2017年7月10日月曜日

7/9「主イエスがそこにいる」マタイ18:15-20

 ◎とりなしの祈り
 慈しみ深い主なる神さま。
 大雨・土砂災害のために九州・中部地域に住む人々が大きな被害を受けています。どうか慰めと支えを与えてくださいますように。「親しい人々や自分の兄弟だけに挨拶をし、親切にしたところで何のよいことをしたことになろうか」(マタイ5:46-47と主ご自身から戒められている私たちですから、日本キリスト教会に属する人々のことばかりではなく、クリスチャンのことばかりではなく、他の信仰の人々や、日本に住む外国人の方々のためにも、支えの御手を伸ばしてくださいますように。また私たちの心を、その人たちの苦境へと向けさせてください。
 共謀罪法がいよいよ施行されはじめます。とても危険で恐ろしいことです。神さま。日本と私たち国民が誰に対しても力で押しのけたり、踏みつけにすることがないように健全な正しい判断力を私たちに持たせてください。この国に住むすべての人々が基本的人権を不当に阻害されることなく、不当に抑圧されることなく、思想信条の自由を十分に保障され続けますように。日本も含めて、アメリカ合衆国もヨーロッパ諸国も北朝鮮の国家も、すべての国家が公正で正しい判断力を保ち、神さまから委ねられた責任を御心にかなって果たしてゆくことができますように。世界中の多くの人々が自分たちさえ良ければそれでいいと、心を狭くさせられようとしています。私たちもそうです。北朝鮮の国家、イスラム教徒、日本に住む外国人の方々に対して、また特定の人種や民族、少数の者たちを差別する心を抱いてしまわないように、自分たちとは違う価値観や文化をもつ人々を憎んだり軽蔑したり、みやみに排除しようとしませんように、私たち皆の心を健全に保たせてください。寛大さと、へりくだった低い心とをどうか私たちに贈り与えてください。あなたが生きて働いておられますことを、今こそ堅く信じさせてください。御心にかなった歩みをしようと、私たちにも願い求めさせつづけてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                              みことば/2017,7,9(主日礼拝)  119
◎礼拝説教 マタイ福音書 18:15-20                  日本キリスト教会 上田教会
『主イエスがそこにいる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
18:15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。18 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。                   (マタイ福音書 18:15-20)
                                               



 20節の「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」ばかりを取り出して味わう人々もいます。けれど15-20節全体では、「一人の兄弟を得るため」と繰り返しています。つまずき、神から離れ去ろうとしている兄弟を神の憐れみとゆるしのもとへと連れ戻すこと。それこそが、集まって心を砕いている大きな願いであったのです。この18章全体は、主の憐れみに満ちています。冒頭で、「このような一人の幼な子を受け入れる者は、わたしを受け入れるのでる」と主イエスは語りかけます。また、「これらの小さい者の一人をつまずかせる者は」と厳しく警告します。「これらの小さい者の一人をも軽んじないように気をつけなさい。これらの小さい者の一人でも滅びることは、天にいますあなたがたの父の御心ではない」(マタイ18:5,6,10,14)。さらに今日の箇所につづいて来週の21-35節では、仲間を憐れむべきことがとても強い口調で突きつけられます。「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(32-33)と。ここで扱われる「罪を犯した兄弟」(15)もまた、その主の憐れみとゆるしの只中にこそ据え置かれます。
  一人の兄弟があなたに対して罪を犯した。どんな罪なのかは、語られていません。つまずいた結果、天の父の御心にかなわない何かをしてしまったかも知れません。あるいは兄弟の誰かをつまづかせ、道に迷わせてしまったのかも。まず二人だけのところで忠告する。聞き入れないなら、ほかに一人か二人で、その人と語り合う。それでも聞き入れなければ、教会に申し出る。それでもなお聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なす。これが教会の法律である、というのです。17節、「聞き入れなければ教会に申し出よ」。教会とは何でしょうか。牧師やキリスト教会は、いつの間にか大きくて偉そうな権威を帯びすぎてしまいます。けれど権威と力をもって偉いのは、ただただ神さまご自身だけ。