2022年3月7日月曜日

3/6「十字架につけろ」ルカ23:13-25

     みことば/2022,3,6(受難節第1主日の礼拝)  361

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:13-25        日本キリスト教会 上田教会

『十字架につけろ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:13 ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、14 「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。15 ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。16 だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。17 〔祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。〕18 ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。19 このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。20 ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。21 しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。22 ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。23 ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。24 ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。25 そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた。ルカ福音書 23:13-25

 

5:29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。 (使徒行伝 5:29)


まず13-17節、「ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。〔祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた〕」。救い主イエスに対する裁判が始まっています。植民地とされたユダヤにローマ帝国から遣わされてきた役人ポンテオ・ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆に向かって言いました、「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていない」と。ユダヤの国の最高責任者の口から公けに、救い主イエスの無罪が宣言されました。私たちの主イエスは、私たちの罪をあがなう捧げものとして、差し出されました。神ご自身が計画した救いのご計画のためにです。

救い主イエスの取り調べをしたローマ総督ポンテオ・ピラトと植民地領主であるヘロデが、イエスについてまったく罪がなく、責められるべき汚点も何もないと公けに宣言したことは、まったく適切です。「この方こそが世の罪を取り除く神の小羊である」と洗礼者ヨハネが指し示し、後に、弟子の一人ペテロが、「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(ヨハネ福音書1:29,36,1ペテロ手紙1:18-19と証言した通りです。

「何の罪も咎もない」と公けに言い渡されたことを、ささいな、取るに足りない事柄のように思う人々もいるかも知れません。いいえ。決して、そうではありません。何の罪もない神ご自身が、救いに価しない私たち罪人のために、その身代わりとなって、罪人の一人に数えられ、不当な裁きを受けて、十字架の上で殺されてくださり、それによってこの私たちは自分自身の罪を洗い清められたのですから。私たち人間は、いったいどうやって自分自身の罪深さを知るでしょうか。その、はなはだしい罪深さの現実を。

胸に手を当てて、心を鎮めて、よくよく思い起こしてみます。毎日の暮らしの中で、私たちは自分自身が当然すべきことをしないでいます。してはいけない悪いことを、しつづけています。まったく正しいお方である救い主イエス・キリストが、私たちの代わりに私たち罪人の場所に立ってくださり、私たちが支払うべき罪の代価を支払ってくださいました。私たちが背きつづけた神の律法の一つ一つを私たちに代わって成し遂げてくださり、神の律法の要求をことごとく満たしてくださいました。救い主イエスこそが、このお独りの方を信じるすべての罪人のための義となり、聖となり、あがないとなってくださいました(ローマ手紙10:4,1コリント手紙1:31。このお独りの方において、彼を信じるすべてのクリスチャンは律法の要求をすべて成し遂げた者とみなされ、そのように取り扱われます。救い主イエスのうちに、聖なる神の眼差しは私たちを見てくださり、救い主イエスの義の衣をまとって、私たちは神の御前に立って生きる者たちとされました。ピラトがキリストについて宣言した通りに、キリストの中にあって私たち一人一人もまた、神ご自身から、「この人には何の咎も罪も見いだせない」と断言していただけるのです。

18-22節、「ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思いました。けれど祭司長たちと役人たちと大勢の民衆もわめきたてて、「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけました。ピラトは三度目に彼らにむかって言いました、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。

23-25節、「ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた」。ローマ総督ピラトは、イエスをゆるしてやりたいと思った。けれど集まった祭司長たちと役人たちと、大勢の群衆は「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」とわけきたて、ますます激しく強く叫びつづけた。人々が、救い主イエスの死刑についての責任を自分たちの頭の上に引き受けようとして、激しく言い立てつづけているということもできるでしょう。けれど、もちろん、ローマ総督ポンテオ・ピラトの責任もまたあまりにも明白です。弟子の一人ペテロが後に、こう証言しています、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」。また別の弟子も、「ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせなかった」(使徒3:13-15,1テサロニケ手紙2:15)と証言します。神を憎み、神に逆らいつづけようとする私たち人間の性分がどれほど深く激しいのかが証言されつづけます。救い主イエスの血潮が、神を侮り、神を憎む者たちの頭の上に注がれました。それは、あのときそこに集まった群衆たちだけでなく、もちろん、この私たち自身と子供たち孫たち、子孫たち全員の頭の上にも注がれます。「神に聞き従うよりも、人間たちの声に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してもらいたい」(使徒4:19参照)と、この私たち自身も問われつづけます。

