2016年3月9日水曜日

3/6こども説教「谷、山と丘、そして曲がりくねった悪い道を」ルカ3:1-6

 3/6 こども説教 ルカ3:1-6
 『谷、山と丘、
そして曲がりくねった悪い道を』
              ~洗礼者ヨハネ.(1)

3:1 皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち
「荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。
5 すべての谷は埋められ、
すべての山と丘とは、平らにされ、
曲ったところはまっすぐに、
わるい道はならされ、
6 人はみな神の救を見るであろう」(*)。   (ルカ福音書 3:1-6)

  洗礼者ヨハネの働きを、今日から3回に分けて読み味わっていきます。2節に、「神の言葉が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」と書いてあります。神さまの言葉が、ヨハネのところにやってきて、ヨハネはその言葉と出会いました。それで彼は、神の言葉をみんなに知らせ始めました。預言者たちの働きは、いつもこのようになされていきます。神さまから命じられたとおりに、神さまから知らされたとおりに、そのまま伝えていくのです。主イエスの弟子たちも皆そうでしたし、キリストの教会と一人一人のクリスチャンたちもまた、この同じ預言者の働きを与えられて生きてゆきます。「ザカリヤの子ヨハネ」にその働きが与えられたこともまた、神さまからの約束の通りでした。お父さんのザカリヤが神殿で働いていたとき、神さまの使いからその知らされ、生まれてくる子供の名前を「ヨハネ」と名づけなさいと命じられていました(ルカ1:5-23参照)。ヨハネという名前は、『主は憐れみ深い』という意味でした。
  やがて来られる救い主イエスを皆が迎え入れて信じて生きはじめるための準備を、洗礼者ヨハネはしました。3節に、「罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」と書いてあります。罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝え、その洗礼をヨルダン川で施しました。救い主がこの世界に来てくださったことも、ヨハネの働き一つ一つも、あちこちにキリストの教会が建てられクリスチャンたちが一人また一人と生み出されつづけていることも皆、ただただ主なる神さまの憐れみ深さの現れです。罪のゆるしを得させるための悔い改めの洗礼。罪は、神さまにも人間たちにも逆らいつづけ、「いいや私が私が」と頑固になって、強情を張ることでした。そのおかげで自分自身もまわりの人たちも苦しんだり困ったり惨めになったりしますから、自分を捕まえていたその「罪」から逃げ出させていただいて、罪のいいなりにされない人間になりたい。罪の言いなりにされるのではなく、神さまの御心に素直に従って生きる私たちとされたいのです。どうやって? 神さまが、それをしてくださいます。「悔い改め」は、そのために自分の心や普段の在り方を神さまへと向け返すことです。罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を受けたクリスチャンは、その洗礼の日から生涯死ぬまでずっと、毎日毎日、自分の心や普段の在り方を神さまへと向け返しながら生きることになります。それは、晴れ晴れとした、とても素敵な人生です。4-6節で、洗礼者ヨハネは預言者イザヤの言葉(イザヤ書40:3-5を皆に思い起こさせました。低くて薄暗い谷間、思い上がって自惚れてしまった山と丘、そして曲がりくねった悪い道。いったい誰のことが語られているでしょうか? 何か心当たりがありますか。それは、神さまにもまわりの人たちにも逆らいつづけて、「いいや私は私は」と頑固に強情を張る私たちの姿です。救い主イエスが、私たちのところへも近づいてきておられます。迎え入れるための道をまっすぐに、平らにしておきたいものです。ねえ。低い谷のようだったあなたもその低さやウジウジした気分を埋めてもらい、山と丘のように自惚れていたあなたも平にされ、道がまっすぐに平らにならされて、そのように神さまの救いを見て、手にして、それをつくづく味わいながら毎日の暮らしを生きることができたら、どんなに幸いでしょうか。神さまが、この私たちのためにも、それを必ずきっと成し遂げてくださいます。


       【割愛した部分の補足】
(*)4-6節「主の道を~」;イザヤ書40:3-5からの引用。しかも山や丘を削り、谷を埋め、狭く曲がりくねった悪い道を広く、まっすぐにする工事は、私たち人間の心の歪みと闇の深さを見据えている。それらの取り組みは、しばしば人間の手に余る。むしろ神さまご自身にしか十分には成し得ないだろう。イザヤ書はまた、「目の見えない人をまだ知らない広々とした道に行かせる」「海の中に大路を設置し、荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる」(42:16,43:16-19)とも予告する。神と人とがそのように心を通わせ合い、人がその祝福と恵みのうちに行き来するための道を、主なる神ご自身こそが備え、神ご自身がその道自体となってくださった。やがて来られた救い主は仰った、「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ福音書14:6-7)と。つまり、主イエスというただ一筋の道を通るなら、誰でも必ず天の御父のみもとに辿り着ける。主イエスという真理に聴き、主イエスから学ぶなら、十分なことを知り、主イエスから受けるなら格別な生命を生きることになる。これが、救い主ご自身からの約束である。

 

 ○とりなしの祈り

 慈しみ深い主なる神さま。
 先祖と私たちは、かつてエジプトの国で奴隷にされていました。夫に先立たれた未亡人のようであり、親から引き離された心細い子供のようであり、遠い外国に出稼ぎにきている労働者のようでした。あなたが、そういう私共を憐れんで、奴隷の家から連れ出して自由な者としてくださいましたことを感謝いたします(出エジプト22:21-27,23:9,申命10:18-19,10:17-18,67:5

  神さま。あの東日本震災からもうすぐ5年の年月が過ぎ去ろうとしています。けれど復興はなかなか進みません。原子力発電所事故も収束するためにはあと何十年もかかり、あまりに有毒で危険な放射線汚染水が地面へ、空気中へ、海へとこの5年間タレ流されつづけています。仮設住宅で避難生活をしつづける人々がおり、また、体も心も蝕まれるとても危ない有害な環境の中で、けれど止むを得ず暮らしている人々がいます。まるで植民地のように踏みつけにされ、ないがしろにされつづけ、アメリカ軍の基地のほとんどを無理矢理に押し付けられつづける沖縄の怒りと惨めさと悲しみとを、どうか神さま、私たち自身の怒りと惨めさと悲しみとさせてください。また他にも置き去りにされ、片隅に押しのけられ、不自由な暮らしと恐れと心細さの中に忘れ去られようとする人々がこの国にも大勢います。認知症の老人、精神障害者とその家族、子供を懸命に養い育てている若い親たちを、神さま、顧みてください。ほんのわずかな人々がぜいたくで快適な暮らしを楽しんでいる一方で、多くの人々が毎日の暮らしや食事にも困るような貧しさにあえいでいます。劣悪で過酷な労働条件の中で、使い捨てのようにして働かされ、踏みつけにされている人たちとその家族がいます。日本で暮らす多くの外国人たちもそうです。彼らを憎んで押しのけようとする人たちから、その人々を守ってください。生きるための基本的な権利をその人たちが奪い取られないように、どうか助けてください。しかも私たちは、しばしば気づかないフリをしています。自分自身と家族のことばかりに目を向け、その人々の惨めな暮らしに目も心も塞いでいます。自分自身のように隣人を愛し、思いやり、尊び、それゆえ貧しくされ、惨めにされ、身を屈めさせられたその隣人たちに慈しみの手を差し伸べる私たちとならせてください。世界中のすべての生き物たちが、はなはだしい苦難の只中に据え置かれつづけています。主よ、どうか私たちを憐れんでください。救い主イエスのお名前によって祈ります。アーメン