2016年9月12日月曜日

9/11「主イエスを知らないと言う」マタイ10:32-33,ローマ10:8-13

                                          みことば/2016,9,11(主日礼拝)  76
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:32-33,ローマ手紙10:8-13  日本キリスト教会 上田教会
『主イエスを知らないと言う』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。                                       (マタイ福音書 10:32-33)

10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。                            (ローマ手紙 10:9-10)


 およそ豊臣秀吉の時代から徳川幕府の江戸時代にかけて、この国ではキリスト教はきびしく禁じられ、多くの殉教者を出し、やむにやまれず信仰を捨ててしまった人々、また隠れキリシタンなど苦しい状況がつづきました。禁止令が解除されたのは、明治61873年)でした。それから150年近くが過ぎ去って、とうとう今では聖書の神を信じ、救い主イエス・キリストの弟子、クリスチャンとされていることを隠すことも恥じることも要らなくなったはずでした。
 32-33節。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」。この『人の前で主イエスを受け入れる。あるいは、主イエスを拒む』ことを、マルコ福音書とルカ福音書はよりいっそう厳しく突きつけています。「人の前で主イエスとその言葉とを恥じる」(マルコ8:38,ルカ9:26と。キリシタン弾圧が解かれて長い歳月がすぎたはずの、何の足かせも口封じもないはずの今でも、ある人々は、「私は自分がクリスチャンであることを人前でわざわざ言い広めたりはしない。自分の心の中でだけ信じていればそれで十分で、自分の夫や妻にも子供たちにも、わざわざ礼拝に誘ったり、無理に勧めたりもしない。職場でも友人たちの間でも、自分がクリスチャンであることをわざわざ公言しない。それは人それぞれだし、個人の自由だし」などと。学校教師でもあったある年配の婦人は、ずいぶん長い間クリスチャンでありつづけました。教え子たちとは親しく付き合って、毎年の同窓会には必ず呼んでもらっていました。生徒たちとのそうした付き合いや集まりの中で、あるとき集会の前のほうに連れ出され、手を引かれ付いてゆくと、最前列に白い紙を飾った木の枝が置いてあり、手渡され、内心ちょっと困りましたけど彼女は渡されるままにその枝を恭しく、バサア、バサアと振り回しました。もちろん、これまで何十年も彼女と親しく付き合ってきた元教え子たちには何の悪気もありませんでした。誰一人も、彼女がクリスチャンだとは知らなかったからです。最前列にまで連れ出され、白い紙を飾った神々しく清らかそうな木の枝を手渡された段階で、「申し訳ない。実は私はクリスチャンで、この木の枝を恭しく振り回すわけにはいかないのよ。神さまに背いてしまうので」などとは、なかなか言い出せませんでした。けれど、その最前列で木の枝を手渡されたときには難しくても、それ以前に、「私はクリスチャンなんです。聖書の神さまを本気で信じて生きてきました」と、いくらでも打ち明ける機会があったはずです。何十年も親しく付き合ってきた、とても大切に思ってきた元・教え子たちだったのですから。残念なことでした。神さまに対しても、元・教え子たちに対しても申し訳ないことでした。彼女は、とうとう気がつきました。人々の前で神さまを恥じていた私だった、あまりに不信仰な私だったと。
  私たちの愛する連れ合いは、子供たちや孫たちは、やがて神を信じることができるかも知れないし、できずに一生を終えてしまうかも知れません。神さまを信じる信じないは、自分自身でそれぞれに判断して、自分自身で決めます。たとえ親であろうと妻や夫であろうと、それを無理矢理に押し付けてはならないし、そんなことはできません。その通りです。でも、みなさんは家族に対して、神さまをどんなふうに紹介してきましたか。もし仮に ほとんど何も知らせて来なかったというなら、それはあまりに無責任で薄情すぎます。神さまがあまり好きではないのか、あるいは、その家族のことをあまり大切には思っていないのか。例えば愛する連れ合いにも、自分の家族や子供たちにも、「聖書の神さまはこういう神さまで。信じた者たちには、こういう希望とこういう幸いと、こういう心強い生活が待っている」などと自分の力の及ぶ範囲で精一杯に信仰の中身を伝えます。口下手は口下手なりに、喋るのが苦手な人も苦手ななりに。その相手が神を信じて生きることについて十分に理解できるための判断材料を精一杯に手渡し、そうしたら後は、その人が自分自身で判断するのです。聖書の神さまを信じてもいいし、信じなくても構わない。「十分に分かった。けれど、この神は自分には要らない」と断られるなら、残念ですが、そこで諦めてもいいでしょう。それは、もうすでにその人自身と神さまとの一対一の問題だからです。せめて、その人が自分でちゃんと判断できるために、精一杯の材料を差し出す。神さまによくよく愛していただいたクリスチャンだからです。

