2016年10月2日日曜日

10/2「約束された救い主か?」マタイ11:2-19

                                          みことば/2016,10,2(主日礼拝)  79
◎礼拝説教 マタイ福音書 11:2-19                       日本キリスト教会 上田教会
『約束された救い主なのか?』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  11:3 「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。4 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。5 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。6 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。7 彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。・・・・・・預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。10 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
                                                (マタイ福音書 11:3-12)
  



  まず2-3節。洗礼者ヨハネはまもなく殺されます。自分に残された時間があとわずかだと知って、牢獄の中からヨハネは自分の弟子たちを救い主イエスのところへ遣わし、「来るべき方は、つまり神によって約束されていた救い主は。あなたなのですか?」と質問させました。約束された救い主がイエスご自身であると、ヨハネ自身は、そもそもの初めからはっきりと知っていました(イザヤ40:1-5,エレミヤ31:31-34,エゼキエル34:1-24,マラキ4:5他)。つまり質問は、弟子たちのためであり、彼らにはっきりと気づかせるために。主イエスを信じて生きる幸いの中へと、自分の大切な弟子たちを送りだしてあげるためです。4-6節。主イエスは答えます、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。目の不自由な人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病をわずらう人はきよまり、耳の不自由な人は聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」と。
  ヨハネの弟子たちが帰った後で、主イエスは洗礼者ヨハネが果たした大きな役割について人々に語りきかせます。とくに10(=イザヤ書40:3,マラキ書3:1からの引用)、「『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』」。救い主に先立ってつかわされて道を整える使いである『この人』とは、洗礼者ヨハネです。天の父なる神さまが独り子イエスを救い主としてこの世界に送り出してくださる。それに先立って、使いをつかわし、救い主を迎え入れるための道備えをさせると。また14節で、来るべきエリヤと呼ばれた『この人』もまた、洗礼者ヨハネです。かつてのエリヤそのままに、ヨハネは荒野に住まい、ラクダの毛衣を身にまとい、野蜜を食べつつ、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と呼ばわり、「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない」(マタイ3:11-12と語りかけ、そのように自分の後から来られる救い主イエス・キリストをこそ指し示しつづけていたのですから。ヨハネこそが救い主イエスを指差す最後の預言者であり、私たちが救い主を信じて生きはじめるために、救いの道を備える使者でした。だからこそ11節、「女の産んだ者の中で、つまり人間の中でこの地上で、洗礼者ヨハネこそが最も大きい人物」だと。それにつづけて、「しかし、天国で最も小さい者も、彼(=洗礼者ヨハネ)よりは大きい」。主イエスを信じて神の国に迎え入れられる者たちは、どんなに小さく弱く貧しく見える者さえもすでに洗礼者ヨハネよりも大きい。もはやそこでは大きいも小さいもなく、つまり誰も彼もが十分に大きい。ただ憐れみを受け、恵みによってだけ救われた者たちの国では、人と人を区別し分け隔てしていたものがすっかり取り払われて、皆が皆、平らなまっすぐな心で生きることができるようにされます。なぜなら遠い昔、預言者の口を通して神ご自身が高らかに告げ知らせました。「わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:33-34。小より大に至るまで、いいえ むしろ、「小さな子供のようになり、天の御父に信頼し、聴き従って生きる者とされなければ、神の国に入ることなど誰にも決してできない」と主イエスご自身が釘を刺しました。『小さな子供の心』こそが神からの格別な贈り物です。「大きい者も小さい者も皆共々に主を知り、主を信じ、主の民とされる」。その格別な祝福の中では、人を分け隔てしていた生臭い区別も差別も打ち壊されます(マタイ福音書18:3,マルコ福音書1:15,エペソ手紙2:13-22,ローマ手紙3:21-27
  さて、ここまで読み味わってきて、12節の主イエスのきびしい警告が私たちの心を騒がせます。ご覧ください。「バプテスマの(=洗礼を授けている。洗礼者)ヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い合っている」。立ち止まって、この私たちこそは、心を鎮めてよくよく考え込まねばなりません。これは、一体どういうことでしょうか。主イエスは何を言おうとなさっているのでしょう。天国、神がご支配なさるはずの国が激しく襲われ、襲う者たちが神のものであるはずの国を自分たち自身のものにしようと、互いに争いながら奪い合っている。『天の国、または神の国』とは、神さまこそが王様として力を発揮し、目を配り、生きて働いておられる領地です。主イエスは、そのお働きのはじめに、断固としてはっきりとおっしゃいました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」、また「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21と。なぜなら、神の国の働きを背負って、神ご自身である救い主イエスが地上に降り立ち、神の国を述べ伝え、王の中の王として力を発揮し、働きはじめたからです。救い主イエスを信じて生きる者たちが一人また一人と生み出され、「天の御父よ、あなたの御名をあがめさせてください。あなたの御国を来らせてください。あなたの御心をこの地上に、私たちの普段のいつもの生活の只中に成し遂げてください。あなたの御心にこそかなって生きることを、この私共にも本気で願い求めさせてください」と祈りつつ暮らしはじめたからです。だから、神ご自身の御国は、主イエスを信じて生きる私たちの只中にある。