私たち自身は何者でもありません。「二人または三人の証人の口によって、すべてのことがらが、確かめられるためである」(16)と書かれていました。事柄を教会に申し出なさいと命じられていることにも、少なくとも2人か3人以上の者たちで精一杯にちゃんと確かめるという意味と願いが込められていたのでしょう。けれど私たちは忘れてはなりません。その一人の兄弟は、もしかしたら罪をまったく犯していなかったかも知れないことを。むしろ彼を非難し、裁こうとしているその人たち自身にこそ重大な非があり、その人たちこそがはなはだしく罪を犯しているかも知れない。言うことを聞き入れるべきだったのは、その彼ではなく、むしろその三~四人であり、教会の側だったのかも知れません。三人四人で事柄を吟味せよ、ちゃんと確かめなさい、とはそのことです。「いや、あなたの言うことは間違っているんじゃないか」と三~四人の中の一人が気づくかも知れないと。教会に申し出よ。けれど忘れてはなりません。その教会も、その牧師も長老たちも皆そろって判断を誤ってしまう場合も大いに有りえます。それはありえます。なぜなら私たちは神の代理人ではなく、神のようなものでもなく、たかだか生身の人間に過ぎなかったのですから。だからこそ三人または四人が集まるように、三つの教会、四つの教会が集まって、事柄を吟味するのです。一つの教会や一人二人の牧師の考え方が権威と影響力をあまりに強く持ちすぎないためにです。複数の教会が集い、複数の牧師、複数の長老たちがそこに集う。そうすれば、「主イエスの福音に照らして、これはどう判断すべきだろう。あなたがたの言うことは違うんじゃないか」と、その中で誰かが気づき、誰かがその1人の兄弟の傍らに立てるかも知れません。それが、兄弟を得るための、教会の健全な考え方・やり方です(申命記19:15-19参照)
  17節。「もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」。この言葉は、私たちの心を悩ませます。「外国人または取税人同様に扱いなさい」とはどういう意味でしょう。神を知らないはずの信仰のない者。罪深い者。皆から毛嫌いされて除け者にされている者。そして私たちもまた彼らをそのよう扱いなさいと? いいえ違います。救い主イエスがそのような人々をどんなふうに扱われてきたのかを私たちは知っています。親しい大切な友だちとして扱いつづけていたではありませんか。主イエスがどんな方であるのかを、よくよく知っています。十字架におかかりになる前の最後の一週間。エルサレムの都の中で、主イエスはいくつものきわめて重要な対話を試みます。神殿の境内で、祭司長や民の長老たちやパリサイ派の人たちに向かって、こうおっしゃいます;「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31-32)。あの方は、祭司長や民の長老やパリサイ派の人々と共にではなく、取税人や外国人や娼婦の傍らに立ち続けていました。神の国への入り口として、そこに入るための《鍵そのもの》として。私たちは思い出します。主イエスが、外国人や取税人をどう思い、どのように付き合って来られたのかを、よくよく知っています。木の上に登っていた取税人のザアカイを、主イエスがどんなふうに迎え入れたのかを、覚えています。取税人たちと愉快に楽しく食事をしつづけていた姿を、覚えています。その取税人の一人をご自分の弟子として大喜びで迎え入れた場面を、覚えています。そう、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう」。「大きい喜びが天にある。喜びがある」「食べて楽しもうではないか。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(ルカ5:27-,15:4-7,10,19:1-,23-24)
  「二人または三人が私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである」(20)。主イエスがそこにおられる。これが、これこそが私たちが二~三人であれ、数十人であれ、集まることのできる根拠であり、希望です。主イエスがそこにおられる。信仰をもって生きることの悪戦苦闘と切なる願いを抱えて、生きることの辛さと喜びとを抱えて、今日この時間にも、世界中の数限りないキリストの教会に人々が集まっています。主イエスの名のもとに。また、ほんの数名が聖書を共に読み、祈りを合わせています。主イエスの名のもとに。そこに、王の中の王であるキリストが共におられます。その願い事に、耳を傾けていてくださいます。また、考え方や感じ方の違う、なんだか気の合わない人々が、苛立ちや失望を互いに感じあいながらけれど主イエスの御名のもとに集まるとき、ご覧ください、そこに主イエスが共におられます。
