2016年3月14日月曜日

3/13「求めよ。捜せ。門を叩け。」マタイ7:7-12

                            みことば/2016,3,13(受難節第5主日の礼拝)  50
◎礼拝説教 マタイ福音書 7:7-12                       日本キリスト教会 上田教会
『求めよ。捜せ。門を叩け。』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
                                                  (マタイ福音書 7:7-12)
  



  7-8節。「求めよ。そうすれば、与えられるであろう。捜せ。そうすれば、見いだすであろう。門を叩け。そうすれば開けてもらえるであろう。すべて、求める者は得、捜す者は見いだし、門を叩く者はあけてもらえるからである」。何のことでしょう。人が生きるうえでの何か一般的な処世訓が語られている、わけではありません。当って砕けろ式の楽天的な楽観主義の何か、でもありません。聖書が指し示す神さまについてこそ語り、神に祈り求めつつ生きてゆくことの本質について、ここで語られています。「求めなさい。そうしさえすれば、誰でも分け隔てなく、きっと必ず与えられる」。この私たちに対する、神さまからの約束です。不思議なことに、ここではもはや、「しつこく求めなさい」とは命じられていません。「ていねいに根気強く、注意深く、必死に真剣に捜せ」とか「ドアが壊れるほど、手が傷ついて血が吹き出すほどに門を叩きつづけよ」などとは命じられていません。誰でも、求めさえすれば、きっと必ず与えられる。なぜなのか? 捜しさえすれば見つかる。なぜか? 門を叩きさえすれば、ドアは広く開かれて、あなたはきっと必ず迎え入れてもらえる。なぜか。求める者は受け取る。捜す者は見つけ出す。門を叩く者には、必ずきっとドアが開かれ、迎え入れられる。どこの誰であっても、どんな生い立ちのどんな暮らしぶりの何をしているどんな人であっても、なんの差別も区別もなく無条件でそうしてもらえる。
 本当のことでしょうか。一体なぜでしょう。9-11節。神さまの側に、その理由があったのです。どんな神さまなのかを知らせようとして、その参考例として、ここで人間の親子の関わり方が述べられます。もちろん現実には、様々な親がおり、多種多様の親子関係がありえます。心優しい、本当に子供のためを思って誠実に懸命に子供たちを養い育ててきた立派な親たちがいます。皆さんも、そういう親たちの1人であるかも知れませんね。また逆に、「あれは、ちょっとどうだろうか」と首を傾げてしまうような、ふつつかで未熟で、いたらない親たちもいるでしょう。親であることは大変なことです。子供を精一杯に愛したいと願いながら、その愛が空回りしてしまったり、良かれと願ってしたことで、かえって子供を傷つけたり苦しめたりしてしまう親もあるでしょう。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(11)と少し辛口で皮肉っぽく告げられて、正直な所、私たちの心は痛みます。あなたの父さん母さんはどんな親だったでしょう。もしあなたに子供がいるとすれば、あなた自身は、どんな親でしょうか。けれど、ここでは、私たち人間の親子関係を参考にしながら、なお神さまご自身と私たちのことをこそ思い巡らすのです。たとえ未熟で独りよがりでとても悪い親であったとしても、なんとかして、せめて自分の子供には良い物を与えたいと心から願う。それが親の心です。まして、私たちの親であってくださる真実な神さまは、子供である私たちに良い物をきっと必ず与えてくださる。なぜそうなのかと言えば、喜びと辛さを分かち合って共々に生きてきた自分の子供だからです。どんな子供か、「親の言うことをよく聞き、手伝いをし、ほがらかに挨拶ができる素直な明るい良い子だから」というのではなく、よく聞いても聞かなくても、手伝いをしてもしなくても、たとえブスッとふて腐れていても、なんだかすねて僻みっぽくても、素直でもあまり素直でなくても、なにしろ自分の子供なので。神さまは、そのように、私たちをご自分の大切な子供として取り扱ってくださる(申命記8:5,ルカ福音書15:20-24,ローマ8:14-16,ガラテヤ4:5-7)
