2017年7月18日火曜日

7/16「仲間を憐れんでやりなさい」マタイ18:21-35

                           みことば/2017,7,16(主日礼拝)  120
◎礼拝説教 マタイ福音書 18:21-35                  日本キリスト教会 上田教会
『仲間を憐れんでやりなさい』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。         (マタイ福音書 18:21-35)
                                               

  23-33節、たとえ話です。王様(あとから主人とも呼ばれる)は、神さまのこと。王さまのしもべであり、王に対して莫大な借金を負っている者同士が(クリスチャンであるなしに関わらず)私たちすべての人間。さて、一人の男は王様に対して莫大な借金がありました。返済することなどとうてい出来ませんでした。自分自身も身売りして奴隷になり下がり、家も土地も持ち物全部も、妻も子供たち一人一人も奴隷として売り払うほかありません。それでも全然足りません。「どうぞお待ちください」としきりに願い、すると王様は、少し待つどころか、半額にするとか何十年分かの分割払いなどでもなく、借金をすべて丸ごと帳消しにしてくれたのです。何の交換条件もなく、ただただ彼を憐れに思ったからでした。「あんまり可哀想だから、それでゆるしてやった」と仰る。ゆるされたその男は晴れ晴れとした気持ちで王様のもとから下がり、町の通りに出て、自分に借金をしている一人の友人に出会いました。ゆるされたその男は、自分に対するわずかな借金をゆるしませんでした。捕まえて首をしめ、「借金を返せ」と。友人もまた、ひれ伏して「どうか待ってくれ」としきりに願いました。あの時の彼とそっくり同じに。男は承知しませんでした。無理矢理に引っ張ってゆき、謝金を返すまではと牢獄に閉じ込めました。その冷酷で無慈悲なやり方は、王様の耳に届きました。王はその男に言います。「悪いしもべ。わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしが憐れんでやったように、あの仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。心が激しく痛みます。
 「わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさる」(35)。つまりあなたや私が兄弟たちを扱うのとそっくり同じやり方で、同じく厳しく、同じく情け容赦なく、この私たちをも扱う。それをよくよく覚えておきなさい。かの日には、ゆるさない人々にはゆるしは与えられない。憐れもうとしない人々には憐れみは与えられない。その人々は、神の国にふさわしくない。なぜなら、かの国は憐れみの国であり、そこで歌いつづけられる歌は『差し出され、受け取りつづけてきた恵み』という歌であるからです。兄弟姉妹たち。私たちが神さまとの間に平和を得ているということは、どうやって分かるでしょうか。恵み深い神にうちに深い慰めを与えられているということは、どうやって分かるでしょうか。主イエスの十字架の上で流された尊い血潮によって洗い清められていることは、どうやって分かるでしょうか。新しく生まれ、ただただ恵みによって、まったくの無償で、何の条件も資格も問われずに神の憐れみの子供たちとされているということは、いったい何によって、はっきりそうだと分かるでしょうか。自分自身にも、私と共に生きる人々にも、「ああ。本当にそうだ。この人は神の恵みと憐れみを豊かに注がれている。それがこの人の血となり肉となって、生き生きと息づいている」と。何によって、それと分かるでしょうか。
 なにがしかの良い働きをしたいと、あなたは願うでしょうか。この世界に対して、あるいは身近にあるあなたの大切な友人たちに。あなたの職場の同僚たちに。あなたの夫に対して。あなたの大切な息子や娘たちに対して。親として、友人として、一個のキリスト者として、ほんのわずかでも良いものを贈り与えたいと、あなたは願うでしょうか。「なるほど。これがキリスト教の信仰か。これがクリスチャンというものか」と、いつかあの人が心に思い、あなた自身が受け取っている豊かなものを分かち合えるようになるならと、あなたは願うでしょうか。私は願っています。どうやって出来るでしょう。難しい神学用語やキリスト教信仰の理屈はよく分からなくても、改まった話をすることが苦手でひどく口下手であっても、愚かで、世間知らずでも、たとえそうであっても、せっかく受け取っているこの豊かさと心強さを、晴れ晴れとした安らかさを、この揺るぎなさをあの一人の人にも差し出してあげたいと、あなたは願うでしょうか。このたとえ話を思い起こしたい。『ゆるすべきだ』と頭では理解できます。問題なのは、『どうしたら、できるのか』です。頭でだいたい分かるだけではなく、心底から分かり、よくよく腹に据えることができるかどうか。できることなら許したい。ぜひ許したい。その人を温かく優しく迎え入れ、心を開いていっしょにいることができるようになりたい。なかなか、それが出来ないので苦しんでいます。私は、私自身が深く抱えもってしまった憎しみによって誰かを苦しめているだけではありません。自分の憎しみや怒りによって、他の誰をでもなく自分自身をこそ苦しめています。負債のある人々を牢獄に閉じ込めるばかりでなく、そうする自分自身が暗く狭い魂の牢獄に閉じ込められています。この私たちも、怒りや憎しみのために心の休まるときがなくなってしまいます。できることなら許したい。それができないので、私たちは苦しみ、私たちは自分自身を貧しくしてしまうのです。神さま、罪深い私たちを憐れんでください。
 『主の祈り』の六つの祈願の第五番目は、「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。どうかゆるしてくださいと、なぜ願うのでしょうか。なぜ、そう祈り求めるようにと命じられているのでしょう。私たちがいまだに罪を許されていない、ということではありません。主イエスの、あの丘の上の十字架上で成し遂げられた罪の贖(あがな)いの出来事を、「それは、この私のためだった」と信じ、受け入れたときに、私たちはすでに何の留保もなく、すっかり決定的に罪をゆるされました。その罪がどんなに数多くても、最低最悪の罪であっても、すっかり丸ごとゆるされています。そこには、ほんの少しの疑いをも差し挟む余地がありません。けれども、『我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく』とは、いったい何でしょうか。この一句があるために、私たちはたじろぎます。自分のための罪のゆるしと神の憐れみとを願い求めようとする度毎に、「お前はまだゆるしていない。まだゆるしていない。どうしたわけだ?」と、この私たちは突きつけられます。自分に対する他者の負い目をゆるしてあげることが、自分自身がゆるされるための前提条件なのでしょうか。ゆるすなら、その見返りとしてその報酬として、ゆるされるのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みです。一方的な贈り物です。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた私たちです。