  キリストのものとされた私たちが集まります。その憐れみのもとに。もちろん、共におられますキリストは、ただただ共にいるばかりでなく、私たちに語りかけずにはいられないでしょう。「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのでる」と。「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は」と。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように。これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」と。それが、私たちの集まりの希望であり、祝福です。その御声を聞いて、一人の兄弟がはっと我に返るからです。「そうだった。うっかり忘れていた」と。「小さな弱々しい子供のようなあの人を、だから私たちはぜひとも受け入れよう」「彼をつまずかせてはいけない。あの人を、滅びるままに捨て置いてはいけない。だって、あの人を退け、軽んじて捨て置くことは、直ちに主イエスを退け、主を軽んじて捨て置くことになるじゃないか。『よくよく言っておくからね。よろしく頼んだよ』と念を押されていたじゃないか。私たちはそんなことをしてはいけない」と。「私たちはずいぶん憐れんでいただいてきた。許しがたいところを許され、受け入れがたいところを受け入れられてきた。私もそうだが、あなたもかなりそうだったじゃないか。それなのに、どうしてあの人を。この私たちは、あまりに不届きな悪者になってしまう」と。
  『一人の兄弟を得たことになる。一人の兄弟を得るために』。それは、キリストの十字架のもとに据え置かれた私たちにとって、なんと重い響きをもつ言葉でしょうか。そのためにキリストが何をしてくださったのかが、私たちの胸を刺し貫くからです。こんな私をさえ兄弟として勝ち取り、大切な家族の一員として迎え入れてくださるために、私たちの主はご自分の体を引き裂き、血を流しつくしてくださった。たしかに旅路を心強く歩んでいくための身支度が必要です。苛酷な戦いを生き抜いてゆくための装備が必要です。けれど、どんな? 今が出かける前の最終チェックのときです。あなたが手にしている袋と財布は、『一人の兄弟を得るために主イエスは』という袋や財布でしょうか。私たちの教会が5060年かかって用意した制度や原則やルールは、その一つ一つは『一人の兄弟を得るために、そのためにこそキリストは私たちと共におられる』という制度やルールでしょうか。何かをしたりしなかったり、何かを言ったり言わないでおくときの私たちのいつもの判断は、『なぜなら主イエスは~』という判断でしょうか。それとも、そんなこととはあまり関係がないでしょうか。種々雑多なものを山ほど抱え込んでしまった私たちです。腹の据え方にしても、ものを見るときの眼差しにしても。『一人の兄弟を得るために主イエスは』という身支度と装備以外は、思い切って、ポイと投げ捨ててしまうのです。鎧も兜も盾も槍もいりません。滑らかなスベスベの小石5個。その石を入れておくための小さな袋。石投げ紐。あの羊飼いの少年のように出ていくのです。もしそうであるならば、100人力の天下無敵の大男ゴリアテを相手にしても、私たちは決して負けません(サムエル記上17:38-47)。主は救いを賜るのに剣や槍や体面や体裁、権威、権力、良い評判などの類を必要とはされないことを全地は知る。そのとき私たちこそが、主が主であられますことを知るでしょう。救いを賜るおつもりで、だからこそ共にいてくださるのだと。
 結びの19-20節で最も重要なことは、「そこに、主イエスが共におられる」ことと同時に、それとひと組で、「天の御父に向けて願い、御父の御心にかなうかなうことが行われますようにと祈る」べきこと。また、だからこそ、天の御父こそが願いと祈りを聞き届け、きっと必ずかなえてくださるということです。そのためにこそ、祈り求めつつ生きるその人々、またその私共と共に主イエスがいてくださる。これこそがクリスチャンであることの唯一の、また最大の慰めであり、支えでありつづけます。それを見失い、手放してしまうなら、この私たちは他にはどんな慰めも支えも見出すことはできないでしょう。地上を旅する私たちの旅路は、なおまだしばらく続きます。天にも昇るような晴れ晴れした喜びのときがあり、遠い海のかなたについに辿り着いたかと思える日々があり、また、貧しく身を屈めさせられて陰府に横たわるような惨めで心細くて恐ろしくて仕方がない日々があります。その通り。けれど忘れてはなりません。主イエスの御名のもとに私たちはあるのです。主イエスがそこにおられる。その一点が、私たちをかろうじて踏み留まらせます。一歩を踏み出す勇気を与えます。必死に持ち場を守らせ、また潔く退くこともさせます。一人の兄弟を得るために。天にも昇るようなときであっても、地を這いまわるような惨めな日々にも、遠い海のかなたについに辿り着いたかと思える日々であっても、貧しく身を屈めさせられて陰府に横たわっていると思える日々にさえも、主イエスの御名のもとに私たちはあります。それも、一人の兄弟を得ることを心から願ってくださった主イエスの御名のもとに。詩篇の祈りの人は歌います;「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません」(139:7-12)