  けれど、いったい誰が、神がご支配なさるはずの神の国に激しく襲いかかり、神のものであるはずの国を自分たち自身のものにしようと互いに争いながら奪い合っているのでしょうか。謎をかけた主イエスご自身が、その答えをただちに差し出そうとしています。弟子たちと、主イエスの話を聞こうとして集まっているたくさんの群衆が耳を傾けています。まず13節「すべての預言者と律法が預言したのはヨハネの時までである」。『すべての預言者と律法』とは旧約聖書の愛称です。このように旧約聖書を呼び習わしてきました。つまり、やがて救い主が地上に現れる。そのすぐ前に、救い主を指し示し、人々が救い主を迎え入れ、信じて生きはじめるための道備えをする使者として洗礼者ヨハネが荒野で呼ばわり、洗礼を授けると。次に14節、「そして、あなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは、来るべきエリヤなのである」。冒頭ですでに触れましたが、10節のおわりと14節で『この人』と呼ばれているのは、救い主を指し示し、救い主を迎え入れるための道備えをする人物、洗礼者ヨハネです。旧約聖書の最後の書、マラキ書がこう予告してあったからです。「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。・・・・・・彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」(マラキ書3:1,4:5-6。父と子が互いに心を向け合い、心を通い合わせる。それは、ただ単に人間同士のことではありえない。神ご自身と、神の民とされたイスラエルとが心を通わせ合うことである。そのためにこそ、預言者エリヤのような使者(=洗礼者ヨハネ)がつかわされ、さらに主ご自身である救い主イエスがこの世界に降り立つ。神との平和、神からの祝福をこの地上に満ちあふれさせるために。14節で、ぜひとも心に留めなければならないことは、「もし、あなたがたが受け入れることを望めば」と、はっきりと条件づけられている点でしょう。洗礼者ヨハネの語りかけと救い主イエスを受け入れることを、もし私共が望むならば、望むとおりに、私たちは救い主イエス・キリストを迎え入れ、救い主を信じて生きて死ぬことができます。
 15-19節。「耳のある者は聞くがよい。今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子(=主イエスのこと。主はご自分のことを度々、このように言い表した)がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。「洗礼者ヨハネが来て、救い主イエスご自身も来られ、弔いの笛を吹き、弔いの歌を歌うように、人間に背を向けられてしまった神ご自身の嘆きと哀しみ、また人間や他の被造物への憐れみを告げ知らせたのに、けれどほとんど誰一人も、神の悲しみと嘆きを受け止めて踊ることをせず、自分の胸を打って嘆く者もいなかった。これが、今の時代の正体だ」と、主イエスは嘆きながら語りかけます。しかも、「耳のある者は聞くがよい」と前置きをしつつ。救い主イエスご自身からの語りかけが、あなたの耳にも届いていますか? 18-19節、多くの者たちが神からの招きの声に耳を塞ぎ、背を向けつづけている。「なぜなら」、洗礼者ヨハネに対しては、人々は禁欲的にきびしく節制して暮らしているからと「あれは悪霊につかれている」と悪口を言って拒み、救い主イエスをも「普通に飲んだり食べたりしている。食をむさぼり、大酒を飲み、取税人や罪人とも友だち付き合いしている。なんて奴だ、ろくなものじゃない」などと退けつづけているではないか。様々な理由をつけて、洗礼者ヨハネを拒み、救い主イエスご自身をさえもはねのけ、退けつづけているではないかと。
  神がご支配なさるはずの神の国に激しく襲いかかり、神のものであるはずの国を自分たち自身のものにしようと互いに争いながら奪い合っているのは、誰なのか? はじめのうち、ぼくは、この聖書の神を信じない人々のことかと漠然と考えていました。他の信仰をもつ人々や無宗教の人々のことではないか。けれど、それでは、つじつまが合いません。むしろ旧約聖書がきびしく指摘しつづけていたのは、他の誰のことでもなく神の民とされたイスラエルの、つまり私たち自身の 神への反逆です。神を疑い、神をすっかり忘れ果て、神に背き、さまよいつづけた不信仰と不従順の連続。それが旧約聖書の歴史であり、私たち自身の右往左往の日々とそっくり同じ。だからこそ目をこらして読み味わうに値します。心を鎮めて、我が身を振り返って、ここに集められたこの私たちこそがよくよく問いかけてみなければなりません。神と私自身との間の道はよく整えられているだろうか。高い山や丘のように思い上がっていたこの私は 十分に低くされただろうか。薄暗い谷間のようにいじけてひがんでいた私は高くあげられただろうか。凸凹道や曲がりくねった道のようだった私の心は今では広々とした平らな真っ直ぐな道にされているだろうか。救い主イエスを迎え入れ、救い主イエスが語りかける声に耳を澄まし、目を凝らしつづけて日々を生きようとしている私だろうか。もしかしたら、キリストの教会とクリスチャンこそが神のものであるはずの国に激しく襲いかかり、神の尊厳と主権とを何度も何度も繰り返して奪い取ろうとしつづけてきたのでは。神ご自身の真実と、神が生きて働いておられますことを。昔々2000年前にそうだったというだけではなく、今に至るまで、今日でもキリストの教会とクリスチャンが。いいえ 他の誰でもなくこの私自身こそが、救い主イエスを片隅へ片隅へと押しやり、あなどり、神の恵みを無にしつづけてきたのでは? 主イエスはおっしゃいました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ福音書14:6。救い主イエスによらないでは、誰にも決してできない。つまり 救い主イエスというただ一本の道をゆくならば、誰でも必ず天の御父のもとへと辿り着くことができる。救い主イエスに聴き従うならば、誰でも必ず知るべき十分な真理を知り、格別な生命を生きることとなる。

祈り求めましょう。