 あなたにぜひ与えようとして、すでに天の父は準備万端であったのです。あなたに見つけ出させようとして、天の父は、救いへと至る道と、神を知る真理と、朽ちない生命を用意し、あなたの鼻先に差し出して、「さあ、どうぞ」と準備万端なのです。あなたが神の国に至る門をノックするのを、今か今かと、ワクワクしながら待ち構えて、天の父はすでに準備万端なのです。この人も求めてくれればいいのに。この人も、ほんのちょっと顔をあげて見回し、捜してみればいいのに。門の前に立ち止まってノックをしてみようかという気になってくれればいいのに。一歩踏み出して、玄関の中に入ってみればいいのに。だからこそ教会の玄関脇の案内板には、「だれでも自由に来てみてください」と毎週毎週書いてあります。天の父は心から願っておられます。求めてほしい。探してもらいたい。ぜひ、あの人にもあの人にも、門を叩いてみる気になってもらいたいと。求めてくれさえすれば、すぐにでも与えられる。ほんのちょっと捜してみるだけで、誰でもすぐに見つけることのできる場所に置き、教会の屋根の上にも、どこの誰が見てもそれとすぐ分かるような、白い十字の、はっきりとした目印が掲げられてある。その門は、小鳥の羽根のように軽いのです。体の弱った病人でも簡単に通ることができるように、赤ちゃんが小さな指先で軽々と押し開けることができるように、それくらいフワリと軽やかに作ってあります。本当です。どうぞ、まず一回試してみてください。

  そういえば、この神さまは最初からずっとこんな調子でした。こんな調子で呼びかけつづけて来られました。「さあ渇いている者はみな、水に来たれ」「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい」(イザヤ55:1,黙示録21:6,22:17,マタイ11:28-)。そして、「求めよ。捜せ。門を叩け」。それは、いつもの同じ歌の1番の歌詞と2番の歌詞と3番目の歌詞のようです。4番、5番、6番の歌詞がこの後につづくとしても、それでもやっぱり僕たちはこの同じ一つの歌のメロディーをよく知っています。この歌の題名と、なにより歌の心を、僕たちはよく知っています。《慈しみ深い神。気前のよい神。わたしたちを愛して止まないあわれみと真実の神》という題名でしたね。
 この神さまはよい井戸の持ち主で、冷たくておいしい水をたっぷり持っています。しかも荒れ野をゆく旅人たち一人一人のことを心にかけていてくださいます。旅人たちの空腹とノドの渇きと疲れに、あの井戸の持ち主は、まるで自分のことのように胸を痛めます。その重荷と困難とに、自分自身のことのように心を砕きます。もしかしたらその順序は逆だったかも知れません。つまり、先に井戸を持っていて、やがて旅人の身を案じはじめたのではなく、荒れ野を行く旅人たちのことを心にかけるあまりに、それで、あのお方は、わざわざ井戸を掘ったのかも知れません。水を飲ませてあげるために。冷たくてうまい水をぜひ飲ませたいと願って。荒れ野をゆく旅路は長く困難でした。日射病や熱中症にかかって倒れてしまうんじゃないだろうか。弱り果てて気力もなえ、心も挫けて、とうとう行き倒れになってしまうんじゃないか。あの方は、旅人たちの前途多難を思って、水を飲ませよう休ませてあげたいと、準備万端ととのえて待ち構えておられます。あなたはノドがカラカラに渇いているのだろう。とても空腹で腹をすかせているだろう。水のところに来なさい。あなたは疲れ果ててしまっただろう。背負いつづけてきた荷物のあまりの重さに、あなたはもう耐え切れないだろう。ここに来なさい。休ませてあげるから。誰でも来なさい。来て、生命の水を求めなさい。井戸の持ち主は、あるとき、ひとつの決断をしました。「旅人たちが穀物をたっぷりと食べ、満ち足りるまで安心して水を飲み、魂に命を得るために、そのための代価を私自身が支払おう。旅人たちを休ませ、養い、良い物で満ちたらせ、必要な物をすべて受け取ることができるための代価を、私自身がすっかり全部支払おう」。その決断のとおりに支払われました。すべての旅人たちのための、ずいぶん高価な代価が、十分に、すっかり全額支払われました。私のためにもすでに支払っていただいてある。あなたのための代価も、すでにすっかり支払っていただいてある。ずいぶんと高額な代価でしたが、十分にすっかり支払われてあります。ご存知でしたか。だから兄弟たち。「金も銀も何一つ持たない者であっても誰でも皆、水のところに来るがよい」と招かれるとき、私たちは思い起こしましょう。「遠慮なく、何の気兼ねも恐れもなく穀物を求めて食べよ。値を支払うことなく求めて、得よ」と約束されるとき、私たちは思い起こしましょう。「何の差別も区別もない。ただ恵みにより無償で」(ローマ3:24)と招かれるとき、思い起こしましょう。そのために、いったいどなたが、どんな価を支払ってくださったのかを。
