2017年11月20日月曜日

11/19「皇帝のものか、神のものか」マタイ22:15-22

                         みことば/2017,11,19(主日礼拝)  137
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:15-22                 日本キリスト教会 上田教会
『皇帝のものか、
神のものか?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:15 そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。16 そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。17 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。                                          (マタイ福音書 22:15-22)
                                               
  主イエスの敵対者たちが近づいてきます。言葉尻をとらえて主を捕まえようとして、こう質問します。「カイザル(=ローマ皇帝)に税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」と。主イエスの弟子とされた私たちもまた、しばしばまったく同じ難しい質問を突きつけられます。しかも、わざわざ税金のことを話題にしてくる特別な理由もあったのです。当時、この国は強大なローマ帝国に侵略され、植民地にされて、ないがしろに扱われつづけていました。当時のユダヤ人たちは税金をローマ帝国に納めることは間違っていると十分に分かりながら、嫌々渋々と納めつづけ、その税金を取り立てる徴税人を「罪人。裏切り者」と言って軽蔑し、憎みました。八つ当たりでした。本当は、ローマ帝国に腹を立てていたのですし、言いなりにされ身を屈めさせられている自分たち自身のふがいなさを軽蔑し、憎みたかった。この同じ憎しみと怒りが、主イエスに向かって今にも燃え上がろうとしていました。主は、手持ちの銀貨を出してみよと命じます。それは勿論、ローマ帝国銀行発行の銀貨です。「この貨幣に刻まれているのは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「皇帝のものだ」と答えます。「それならば、皇帝のものは皇帝に。神のものは神に返しなさい」。
  さて、この地上の私たちの周囲には、いまや多種多様の大小様々な権威が立てられています。国には大統領や政府や総理大臣が立てられ、あるいは王様や天皇陛下が立てられました。都道府県や町や村には、県知事や村長や議会やその議員たちが立てられました。学校には校長や教頭や主任たちが立てられました。それぞれの町内会には、自治会長や世話役が立てられました。それぞれの職場には管理職や上司がいます。一軒の家にも、お父さんお母さんがいます。教会には、お偉い牧師先生や長老や役員の方々がいて、「なんでも私たちの言うことに従いなさい」などと威張って命令するかも知れません。どうしましょうか? 小学生や幼稚園児たちの中にさえ、他の仲間たちよりほんのちょっと強くて賢いボスがいて、まるで皇帝のように「あれをしろ。これはしちゃいけない」と指図し、思いのままに他の子たちを操ろうとします。そんなふうにして大きな皇帝がおり、中くらいの皇帝がおり、すごく小さな皇帝たちもウジャウジャいて互いに命令したりされたり、従わせたり従ったりして、私たちの上に現実的な権威と影響力を持っています。それを、渋々ながらも、私たちは認めざるをえません。私たちは、その大小様々な皇帝たちとの共存の仕方を問われつづけています。どのようにして、彼らと共にあることができるのか。彼らの権威と影響力のどこからどこまでを受け入れ、どこをどう退けるべきか。どこを認め、どこをどう拒むことができるか。そして、私たち自身の何を大切にし、何を捨て去り、何にこだわり、何を明け渡してよいのかと。神ご自身の栄光は、神に返されねばなりません。神さまが感謝され、神こそが信頼を寄せられ、神がほめたたえられること。例えば、主の祈りは「御名をあがめさせてください」と祈り求め、「国と力と栄光とは限りなく、つまり何から何まで全部あなたのものだからです」と讃美しました。