2022年3月15日火曜日

3/13(改題)『十字架を無理に担がせられたクレネ人シモン』ルカ23:26-31

      みことば/2022,3,13(受難節第2主日の礼拝)  362

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:26-31            日本キリスト教会 上田教会

(改題)『十字架を無理に担がせられたクレネ人シモン』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:26 彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。27 大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。28 イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。29 『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。30 そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。31 もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。ルカ福音書 23:26-31

 

9:22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」。   ルカ福音書 9:22-25

 

2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。(エペソ 2:1-3)

救い主イエスは不法な裁きを受け、十字架につけられて殺されることになりました。祭司長と律法学者たちと、大勢の群衆がそれを望み、ローマ総督ポンテオ・ピラトがこの判決を決めました。しかも、なによりも神ご自身の救いのご計画の中で、このことはあらかじめ、神ご自身によって定められていました。恵みに価しない罪人と、この世界と、神によって造られたすべての生き物たちを神の祝福のもとへと連れ戻すためにです。十字架をイエスに代わって無理に担がせられたシモンについては、最後に触れます。

27-31節、「大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」」。十字架の死が待ち受ける丘へ向かって歩んでいく救い主イエスのために泣く女性たちに向かって、主イエスは、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と語りかけます。終わりの日の前に、苦しみと悩みの時が用意されています。小さな子供をもつ母親は、その子供たちに、毎日の食事や飲み物や衣服や住居、いのちの安全、幸いな日々を十分には与えてやれず、子供たちと自分自身のために嘆き悲しみ、激しく涙するときが来る。母親がそうであれば、もちろん家族皆が共々に嘆き悲しみます。この教会でも、ウクライナ支援のために募金を募りはじめました。ウクライナ、ミャンマー、アフリカ、アジア、中東のいくつもの地域で、はなはだしい苦難が人々を襲っています。男も女も、若者も、年配の方々も小さな子供たちも、いのちの危険にもさらされつづけています。救い主イエスが十字架にかけられて殺されるその50年後に、エルサレムの都はローマ帝国軍に包囲され、きびしく攻め立てられ、都の狭い城壁の中に籠城する人々は、食べ物にも不自由し、飢えと疫病にもさいなまれて、大勢の人々が無残な死を遂げました。旧約時代にもバビロン帝国に攻め立てられ、1年半の籠城の末に都が落とされるまで、同じようなことが起こりました。

この私たちにも、苦しみと悩みの日々が来ようとしています。

しかもなお、救い主イエスのもとには憐みがあります。ゆるしと、慈しみがあります。「主に感謝せよ。その慈しみはとこしえに絶えることがない」(詩136:5と語られるとおりです。しかもなお、心を頑なにしつづけて悔い改めることをしない者たちには、神ご自身による裁きが用意されています。よこしまでありつづけ、心を頑固にしつづける者たちには、神の怒りが及びます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28と招く救い主イエスは、同時に、「もし悔い改めなければ、その人は滅びるほかない」(ルカ13:1とはっきりと語りかけつづけます。クリスチャンも同様です。だからこそ日毎に悔い改め、終わりの日に備えながら、救い主イエスが来られる日を待ち望みつづけます。

 

さて26節、「彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた」。このクレネ人シモンについて、マルコ福音書は「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた」15:21と報告しています。彼の子供たち、アレキサンデルとルポスとは、初代教会の中でその名前をよく知られる、主に仕える良い働き人たちとされました(ローマ16:13「主にあって選ばれた人ルポスと、彼の母とに、よろしく」参照)。しかも、このとき以前には、このシモンという人物と救い主イエスは何の関りもなかったようです。たまたま偶然のようにして彼は通りかかり、救い主イエスが背負っていた十字架を代わりに、無理に担がせられた。やがて、不思議な仕方で、私たちの思いも及ばない在り方で、彼の家族は救い主イエスを信じて生きる者たちとされました。クレネ人シモンは、この時以来、考え巡らせつづけたでしょう。なぜ、この自分が救い主イエスの十字架を代わって無理に担がせられたのだろうか。救い主イエスというお方は、どういう方だろうか。

十字架を無理に担がせられたクレネ人シモンは、十字架を担いで、主イエスの後につづいて歩いていきました。その姿は、弟子たちが何度も主イエスご自身から教えられ、諭されつづけてきた、主イエスの弟子であることとその根本的な生き方の典型的な姿でした。エルサレムの都に向かう旅時の途上で、救い主イエスはやがて待ち構えているご自身の十字架の死と復活とを弟子たちにあらかじめ告げ知らせて、この語りかけていました。「人の子(=主イエスご自身)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか(ルカ9:22-25。クリスチャンである。あるいは、主イエスの弟子であり、主イエスを信じて生きる者であるとは、このことです。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。自分に与えられた苦しみや担うべき重い荷物を、自分のための十字架を背負い、その上で、主イエスの後から、主イエスにつづいて歩んでゆくこと。そのためには、「自分を捨てて」と主イエスから直々に指図されています。捨て去るべき自分とは、自分の肉の欲望であり、かたくなさであり、自分中心の傲慢な思いです。自分を先立てつづけて、自分自身の思い通りに振舞おうとするわがままさです。