             ◇

  すると末尾の34-35節を、私たちはどう受け止めることができるでしょうか。教えられ、習い覚えてきた神の御心とその取り扱いと、この34-35節ははなはだしく食い違っています。私たちは、この不届きで恩知らずで冷酷なしもべそのものです。山ほどの借金を丸ごと帳消しにしていただいているくせに、仲間のほんのわずかな借金を許そうとせず、首を絞めたり牢獄に閉じ込めたりしつづけています。多く愛され、多くを許されている私たちですのに、少ししか愛さず、ほんの少ししか許そうとしません。私たち自身がしでかしたとんでもない極悪非道は、すでに王さまの耳にも届いているでしょう。しかも、あなたも私もそのために牢獄に放り込まれた者など一人もいません。王様からの莫大な負債を返すことなどできません。全部どころか、ほんの一部分でも返せません。「もし心からゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさる」とはっきり告げられています。どういうことでしょう。私たちはどういう取り扱いを受けるでしょうか? ――安心してください。教えられ、習い覚えてきたとおりです。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みのできごとです。一方的な贈り物です。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた、ゆるされつづける私たちです。ではなぜ、34-35節のように語りかけられるのでしょう。このように情け容赦なく、厳しく厳しく語りかける必要があるからです。「もし心からゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさる」と告げられて、心に痛みを感じる必要が私たちにはあるからです。そうでなければ私たちも、いつまでもこの不届きな、血も涙もない、とても悪いしもべでありつづけてしまうかも知れないからです。親である神、その子供たちとされている私たち。子供を愛しているし、とてもとても大切に思っている。だから折々に、このように厳しい言葉を語りかけもする。なんとかして良い人間に育ってもらいたくて。それが子供を愛して止まない親である神の、『親心』です。きびしく語る必要がある。けれど、現実の取り扱いはもっとはるかに心優しく寛大でありつづけました。私たちに対しても、他のすべての兄弟たちに対しても。教えられ、習い覚えてきたとおりに、『ただ無償の無条件の憐れみによって。ただただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によってゆるされ、救われつづける』私たちです。よく覚えておきましょう。救われ、憐れみを受けた恵みの結果として、私たちはだんだんと憐れみ深い者とされていきます。この、恵みの順序です。
このたとえ話を、朝も昼も晩も思い起こしつづけましょう。他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。「なんて身勝手な、思いやりのない人だなあ」と私たちは他人の素振りを見て渋い顔をします。「そんなことがよく平気でできるものだ。どういう神経をしているんだろう」と呆れます。その一方で、自分がどんなふうに人を扱っているか、人に対して何をしているのかは、私たちはあまり気づきません。しかも自分が受けた傷や痛みには、私たちはひどく敏感です。「あんなことをするなんて、ひどい。我慢できない」と私たちは腹を立て、涙も流します。もちろん、あなたは不当な扱いを受けてきたでしょう。誤解され、冷淡で無慈悲な仕打ちをされ、心を痛めたことでしょう。その通りです。それでも。あなたはもう忘れてしまっているかも知れないけれど、私たち自身が『ゆるされること』を必要とし、現にゆるされ続けています。