           ◇

  しかも兄弟姉妹たち。自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる。それは、なかなか難しいことです。キリシタン弾圧のきびしい迫害の時代であっても、そうではなくたって。口で「イエスは主である」と告白することも、自分の心で「天の父なる神が死人の中から救い主イエスをよみがえらせたし、この自分をさえ必ずきっとよみがえらせてくださる」と信じることも、それら一切は神ご自身のお働きであるからです。ただただ恵みと憐れみの出来事でありつづけるからです。「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言うことができない」からです(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ手紙(1)4:1-3。例えばもし、あなたや私が人様の前でも何様の前でも、「イエスは私に対しても主であり、この世界全体に対しても主である。他に主人はいない。イエスを主とする私であるので、神に聞き従わず人間すぎない者どもにに聞き従うわけにはいかない。神の御前に正しくはないし、間違ったことなので。この私としては、自分の見たこと聞いたこと、信じたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:19-20。このように心に信じ、また自分自身の口でもはっきりと言い表すこともできたならば、それは神さまがさせてくださった。それこそが、神さまから私たちへの飛びっきりの格別な贈り物です。
  つまずいて挫けて、けれど憐れみを受けて連れ戻していただいた、あの幸いなペテロのことを語らねばなりません。ここまで語ったことはすべてすっかり掛け値なく本当のことです。『人の前で主イエスを受けいれる者を、主イエスもまた、天にいます御父の前で受けいれる。しかし、人の前で主イエスを拒み、主イエスを恥じる者を、主イエスも天にいます御父の前で拒む』。兄弟姉妹たち。これは神ご自身の真理ですが、真理の中の半分に過ぎません。残りの、負けず劣らずとても重要な真実は、『主を否みつづけ、逆らい、疑いつづけたあまりに不信仰な者どもを、にもかかわらず主イエスが否まない場合も有り得る』ということです。主の弟子ペテロのつまずきと立ち直りとを、はっきりと思い出すことができますか? 救い主イエスが十字架につけられ殺される前の晩に、大祭司の中庭で、主の弟子ペテロは人の前で主イエスを三度も重ねて否み、「ガリラヤの人イエスと一緒だった。あなたも彼らの仲間だ」と突きつけられて、「何を言っているのか分からない。そんな人は知らない。その人のことは何も知らない」と主を否み、恥じつづけました。ほんの数時間前に主イエス本人からはっきりと予告されていたとおりでした。鶏が鳴き、イエスの言葉を思いだし、ペテロは外の暗闇に出て激しく泣きました(マタイ福音書26:69-75を参照)。そのペテロを、けれど救い主イエスは拒まず、恥じることなく、再び改めて迎え入れました。迎え入れられて、ペテロは改めて、人様の前でも何様の前でも二度と決して主イエスを否まず、主イエスを恥じることのない新しい人間へとだんだんと造り替えられていきました。このことを、私たちは忘れてはなりません。例えば、アブラハムとサラ夫婦の場合もまったく同様でした。聖書は証言します、「望み得ないのに、なおも望みつづけた。彼の信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことをしなかった」(ローマ手紙4:17-20を参照)。なんと寛大で憐れみ深い報告でしょう。神ご自身がこのように見なしてくださっています。アブラハムとサラ夫婦の実情をつぶさに確かめるなら、あの彼らは何度も繰り返してはなはだしい不信仰に陥り、神の約束を疑い、何度も神を裏切り、否み、神を恥じて背を向けつづけました(創世記12:10-20,17:15-17,18:9-15,20:1-18,26:1-11。それでもなお神は彼らを不信仰と疑いの薄暗がりの中に捨て置くことをせず、憐れんで連れ戻し、信仰が弱まる度毎に強くし、疑いと背きを拭い去り、神ご自身の真実を確信させてくださった。ローマ手紙4:17-25「望み得ないのに、なおも望みつづけた。彼の信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことをしなかった」の中身は、ただただ神の憐れみの取り扱いでした。さて、つまずいたペテロを憐れんで連れ戻したとき、主イエスは、「私を愛するか。愛するか。愛するか」と三度も重ねて問い詰めました(ヨハネ福音書21:15-19。最後の晩餐のときにも、「たとい、みんなの者があなたにつまづいても、この私だけは決してつまづきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ福音書26:31-35と自分自身の確かさや強さにこだわりつづけた彼でした。うぬぼれていたあの時のままなのかどうか、ほんの少しも成長していないのか、と問われています。まだまだ他人よりも自分を高く引き上げて誇ろうとしつづけるのか、それとも、あなたは自分自身の低さや弱さ、貧しさを、とうとう習い覚えたのかと。「この人たち以上に私を愛しているか」(ヨハネ21:15)という最初の問いかけは彼の心の急所をギュッと掴んで、痛いところを突いています。この人たち以上に。そのこだわりが彼を貧しく愚かにしつづけました。このペトロも、ここにいるこの私たちと同じように、ついつい人と自分とを見比べてうぬぼれたり僻んだり、安心したり心配になったりすることに深く囚われて生きてきました。三度も問い重ねられて心を痛めたペテロですが、なおまだまだ全然、心の痛め方が足りません。なぜなら、「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、(あなたが)お分かりになっています」などと、なおまだ言い張ってしまうのですから。ペテロ自身はまだまだ分かっていません。主を愛そうと願い、決心しながら、けれど愛しきれなかったペテロではありませんか。「知らない。何の関係もない」と主イエスを否み、恥じつづけたペテロではありませんか。主イエスは愛を問い、愛を差し出しながら、同時に、主を愛しきれず、なかなか従いきれなかったその不肖の弟子ペテロと私共にお命じになります、「わたしの小羊を飼え。彼らの世話をしなさい」(ヨハネ21:15,16,17)と。「主を愛する。重んじる」と言いながら、身近な兄弟や家族や隣人を侮ったり軽んたり、「いい加減でだらしないわね」などと軽々しく裁いたりもできないはずでした。とても申し訳ないことです。主を愛そうと願うなら、この私たち自身こそが主の小羊を飼い、彼らの世話を精一杯にせよと。あなたのための主の小羊とは誰のことか。その羊は、あなたをどこで待っているのでしょう。

