2016年3月23日水曜日

3/20「狭い門から入れ」マタイ7:13-14

                みことば/2016,3,20(受難節第6主日の礼拝)  51
◎礼拝説教 マタイ福音書 7:13-14                 日本キリスト教会 上田教会
『狭い門から入れ』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。                                     (マタイ福音書 7:13-14)


主イエスご自身が語りかけます。13-14節。「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。狭い門、細い道と言いながら、しかしその実態としては私たち人間が普通に思い浮かべる「狭さ」や「細さ」とはずいぶん違っています。例えば一流学校や一流企業などとは違って、もし入りたいと願う者なら、入りたいと願いさえすれば、格別に優秀でなくても、ごく普通の、どこにでもいる誰でも入ることがゆるされます。しかも救い主イエスは、すべての人を、何の分け隔ても区別もせず、無条件で、しかもただただ恵みによってだけ招いておられるのですから。では、どういうことでしょうか? 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。――けれど中身をお伝えしましょう。その狭く見えた門と細いかのように思えた道の先に待ち構えているのは、神の国です。その門も、その道も、救い主イエス・キリストご自身です。主イエスは仰いました。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(ヨハネ福音書10:7-9,14:6-7。主イエスという名前の門を通って、私たちは入りました。主イエスという名前の門から出たり入ったりして、私たちはこの門の足元で美味しい牧草に朝も昼も晩も、ありつきつづけています。しかも主イエスという名前のただ一本の道を、この私たちも歩いてきました。今も、これからもそうです。あなた自身にとって、その門は狭くて、入りにくかったですか? 確かに。肩肘張って、「私こそは。俺様は」などと肩で風を切って偉そうに、ふんぞり返って歩いていたときには、門の高さも幅も狭すぎて、あまりに窮屈で、なかなか入れませんでした。身を低く屈めて、肩もすぼめて、ごく普通のどこにでもいる小さな人々の一人にならなければ、それよりもなんと 大きな大人物の大人であることをきれいさっぱり止めて、小さな小さな子供のようになるのでなければ、その狭い門は誰にも決して入ることができなかったのです。道も案外に細かった。だって、一人につき一人分の道幅しかありませんでした。混み合っているときの電車の座席のようでした。二人分、三人分も幅を利かせて、横の座席に荷物をいくつも載せていては、駅員さんに「申し訳ありません。他の乗客の方たちのために席を詰めて座っていただけますか。荷物は足元か、網棚に置いていただけないでしょうか」などと礼儀正しく指導を受けました。で、その歩き具合はいかがでしたか。細くて凸凹で、イバラも生い茂る、とても歩きにくくて困難で苦労の多い道でしたか。さあ、どうでしょうか。
  「狭くて低くて小さくて薄汚れていて」などと、その門と道について不平不満を漏らす人々も大勢います。「細くて凸凹でイバラも生い茂る、とても歩きにくくて困難で苦労も多くて。ああ、嫌だ嫌だ」と渋い顔をする人たちも大勢います。けれど不思議なことに、別のほんの少しの人たちにとっては、広々した平らな、歩きやすい道でした。「ずいぶん苦労して捜してみたんだけど、なかなか見つからなくて。どこにもなかった。目印もなかった。どこかに隠して、見つからないようにしてあったんじゃないかな。それで仕方なく諦めた。いやあ、残念だった」などと言う人々もいます。ええっ? おかしいなあ。そう言えば、主イエスご自身が仰っていました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ福音書 7:7-8。先週お話したばかりですけれど、求めさえすれば誰にでも与えられる。捜しさえすれば、誰でも必ずきっと見つけることができる。門を叩きさえすれば、しかも拳が傷ついて血が出るほどにガンガンガンガンとではなく、「こんこんこんこん」とノックしさえすれば、必ずきっとドアを開けてもらえるし、ちゃんと中にいれてもらえる。なぜ? そういう神さまだからです。