毎日毎日、様々な場面で様々な事柄に対して、私たちはひどくいたらない。ぜひともすべきことをせずにおり、してはならないことをしてしまいます。無責任さや臆病さ、あるいは独りよがりな身勝手さから。言ってはならない言葉を口から出し、ぜひとも語りかけてあげるべき言葉を言い出せずにいます。朝も昼も夜も、私たちは神の憐れみとゆるしを必要としています。わたしの隣人が私に対してする過ちや背きは、私が神と隣人たちに向けてしてしまった過ちと背きに比べるなら、ほんのわずかなものでした。ほんの些細な、取るに足りない、無いも同然のものでした。まことに憐れみ深い神はそれでもなお、そんな私たちをさえ見捨てることも見離すこともなさらなかったと、私たちも知りたい。神の憐れみを受け取り、「本当にそうだ」と心底から味わうために、そのためにこそあなた自身が他者に対して憐れみ深くあるようにと神はお招きになります。神の偉大さ、神の気前のよさをあなたが受け取ることができるためにこそ、神は、あなた自身が他者に対して寛大に気前よくあるように、と促します。罪深く貧しく愚かな兄弟への私の憐れみの眼差しは、同じく罪深い、いいえ彼よりもっと貧しく、もっと愚かでかたくなな私自身への、神の憐れみの眼差しを、この私にも思い起こさせました。弱く小さな、そしていたらない小さな一人の人へ向けられた私の心の痛みは、この私に向けられていた神の痛みを、この私にも気づかせてくれました。備えがなく、貧しく身を屈めていたのは、お互い様でした。かたくなさはお互い様でした。弱さも小ささも、ふつつかさも、お互い様でした。罪深さも、礼儀や慎みを知らず、ひどく身勝手で自分のことしか考えないことも、それはお互い様でした。
例えば、とてもとても悪かった、箸にも棒にも引っかからなかったニネベの都の人々がどんなふうに救われたのかを覚えておられますか? 12万人以上の人と家畜は、救われるに値するから救われたのではありませんでした。悔い改めたから救われたのでもありませんでした(そうであるかのように書かれています。しかし現実は、なににも先立って、ニネベの人々と家畜たちへの『神の憐れみ』があり、ヨナの逃亡などという人間の反逆や抵抗など何度も何度もねじ伏せられ、ねじ曲げられつづけました。そうでなければ、あの彼らが悔い改めることなど決してあり得なかったほどです。反逆のヨナ自身が白状しています;「(ニネベの人々を神がゆるすとあらかじめ自分には分かっていた)それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです」(ヨナ4:2)。憐れみを受けたのです。「右も左も弁えず、ちっとも弁えない、けれど滅びるままに捨て去るにはあまりに惜しくて仕方がない」と(ヨナ書4:11参照)恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富む神さまだったからこそ、あんな彼らでさえも救われたのです。そっくりでしょう、あなたも私も。ニネベのあの12万人の人々と家畜のように救われた私たちでした。とうとう許してあげたときに、ゆるされてある自分を見出しました。与えたときに、折々に山ほど良いものを受け取ってきた自分を思い起こしました。有り余るほど、満ち足りるほどに、あふれてこぼれ落ちるほど豊かに受け取りつづけてきたことに。嫌々ながら渋々と手を差し伸べたとき、「そうだ。この私も手を差し伸べられ、抱え起こされた。担われてきた。あの時もそうだったし、あの時も。あの時も、あの時も」と。受け入れたとき、そこでようやく、そこでまるで生まれて初めてのようにして、この私こそが、受け入れがたいところを受け入れられ、許しがたいところをなお許されつづけてきたことに気づかされました。ああ、そうだったのか。そこでようやく、まるで生まれてはじめてのようにして喜びと感謝が溢れました。後から後から、次々と溢れ出てきました。