イエスを死者の中からよみがえらせ、それだけでなく、主とともに私たちをも新しい生命に活かしてくださる父なる神さま。命の約束を、どうか今日こそ私たちに堅く信じさせてください。悲しむとき、誘惑にあうとき、孤独で心細く暮らす日々に、病いの床にあり死が間近に迫るときにさえ、あなたの御前で勇敢に人生に立ち向かい、苦難や死に対してさえ、恐れなく立ち向かうことができます。このことを、どうかこの私たちにもはっきりと確信させてください。
 この29()に、とうとう戦争法案が施行されます。神さま申し訳ありません。神さまに対しても同胞たちに対しても、私たちはお詫びのしようもありません。自衛隊員が世界中の紛争地域に派遣され、殺したり殺されたりしはじめます。小さな少年の兵隊たちとも命を奪い合います。外国で暮らす日本人とその家族の生命も狙われつづけます。泥沼の中で無残な報道が次々と耳に入りつづけるでしょう。なんという恐ろしい法案を私たちはゆるしてしまったのでしょう。だからこそ諦めず、目と耳をふさぐことなく、このはなはだしく悪い法律を廃止する日まで、大人である私たち自身が自分の責任を痛感し、責任を果たしつづけることができるように導いてください。あまりに危険で無責任な原子力発電所を稼働させ続け、放射能汚染水を地面の下や海に垂れ流しつづけ、アジア諸国にその危険で無責任な発電所を売りつけようとしていることのはなはだしい無責任さも身勝手さも、この私たち自身にあります。日本で暮らす外国人を憎んだり排除しようとする人々の邪まな活動に対しても、私たちは責任があります。過酷で劣悪な労働条件で働かされ、安く利用され、使い捨てにさせられつづける人々の貧しく惨めな暮らしに対しても、米軍基地を無理矢理に押し付けられている沖縄の同胞たちに対しても、神さま、私たちには果たすべき大きな責任があります。貧しく心細く暮らす子供たちとその家族に対して、年老いた人々に対しても、若者たちに対しても、被災地や仮設住宅に置き去りにされている人々に対しても、私たちには果たすべき責任があります。後から来る若い世代に対して、私たちには大きな責任があります。まったく、本当に申し訳ないことです。お詫びのしようもありません。そのことを覚えつづけさせてください。主なる神さま、私たちは大きな苦難の中に据え置かれています。どうか私たちを憐れんでください。なによりも、あなたが生きて働いていますことを私たちにはっきりと堅く信じさせ、御心にかなって生きることを私たちに今日こそ本気で願い求めさせてください。この世界のためにも、また私たちの家族や職場の仲間たちに対しても、深手を負って道端に倒れている小さな隣人たちのためにも、あなたご自身の平和の道具として、私たちを朝も昼も晩も用いてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


(付録)聖書研究
『私たちはふつつかなしもべです。
すべき事をしたに過ぎません』
                   金田聖治

17:5 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。   (ルカ福音書 17:5-10)