 12節「これが律法であり預言者である」と断固として宣言されています(⇒旧約聖書を「律法と預言者」、もしくは「律法と預言者と諸書」などと一般に呼び慣わしてきた。旧約聖書だけでなく、聖書全体の本質がここで告げられている)。これが、聖書66巻の全体がずっと語りかけつづけてきた飛びっきりの真実である。では、質問。「求めなさい。捜しなさい。門を叩きなさい」と私たちに語りかける神さまは、私たちにぜひそれをしてもらいたいと渇望しておられるのです。もし、《求めてほしい。捜してほしい。門を叩いてほしい》と私たちに願っているのでしたら、じゃあ、その神さまご自身は、いったい何をなさるでしょう? ヒントを一つ。12節、「人々からしてほしいと望むことは人々にもそのとおりにせよ」。――神ご自身こそが私たちを求め、私たちを捜し、私たちの魂の門を叩くのではありませんか。いいえ、現に神さまは求めつづけ、捜しつづけ、私たちの魂の門を叩き続けてこられたのでした。与えられたい。見つけ出したい。門を開けて、中に入れてもらいたい。それは実は、神ご自身のための願いだったのです。私たちを捜し求めるあまり、神は近づいて来られました。どんどんどんどん近づいて来られました。身をかがめ、低く低くくだって、私たちの低く貧しい生活の只中へ降りてきてくださった。神であられることのその身分も尊厳もご自分の生命さえ取るに足りないものとし、無にし、すっかり投げ捨ててくださった(ピリピ2:6-)。そのように私たちを求め、私たちを探し、私たちの門を叩きつづけてくださった。私たちの主なる神さまは、こういう神さまです。あなたのための支払いは、あの最初のクリスマスの夜に始まりました。神の独り子が泊まる場所もなく家畜小屋のエサ箱の中に裸で生まれてくださったのは、あなたのための支払いでした。召使いの身分になり、罪人の一人に数えられ、見捨てられ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、身ぐるみ剥がされてくださったのは、あなたのための支払いでした。「十字架から降りて来い。他人は救ったのに自分を救うことはできないのか」と馬鹿にされ、あざけられ、ついに十字架につけられ、てのひらと足の甲に太いクギを打ち込まれ、ヤリで刺され、苦しみと痛みの中で死んでいってくださった。それは、あなたのための支払いでした。三日目に復活し、今もこの独りのお方があなたの家の門を叩くのです(黙示録3:21)。「あなたのためにさえ、罪のゆるしと救いのための代価が十分に支払われ、すべてすっかり支払われてある。だから、あなたは」と。
 だから今こそ本気になって、あなたは求めなさい。小さな子供が宝捜しをするように、心躍らせてワクワクしながら、あなたも捜しなさい。晴れ晴れとして門を叩きなさい。コンコン、コンコンと。そのように、あなたも、今や主イエス・キリストの恵みによって支えられて生きることができる。あなたの救いのためにも価が支払われてある。こうして、《求めよ。捜せ。門を叩け》という祈りの教えは、信仰をもって私たちが生きることの教えであり、生きることそのものについての主ご自身からの教えです。主イエス・キリストの恵みと平和を、私たちは求めることができ、きっと必ず与えられる。捜しさえすれば、きっと見出し、きっと必ず受け取る。主の保護と支えに自分自身をますますゆだねることを、私たちは求めることができ、きっと与えられる。毎日のごく普通の生活の只中で、朝も昼も晩も、主なる神さまご自身の慈しみと真実を捜して見つけ出せる。ならば、そうであるなら私たちも、「天におられます私たちの父なる神さま」と呼ばわりながら、期待に胸を弾ませ晴々として門を叩きましょう。コンコン、コンコンと。主への感謝と信頼と願いの中に、主イエスの恵みの真っ只中に生きる私たちであらせてくださいと、心安く、晴れ晴れとして、門を叩きましょう。天の父に向かって叩きつつ、捜しつつ、求めつつ、私たちは生きるのです。なんという恵み、なんという幸いでしょう。