 では、なぜ、狭く低すぎるように見えたのか。なぜ、細くて苦労が多くて困難なように思えたのか。私たち人間のほうが区別をし分け隔てをし、選り好みをしつづけ、しばしば心がとても頑固であるからです。「~でなければならない。~であるはずなのに」と思い込んで、ついつい意固地になるからです。自分自身と周囲の人間のことばかりクヨクヨと思い煩い、そのおかげで、神さまを思う暇がほんの少しもないからです。案外に負けん気も強くて自尊心もとても高くて、自己主張と我が強すぎるからです。あるいは世間様を恐れて、「人からどう思われるだろう。どう見られるだろうか」などと、とても臆病になって人間たちを恐れていたのかも知れません。そうした人間的な人間中心のモノの見方・考え方にとって、主イエスの教えはとてとても狭く、低く、細すぎるように見えました。苦労も多く困難で難しくて、そのわりには喜びも少なすぎるように見えました。だって、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒4:19などと涼し~い顔をして平気で、また本気で、言い出すのですから。この格別に幸いな道は、なんと驚くべきことに、神さまへの服従の道だったのです。この信仰について、ごく表面的に聞きかじった人々は「キリスト者の自由。キリスト者の自由という。自由にしていていいんだと思ってました。ありのままの自分でそのままで愛され、そのままで招かれた。今までどおりに生涯ずっと、自分の思い通りに好き勝手に生きていていいんだと教えられてきました。え? 違うんですか」と驚きます。キリスト者の自由は、『神さまの御心にこそ従う。だから、神さま以外のもののさまざまな束縛や隷属から自由にされること』。それは神への服従と一対だったのです。そのままのあなたで愛され、招かれました。その通り。けれど、罪深いまま、心が頑固で身勝手で意固地なままでよいはずがない。しかも、それでは幸せになどなれるはずもない。神さまの御心に素直に従って生きる新しい自分になることができる。よい働きもできる。そこにクリスチャンの希望があります。そこにこそ、よくよく目を凝らしましょう。兄弟姉妹たち。命に至る門が開かれ、その道を見つけ出し、その道を私たちはすでに歩き始めています。もうずいぶん長く歩いてきました。イエス・キリストという名前の門であり、イエス・キリストという名前の道です。イエス・キリストという名前の命です。心を惑わされてはなりません。そのただ一つの門を出たり入ったりして、その足元でよい牧草にあずかりつづけてきました。そのただ一つの道を歩いていますので、必ずきっと御父のもとへと私たちはたどり着き、格別な真理を学び取り、格別な生命にもあずかりつづけます。
 例えば復活の主イエスがペテロに、「私を愛するか。愛するか、愛するか」と三度問いかけ、その上で「私の小羊を養いなさい。私の羊を飼いなさい。その世話をしなさい」とお命じになったとき、さらにつづけてこう仰いました。「『よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう』。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」(ヨハネ福音書21:18-19。行きたくない所へも無理にも連れていかれる。そこには二重の意味が込められていました。(1)ペテロがやがてそのように殉教の死を迎えることになる、という予告でもあります。けれどそれを超えて、(2)すべてのクリスチャンはペテロのように生きてゆきます。若かった時、つまりこの神さまを信じていなかったときには、私たちの誰もが自分の思うままに生きていた。行きたいところへ行き、行きたくないところへは行かず、やりたいことをし、気が向かないことはしなかった。自分のための主人は自分自身だったからです。けれども主イエスを信じる信仰を贈り与えられて、信じて生きはじめてからは、この私たちは、主なる神さまによって囚人の帯を結びつけられ、主なる神さまによって行きたくない所へも連れて行かれ、気が向いても向かなくても、なにしろご主人から「せよ」と命じられていることをし、「してはならない」と戒められていることをしないでおく。