  キリスト教会が2000年かかって考え巡らせつづけ、今後も考えたり思い煩ったり、ときにはなはだしく誤解しつづけるだろうことを、僕も思い巡らせてきました。キリスト教会に出戻ってきた30歳のときから今日に至るまでの27年間。救われるのは、善い行いによってなのか、それともただただ恵みによるのか? もちろん、『ただ恵みによる。自分自身の良き業は、自分が救われるかどうかとはまったく何の関係もない』と聖書66巻は素朴で単純明瞭な唯一の真理を答えつづけます。500年前のハイデルベルグ信仰問答は、問60-64の中で、この課題に答えようとしました。「まったくの恵みなのです」と断言する問63のために、根拠としてルカ福音書1710節があげられます。問答そのものよりもむしろ、ルカ17:5-10が十分な答えを差し出します――
 ルカ福音書175-10節を読んでみましょう。
 「私たちの信仰を増してください」と弟子たちから願い求められ、主イエスがその願いに、たとえ話を用いてお答えになります。まず7-9節。『家の主人』は神さまです。『しもべたち』は、人間全般を見渡しているとしても、特には私たちクリスチャンのことです。畑を耕したり、あるいは牛や羊の世話などをしてそれぞれ一日働いて、夕暮れ時に私たちは主人の家に帰ってきます。クタクタに疲れ果てているかも知れません。けれど主人はその召使いに、「疲れただろう。よく働いた。ご苦労だった。さあさあ手を洗って、すぐ食卓に着きなさい。いっしょに晩飯を食べようじゃないか」などと言うだろうか。いいや、かえって、「夕食の用意をしてくれ。そして私が飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。わたしが十分に食べ終えた後で、自分の分の飲み食いをするがよい」と言うではないか。9節はさらに痛烈です。「主人から命じられたことを召使いがすべてすっかり果たしたからといって、主人はその召使いに感謝するだろうか。いいや、するはずがない」。そして締めくくりの10節;「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。これこそが、天の主人に仕える召使いであるすべてのクリスチャンが弁えているべき基本の認識であり、心得であるというのです。わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい。ただ口で言うだけでなく、心でも腹でも味わいつづけなさい。はい、分かりました。
  この箇所を読んで、あなた自身はどんな気持ちがしましたか? 嬉しい気持ちがしたでしょうか。それとも、見下されたような踏みつけられたような、なんだか嫌な気がしましたか。
  これが、『救われるのはただ恵みによる。自分自身の良き業は、自分が救われるかどうかとはまったく何の関係もない』ことに関する、救い主イエスご自身からの決定的な証言です。しかも驚いたことに、この召使いは不当な扱いをまったく受けていません。しかも、召使い自身も渋い顔も嫌な顔も、ウンザリした顔もしていないはずです。分かりますか? 耕作、牧畜、主人の食事のための世話、その他もろもろは良き業にもなり、悪い業にも成り下がりうるでしょう。働きの一つ一つが『感謝の献げもの』であるのかどうか、その中身と心こそが問われるからです。同じことをしながら失敗し、思い違いをして、悪い働きをしてしまった召使いたちが聖書中に列挙されました。まず不機嫌になったカイン、士師ギデオン、サウル王、不機嫌になったマルタ姉さん、不機嫌になった放蕩息子の兄、ぶどう園の早朝から働いて不機嫌になった労働者たち、不機嫌になって互いにイガミ合い、押しのけ合ったピリピ教会、コリント教会の兄弟姉妹たち、そのほか多数(創世記 4:1-16,士師記 8:22-27,サムエル記上13:8-14,15:7-27,ルカ福音書10:38-42,15:25-32,マタイ福音書20:1-16,ピリピ手紙2:1-5,12-18,コリント手紙(1)1:10-17,3:1-4,12:12-269節で「主人は召使いに感謝をしない」と断言されて、はっと気づきます。そうだったのか。「ご主人からも人様からも感謝され、誉められて当然」と私たちが思い込んでいるからです。自分は正しく立派な人間だと自惚れて他人を見下し、「誰彼は罪深い。いたらない」などと裁きつづけていたからです。人間中心のモノの見方にかぶれて、自分の目の中の大きな梁に少しも気づきませんでした。この私たちこそがあまりに罪深かったのです。たびたび不機嫌になり、不平不満をつぶやいたり苛立ったりしつづけた理由はそこにありました。そうだったのか。主人が私たち召使いに感謝するのではなく 召使いである私たち自身こそが、ご主人に感謝を申し上げるのです。何について? 朝から夕方まで、耕作や牧畜やさまざまな労働をしながら、そこでそのようにして主人に仕えて働くことができたこと。主人の食事の世話までさせていただいたことについてです。良き業など到底できなかったはずの私たち。もし、できたのなら、それらは恵みの贈り物でした。朝、仕事に出かけてゆくとき、夕方、主人の食事の世話をしていたとき、その間も四六時中ずっと、どこで誰と何をしていても主人に仕えて働き、すでに十分すぎるほどの報酬にあずかっていたのです。すでに、それらこそが主人からのただ恵みの贈り物だったからです。さて、この私共も良き業をし、主人に感謝し、主人に仕える幸いを喜び祝うことができるのかどうか。10節を口ずさみ、そこでどんな気持ちが沸き起こってくるか確かめてみましょう。「私はふつつかなしもべです。なすべき事をしたに過ぎません」。あるいは、「ふつつかすぎて、なすべき事を十分には出来ませんでした。申し訳ありません」と。もし、なんだか危ないようなら、あまり嬉しい気がしないなら、すぐに良い医者のところへ大慌てで駆け戻り、治療していただきましょう。

 ――まとめ。『良き業』が要らない、しなくてよい、わけではない。けれど順序が違う。後から、良き業(=感謝の実)を行いはじめる。
   罪人・悪人であり、神を憎んで逆らう無価値な私共を、まず神が愛した。まず神がゆるした。まず神が恵みのうちに捕え入れてくださった。(⇒ヨハネ手紙(1)4:7-12,ヨハネ福音書,15:12-17,ローマ手紙5:6-11,イザヤ書46:3-4)
   罪ゆるされた罪人らは神を信じる信仰を与えられ、神を愛する愛を与えられ、神に従う従順をさえ贈り与えられ、従いはじめた。
    受けた恵みの結果として、罪人らは『感謝の実』を結びはじめる(ハイデルベルグ信仰問答,問64。御父と主イエスからの恵み、憐れみ、平安のもとに、私共一人一人が堅く留まりつづけることができますように。どうぞ、よい日々を。


               (同じ表題、同じ趣旨で、当教会の機関誌『信濃のつのぶえ73号』(2016,3,27発行)にその巻頭言として掲載しています。誌面構成の都合で、そちらは4割引ほどの短縮版、こちらはその全長版です。)