2022年3月28日月曜日

3/20こども説教「祝福してくださるまでは」創世記32:23-32

3/20 こども説教 創世記 32:23-32

 『祝福してくださるまでは』

 

32:23 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。25 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。26 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。29 ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。30 そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。31 こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。32 そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。                                  

(創世記 32:23-32

 

 

  【こども説教】

 ヤコブは、父が兄エサウに与えようとした神からの祝福を横取りして、自分のものとしました。兄エサウにとても憎まれて夜逃げをして出ていきました。それから20年たって、兄エサウが待つ故郷に戻ってきました。ヤコブはとても心細くなり、怖くなりました。兄エサウのことを恐れたのかも知れません。あるいは、何か恐ろしいことが起こるかも知れないと、なんとなく何かを恐れたのかも知れません。しかも、石を枕にして眠ったあの夜、彼はとうとう神を信じはじめたのですし、神ご自身からの御言葉と、神の祝福を、はっきりと受け取っています。もし神を十分に信じているなら、エサウであれ、どこの誰であれ、誰をも恐れる必要もありません。何が起こっても大丈夫です。 

 ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。人間のふりをして、神ご自身がヤコブと夜通し、つかみ合いの闘いをします。26節、ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。神からの祝福がどうしても欲しい、とヤコブは願いました。もし、すでに与えられていた神からの祝福を失ってしまうなら、自分は生きていけないと心から思いました。何があっても神からの祝福を掴んでいたい。神にしがみつくようにして、「祝福してください。祝福を、祝福を」と神にこそ求め続けています。そのように生きることができるなら、その人は幸いです。

 

 

 【大人のための留意点】

 イスラエルの民の中から、やがてあのお方が登場して来られました。本当の意味で神と格闘なさったお方、まことの『イスラエル』として、ゲッセマネにおいて、夜、神と格闘なさったお方が。そのお方は十字架上の戦いを忍ばれました。そして、勝利なさいました。世のために勝利なさいました。われわれのために勝利なさいました。次いで、そのお方は、ご自身の全権を託した者たちを派遣なさいました。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、彼らにバプテスマ(洗礼)を施せ」(マタイ福音書 28:19

ご自身のイスラエルとして、そのお方は弟子たちを諸国民のもとにお遣わしになります。いまや我々は、ひとりの、神との格闘者イエス・キリストを信ずる信仰によって、神との格闘者であるのです。この独りのお方は悪魔と力を競われました。そして、勝利なさいました。このお方は死と対決なさいました。そして勝利なさいました。……けれども、キリストが世の救いのために戦って勝利をおさめられたということは、決して、我々が手をこまねいていてよいということを意味しません。キリストの勝利を信ずる信仰によって、我々はイスラエルとなるべく、すなわち神との格闘者となるべく召されているのです(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)