 主イエスを信じて生きる人々よ。この1回の礼拝に私たちが集っていることには、目的があります。いっしょに聖書を読んでいる。読まずにはいられない大切な理由が、この私たちにはあります。だから、ここに来ました。それは私たちが、イエスは神の子・救い主であると信じるためであり、信じて、イエスの名により生命を受けるためです(ヨハネ20:30-31)。主イエスから格別な生命を受け取りつづけて暮らし、主イエスの復活の証人でありつづけるためです。私たちのための主の約束の歌はこう歌います;「主われを愛す」(讃美歌461番,賛美歌21-484番)と。それこそが、私たちのいつもの希望であったはずです。主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛すと。小さな子供たちが歌うだけではありません。この希望の歌は、あのペトロやアブラハムとサラ夫婦のための歌であり、私たちのための歌です。私が主を愛するか、どこまでどの程度に愛するかと問われる以前に、またこの私が兄弟や隣人たちに愛と慈しみを豊かに差し伸べる人間であるのかどうかと問い正される以前に、それを遥かに越えて救い主イエスご自身こそが、こんな私どもをさえ愛してくださる。たとえ私が弱くてもです。たとえ私が冷淡で薄情で生臭い俗物で、あまりにかたくなであってもです。神さまを信じる心が私にまだまだ足りなくても、しばしば神に背き、逆らってばかりいるとしてもです。それでもなお、主なる神さまは、私たちを愛することを決してお止めにならない(ローマ手紙5:6-)。神さまから私たちへの、変わることのないいつもの約束です。だからこそ、自分の口でも心でも主イエスを信じて、そのように生きて死ぬことのできる私たちです。なぜなら、神さまこそが、私たちのそのように幸いな生涯を、また世界全体に祝福と幸いを満ち溢れさせることを、きっと必ず成し遂げてくださるからです。信頼するに足る神です。すべてを委ねて、より頼むに値する神です。