神さまにこそ信頼と感謝を十分に寄せること。何より神さまとその御心をこそ尊び、神さまにこそ聞き従うこと。神にこそ願い求めること。それは義務や責任である以上に、私たちが生きて死ぬことにとって生命線でありつづけます。私たちを心強く晴れ晴れとして生かしてくれる肝心要です。《この世の務めや責任を果たすこと》と《神のものを神に返すこと》とが対立し、矛盾することがあるでしょうか。度々あります。神さまに聴き従い、神さまにこそ十分な信頼を寄せることと、たかだか人間に過ぎないものに聴き従い、信頼を寄せることとが何の矛盾もなく両立する場合もあります。けれどそれらが両立せず、どちらかを選び取り、他方を後回しにし退けねばならない時があるでしょうか。それは度々ありました。これからもそうです。生身の人間や自分自身の腹の思いを重んじすぎ、限度を越えて信頼し、聴き従ってしまうことが、神さまへの信頼や忠実をすっかり歪めてしまう場合もありました。だからこそ聖書自身がこう問いかけました;「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒行伝4:19)。私たちは、よくよく考えてみなければなりません。どちらに聴き従って生きるのか、自分自身で選び取らねばなりません。
 さて、主イエスが教えてくださったあの大切な祈り、主の祈りの中の第4の祈願です。「私たちに必要な毎日の糧を、どうぞ今日も与えてください」と私たちは祈ります。その願いは何でしょうか。「私たちに必要な毎日の糧。それは霊的な、とても高級な糧のことだろう」と推測した人々がいました。まさか、私たちが毎日食べるあのパンや米や味噌などといった取るに足りない、小さくささいなもののことではないだろうと。いいえ、違います。私たちの生活のすべての領域が、小さなことから大きなことまで、ごくささいなことから深刻で重大なことまですべて、すっかり丸ごと全部、神の恵みのご支配の下に据え置かれています。そのことを弁えておくようにと命じられています。あなたの目の前にある一つ一つの貧しさと豊かさをもって、満ち足りることと飢え渇くことをもって、その喜びと辛さをもって、神へと向かうあなたであれ。生きるか死ぬかの大問題をもっても私たちは神へと向かいます。それだけでなく、他人からは「なんだ。そんなこと」とつまらなく思われるかも知れない事柄をもっても、小さく貧しい取るに足りない自分自身をもっても、私たちは神へと向かいつづけます。
 「必要な糧を今日も」と願い求めるとき、私たちが生きることと死ぬことの一切がただ神にかかっていることに気づかされ、直面させられます。私たちの必要を満たすことのできるのは、ただ、ひとえに神さまだったのです。《日毎の糧》は、元々は戦いに出た兵隊たちに支給される1人分1日分の携帯食料のことを言い表しました。3人分4人分まとめてではなく、3日分4日分まとめてではなく、1人分ずつ1日分ずつ支給されます。そのように、私たちの必要が満たされることの一つ一つがまったく神にこそ依存しています。ほんの少し前の時代には、こういう事情について、人々はもっと敏感だったかも知れません。長雨や日照りや害虫の発生に悩まされる度毎に、空を見て、地面に目をこらしながら、彼らは「よい収穫を与えてください。どうか、よろしくお願いします」と神に願い求めました。生活の糧と生きる基盤とがまったく神ご自身によって据えられていることを、彼らは、ひしひしと実感することができたのです。今日では、うっかりすると、たとえ神を知り信じてもいるはずのクリスチャンであっても、神の力よりも人間の力とその場その場の空気や人様の顔色にばかり目も心も奪われてしまうかも知れません。人間中心の考え方が信仰の判断をすっかり曇らせてしまうこともあるでしょう。神さまに感謝や信頼が寄せられ、神ご自身が権威をもっていてくださるよりも、自分や周囲の誰彼の栄光や権威にばかり心を惑わされてしまうかも知れません。それは、ありえます。それをこそ、私たちは恐れ警戒しなければなりません。「米や味噌のことまで神に願い求めなくたって、私は困らない。そんなことまで神さまの世話になるつもりはない」と思う人がいるかも知れません。喰うことくらい自分でやっている、と。自分で働いて稼いで、それで米と味噌を買っている。この家を建てたのも自分の甲斐性だし、毎月のローンを支払っているのも自分だし、家賃や光熱費を支払っているのも自分だしと。じゃあ、それなら、どういう領域の何について、あなたは神さまの世話になっているのかと問われて、私たちは何と答えましょう。あなたなら、どう答えますか?