つい先週、礼拝の中の『こども説教』で、年老いたイサクが子供に神からの祝福を手渡そうとする出来事を読み味わいました。創世記27章です。父親イサクは年老いて、目もかすみ、やがて間もなく自分が死んでしまうことを悟ります。その前に、手遅れになる前に、神から受け取った祝福を子供に手渡したいと願いました。双子の兄弟エサウとヤコブが母親の胎内にいるときから、神の御使いによって、「兄は弟に仕える」(創世記25:22とはっきりと告げられていました。それが、彼らのための神の御心であり、ご意志です。けれど年老いたイサクは弟ヤコブではなく、兄エサウに神からの祝福を手渡したいと願いました。母親と弟ヤコブがその祝福を横取りする以前に、むしろ父親イサクこそが神からの、神ご自身のものである祝福を、神の御心に背いてまで横取りしようとしていたのです。一人の説教者は、「それはイサクの弱さである」と、きびしく指摘していました。「祝福を担う後継者という問題において、彼イサクは、あえて別の考えをもとうとするのです。神とは別の考えを。不思議です、本当に不思議です。そこでは何と緊密に、従順と不従順とが隣り合っていることでしょう。誰でも信仰者の生活には、一つや二つ、あるいはそれ以上の、「イサクの弱点」があるのではないでしょうか。自分の恣意(しい。その時々の思いつき。思いのままの考えや願い)のために神の御意志と張り合ってしまうという弱点が。神の御意志を排除しようとする我々の恣意は、どんな場合に働くのでしょうか。……事実上、リベカの策略は、いかにも神の祝福の担い手が思いつきそうな最大の悪行、つまり託された祝福を横領すると言う悪行から、その夫(息子たちの父イサク)を保護するという結果をもたらしているのです。最高の次元においての職権乱用から、です。リベカの罪は、神によって、イサクの救い、ひいては諸国民の救いに役立てられています(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

『イサクの弱さ』を、もちろん、この私たちもそれぞれ自分の心に根深く抱えています。弱さ。いいえ、むしろ強すぎる傲慢さであり、自分を正しいと言い張って、思い通りに振舞おうとする心。強すぎる自己主張です。自分の思いのままの欲望や願いのために神の御意志とさえ張り合ってしまうという弱点が。神の御意志を排除しようとする我々の自己中心の思いは、どんな場合に、どのように働くでしょう。神の御心に従って生きるはずの父親イサクは、その生涯の最後の最後に、最大の悪行、最高の次元においての職権乱用を犯してしまうところでした。リベカとヤコブを用いて、憐み深い神ご自身が、父親イサクをその不信仰と不従順の罪から救い出して、神の御心にこそ聴き従って生きる幸いへと連れ戻してくださいました。

エサウとヤコブの父親イサク。そして主イエスのあの最初の弟子たち、さらにクレネ人シモンと同じく、この私たちも通りかかって救い主イエスと出会いました。その出会いを積み重ねてきました。救い主イエスを信じる信仰を、少しずつ増し加えられてきました。私たちも格別な祝福の招きを聴いたのです、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」。祈りましょう。

 

《祈り》

なんでもおできになる全能の神さま。どうか、あなたの慈しみと福音の光が見える目を私たちにください。私たちは明るい日の日中でも目がよく見えないからです。「自分はよく見える。よく見える」と虚しく言い張ってしまう私たちだからです。偽りの光を捨て去らせて、あなたご自身の御言葉の光にこそ、私たちを導いてください。

 この世界に生きるすべての生き物を顧みて、憐れんでください。身を屈めさせられ、心細く貧しく暮らすものたちが大勢いるからです。食べるもの着るものにも不自由し、安心して体を休める場所も与えられない人や生き物もたくさんいるからです。

あなたのお顔に、この顔でお目にかかるその日まで、今あなたから贈り与えられています知識と、有り余るほどの恵みに、慎ましく満足していられますように。私たちを、あなたの似姿に合わせて、日毎に新しくお造りください。そして、私たちの主イエス・キリストにあなたがお授けになった完全な栄光に、この私たち自身と大切な家族の一人一人と隣人たちをも入らせてください。主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン

 

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     金田聖治
(かねだ・せいじ)

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