伸ばした手を紐で結ばれ、その手綱の紐を主なる神さまに握っていていただいて、主なる神さまによって引き回されて暮らしていくのです。このことは、はっきりと覚え、魂によくよく刻んでおかねばなりません。また別のときに主イエスは仰いました。まったく同じ中身ですけれども、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:28-30。休ませてあげよう、と招かれました。背負っている重い荷物をおろさせてあげよう。その重い荷物をおろして、その代わりに主イエスの荷物を運びなさいと。そっちはただただ重くて疲れて、骨折り損のくたびれ儲けなだけだけれど、わたしの荷物はとっても軽いから。わたしのくびきを負いなさい。わたしのくびきは負いやすいからと。『くびき』は、荷車を引いたり農耕に用いられる牛や馬の首にかけられる道具です。そこに手綱が結えられ、その手綱を主イエスが握ります。つまり、主イエスのものである私たちは牛や馬として用いられ、農耕の牛や馬として扱われ、荷車を引かせたり、畑を耕させたりします(*)。なにしろ主イエスが手綱をしっかり握って、私たちを引き回して働かせてくださると仰るのです。そのように主イエスに導かれ、主イエスに従って働く日々こそが、格別な幸いであり、平安であるからと。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。この約束を信じました。降ろさせていただいた重い荷物は、「私は私はと肩肘張って強情になる」という荷物でした。「あの人がこう言った。この人たちはこう考えているらしい」と周囲の人々の顔色や空気を読みつづけて、人様と世間様の気に入ってもらえる自分でなければというあまりに重すぎる荷物でした。「気が向く。向かない。虫が好く好かない」などと自分の腹の思いの言いなりにされて、その奴隷のように従わされて生きる、自己中心のワガママ勝手な重い荷物でした。神様のことなんかほんの少しも考えない、ただただ人間と自分自身のことばかり思い煩いつづけるあまりに生臭すぎる荷物でした(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19,マタイ福音書16:23参照)。たから私たちはたびたび疲れ果てました。たびたび途方に暮れました。その重い荷物はただただ骨折り損のくたびれ儲けで、ちっとも私たちを幸せにしてくれませんでした。そんなつまらない、ただ虚しいだけの荷物を背負って歩き回っていることこそが、私たちの不幸せの理由でした。
  今まではずっと悪い夢を見て、うなされていたようです。やっと目が覚めました。ああ、良かった。ついにとうとう、ただ重くて疲れ果てるだけの虚しい荷物を下ろすことができて。その代わりに主イエスご自身からの軽~い荷物を担わせていただけて。主イエスのくびきを負わせていただき、主イエスご自身が私たちの手綱を握ってあちらこちらへと連れ回してくださって。主イエスにこそ学ばせられ、主イエスにこそ聴き従って生きる道へと捕え移していただけて。ああ、そうだったのか。それで、そのためにこそ神さまを信じて生きることをし始めたのか。なんという幸いでしょう。なんという恵みでしょうか。
 
            【割愛した部分の補足】
(*)「わたしのくびきを負い、わたしの荷を運べ」マタイ福音書11:28-30。「私たちが農耕用の牛や馬にたとえられるのは不愉快だ。家畜扱いするとは」などと感じる人々は多いでしょう。習い覚えてきた近代的精神が、そう感じさせます。主体的であるようにと勧められ、理性と自我が重んじられ、人であることの尊厳が強調されました。それには良い面もありましたが、あまりに肥大した自己意識と理性尊重は信仰の領域では私たちを思い上がらせ、『神中心の考え方』から『人間中心の考え方』へと私たちの思いを引き下げさせました。エルサレム入城の際の子ロバの出来事を思い起こすことができますか? マタイ福音書21:1-11。主イエスを背中に乗せた、あの子ロバ。あれがクリスチャンの一つの基本形です。『キリストを背に乗せて運ぶ者』;それがクリスチャンの根源的な本質でありつづけます。あなたや私をも、農耕用の牛や馬として、また子ロバとしてお用いになる。なんという光栄でしょうか。