              ◇

 思い出していただきたいのです。エジプトの奴隷の家から連れ出されたとき、荒れ野をゆく旅路がはじまってほんの数ヶ月で私たちが不平不満をつぶやきはじめたとき、主なる神は、私たちにこうおっしゃいました;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」(出エジプト16:12)あの彼らも私たちも、私たちが主人なのではなくて、《主なる神さまこそがわたしたちの主であり、主人である》ことを、度々すっかり忘れました。多くの思い煩いの中で、しなければならない多くのことの間で心が引き裂かれて、神を忘れました。皇帝のものは皇帝に、私のものは私に、あの彼らのものは彼らにと選り分けつづけて返すうちに、気がつくと、いつの間にか《神に返すべき、神ご自身のもの。神からのもの》がとてもとても少なくなってしまいました。さて、私の手の中にあった中の、何と何が神からのものだったか。どこからどこまでが、神ご自身のものだったでしょうか。それとも、神からただ恵みによって贈り物のように来たものなど、元々、何一つなかったのでしょうか。皆すべて、どこかの大小様々な皇帝や支配者たちのものであり、この私たち自身が汗水流して苦労して苦労して働いて稼ぎ出したものであり、あの人やこの人たちから借りたり貰ったりしたものだったのでしょうか。この世界は私たち人間の世界でしょうか。私たちが生きて働いている、私たちによる、私たちのための世界だったのでしょうか。思い出すためには、天から降ってくる夕暮れの肉と、天からの朝毎のパンが必要でした。あの彼らも私たちも、そのようにして神が主であることを知ります。神から与えられた恵みの肉とパンを受け取って、「え。こんな私のようなものがいただいていいんですか」と驚いて、食べて、「ありがとうございます」と感謝して、そこで初めて、神が私にとっても主であってくださることを、ああ本当にそうだと知るのです。つまり、それまでは、あの彼らにも私たちにも、なかなか主を知ることができませんでした。約束の地に入るときを目前にして、モーセが告別の長い説教の中で語りつづけた福音も、ただこの一点でした。あなたの神、主が、あなたを導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい;「あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう」(申命記8:10)。そうです。あの彼らも私たちも、こうして主をたたえます。食べて満足し、よい土地を与えてくださったことを思うのでなければ、その満足と幸いの一つ一つがただ神さまから贈り与えられたと知るのでなければ、そうでなければ私たちは、神に必要なだけ十分に心底から感謝することも、神にこそ信頼することも喜びたたえることも、神に一途に聴き従って幸いを受け取りつづけることもできないでしょう。私たちは晴れ晴れとして働くことができ、それだけでなく、すっかり手離して安心して休むことができます。その理由は、天の御父がこんな私のためにさえ先頭を切って、第一に、生きて働いていてくださるからです。私たちが主を主とする理由も、主が主であってくださることを喜ぶ理由も、ここにあります。ここにこそあります。
  さあ、あなたの手の中にある一つ一つのものに刻まれている肖像と記号を、改めて確かめてご覧なさい。あなたの食べる毎日の米と味噌、財布の中のお札や小銭の一枚一枚に、そこにはっきりと《神からの贈り物》と書いてあります。あなたの夫、あなたの妻、子供たち、友人たち、あなたに与えられている仕事や役割、そこにも《神からの恵みの贈り物》と書いてあります。あなたの健康、あなたの1日分ずつの生命、そこにも《神からの贈り物》と書いてあります。荒れ野を旅してきたこの40年の間、たしかに辛いことも苦しいことも山ほどありました。それぞれに耐え忍びながら、長く厳しい旅路を歩んできた私たちですね。「足がパンパンに腫れて痛み、着ていた衣服も今ではボロボロに擦り切れた」と思っていました。けれど見てください。不思議なことです。あなたのまとう着物は少しも古びず、擦り切れず、あなたの足がはれることもありませんでした。どうしてでしょう。主によって担われ、支えられ、養われてきたからです。主の口から出るすべての言葉によって養われ、憐れみを受け、悔い改めの心を芽生えさせていただき、戒められ、義に導かれながら生きてきた私たち(テモテ手紙(2)3:15-17)は、それだけでなく、たしかに現にパンによっても生きてきたのです。そのパンの一つ一つさえ、主のあわれみと恵みの御手から差し出されてきたものでした。主からのあわれみと恵みと、そして具体的な支えや養いがあって、確かにあって、それでそのようにして、私たちは今日ここにあるを得ております。なんという恵みでしょう。なんという幸いか。