驚くべきことには、あまりに罪深く、神を侮り、神を少しも信じようとしなかった人々の上に、けれどもなお神からの深い憐れみが残されつづけています。この私たち自身のことです。

 

なんの罪もなかった救い主イエスが十字架の上で殺され、その代わりに、死刑にされるはずだったバラバという名前の一人の囚人がゆるされ、自由の身とされました。驚くべき、いのちと自由の交換が憐み深い神ご自身によって成し遂げられました。憐み深い神の眼差しの中で、一人の罪人が「なんの罪も咎もない」と認められるとき、救い主イエスの立っていた輝かしい栄光の場所と、一人の罪人が立っていた惨めな低い場所とが取り替えられました。聖書ははっきりと証言します、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント手紙5:21。私たち一人一人も、殺されるはずだったあのバラバのように、罪をゆるされ、自由の身とされました。「キリストの十字架。キリストの十字架」と毎週のように語られつづけます。けれどその中身は、いったいどういうものでしょう。「救い主イエスが私に代わって死んでくださった」と多くの讃美歌は歌います。よく考えてみますと、それは言葉足らずで、とても説明不足です。キリストが私に代わって死んだ。それならまるで、だから私たちは死ななくてよいとされたかのようです。いいえ。もし、それだけなら、その恵みはずいぶん割り引かれ、安っぽくされている。救い主イエスは私たちの罪を背負って死んでくださった。その通り。けれど、その続きがあります。墓に葬られ、三日目に復活し、天に昇って今も生きて働いていてくださり、やがて再び来てくださる。それが成し遂げられた救いの御業の全体像です。さらには、あのお独りの方が死んで復活してくださったように、この私たち一人一人もまた、古い罪の自分と死に別れて、罪に支配された体と心のあり方を葬り去っていただいて、キリストと共に、新しい生命に生きることになった(ローマ手紙6:1-,コリント手紙(1)15:1-56)。それこそが、教えられてきた福音の最も大切な中身であり、いのちの部分です。つまり、『私に代わって』ではなく『私に先立って』です。この主イエスに手引きされ、導かれて、私たちもまた古い罪の自分や古いあり方と死に別れ、それらを葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きることになる。日毎に新しく生きる私たちです。だからこそ、何にも代えがたいほどにあまりに素晴らしい。もし仮に、私が今までどおりの古い自分でありつづけるなら、そこからはどんな希望も力も生命も湧いて出てくるはずがありません。「私に代わって死んでくださった」。その意味と中身は、「このお方が私に先立って死んで、死人の中からよみがえり、新しく生きてくださった。この方に率いられて私たちも、古い罪の自分と死に別れさせていただける。キリストと結ばれ、神に対して神さまの御前で新しく生きる者とされつづける。なぜならこのお独りの方は復活し、天に昇り、御父の右に座って今も世界を治める王として生きて働いておられ、やがて再び来てくださいますから。

 

《祈り》

いのちと平和の与え主であられる神さま。救い主イエスの死と復活を私たちは覚えつづけます。私たち罪人を罪と悲惨の中から救い出すために、救い主イエスが死んで復活なさいました。ですから、主イエスを信じる私たちも、日毎に悔い改め、いよいよ古い罪の自分と死に別れて、神の御前に新しく生きる者たちとならせてください。

ウクライナとミャンマーと、アフリカ、アジア、中東のいくいつもの紛争地域で、いのちの危険に脅かされて心細く生きる大勢の人々がいます。その人々のいのちと安全をお守りください。世界中で、この日本で、私たちの周囲でも多くの人々が互いに憎み合ったり、相手を押しのけて排除したり、傷つけたり殺し合ったりしています。虐げられ、身を屈めさせられて心細く暮らす人々を、どうか憐れんでください。この私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。

神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。

主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

 


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     金田聖治
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